前回までで、新渡戸・小谷さん組の「羊と山羊」から始まる大正から昭和6年までのざっと20年間と戦後、ジンギスカンが盛んになるに連れて唱えられた通説を考察しました。これで羊肉食普及の流れは理解できたと思うんですが、まだまだジンギスカンの起源は遙か遠いようです。でも、慌てることはありません。ジンパ学はジンギスカン料理の起源を尋ねるだけでなく、その羊肉になる羊のよってきたる背景まで広く追求する学問なのです。それで、皆さんがジンパ学にかなり興味を持つようになるまで、わざと畜産サイドには触れずにきました。ここまで出席すれば概論はもう履修したのですから、いよいよ緬羊の増殖や羊肉需要の開拓といった生産面も視野に入れて古い方から考察し直すことにします。
ところで我が国の新聞は、元旦号にその年の干支にちなんだ記事を載せる癖があります。それで、この癖を利用すれば、12年毎に最新の羊のトピックが見つかるはずです。いいですか。昭和6年が1931年ですから、それから12を引いた1919年が大正8年、また12を引いて1907年の明治40年、また12引くと1895年の明治28年となります。さらにさかのぼると、1883年の明治16年、1871年の明治4年となります。いまの引き算はいいですね。分数が出来ない大学生が学力低下と問題になったけれど、私の引き算の方が危なかったりしてね、はっはっは。
今日の大手新聞につながる一番古い新聞は、毎日新聞の前身、東京日日新聞でして、明治5年2月の創刊です。読売新聞は明治7年11月2日の創刊です。こっちだと39枚のCD−ROMで検索できるデータベース「明治の読売新聞」があるのですが、東京日日はマイクロフィルムを読むしかありません。
私が読売データベースで調べたところでは、明治7年11月から大正元年7月末までの37年間に「ジンギスカン」は10回出てきます。明治28年にジンギスカンの孫に当たる抜都大王なる人物がロシアを侵略したという物語らしいのですがね、その連載の題名「抜都大王(ジンギスカンの孫)露西亜侵略記」で5回なんです。あと5回は「蒙古文によるジンギスカーン傳の珍書が内藤湖南らに贈与」など、題名から見て料理のジンギスカンでないようです。平仮名のじんぎすかんはゼロ回でしたね。成吉思汗と漢字になると1回、雑誌「学の友」が東洋の三傑を投票させた結果の中で出てくるようです。
幕末から明治にかけて和綴じの本みたいな形のさまざまな新聞と、維新後は太政官日誌という今の官報のたぐいが発行されました。いまわれわれが見られる資料としては、ペリー艦隊がきた安政4年から明治6年末までのそれらの新聞を集めた「日本初期新聞全集」という全67巻が手ごろというか、それに頼るしかありません。
マイクロフィルムとつないで、バッ、バッ、バッと12年飛びで過去1世紀を遡って未年のそうした資料を見ていくと、昔は紙幅が狭かったこともあり、明治16年は干支を意識した紙面作りとはいえない。明治28年は日清戦争の記事で手一杯、羊どころじゃない。明治はメェージでも元旦号に羊が紙面に現れるのは明治40年以降のことなんですね。比較的新しいしきたり。おいおい、そこの君、大げさにずっこけるなよ。
読売データベースで調べると、読売新聞は明治40年1月3日から4回、山梨師範学校の大塚孫市教諭の「羊の話」を連載しています。記事に目を通しましたら、残念ながら食べ方はノータッチでした。まあ、新聞がその年の干支に関心を示すようになったのは、明治後半からという証拠の一つにはなりますがね。
ところでジンパ学が太政官日誌と関係あるかどうかですが、去年の講義では、まだ私自身が太政官日誌や明治初期の新聞に詳しくなかったこともありまして、いささかお粗末な内容でありましたが、今回は研究が進んだので資料は充実してますよ。それでわかったのですがね、明治4年は未年だけあって、緬羊にとっても北海道にとっても注目すべき年だったのです。いいですか。31歳の北海道開拓次官、黒田清隆がこの年の1月4日、欧州及び清国へ行くという名目で日本を出発します。それでアメリカに寄り、農務局長ホーレス・ケプロンに会って御雇い教師、つまり本道開拓の相談役、先生になってもらう契約をして、帰国します。7月にケプロンが日本にきます。そして9月にケプロンが東京からアメリカに緬羊9頭を発注します。ところが、これだけではなくて、ケプロンは日本初の西洋種緬羊の導入に関係があったのです。太政官日誌などを手かがりにして、このあたりから検討していきましょう。
まず黒田の海外出張です。黒田については札幌市史編集もした井黒弥太郎さんという方が詳しく調べて「黒田清隆 埋れたる明治の礎石」という本を書いておられます。この井黒さんにしても、黒田がアメリカ渡り、ワシントンで農務局長のケプロンと契約する前後ぐらいしか、行動がわかっていないのです。ロシアのペテルブルクに留学していた同じ鹿児島出身の西徳次郎、この人は後に外務大臣になるのですが、その西に会ったというからロシアにまで行ったらしいというのです。でもその証拠というのが、実に頼りない。それから25年も後の明治29年、黒田が西に出した手紙の中に、あんたとロシアで会って、ロシアの東洋政策を聞いたときに私は樺太交換のアイデアが浮かんだと書いてあるから(1)というのです。日本は明治8年に日本人とロシア人が入り交じってちょいちょいトラブルを起こしていた樺太を全部、すっきりとロシヤに譲るから千島列島をそっくり日本に寄越せといって交換したんです。ロシアに返還を要求している北方四島を含む千島列島は、このときから日本の領土になったのです。
