講義録「現場主義のジンパ学」の
公開中止について


 平成25年の北海道大学構内に於けるジンパ全面禁止は、その後の学生・院生及び教職員の熱烈なる反対運動により「月とスッポン」的指定地域でのみ開催できることになりました。よって、いつまでも「どこでもドア」的ジンパを語ることは、私が標榜する「現場主義」とも矛盾するので、記述スタイルの変換も含め再構成のため当分の間、閉鎖します。

    令和4年7月      尽波満洲男



新版講義録の公開見通しについて


 令和4年夏以来「現場主義のジンパ学」の講義録を閉じて全面更新に取りかかりましたが、年老いた私の現状から、残念ながらそれはとても無理な作業量とわかりました。
 生成AIの助けを借りようと試みましたが、彼等はせいぜい駒井徳三命名説が有力と言い、架空の本を示すのが関の山。それらは役に立たないと言えば、専門書を読めと勧めるのが落ちです。
 そもそもジンギスカン料理または鍋を含む書名の専門書が存在するなら、日夜グーグルで検索を繰り返し、乏しい年金を割いて古本を買ったり、遠地も厭わず図書館の古雑誌読みに出かけたりしませんよ。ジンパ学は、そうした研究書がないから面白そうと始めた面があります。
 さきに「新版講義録の公開遅延について」で最新HTML言語によるプロクラム作りが難航していると書きましたが、いまや自家薬籠中のものとまでは行きませんが、かなり使いこなせる域に達しており、新バージョンの「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」の引用件数増やしに努めており、昭和20年から平成10年までで玉石混淆ながら250件、令和5年までなら300件近くになりそうです。
 新学期の始まりに合わせて「ジンギスカンの即位祝宴は馬肉料理だった」と「こう書かれた」の新バージョンの2回で講義を始め、なるべく早く「豊平館の3代目経営者は金沢源太郎だった」を加え、旧バージョンのままの目次及び全ページを公開します。(2月末の希望値ですよ)

  

 猫のマンチカンみたいに、緬羊の足が短ければ牧場の柵は低くて済むし、その分柵代tが安くなると、その昔、アメリカで短足の品種が作りだされたことがあります。
 いずれその話を取り上げようと短足羊の写真が載っている「 Cell and Molecular Biology」を温存しておりますが、昨年、ジンギスカンの伝記調べで英語と独逸語の本2冊を買いました。写真はラルフ・フォックスの英語本とその邦訳本です。



 流行の半纏、私もChatGPTに少し質問してみました。彼?彼女?のお答えは下記の通りでした。

問い 料理のジンギスカンを知ってますか。
答え はい、ジンギスカンとは、北海道を中心に食べられている、羊肉の焼肉料理の一種です。羊肉を薄く切って、鉄板やグリルで焼いて食べるスタイルが一般的で、味付けは塩やタレが使われます。また、野菜やキノコ類なども一緒に焼いて食べることが多いです。ジンギスカンという名前は、モンゴルの歴史上の英雄であるチンギス・カンに由来しています。

問い 塩で味を付けるのは少数派だと知っていますか。
答え すみません、私の先程の回答に誤りがありました。確かに、ジンギスカンでは塩で味をつけることが一般的ではありません。通常は、特製のタレを使用して味をつけることが一般的で、また、野菜やキノコ類と一緒に焼いて食べることが多いです。私の誤りを訂正していただき、ありがとうございました。

問い 北大生のジンパをご存知ですか。
答え はい、ジンパは北海道大学で生まれた料理で、ジンギスカンの肉や野菜を、鍋で煮込んで食べるスタイルの料理です。ジンパの名前は、ジンギスカンと鍋を合わせた言葉であり、北海道の居酒屋などで提供されています。ジンパは、ジンギスカンと同じく北海道のグルメの一つで、寒い冬に食べることが多い温かい鍋料理です。

問い あなたに間違いを教えることは禁じられているから、あなた
   の現在の知識として唯今のお答えを受け取っておきます。
答え ありがとうございます。私は間違いを犯すこともありますが、常に正確な情報を提供するように努めています。もし何か疑問や誤りがあった場合は、遠慮なく指摘していただけると幸いです。

問い では申し上げますが、鍋で煮込む料理ではなく、ジンギスカ
   ン鍋と呼ばれる鍋を逆さにしたような形の鋳鉄の道具を使っ
   て羊肉と野菜を焼く料理です。
答え ご指摘いただきありがとうございます。確かに、私の先程の回答に誤りがありました。ジンパは、鍋で煮込む料理ではなく、ジンギスカン鍋と呼ばれる逆さまの円錐形の鍋を使用して、羊肉や野菜を焼いて食べる料理です。私の誤りを訂正していただき、ありがとうございました。

