普化宗の「一音成仏」と「音声説経」について

小菅大徹


普化宗では、古くから尺八は法器であり、それは精神的、仏教的香りの高いもので、音楽とは一線を画した領域の世界のものであると言われてきました。
そして、その端的な表現として「一音成仏」とか、「音声説経」とかいう言葉がしばしば使用されてきました。
しかし、私はこの語句が、何時頃から使われる様になったのか、またその出典が何であるのか寡聞にして知りません。色々な仏教語や禅語の辞典を調べてみても見当たりません。
ところが、先日ある本に「一音成仏」の出典として『妙法蓮華経、方便品第二』の「或以歓喜心 歌唄頌仏徳 乃至一小音 皆己成仏道」をあげているのを見ました。
なるほど、この経文中には、見事に「一音成仏」という字句が含まれています。もしかしたら出典は、この指摘された法華経であるかも知れません。
しかし、「ただ一つの音によって人々の心をとらえ、仏道にめざめさせる」というような他力的な「一音成仏」には、普化禅宗としては、異論を唱えざるを得ません。
さすれば、普化宗でいう処の「一音成仏」、「音声説経」とは如何様に考えたらよいのでありましょうか。

まず、「音声説経」について、『仏教語大辞典』によって似通った語句をさがしてみます。すると、「音声念誦」(声を出して仏の名を唱え経を誦する事」
「音声仏事」(現実社会における仏の衆生済度は、ただ音声をもって説法する。)
という語句があります。
これらを参考にして、普化宗でいう「音声説経」を定義づけてみますと、
「尺八の音声によって、衆生に仏性を気づかせ済度する。或いは、衆生済度の一つの方便として尺八の音声を借りて説法する。」
という、大乗的な意義を表現しているといえるのではないでしょうか。
尺八を称して法器といわれる由縁も、この普化大乗禅の考えによるものと思われます。

次に、「一音成仏」について『禅学大辞典』によって、近い語句を抽出すると、僅かに「一音説法(いっとんぜっぽう)」があり、解説として「仏の教えに大乗・小乗、権教・実教、頓教・漸教の別があるが、それは領解する人人の能力に優劣差別があるからで、説法する如来に差別の意図があるのではない。仏は終始同一精神をもって、最高の教えを開示するのみであるという意『維摩経、仏国品』」があるのみです。
しかし、この「一音」の意は、普化宗の「一音成仏」としては、少々意味合いが異なるように思われます。
むしろ、私は『伝心法要』にある「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」「禅の極地を表す常套語として使われる言葉で、人の心そのものを直指し、自己の心性が仏性そのものにほかならないと自覚することが成仏であるという意」が「一音成仏」に極めて近い内容であると思います。
即ち、「一音成仏」とは、「尺八を吹く事によって自己の心性が仏性にほかならないと自覚する事、或は尺八の一音に徹底する事によって悟りの極地に至る事(成仏とは悟りの境地の事)」という「音声説経」の大乗的意味と対をなす尺八の小乗的な意義を表現した容易ならざる語句であると理解したいと思います。

さて、それではこの二面の意味を踏まえて、普化尺八道の先人達にこの辺の消息を語った言葉をたずね、そして禅的な考察を加えてみましょう。

活総派本寺鈴法寺の32世住職澄源有道和尚に「吹く時は、自他共に心意を清くし、暫時たりとも妄想を滅し如何様悟道の助けとも成る可くなり」という言葉があります。
尺八を吹く者には、この教訓は大変理解し易いと思います。吹禅三昧忘我の境地です。

ところで、臨済宗の祖、臨済慧照禅師の語録(臨済録)に「臨済の四料簡」といわれるものがあります。
これは、ほとんど臨済の宗旨の根本をなすとさえいわれている考え方です。
直接的には、師家(指導者)が修行者に接する時に用いる4つの立場の意ですが、そればかりでなく、広く人間生活の全場合にわたって考えられることすべてが含まれています。
即ち、「奪人不奪境」、「奪境不奪人」、「人境両倶奪」、「人境倶不奪」の4つです。

それでは、有道和尚の言葉をこの四料簡に当てはめてみると、これはその第一の「奪人不奪境」と考えられます。
自己を否定し主観をなくして客観の世界だけを肯定する立場で、我を忘じた境地です。
これを古人は、「鍾が鳴るかや撞木が鳴るか、撞木鳴らない鐘が鳴る。」と言っています。

次に、江戸から明治にかけての大家、吉田一調は、弟子に与えた文章の中で「尺八の修行至妙のときは、一文不通の徒たりとも大悟す」。「一管の竹に徹底の音を旨とす」という言葉を残しています。
さしずめ、これは四料簡の2番目「奪境不奪人」といえるのではないでしょうか。
客観や対象を全面的に否定して、自己の立場を徹底的に活かす境地であります。
「鐘は鳴らない撞木が鳴るよ、撞木なければ音はせぬ。」というのがそれです。

そして、江戸末期の琴古流の名人で尺八道の確立者ともいわれる久松風陽は「独問答」の中で「己が心を練るを専とせざれば,奥妙には至らず貧欲をはなれ心を練る時は、人自ら直にして潔白なり」と述べており、更に「尺八は余の鳴物と同じからず、気息についてこれを修行す」。「気息にもとづき了悟せしむ」といっています。尺八悟道の根幹は、「気息」にあると再三指摘しています。これは、座禅の基本が呼吸にあるのと当然ながら一致します。
風陽は、気息の重要性を明らかにするとともに、後世の求道者へ尺八の奥儀を次のように語ってくれています。
「上手は、曲数にあらず。39曲は、36曲なり。36曲は18曲なり。18曲は3曲なり。3曲は1曲なり。1曲は無曲なり、無曲は気息なり。気息は只虚無なり」と。
これは四料簡の第三「人境両倶奪」の境地といえます。
人も境も、主観も客観も双方ともに否定してしまった絶対無の世界です。

そして、更に風陽は「海靜法語」で「修行はまさに気と息とに因るべし。気は仏なり。息は気なり。気動かざるもの息徹底す。是は禅定に入るといふ。即成仏なり」と述べています。
四料簡の第四「人境倶不奪」の境地と言えるでしょう。
人も境も、主観も客観も倶に肯定した、瓦礫も光を放つようなあるがままの世界の事です。
「鐘も鳴ります撞木も鳴るよ、鐘と撞木で音がする。」という、一切肯定の自然の姿がこの境地であります。
ここに至って、「一音成仏」の真意も自ずから明白になってくるのではないかと思います。

さて、この臨済の四料簡は、そのどれをえらぶかは、その人の力量であり、時に臨み機に応じて、一番適合した立場をとって無礎自在の働くところに「随処に主となれば、立処皆真なり」という普化道人の活面目があるといえます。これは、普化禅師の「四打偈」即ち「明暗来明頭打、暗頭来暗頭打、四方八面来旋風打、虚空来連架打」の意味に通じるものです。
つまり、普化尺八道に入る者は、一音の気息に徹底して、禅定に入る修行を続ければ、自ずから成仏に至るという事であります。



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