そこで私は、せめて黒田の出入国だけでもはっきりさせたいと思い「新版 黒田清隆関係文書(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵)」というCD−ROM付きの本を読みました。これには鹿児島純心女子大学教授の犬塚孝明さんが「黒田清隆と明治国家」という論文が収められていますが、何月何日ロシアで西徳次郎と会ったなんてことは国家的見地からすれば枝葉末節ですから触れていません。でも年譜がありまして、そこには黒田が明治4年6月7日に「帰国、復命」とあり、その典拠として黒田の「履歴書案」と「明治天皇紀」と「大久保利通日記」(2)を挙げています。
それはそれとして、黒田がケプロンと一緒に帰国したと書いている本も結構あるのです。黒田自身が序文を書いた「北海道志」、歴史の史でなくて志を書く。開拓使が作った記録がそうなんですから、皆さん、信用して同時帰国説を書きますよね。一体どっちが正しいのか。白黒つけるとなると現場主義、私がこれらと関係ない資料を探すしかありませんよね。それら両説の代表的なところをまとめたのが、これから配るペーパーのトップにある資料その1です。はい、一部取ったら後ろへ回して。
資料その1
単独帰国説
「履歴書案」(1月)四日米國郵船エリエル号ニ乗込横濱出帆米國桑港ヘ到達夫ヨリ華盛頓府ニ至リ其政府ヘ懇談ノ上農学局長ホーラシケプロン」及トーマスアンチセル」ワルフヰールドゼイアル」スチュアルドエルドリッジ」ノ四名雇入ヲ約シ同行ノ生徒ヲシテ学ニ就カシメ英仏和蘭ヲ経魯國ニ至リ帰路再ヒ米國ニ寄リ開拓需用ノ器械等ヲ購入シ六月七日帰 朝復命ス
「大久保利通日記」一 七日大山子入来七字参 朝二字退出昼后黒田次官入来今日欧羅巴より帰朝なり
「百官履歴」(明治3年11月)十七日 開拓次官黒田清隆 従四位○鹿児島藩士 ヲ欧州ニ差遣シ、工業・農業技師ノ招聘、開拓器械ノ購入ニ當ラシム 斗南藩士山川健次郎・鹿児島藩士二木彦七・同種子田清一・同最上五郎・山口藩士山尾常太郎・同来原彦太郎・大泉藩士服部敬次郎、留学生トシテ同行ス。 太政官日誌 大政類典 樺太記録 北海道志 公文録 札幌区史 斗南藩斗南若松往返
(明治4年6月)七日 開拓次官黒田清隆 従四位○鹿児島藩士 米國ヨリ帰朝ス。尋デ七月十三日 開拓使聘スル所ノ米人技師「ホレース・ケプロン」Horace Capron・「トーマス・アンチセル」Tomas Anticel・「エー・ジー・ウォーフヰールド」A.G.Werfield・「スチュワード・エルドリッヂ」S.Eldridge、東京ニ至ル。 岩倉家文書 百官履歴 大久保利通日記 北海道庁東京往復 開拓使日誌 北海道庁翻訳書類 公文録 樺太記録 明治四年対話書 開拓使事業報告
同行帰国説
「明治天皇紀」七日 客歳十一月、開拓次官黒田清隆、欧洲差遣の命を拝し、是の歳正月四日横濱を発す、途次亜米利加合衆國に於て農學局長ケプロン等四人の雇傭を約し、英吉利・佛蘭西・和蘭諸國を経て露西亜國に至り、帰路再び米國を訪ひて開拓に須要なる器械及び植物の種子等を購入し、ケプロン等四人を伴ひて是の日帰朝す ○公文録、東京往復、開拓使日誌補遺、大久保利通日記、東久世通禧日記、黒田清隆履歴書案、明治四年対話書、太政類典、百官履歴
「北海道志 巻十八(政治 測量)」(明治3年)十一月黒田次官ヲ西洋ニ遣ル
(同4年)六月黒田次官開拓顧問矯龍等三名及ヒ器械動物及ヒ植物ノ種子ヲ携テ米国ヨリ帰ル
「札幌区史」而して黒田次官は此等雇外人と共に蒸汽水車の両器械及、農耕用の諸器械、種牛種馬種羊、各数頭、チモセー、イタリアン、ライ、グラツス等の牧草類、及小麦其他の穀菽、蔬菜、花草等の種子を携へ、四年六月帰朝したるが、是より後尚漸次各國の外人を雇聘する事前後實に七十余名に達し、本遺の開拓特に札幌の経営に於て此等外人の献策を採容する事、頗る寛懐にして、札幌の経営方針は、東久世時代と全く其面目を一変し、泰西の文明的思想を以て種種の施設を為したり。
「日本畜産史」さて開拓使次官黒田は、アメリカ式農法をとり入れるため明治三(一八七〇)年一一月アメリカに赴き、彼地の農業、牧畜の実情を調査する一方、日本におけるアメリカ式農法の実施にあたって必要な指導者として当時のアメリカ農務省総裁ホレース・ケプロンを得、翌年六月ケプロン以下地質学者、鉱業主任としてトーマス・アンチッセル、土木主任としてエ・ジ・ワーフィールドならびに秘書格として医者スチュアート・エルドリッジらを伴って帰国した。
「奎普龍将軍」陽暦で云へば明治四年八月一日ケープロン将軍は同僚三名の米人や黒田開拓次官と共に桑港を出発し、約四週間を海上に送り、同月二十八日夕刻横濱へ入港し、翌日上陸したが、恰も我二百十日の厄日に逼り、沖に狂う高波を木の葉と舞ふ異様な小舟に、赤裸々の舟子が欸乃を囀りながら調子を取り、立ち昇るしぶきの旭日の映ずる中を、古風な櫓櫂で押し切つた凄絶の光景は、遉が千軍万馬の巷を来往した将軍も三伏の熱に萬斛の清涼を味ひ、太平洋の航海に幾層倍を加へた危険を覚えたと、其の日記に書いてある。
