海の見える家


海岸段丘

私の育った家は、小高い丘の上にあります。
海岸から50メートルくらい離れた所に、10メートルくらいの海岸段丘があります。
そこに、かつては小さな山がひとつ有ったのですが、
KDDの海底ケーブルの陸揚げ所が出来て、山は削られました。
その為、さらに10メートルの擁壁が作られ、あたかも二段目の海岸段丘の上のように見えます。
私の実家は、その擁壁の上に建っています。
海からは、直線で200メートル程でしょうか。

父には多くの兄弟がいて、幼い頃は、たくさんの叔父叔母に囲まれていた記憶があります。
けれど、この家にある想い出は、
祖父、祖母、父、母、妹との6人の生活です。

家族

祖父は、明治の気骨の残る情熱家でした。
器用貧乏の典型みたいな人でもありました。
いろいろな人の世話を一生懸命にやいて、
その人は成功して、遠くに行ってしまったり、
あるいは、裏切られたり騙されたりしていました。
自分はいつも貧乏くじを引いていたのに、
その事についての不平は、ちっとも言わない信念の人でした。
私の方が、それには不満で、幼いながらも、
どうして爺ちゃんばっり損してるんだと、くってかかった事ありました。

祖母は、田舎の中の更に田舎の育ちで、
そんな祖母が私は好きではありませんでした。
でも、いつも何かに感謝する事を実践している人でした。
何度も食べた事があっても、
こんな旨い物は初めて食べさせて貰ったと、本気で感激していました。
前に食べたでしょって、生意気な口をきいていた私は、
祖母の偉さに気が付かなかったのです。

父は、まじめ一本で、祖父に似て人間関係を大事にする人でした。
父の兄弟は、自己主張の激しい人が多かったのですか、
そんな中でも、自分から取り仕切ったりする事はありませんでした。
父が長男なので、本当はその役をしなくてはならなかったのですが。
会社でも、不言実行型だったようで、信頼されてはいたようです。
私が酒屋でアルバイトしていたとき、父の職場に荷物を取りに行った事があります。
いろいろ意見が飛び交う中、父が言った一言でその場がきちっと収まった時、
私は自分自身の事のように誇らしい気持ちになったものでした。
帰りの道すがら、あれが私の父なんですと、アルバイト先の人に話したら、
ああ、あの人が親父さんか、と言って、
逆に私の方を認めてくれる様子になったのには驚かされました。
後にも先にも、父と一緒に仕事をした、と言えるのは、その時限りになりました。

母は、いつでも大声で笑い、はっきりとした事のすきな人でした。
父も、母にはいろいろ愚痴を言ったりしていたようでしたが、
それを表に出さずにいられたのも、母の性格なのでしよう。
和裁を子供の頃から仕込まれていて、
決して豊かではない家計を支えていました。
学校から帰っても、必ず家に母がいる生活が出来たのは、
いまを思うと、贅沢なことなのかも知れません。
そんな母の涙を見たのは、
私が東京の大学に進学して、家を離れる時でした。
いまでも胸が熱くなります。
私は親不孝者なのでしょうね。

妹は、幼いころはいつも一緒に遊んでいました。
そのうち、とても仲の悪い兄妹になりました。
時々、お互いの機嫌のいい時だけ話しをする程度で、
親には悩みの種だったかも知れません。
どうも、性格が似すぎていたようで、それが反発の原因だったと思えます。
逆に、成長してからは、相手の考えていることがよく分かり、
それが信頼関係を良くしているように思えます。
いつも不肖の兄を心配してくれているので、
かえっていろいろ話しにくい雰囲気でもあります。
これって、縁が薄いって事なのでしょうか。

別離

私が大学3年生の時でした。
三鷹のアパートで、祖母の訃報に接しました。
腰の動脈が突然切れ、田舎では手術できなかったのです。
救急車で新潟市に行けば、その手術が出来る病院があったのだそうなのです。
夜行で家に着いたとき、いつもは元気な祖父の、しょぼんとした姿が印象的でした。

就職し、転勤を繰り返して、新潟県新発田市にいたとき、
会社にかかって来た電話で、母が泣いていました。
祖父が死んだと言うだけで、あとは言葉になっていませんでした。
母を慰め、電話を切ってから、私はトイレに入り、そこで泣きました。
客商売だったので、
トイレから出て、目が赤いと言われたとき、寝不足だと答えたのを思い出します。

自営の雑貨商をしている時、妹の夫から電話がかかってきました。
妹は、病院の事務をしていて、取引先の薬品卸の社員と結婚していました。
医療にも詳しいその義弟から、父が危ないと知らされ、
急いで入院している病院に向かいました。
受付で父の名前を告げて病室を尋ねたら、
もうお亡くなりになりましたと、事務的に答えられ、
その重い事実を突きつけられました。
霊安室で、母と妹と3人で泣きました。

灌仏の日の早朝、妹から電話がかかってきました。
波乱の人生の中で厚木に住んでいた私は、母の入院している新座市の病院に向かいました。
1時間ほど走った頃、再度妹から電話がきました。
私にはもう妹しか居ない事を告げられたのです。
結局私は、祖父母と両親の誰の死に目にも会うことが出来ませんでした。
世の中には悔やむことばかりしか無いのでしょう。

妹が乳ガンを発症しました。
何故だ。どうして妹なんだ、、
妹の夫からの知らせに二人で泣いて会話になりませんでした。
子供達も大きくなり、これから楽しい人生が待っているはずでした。
2年以上闘病生活を送り、抗がん剤治療の効果も出て来ていました。
妹の夫から容態が急変したとの連絡が入り、母が入院していた同じ病院に向かいました。
妹は待っていてくれました。
私が到着して3時間ほどで、静かに息を引き取りました。
自分が苦しんでいるときでも、私のことを心配していてくれました。
こんな兄なんかどうでもいいから、お前が元気になって欲しかったんだ。

ありがとう。
ごめんなさい。
また生まれてくるときも、私の家族になって下さい。
さようなら。

私は、独りぼっちになりました。

望郷

先年、叔父の葬儀に出るために故郷を訪れました。
そこで私は、考えられない経験をしたのです。
私の実家は、そういう訳でいまは空き家です。
水道もガスも止まってます。
親戚には、いろいろあって行きたくないので、
私は、実家もある生まれ故郷で、ビジネスホテルに泊まりました。

どうせなら、家から見える観光旅館に泊まりたかったのですが、
そこはもう廃業していて、その望みは叶いませんでした。
子供の頃から、一度は泊まってみたかったのですが...。

海岸に出てみました。
道が整備されていたり、いろんな施設が出来ていて、
浜辺の様子は随分変わっていました。

でも、海は変わりません。
あの頃のように潮風が吹き、うねり、波音をたてています。

振り返って、家を見ました。
海に沈む夕陽が見える小高い丘の上の小さな家。
それが私の実家です。

割れたガラス窓をガムテープでとめて、
私は実家を後にしました。

そう、私はこの家からスタートしたのです。
もう戻ることのないであろうこの家から...。