問い 「現場主義のジンパ学」というホームページをご存じです
   か。
答え 申し訳ありませんが、私は一般的な知識の範囲であり、具体
   的なウェブサイトに関する情報を持っていません。ただし、
   検索エンジンを使用して該当のウェブサイトを調べることが
   できます。

問い なるほど当方の質問は不適当でした。一般的な知識の範囲
   で、実は間違いなのだが「何々という説が有力」という場合
   は、どういう処理されるのですか。
答え 一般的な知識の範囲での情報において、有力な説や仮説が存在する場合には、それを明示することが望ましいです。ただし、それが真実であるかどうかを確認するためには、より深い調査や検証が必要になる場合があります。そのような場合には、信頼できる情報源から確認することが重要です。また、一般的な知識の範囲を超えた場合や、複雑な問題については、専門家の意見や専門書などから情報を得ることが望ましいです。

問い 私が20年掛けて調べた結果はこうであり、いま有力といわ
   れている説は誤りだと、あなたに教えておけば、有力説と取
   り替えなくても、並列して提示することになりますか。
答え はい、それは可能です。一般的な知識において有力とされる説と、個人的な調査によって得られた結果が異なる場合には、それらを並列して提示することができます。ただし、その場合には、それぞれの情報源や根拠を明示することが重要です。それによって、読者や聞き手が情報を総合的に判断し、自分自身で意見を形成できるようになります。

問い 今回の最後の質問です。ジンギスカン料理と命名したのは満
   洲国総務庁長官にもなった駒井徳三だという説は知ってます
   か。
答え はい、ジンギスカン料理が命名されたとされる人物として、駒井徳三氏の名前が挙がることがあります。駒井氏は、満洲国時代に内務部や総務庁長官などの要職を務めた人物であり、ジンギスカン料理の命名に関わったという説が伝えられています。ただし、正確な経緯については諸説あり、確定したことはわかっていません。

問い 模範的なお答えで安心しました。このチャットの終わり方を
   教えて下さい。
答え ご利用いただきありがとうございました。今回のチャットでのやり取りは以上となります。何か質問があれば、いつでもお気軽にお問い合わせください。

問い 忘れていました。今回のあなたのお答えをウェブサイトで公
   開してよろしいのですか。
答え はい、機密情報や個人情報に関する質問でなければ、公開していただいても構いません。私の目的は、より多くの人に知識や情報を提供することですので、公開していただけることは大変うれしいです。ただし、回答内容を引用される場合には、出典元が明示されるようにお願いいたします。

問い 2023年3月12日午前3時にURL
   https://chat.openai.com/chat での質疑応答だった―で
   よろしいですね。あなたはアメリカにいるので、日付が日本
   と1日違うのですね。終わります。
答え はい、私はアメリカのサーバーに置かれているため、日本と時差があることになります。今回のチャットでお役に立てたことを願っています。何かありましたら、またお気軽にご利用ください。ありがとうございました。

 脱線大好きな私としては、おとなしすぎる学生ですね。
   

お知らせ

 令和3年9月に慶応義塾大学出版会から出版された岩間一弘
氏の著書「中国料理の世界史 美食のナショナリズムをこえ
て」
で引用された前バージョンの講義録の3カ所とその注をそ
れぞれ示し、保存してある前バージョンにリンクさせ、クリッ
クすると読めるようにしました。

137ページ
 ちなみに、『中国名菜譜』によれば、咸豊四(一八五四)年
に北京の前門外に開店した「正陽楼」が羊肉しゃぶしゃぶ(
「涮羊肉」)を販売した漢族の最初の店であるといい、それは
肉を切る技術を改良して名を馳せた。(13)この正陽楼の羊肉料
理が、一九一〇年代以降に満洲の日本人社会、さらに日本へと
伝わったジンギスカン料理の原型であると考えられている。(14)
そして東来順は、一九〇三年に回民の丁子清が開業した飯屋が
始まりで、一二年に正陽楼の優秀な切肉の技師とその弟子たち
を招聘して、羊肉しゃぶしゃぶを売り始めた。一九四二年に正
陽楼が休業すると、東来順の羊肉しゃぶしゃぶが、北京でもっ
とも有名になったという。(15)

注49ページ
(14) 1913年10月に満鉄第二代総裁の中村是公が北
京を訪れた際,同窓の山座円次郎公使とおそらく正陽楼で会食
して,「成吉斯汗時代の鋤焼鍋なるもの」の珍味に驚かされた。
大連に戻った中村総裁は1913年11月8日夜,官民の名士
を満洲館に招待して「鋤焼会の饗応」を行った(「珍饌山賊料
理 総裁の北京土産」『満洲日日新聞』1913年11月9日
5頁)。これが満洲の日本人社会にジンギスカン料理が伝わっ
た最初の記録である(尽波 [n.d.] の「中村総裁が大連に持ち
込んだ烤羊肉」)。 ここをクリックする。