「榎本武揚」そしてその懸隔の主要な目的である開拓器械を米国に注文し、開拓に経験のある有能な外人技術者を招聘するため、黒田は二十余名の留学生を引きつれて四年正月にアメリカ合衆国に向い、当時の大統領グラントの好意によってホラシ・ケプロンを首班として、化学技師トーマス・アンチセル及び機械運用及び土木の技師エー・ジー・ワルフィールド他書記長一名を招聘することに決定し、一行は黒田とともに八月末に日本に来朝した。
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参考文献
上記(1)の出典は井黒弥太郎著「黒田清隆 埋れたる明治の礎石」72ページ、昭和40年4月、みやま書房=原本、(2)は犬塚孝明・大島明子・広瀬順晧著「新版 黒田清隆関係文書(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵)」195ページ、平成14年9月、北泉社=原本、資料その1は以下の通り。黒田清隆著「黒田清隆履歴書案 自元治甲子至明治9年」全99ページに番号なし、複写年次不明=「黒田伯爵家文書一」と注ある北海道立図書館所蔵の写本、日本史籍協会編「大久保利通日記二」171ページ、昭和44年10月、東京大学出版会=原本、日本史籍協会編「百官履歴1」438ページ、昭和48年7月、東京大学出版会=原本、宮内庁編「明治天皇紀」第2巻476ページ、昭和44年3月、吉川弘文館=原本、「北海道志」は開拓使編纂「北海道志」下巻の復刻版36ページ、昭和48年10月、歴史図書社=原本、「札幌区史」は札幌区役所編纂「札幌区史」復刻版406ページ、昭和48年1月、名著出版=原本、「日本畜産史」は加茂儀一著「日本畜産史 食肉・乳酪編」382ページ、昭和51年4月、法政大学出版局=原本、谷邨一佐著「奎普龍将軍」34ページ、昭和12年11月、山口惣吉=原本、加茂儀一著「榎本武揚 明治日本の隠れたる礎石」184ページ、昭和35年9月、中央公論社=原本
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井黒弥太郎さんは「黒田清隆 埋れたる明治の礎石」では「明治四年五月(新暦の七月)黒田はケプロンとその三人の幕僚ならびに多くの資材と共に、横浜に到着した(公式には六月七日帰朝。太政官「百官履歴」)」(3)と書きました。しかし、12年後にもう一度、副題のない「黒田清隆」を出しました。そこでは「四年五月、黒田とケプロンとその三幕僚は前後して帰着した」(4)と改め、年表も黒田は6月、ケプロンは7月と書き分けて訂正した形になっていますから、ここで両方に入れるのも変だし、相殺扱いで入れていません。
でも「黒田清隆」には「黒田が四年夏にケプロンら外人を伴って帰国しても榎本の処分はまだその儘であった。(5)」とあり、完全に単独帰国説に書き換えたとは言い切れません。これは「黒田清隆 埋れたる明治の礎石」の「六月に黒田次官が帰国しても、まだ榎本の件は未解決の儘であった。(6)」という記述に対応するとみられる箇所です。まあ、これらでわかると思いますが、お互いに引用し合っているんですね。ですから、新しい証拠を求めるとすれば、こうしたリサイクルみたいな輪に入っていない証拠を探すしかありません。逢坂信忢さんの「黒田清隆とホーレス・ケプロン」では黒田の帰国日時はノータッチ、西島照男さん訳の「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」などケプロン日記を土台にした本では黒田と一緒だったとは書いておりません。もう少し別な角度から狙うしかありません。
私は、そこで黒田出発の1月4日は西暦に換算しますと1871年2月22日、帰国の6月7日は7月24日(7)になりますから、私は「日本初期新聞全集」に収められている英字新聞「The Japan Weekly Mail」で、その前後を調べてみました。横濱で発行されていた毎土曜発行の週刊新聞で、運良く足跡が見つかりました。結論から言えば黒田は日付はごまかしていない。ケプロンより一足早く別の船で帰国した―でした。
その証拠とは、横濱に出入りする外国航路の発着記録と船客名簿です。私が北大に入ったころ、日本で旅客機を飛ばしていたのは日航だけで、千歳で降りた乗客名簿が北海道新聞や北海タイムスに毎日載っていましたね。プライバシーどころか、それに載るのが名士の印みたいに思っていたものです。明治では外国航路の船が昭和20年代の日航機みたいな格だったんですね。それが資料その2です。点線から上が出国時、下が帰国時の情報です。
資料その2
DEPARTURES
Feb. 22, Japan, Am. Str., Warsaw, 4,000, for San Francisco,
Mails and General, despatched by P. M. S. S. Company.
