いまの北大生・院生約1万6000人の中で「ジンパ」を知らない者は絶対にいない。ジンパとはジンギスカン・パーティーの略語というのが定説だ。インターネットで「北大」「ジンパ」というキーワードで検索すると、約180件(平成15年5月)のうち、ジンギスカン・コンパの略語という解釈は1例しかなかった。
 花見ごろから秋が深まるまで、七輪の熱で焼け焦げて、土埃立つ元芝生はもちろん、狭い研究室の中まで、北大の各所でジンパの煙幕が繰り広げられる。雨をしのぎ吹雪に耐えつつという壮烈なジンパもたまにはある。
 戦前の北大生はコンパであり、ジンパを知らない。戦中から戦後間もなくの北大生は食糧難で、学生食堂の肉といえば鯨ぐらいで、四つ足の肉にありつくことはほとんどなかった。作家の渡辺淳一は昭和27年春、北大の合格祝いに仲間とジンギスカンをやり、4人で15キロ羊肉を平らげた思い出を書いているが、畜産などごく一部の学生は馬など食べるチャンスはあったにしても、焼いては食べなかったようだ。
 それが、いつの間にかジンギスカン鍋が北海道の家庭料理となってゆき、花見で囲むものとなり、北大生のコンパにも顔を出し、ついにジンパという単語と形式が定着した。
 そうなれば、ただ焼き方、食べ方を知っているだけではすまされない。誤った俗説ではあるが、ジンギスカン鍋の名付親かといわれる駒井徳三氏(明治44年卒)どころか、かのクラーク先生、5000円札の新渡戸稲造氏(明治14年卒)をはじめ、ジンギスカン鍋に欠かせない羊肉と我が北海道大学との長い関わりを知らずに卒業した者に、北大OB、OGを名乗らせるわけにはいかない。一般教養の必修科目並に学ぶべきジンパ学講座を開設し、ここに全北大生必読の講義録を公開するものである。