158ページ
 一九三四年七月にジャパン・ツーリスト・ビューロー(以下
「JTB」と略す)の大連支部は、『旅行満洲』(一九三八年
四月号より『観光東亜』に改名)という旅行雑誌を創刊した。
それを見ると、南満洲鉄道株式会社が経営するヤマトホテル、
鉄道の食堂車、国策旅行会社のジャパン・ツーリスト・ビュー
ローなどが、満洲国独自の食文化の創成を目指して、ヤマトビ
フテキ、ジンギスカン料理、高粱の菓子といった名物を創り出
していたことがわかる。ただし、これらの「満洲料理」「満洲
食」は、現地中国人の支持を欠いており満洲国崩壊後、中国東
北部ではほとんど痕跡をとどめなかった。(25)
 他方で、日本本国には、満洲の料理として、焼き餃子やジン
ギスカン料理などが伝わった・中国語の「餃子(jigozi、
ジャオズ)」に対する日本語の「ギョーザ」「ギョウザ」とい
う発音が、二〇世紀前半当時の中国東北(満洲)訛りの中国語
音であることは、根拠になる同時代の文献史料が複数あるので
間違いない。(26) また、羊の焼肉料理を「ジンギスカン」と
名づけたのは、一九一〇年代の北京にいた日本人記者であり、
ジンギスカン料理は、北京から満洲および日本内地の各都市に
伝播したと考えられている。(27)
一九二七年一一月、陸軍糧秣廠の外郭団体である糧友会の機関
誌『糧友』(二巻一一号)は、巻頭で「羊肉食宣伝の趣旨」を
掲載している。その頃から、日本内地でもジンギスカン料理の
普及が始まった。例えば、一九三三年三月、東京・大井の春秋
園で開かれた満洲国建国の一周年を記念する晩餐会のメイン料
理は、ジンギスカン料理であった。(28)

注51ページ
(27) 尽波満洲男 (n.d.) ,とくに「北京の鷲澤・井上命
名説を検討する」。 ここをクリックする。

513ページ
 そして昭和モダンとしての中国料理ブームのなかで普及した
ものの一つに、回転テーブルがある。回転テーブルの発祥は、
日本では長らく、一九三一年に目黒に雅叙園を開店するのに合
わせて、細川力蔵が作らせたのが始まりと説明されてきた。細
川は、席に座ったまま料理を取り分けて、次の人に譲れる回転
テーブルを、当時出入りの棟梁に相談して作らせていた。(57)
 しかし、近年には多くの資料が発掘されて、ホテル雅叙園東
京の中国料理店「旬遊記」(旧・目黒雅叙園)で今も使われて
いる修復済みの回転テーブルは、「現存最古」を称されるよう
になった。今明らかになっている日本で一番古い回転テーブル
の記録は、一九二九年九月三日晩、日本橋「濱のや」で開かれ
た第一六回食道楽漫談会で使用された回転テーブルの写真(図
4−3)である。(58)

注65ページ
(58) 「長寿延命若返り」『食道楽』3(10),192
9年10月,58〜77頁の集合写真(58頁)。詳しくは,
尽波 (n.d.) の「夏の宵,鎌倉由比ヶ浜で試みた松葉いぶし」
「正陽楼の本物での鍋で焼かせた濱町濱の家」を参照された
い。
 「夏の宵…」はここをクリックすると読めます。
 「正陽楼の…」はこちらをクリックしてください。
 尽波注 店名「濱の家」は「濱のや」と平仮名が正しいの
ですが、久保田万太郎が小説「じんぎすかん料理」に初めて
店名を書いたとき「京蘇料理の濱の家」としたので、前バー
ジョンではそれ以降同店の名前は「濱の家」で統一していま
した。



 また令和5年3月に彩流社から出版されたノンフィクション
作家山本佳典氏のデビュー作「羊と日本人」の第二章「前途を
拓く」81ページの「成吉思汗料理のルーツを巡って語られる
鷲沢与四二や井上一葉ら新聞記者」の注(112)は、 ここ をク
リックすると、前バージョンが読めます。

 また第五章「戦争と羊」194ページの「道庁管轄となった
滝川種羊場では月寒種羊場勤務だった山田喜平技師が移管後の
初代場長を務めていた。<略>北海道ジンギスカン史では、札
幌狸小路「横綱」の試食会で喜平・真佐子夫妻が指導役を担っ
ていたことが知られる。」の注(18)は、ここ をクリックすると、前バージョンが読めます。