PASSENGERS
Per Japan despctched 22nd instant : For San Francicco−Messr.
Cairother, Van Tire, Naugai. Sehuy, Schroater, Stall, Dieehen,
White, Elliot, Martrin, Ceriur, Huney, Lynch, Davies, Hardt, one
Boy, W. Haskell. For New York via Panama−Messr,. Smith,
McCormick, Guken. For New York via C. P. R. R.−Mr. and Mrs.
Marshall and servant. Messrs. Wessont, Fama, Kuroda, Sunanato,
Moyaun, Stataki, Tanidu, Ewasaki, Haton, Famagowa, Famar,
Rummars, Munda, Takuhar, Iagun Oosuka A. Breut.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ARRIVALS
July 24, China, Am, Str., Cobb, 3,836, from San Francisco, Mails
and General, to P. M. S. S. Company.
PASSENGERS
Per China from San Francisco, arrived 24th inst.: For Yoko-
hama−M. Eduljee, A. Dusina, Chas. E. de Vallin, Jas. Mellor, J.
R. Blakiston, G. Bolmida, Lonis. McLane, G. Kuroda, Semashima,
A. J. Wilkin and wife, John A. Frazer, Dr. Edw. Storer, For
Shanghai−Mrs. A. A. Fisher, Jas. Matter, Baron Hubner, Frank
M. Ames. For HongKong−F.Abella, G. Shaney, Henry Devens,
Wm. Walsh, Fung Tang.
REPORTS
P. M. S. S. China 3,836 tons, W. B. Cobb, Commander, Ieft San
Francisco July 1st 1871, at 12 M. July 5th Ah See, steerage pas-
senger died of consumption, remains embalmed. July 8th Quong
Chung steerage passenger died of consumption, remeined embalmed.
July 8th 5.30 A.M. lat. 36.42 N., Long, 153.55 W. communicated
with P. M. S. S. America, all well. China experienced fine weather
moderate winds from East and South.
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参考文献
上記(3)の出典は井黒弥太郎著「黒田清隆 埋れたる明治の礎石」49ページ、昭和40年4月、みやま書房=原本、(6)は同34ページ、同、
(4)は井黒弥太郎著「黒田清隆」52ページ、昭和52年10月、吉川弘文館=原本、
(5)は同43ページ、同、
(7)は内田正男著「日本暦日原典」490ページ、昭和51年、雄山閣出版=原本、資料その2の出国分は北根豊監修「日本初期新聞全集」30巻192ページ、平成11年6月、ぺりかん社=原本、原紙は The Japan Weekly Mail,Feb.25,1871、帰国分は同31巻431ページ、同 July 29,1871
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デパーチャーによって黒田が乗った船は「ジャパン」、4000トンと当時にしては大型船であり「履歴案」にある船名「エリエル」ではないことがわかります。後に東大総長になった山川健次郎の回想ではJapanという新型船で在来の船より大きな船だと非常な評判だったと船名は正しく伝えています。山川は、航海中に今夜遅くか明日の夜明けに我が太平洋郵便会社の船と出会うから日本へ手紙を出す人は用意しておくようにといわれた。この広い太平洋の真ん中で2隻がきちんと出会うなんてホラだろうと怪しみながらも、手紙を書いて待っていたら、真夜中にぴたりと出会い、ボートを下ろして郵便物の交換をした。「これを見て私は彼らの学問といふものは偉いものだ、到底日本の敵う所ではない、向ふの学問は深遠なものであるとつく/\゛思った(8)」と語っています。
このことが、渡米後山川先生をして物理研究に一身を献げせしめる基点となったらしいのですから、忘れるわけがありませんよね。帰国時のレポートのコミュニケートが郵便物の交換なんですね。ケプロンの日記にも8月7日に郵便物を交換するため停船して「出港七日目の今日、長い航海の単調さは、サンフランシスコへ向かう一隻の太平洋郵船の汽船との出会いで破られた。この船のお陰で、友人に手紙を出すことができる。これは五千哩を超える長い航海で出会う、最初で最後の船かもしれない。(9)とあるくらいですから、ケプロン閣下にしてもびっくりだったんですなあ。