 現場主義のジンパ学



               北大文学部名誉教授 尽波満洲男

 私が、このジンパ学講座を受け持つ尽波です。ツキナミじゃなくて、姓はジンパ、名はマスオ、昔の満洲、いまは中国東北部などといっておるが、あちらで生まれたから親父がそうつけてくれたんです。ツキナミではないからね。まあ、名は体を表すと昔の人はいいことをいっとるが、当然私の狙いも講義も月並みであるわけがない。しつこいとみる人もいるかも知れません。
 これまでジンギスカン料理、あるいはジンギスカン鍋について、さも定説のようにいわれている伝説があります。インターネット上でも散見されます。ところが、そういった本当らしそうな史話に限って、ろくに文献も示さず、探さずなんですね。だれかの思いつきだったり、ものがジンギスカンだけに焼き直しもありとね。また、郷土史をやる連中が、そういう怪しい説を引用し合って権威付けしたり、まったくいい加減な”孫引きゴッコ”をしてきた。自信のないやつはロクに調べもせず「諸説がある」なんてね。
 私が開拓してきたジンパ学は、そういう類の作り話や羊肉通販ページの一口知識とは全く違うのです。育ち盛りではあるが、れっきとした学問なのです。調べたらこうだったと証拠を明確に示しながら、正しいジンギスカン料理の歴史を掘り起こす。それがジンパ学です。
 どうです、構内至るところ、ジンギスカンの紫煙たなびき、香煙鼻をくすぐる北海道大学。しかもその文学部らしい学問、必修ではないけれども、あえて必修科目と同格とうたう大きな意義がわかるでしょう。まだ研究者が少ないので、あんまり耳にしたことはないと思うけれど、広い意味でジンパ学は食文化論と東洋史学にまたがる学問なのです。
 伝説に戻りますが、なぜ、そんなインチキな作り話がバレなかったのか。何となく世に認められ、通用してきたのか。これが重要なポイントなんです。それにはちょっとした訳がありましてね。かつてはどこの図書館にいけば、自分の調べたいことが書いてある本があるのかすら、わかりにくかった。偶然でもわかったことだけ書いて、後は想像で補うしかなかった。
 それも郷土史家らしい中華思想でね。自分の関係する場所、職場が世界の中心だと信じ、強烈に高めようとする。月寒だ、滝川だ、道産子は北海道だというわけです。最新表現でならセカチューということだ。とても参考文献なんか示しようがありません。たまたまですよ、それを見つけた者が受け売りするから、固まった見方のような印象を与えやすい。文学部のほかの分野でも似たようなもので、学生はどのあたりのことがわからないのか、どの辺までわかっているのか―がわからない。勢い指導教官の示唆する方向へ進まざるを得なかったんですなあ。
 いまはまったく違いますね。インターネットという新しい道具が使えるのです。検索エンジンで、ヒントを含むホームページを見つけたり、探す本がどこの図書館にあるのか即座に調べられる。開拓使の文書だって、パソコンを通じて居ながらにして読めるものがあるのです。ホームページの作者や関係者、本なら著者が生きていればメールで質問もできます。諸君がこの講義録を見付け、読んでいるということが、そのいい例ですね。時間と労力はものすごくかかりますが、100年前の新聞でもマイクロフィルムで読めるし、新聞によってはデータベースがあり、キーワード一発で検出できます。
 より真実に近い情報を求めて積極的に動けるようになったのです。もはや、蟻地獄のように穴の底で、蟻が転げ落ちてくるのを待つみたいに、情報を待つ時代ではないのです。みんな羽を与えれたのです。もうトンボでなきゃいかん。自ら飛行してえさになる情報を探すのです。どんどん新しい情報を追加し、前説を手直ししていく。