はい、黒田に戻ります。行きのパッセンジャーにクロダの名がありますね。アメリカの大陸横断鉄道経由でニューヨーク行きの船客になっているのは、一応ヨーロッパと清国行きの命令が出ていたからでしょう。ここにクロダという名前があったからといって、それが清隆だとは限らないじゃないか―とイチャモンを付けたい人がいるでしょう。はいはい。そういう人のためにね、黒田の下にEwasakiという名前がある点に注目して下さい。これは岩崎という黒田のお付きを命じられた権少史という役職のお役人なのです。ちゃんと2人そろっているんですから、確率からみてもほぼ確実でしょう。いまはヘボン式、訓令式とローマ字のスペルが統一されていますが、明治4年はヘボンさんがまだ英和の辞書を作っている最中ぐらいで、岩崎さんはEはイーだから岩崎のイはEでイーだろうと、はっはっは。船客名簿にEwasakiと書いたのではないでしょうか。この岩崎さんについては、後でまた検討します。
さらにですよ、日本人らしい名前がありますので、ちょいと遊んでみましょう。新聞全集の紙面が縮刷版なもんですから、非常に読みにくい。それで私のせいか新聞社の誤読か誤植があったとしても、最上のMogamiがMoyaun、種田のTanedaがTanidu、服部のHatoriがHaton、山尾のYamaoがFamar、来原のKuruharaがRummaraとなったかなと見当はつきますね。残るは二木と山川です。それでアメリカ経由でロシアに行った二木は「にき」でなくて「ふたつき」が正しいならば、Futatsukiが誤読または誤植でStatskiになり、山川は一般的な「やまかわ」でなく「やまがわ」と自ら称していたならば、同じようにYamagawaがFamagowaと当てはまってめでたし、めでたし。黒田が将来ある諸君のためにと気配りして、船客名簿に載るクラスの船室を奮発したのではないかと思うのですよ。
これには後日談があるのです。私は明治時代の函館区長に二木彦七という同姓同名の人がいたことに気付きましてね、現場主義です。「函館区史」では明治20年6月から23年3月まで在任(10)したとなっているので、明治20年5月の「函館新聞」を見ました。そしたら、もう完全にお仕事モード。遡っていきましたら明治19年末の官制改正で函館支庁が廃止になって函館区ができ、二木さんは1月に着任していた。つまり「函館区史」の着任月は誤りとわかった。
当時の記事は全部ルビ付きですから、すぐ「ふたつき」だとわかりました。でも留学生だったかどうかはわからん。新区長の経歴紹介とか歓迎宴の記事にないかと見たのですが、さっぱり。23年に何回も催された送別会でも水道事業の予算獲得などを賞讃しているだけ。開拓使職員の分厚い履歴短冊を見せてもらって、やっと解答が出ました。
それには「明治七年四月在魯国日本公使館附属被命 同九年六月同書記二等見習拝命 同十一年九月七日帰朝 同十一年十一月十五日開拓使御用係准判任拝命月俸金六十圓被下賜 鹿児島県下 士族」(11)とあった。ロシア留学の二木は「ふたつき」であり、29歳で函館区長になったのでした。
山川の読みですがね。山川を取り上げた渡辺正雄著「日本人と近代科学 西洋への対応と課題」という岩波新書があります。北大図書館にもあります。この本は漢字で山川、振り仮名もありません。でも、この英訳本が「The Japanese and Western science」としてフィラデルフィア大出版局から出ており、東京・六本木の国際交流基金情報センターライブラリーにあるとわかったので、私は見に行きました。訳したのはオットー・ベンフィーという人で、その目次ではヤマガワになっているからですよ。でも、予め私が調べたことをメールでお知らせしておいたので、親切な司書さんが内容を読んで下さり、ヤマガワと表記した理由については何も書いていないと申し訳なさそうにいうので、私はその本の表紙だけ見て諦めました。
しかしだね、国会図書館にある本なんだが、ヤマガワとして明治18年の「羅馬字雑誌」に「中等学校に於て物理学を教授するに生徒をして定量の測定をなさしむるを要す(12)」を書き、21年の「帝国大学紀要理科」に「大理石の熱伝導率の決定(13)」を載せとる。英文のウィキペディアには「noted physicist, university president, and author of several histories of the Boshin War. Though his name is commonly written "Yamakawa," he himself wrote it as "Yamagawa" in English.(14)」とあるぐらいだから、若いときはヤマガワで通したと思われます。
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参考文献
上記(8)の出典は男爵山川先生記念会編「男爵山川先生遺稿」49ページ、昭和2年6月、故山川男爵記念会=原本、(9)はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」26ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、(10)は函館区編「函館区史」590ページ、明治44年7月、函館区=原本、(11)は開拓使編「明治10年履歴短冊1958」635人中322番、明治10年4月、道立文書館=原本、
(12)は羅馬字会編「羅馬字雑誌」1巻4号25ページ、明治18年10月、羅馬字会=館内限定近デジ本、
(13)は帝国大学編「The Journal of the College of Science, Imperial University, Japan = Teikoku Daigaku kiyo. Rika」2巻263ページ、明治22年、帝国大学、同、(14)はhttp://en.wikipedia.org
/wiki/Yamakawa
_Kenjir%C5%8D
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はい、話を戻します。そのころの定期船の様子を伝える新聞記事を読みますから聞いて下さい。○東洋航海ノ「亜米利加」飛脚舩世ニ行レシヨリ我邦人便利ヲ得ルコト少カラズ殊ニ横濱神戸ノ際乗舩ノ者最モ夥シ其舩中ノ方則上下ノ区別アリテ下等ハ諸州万客雑沓頭足相交ヘ寸隙ノ地モナク食ハ一日両度菜根ヲ供シ又上階ニハ牛羊等ヲ数多載セ臭気糞ヲ穿チ其困苦恰モ泥舩ニ乗リ雨中上下スルニ齊シ上等ハ之ニ反シ各々寝床ヲ異ニシ使奴アリテ湯茶等モ随意ニ弁シ又食ハ洋制ノ美膳ヲ供シ万事心ヲ尽シ意ヲ用ヒ上下ノ別徒ニ雲泥ノミナラズ貴客或ハ豪富ニ非ザレハ此等ニ別スルヲ得ザルヘシ」。(15)以下は省略しますが、どうです、下等船室は超満員のブタ箱的なひどい場所だったらしい。福沢諭吉は「日本にて平生肉食に馴れざる人は船に乗るとき漬物醤油其外の食物少し計用意すべし外国風の食物のみにてははじめ二三十日の間困るものなり」(16)と本に書いているのですが、山川は貧乏で洋服と靴もやっと整えたぐらいでした。
当然、洋食なんか食べたことがないので、食わないでいたら船医が飯を食べにゃいかんと勧める。それで、始めはライスカレーの米飯だけをアンズの砂糖漬けをおかずにして食べ、飢えを凌いだ(17)そうですから、やはり船医に診てもらえる上等船室に乗っていたと思われます。
ところが、このエピソードをもって山川が初めてライスカレーを食べた日本人だと書いてある本と、いやカレーは除けて飯だけ食べたのだから食べたとはいえないとする本があるんですね。それで大脱線だが、思い出話の流れから調べて見ました。資料その3(1)が原本の談話です。
「之を副食物にして米飯を食し、飢を凌ぎましたこともありました。 」という言い方からすると、1回か2回、そうやって飯を食べたけれど、毎日カレーを取り除いて食べていたわけじゃなく、これも勉強のうちと我慢して洋食に慣れるように努めたに違いない。資料3(2)は山川少年がある事情で佐渡に一時いたときイルカ汁を食べた体験談です。恐れて食はないと男が立たない―これです。まだ侍気分もあったでしょう。とにかく出された物はきれいに残さず食べなきゃ男が立たないと、奮起したはずです。
ほかの6人も、たまには米の飯が食いたいと山川と同じライスカレーを所望したことが考えられます。ですから私は初めてライスカレーを食べた日本人をいうなら、この開拓使派遣の留学生7人であり、山川はその記録者とみます。
資料その3
(1)
<略>それからして船に乗つて私が私の最も苦しんだのは食物です。その頃西洋の事を書いた本で福澤先生の「西洋旅行案内」というものがありました。それを私共は精読して行きましたが、食物には皆困るから、梅干や佃煮を持つて行くがよいといふ様な事を書いてありましたが、書生の身分であるからそんな贅澤も出来んので洋食も試みましたが、何しろ西洋の食物なんて云ふものは食べた事がない。あの變な臭ひがするのがまづ第一に困つて、船に乗つても食はないでい居ると船の醫者が飯を食べにやいかんと勸めて呉れたが、しかしどうして食ふ気になれない。それで私は始めにライスカレーを食つてみる気になつて、あの上につけるゴテ/\した物は食う気になれない。それでその時杏子の砂糖漬があつたから、之を副食物にして米飯を食し、飢を凌ぎましたこともありました。 <略>
(山川健次郎述、武蔵高等学校校友会編「山川老先生六十年前外遊の思出」7ページ、昭和6年7月、武蔵高等学校校友会=館内限定デジ本、)
(2)
<略>一體長州人は海豚を食ふことを恐れぬといふ事だが、奥平先生も長州出身でありますから、海豚を食ふ事を何とも思はない。佐渡の国の邊は美事な海豚が澤山取れる。土地の者は恐れて食はない。皆棄てゝしまふのですが、然しながら参謀様――奥平先生の事は土地の者は参謀様といつて居りました。参謀様がお好みなさうだといふので、どうせ棄てるものですからドンドン持つて来る。それをばなにがしかの金をやつて受けられるので、漁師は大悦びでした。ですから毎日の様に海豚汁を拵へて食はせられるので我々は仕方がないから食ひました。恐れて食はないといふのは、如何にも何だか男が立たんという様な考へで私も危険と知りつゝ食べました。但しそんなにうまい物ではないと、その時感じたのでありました。さういふ面白い事もあったのでありました。28ぺージ
このころ太平洋航路を走っていた客船の様子について上田恭輔という人が書いた「五十年前の渡米の追憶」が「文芸春秋」に載っています。昭和9年の文春だから50年前は明治17年ごろとなるが、後年上田が台湾総督府から陸軍通訳官に転じたとき書いた履歴書からすると、渡航は明治19年、上田は15歳で「シチー・オブ・ペキンと呼ぶ、三本マストの四千頓級の大汽船(18)」に乗った。そのころの船は冷蔵庫のほかに皆、生きた牛や羊を積んで航海していたんですね。だから下等の船室の「上階ニハ牛羊等ヲ数多載セ臭気糞ヲ穿チ」となるわけです。上田少年はその屠殺の状況をこう描写しています。読みますよ。