 そうしたことができなかった時代に書かれた事柄を、いつまでも金科玉条のように振りかざす歴史家であってはいけないのです。インターネット以前の古い本や資料はもう一度視野を広げて吟味してみる必要があるのです。ジンパ学はそれを果敢にやってみる学問です。論より証拠、新渡戸さんは「学問より実行」といわれた。
 いくら羊肉がテーマでも、羊頭を掲げて狗肉を売ることにならないようにと自戒はしているのだが、ついつい大きく出ちゃうのは不徳の致すところ、はっはっは。
 刑事コロンボが、ボロ車で殺人現場へ現れ「うちのかみさんが…」てなことをいいながら、あちこちかき回して調べまくるように、ジンギスカンの調べ方は現場主義で通す。つまり、資料あるいは情報はだね、できるだけ原本に当たることを心掛けていくと、見つかることがあるんですねえ。運悪く真相がわからなくても、これまでの嘘がばれます。
 ところで上の丸い物はわかるね。これは文学部が体験入学の高校生に配った団扇の写真です。ここだけの話だが、立ち食いのジンギスカン風景のね、わきに北京正陽楼、ジンギスカン料理と書いてある由緒ある墨絵調の挿絵を一時期見せていたんです。教育用だから許されるかとも思ったけれども、そこはそれ、君子危うきに近寄らず。著作権侵害で訴えられるのが恐いので、引っ込めて文句の出ないPR団扇で間に合わせることにしたのです。だから、皆さんはそういう絵があると思ってみて下さい。
 その写生画は昭和5年6月に発表されたものなんです。いまを去ること70年以上も昔です。かの文豪里見惇と志賀直哉が満鉄という会社に招かれ、一緒に満洲と支那へ出かけた。いまはどっちも中国になっちゃったが、それはともかく、里見惇が時事新報に連載した紀行文「満支一見」の挿絵の1枚を見せたかったんですよ。どうしても見たいという人は、私の自宅の研究室にくるか、札幌市の中央図書館にいって、その「満支一見」を借りて見て下さい。名誉教授といっても学内には机一つも持てないのでね。それから、後でわかったのだが、それは某焼き肉史に、わが文学部同窓会のホームページ・e楡文(いーゆぶん)から「再引用」と称してだね、堂々と掲載されているから探してご覧。昔薄野あたりにあったトウキビを売る夜店とその客といった雰囲気を思い出させる絵です。
 ああ、ひとつ注意しておくが、いまここで使っている里見の惇という字は正しくない。本当は弓扁に享なのだが、パソコンで使えるJISコードにも句点番号にもないんだなあ。それで図書館なんか困っちゃって、里見トンなんて、コメディアンみたいなトンでもない書き方をしている。わが愛する北大図書館は括弧付きでトンだ。後で描写を吟味するときは、UNICODEで正しく出てくるから間違いだと勘違いしないように。
 平成15年の正月に北海道新聞が「探偵団がたどるジンギスカン物語」を連載して、ジンギスカン鍋を描写した小説として、昭和18年に永井龍男が書いた「手袋のかたっぽ」を紹介しました。事実、国語辞典であれを初出としているのがあります。そうじゃないんですね。もっと古くから小説に現れているし、新聞や雑誌の記事にもあるということを教えましょう。私は既に大正13年までたどっています。もっと調べれば、明治までたどれるはずだと信じています。
 はい、では私のシラバスをもう一度読んで受講手続きをするように。私は出欠は取りません。その代わり私の話をよく聞き、私が配る資料を読みこなして、私の探索と推理のあら探しをして、アッといわせるレポートを提出してくれる学生を歓迎するからそのつもりで。古いジンギスカンの常識なるものを皆さんと一緒にぶっ壊し、北大ジンパ、ジンパあっての北大という認識を天下に広めようというのが、私のジンパ学なのです。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)