「船中の食物は、殆ど何もかも生物を満載してゐた。当時は缶詰すらも無かつたから、船首に往つて見ると、牛、豚、羊、鶏などが一杯居る。自分はこの時初で生きた羊を見た。 毎朝、屠殺者が大きな段平と金槌を提げて甲板に現はれ、一頭の牛の眉間に一撃を喰はすと、黄褐色の巨体がドスーンと倒れる。次に二三頭の豚と、五六頭の羊を檻から引づり出して、ポンと蹴り倒して段平で咽喉をグサツと横切りにする。瞬間にデツキは一面に血の海である。次に皮が剥がれ、内臓が所理される。この迅速なること人目に留らぬくらゐ技量は手に入つたものであつたが、かゝる惨酷なる光景をマザ/\目前に見せられた幼き日本児童には、何とも形容できぬ悲酸の感にうたれ、時々船尾に簇がる信天翁に眼を反らすこともあつたが、それでも日課の様に必ず右の光景を眺めに往つた。(19)」とね。缶詰は明治10年には作られているから、缶詰がなかったというのはちょっと違うようですが、上等の客には、こうした生きのよすぎる肉が提供されたんですな。
もう一言脱線すると、この船は南方熊楠が明治19年に乗った船なので、長谷川興藏校訂「南方熊楠日記」を見たら、船内のことは書いてあるが短くて屠殺には触れてない。少し文学部らしい補足をするとね、明治時代に2度来日したフランスの作家ピェール・ロティの作品に船員の食用に積まれた牡牛を書いた短編「屠殺場の獣肉」があります。10頭を食べてしまい、残る2頭は「色褪めて、痩せて、痛々しさうに、その皮は既に、船の横揺れで擦られて、骨の出張つたところは擦りむけ(20)」ていたと描写している。彼は海軍士官だったから航海のたびに、こうした哀れな牛を食べていたんですなあ。
いま1頭が殺されてしまい、残った1頭の頭をなでた水夫の気持ちを代弁して、ロティは「明日お前を食べようとしてゐる連中だつて、皆同じに死んで行くんだよ、ね、皆なさ、どんな強い者だつて、またどんな若い者だつてね。そしておそらくその恐ろしい時が来ると、その連中は、あれよりも、一層長く苦しんで、一層辛い思ひをするかも知れないよ。おそらくその時には、その連中は、いつそ額の真向へどさつと一打ち喰はせて貰ひたがるかも知れないよ。(21)」と書いた。私ぐらいになると、先輩後輩が次々あの世に行っちゃう。いよいよ私の番かと、この言葉が気になって仕方がない。研究的遺言という表現が許されるなら、この講義はまさにそのつもりですよ。
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参考文献
(15)の出典は北根豊監修「日本初期新聞全集」35巻203ページ、平成4年4月、ぺりかん社=原本、原紙は明治5年2月発行新聞雑誌33号、
(16)は福沢諭吉著「福沢全集巻之一」13ページ、「西洋旅案内」より、明治31年1月、時事新報社=近デジ本、
(17)は男爵山川先生記念会編「男爵山川先生遺稿」47ページ、昭和2年6月、故山川男爵記念会=原本、
資料その3(1)は学校校友会編「山川老先生六十年前外遊の思出」7ページ、昭和6年7月、武蔵高等学校校友会=館内限定デジ本、
同(2)は同28ページ。同、
(18)と(19)は文芸春秋社編「文芸春秋」12巻9号*ページ、上田恭輔「五十年前の渡米の追憶」、昭和9年9月、文芸春秋社=原本、
(20)と(21)は新潮社編「世界文学全集26 世界短編小説集」68ページ、昭和4年7月、新潮社=館内限定近デジ本、
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おっとっと。はい、帰国の方を見て下さい。Kurodaがあり、すぐ後にSemashimaという名前がありますね。ほかに日本人らしい名前がありませんので、Semashimaが少なくともサンフランシスコからのお供もしくは黒田の世話役だった人物と考えられます。黒田の前にG.が付いているのはGeneralかGovernorの略のつもりで、あちらでそう名乗っていたか、Semashimaが気を利かせて記入したかでしょう。「明治六十大臣 逸事奇談」という本に黒田が「明治初年に、何か官命を帯びて、米国に行つたことがある。隼人上の荒くれ男、英語などは、エーもビーも一向御承知ない癖に、表向きの用事でなければ、通弁を使はず、宛然唖者と同じこと、手真似や身振で用を辨してる、付添の人々、間違があつてはと、百方諫めたけれども、頑として聴き入れぬ」(22)とありますから、だれかついていないと、帰りの道中で不自由したでしょう。このSemashimaとは誰か。ジンパ学とは関係なさそうなので、私は趣味として調べてみました。
超大胆な仮説は同郷の外交官、イギリスなど3カ国の辨少使として前年赴任したばかりの鮫島尚信です。黒田の面倒見方々、黒田の唱える樺太・千島交換案の推進工作のために一時帰国した。岩崎は留守番を言いつかり、不在の間ボロを出さなかったのでご褒美がイギリス滞在と留学だった。だから岩崎は黒田・鮫島の秘密行動について一切口をつぐんだ。岩崎に対する英国滞在の命令は黒田の帰国後、1カ月以上後ですし、留学せよという命令は、さらに8カ月後なので、そこから組み立ててみた仮説ですよ。
しかし、横浜―サンフランシスコの往復だけでも最低2カ月はかかるでしょうし、その間、なにか日本に関係する外交問題が起きたら、辨少使不在は大問題になりますよね。だれか鮫島姓で海外渡航者はいなかったのかと渡辺実著「近代日本海外留学生史」を見たら、鮫島武次郎がいたんですねえ。
「開拓使はすでにふれたとおり明治四年黒田次官の洋行にあたり、山川健次郎以下三名を伴い米国に留学させている。明治五年一月に開拓使留学生として二名を、二月には税所長八、鮫島武次郎・芝山矢八など十七名を米・仏・露に派遣して農・工・鉱山等を勉学させている。(23) 」とあった。これはいい線だと、すぐ日置昌一著「「日本歴史人名辞典」をみたらですよ、武次郎でなくて正しくは武之助であり「明治6(1873)年に鉱山学を専攻して慶應義塾を卒業し、開拓使留学生となってアメリカで同分野を研究して帰り(24)」となってました。