 研究と同時進行の講義なので全部読めません。あしからず。
 随時、盆栽を慈しむように一部の加筆や修正をしております。難航しているテーマもありますので、年代順にこだわらず、中世などを飛ばして明治以降についての講義も公開しております。


 

 「現場主義のジンパ学」は平成15年にジオシティーズの場を借りて北大文学部同窓会が開いたホームぺージ「e楡文」の一部でした。その後同窓会を離れて研究と公開を続けてきました。上記の画像は当時のヘッダーであり、内容もほぼ当時のままです。研究の進行によって初期の講義におけるいくつかの見当違いがわかってきましたが、当分そのままにして資料探しを続け、本として残すときに修正します。
 平成28年7月を期して広告に邪魔されないページにするため、ここへ移転しました。しかし平成31年3月、契約容量の100MBに達し、講義録のちょっとした追加もできなくなりましたので、新規公開の講義録及び部分追加をした講義録は「さくらインターネット」へ移しますが、目次と閲覧はこれまで通りです。さらにジン鍋アートミュージアムの所蔵鍋の公開ページとの連結を考慮しております。これからも仲間と共に、未着手のテーマの解明に努めます。

講義録目次(これは主題で、各ページの題名は副題であり、異なっています)  
最新ジンパ学のオリエンテーション
明治の日本人は緬羊を知らなかった
輸入羊毛費減らそうと緬羊増殖を望んだ新渡戸さん
北大予科教授が明治45年に書いた「羊と山羊」
本に載った羊肉料理法は和風ばかり
庶民の食卓と西洋料理との大きなギャップ
本当か満鉄調査部長駒井徳三名付け親説
満鉄に調査部長というポストは昭和までなかった
4つも名前のある変な焼き肉料理
北京経験者が教えるジンギスカンのルーツ
里見クの「満支一見」から志賀直哉の「怪談」まで
夏の宵、鎌倉由比ヶ浜で試みた松葉いぶし
ジンギスカン広めた東京の濱の家
正陽楼の本物の鍋で焼かせた濱町濱の家
糧友會が羊肉食の普及に乗り出す
駒井命名説はマッチポンプだった
観客7万人集めた食糧展覧会
鍋羊肉を全国に広めた「現代食糧大観」
シスコでケプロンと会った細川少議官
主に牛肉と羊肉召し上がった明治天皇
珍しい貢ぎ物として入ってきた羊
羊革のよろい着て乾し羊肉かじったか
古文書の羊は髭のあるヤギだった
肉は最高とサウスダウンを推奨したケプロン
2説ある札幌初の洋食店の開業年
鹿肉は出さなかった西洋料理店(全内容更新中)
ヤギとヒツジという呼び方の分岐点
万延元年、箱館奉行は箱館産の綿羊を売っていた
引き出しにあった明治2年洋種緬羊初輸入説
明治11年乳用山羊輸入説を追うと
新渡戸さんを支えた愛弟子小谷武治
沼津の渡瀬寅次郎と江原素六と緬羊
北京の鷲澤・井上命名説を検討する
ジンギスカン「料理」という名前は北京から
吉田誠一が書いた命名者伝説の出所
力士が春秋園事件で食べたジンギスカン鍋
春秋園は事件の2月前に開店したばかりだった
北京を訪れた人々の記憶に残る正陽楼
もう1軒、東來順を忘れちゃいませんかってんだ
同人誌・新聞「燕塵」から見える北京の邦人社会
在満邦人によるジン鍋命名説を調べてみると
公主嶺で開かれた秩父宮歓迎大ジンパ
納涼という名の新京発ジンギスカン列車
大連を訪れた女優夏川静江はジンパで歓迎された
新京のジンギスカン料理店の元祖はカフェーだった
ご先祖様は一戸伊勢子の羊肉の網焼だ
「糧友」愛読者にジンギスカン鍋プレゼント
元は赤坂の緬羊肉問屋の別荘だった成吉思荘
日本初のジン鍋専門店は成吉思荘とする見方は誤り
昭和11年ではなかった狸小路「横綱」の試食会
戦前の料理書に現れたジンギスカンの料理法
緬羊協会報「緬羊」でたどる戦後の緬羊の足跡
戦後の料理書に現れたジンギスカンの料理法(昭和編)
戦後の料理書に現れたジンギスカンの料理法(平成編と総括)
ジンギスカンで道内の緬羊を食べ尽くした道民
北大生協が開発した七輪貸しジンパ・セット
札幌・レトロスペース坂の鍋コレクション紹介など
世界唯一のジンギスカン鍋博物館、ここにあり
顧みられなかったジン鍋の形の変遷を顧みる
本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた
もし「現場主義のジンパ学」を本にしたら



 平成29年9月、上の絵の左の鍋、昭和10年に作られたジンギスカン鍋が見付かりました。上記の鍋の絵とお願いを示して10年を超えましたが、レス皆無でした。
 しかし「求めよ、さらば与えられん」遂にジンパ学としては国宝同様、日本国内鋳造の鍋としては最古、糧友会が関係者に贈呈したジンギスカン鍋が82年間、完全な形で使われていたのです。ロストル型のきれいな焼き面のつやからも、それがわかるでしょう。まさに奇跡のジン鍋なのです。
 ここをクリックすれば糧友会のページのこの鍋に関する講義録が読めます。

  

ノーベル賞・鈴木さんとジンパのカップリング
 北大構内をさわやかな風が吹き抜ける夏の夕方、研究室近くの芝生の上。もうもうとした煙の中でジンギスカン鍋を囲み、道産の地酒を酌み交わしながら、学生たちと議論する30代の若き鈴木章さんの姿があった。1980年代、札幌にまだ牧歌的な雰囲気が残っていたころだった。
 60年の北大大学院博士課程修了後、化学者への道を歩み始めた鈴木さんにとって、学内でのジンギスカンは、学生たちと研究のアイデアを練り、実験の成果を深める貴重な場だった。
 空いたコップを見つけると、「飲め飲め」と酒をついで回る。学生からは「つぎ魔」と呼ばれた。にこにこ笑いながら、学生たちに呼び掛けた。「外国に負けるな」「教科書に載るような仕事をやれ」。そして、最初に酔 いつぷれた。<略>

  (出典は平成22年10月9日付北海道新聞朝刊34面の連載記事「ノーベル賞への道 化学者 鈴木章物語(2)」)