慶応義塾で鉱山学なんて本当に教えていたのかと検索したら、明治41年に出た「慶應義塾総覧」が見つかり、その第1条は「本大学部ハ政治学、理財学、法律学、文学ニ関スル学術ヲ教授シ及蘊奥ヲ考究スルヲ以テ目的トス(25)」で、非理工系の学問ばっかりです。さらに「安政五年本塾創立ヨリ明治六年ニ至ルマデ未ダ卒業ノ制ナシト雖モ其在学年限学力其他ノ廉ニヨリ卒業生ト同スベキ者」として158人の名前があり、その中に鮫島武之助(26)がありました。
このリストでは何年終了かわかりませんが、いつであったとしても、武之助ら17人が出発したのは黒田が帰国してから1年後の明治5年2月であり、タイムマシンでもなきゃ武之助の黒田の付き添いは不可能だ、弱りましたねえ。
ところがですよ、アジア歴史資料センターを検索したら、意外な資料が出てきたのです。資料その4(1)がそれで、外国行きOKのお墨付きを得た武之助は明治3年中にフランスに渡ったか、渡ろうとしたらしい。また同(2)はちょうどそのころ兄の尚信に出た欧州3国担当の外交官の辞令です。武之助はそれを見込んでフランス留学を望んだとも考えられなくもない。
それでね、船客名簿で鮫島武之助の出発を調べたら、やっぱり兄貴の渡航赴任にくっついてったんですなあ。同(3)が「The Japan Weekly Mail」で見つけた船客名簿です。1870年12月3日、明治3年閏10月11日マルセーユに向け出航したボルガ号に鮫島少弁務使一行が乗ってます。 Sameshimaの次のThiodaは塩田権少丞、次のGotoが後藤権大録ですね。 それから2人置いてTakenosukeがありますね。鮫島を名乗ると船員が尚信と混同するかも知れないと武之助で通したと考えます。
黒田の洋行を加え陽暦に直してみると@明治3年11月24日に武之助の留学許可が出たA同3年12月3日に武之助が横浜から出発B翌4年2月22日に黒田が出発C5カ月後の7月24日に黒田帰国、約半年滞欧して武之助は一緒に帰国D翌5年武之助ら留学生一行が渡米―という順序になる。武之助はパリあたりで視察中の黒田に出会ったんでしょう。黒田は郷党の大先輩で、お前が鉱山学を勉強するなら我が開拓使派遣で出直す方がよい。兄貴も助かると鹿児島弁で勧めたでしょうね。
繰り返しになるが、このとき黒田がヨーロッパも回ったかどうかを調べた井黒は「明治4年の洋行事情は黒田の筆不精、あるいは随行に人を得なかつたためか、惜しくも詳細は判つていない。逢坂信■<吾の下に心を書く字>の『黒田清隆とホーレス・ケプロン』(昭37)では、出張命令には欧州もあるが、渡欧しないと繰返し否定する。しかし黒田は履歴書など数か所で渡欧したと述べ、また河島醇(のちの北海道長官)の談では、彼のベルリン滞在中に黒田が来たことを述べている(明43.伊東正三メモ、『札幌区史』著者)これだけでは証拠不充分であるが、渡欧否定のできないこともたしかである。当事欧州に滞在した人もすくなくないからそうした人々の記録の中から、さらに有力な史料が出てきそうである。(27)」と書いています。
ともあれ武之助は黒田に従っていったん帰国した。それでGクロダの後ろにサメシマという名前があると説明できる。私はこの見方でいいと思うが、納得できない人はレポートに書いて出しなさい。ふっふっふ。
資料その3
(1)
三年閏十月二日
外務省・通牒弁官
鹿児島藩士
鮫島武之助
自費ヲ以仏国遊学
右藩士願之通聞届相成候間為心得此段申入候也 願書欠
(2)
三年九月十三日
鮫島少弁務使英仏及独逸ヘ差遣塩田権大記等ヲ隨行セ
シム
鮫島外務大丞 塩田外務権少丞ヘ達
御用有之欧羅巴洲ヘ被差遣候事 誌
鮫島少弁務使ヘ委任状
英吉利仏蘭西独逸北部聯邦ヘ被差遣候ニ付テハ其
国々交際ノ事務及留学生等管轄委任被仰付候事
三年閏十月二日
(3)
PASSENGERS.
Per P.M.S.S.Japan, for San Francisco-- Col. E. Rice, V. Blank,
C.A.Gihon, A. Mees, Lieut. Anthony, J. H. Murray, s. P. Wipple,
J. C. Sedenberg,J. Rosenfelt, Mrs. Sherwood, P. A. Dithfelsen, 2
Japanese, and 3 Chinese in Steerage.
Per Ariel for Hakodate, despatched 26th instant: Mr. Sette,
13 Japanese and 52 in steerage.
Per Volga, despatched 27th inatant: For Hongkong-- Mr.C.
Betrand snd servant. For Saigon--Messrs. E. Jamaux, J. Dauban,
A.. Mingaud. For Marseilles--Mr. A. Lapeyre, T. E. Sameshima,
Thioda, Goto, Yoskie, Tanerio, Yamada, Takenosuke, Kino, Buland, Kashissamoura, Osaka, Founacchina, Isohimaron, Bekki, Namonra,
Maeda, Thorie, Narasaki, Oganni, Mori, Mouracami and Naudzi. Per P. &
O. Str. Bomby, from Hongkong, arrived 28 instant:-- Messrs Seyd. Becker,
FesenFeld, Hume, Kuhl and Mrs. Wilson. Per New York, for Hiogo.--Messrs.
E. Sackerman, C. Iverson, G. Reddelien, J. Bush, Miss S. Blass, H.E. Moring,
21 Japanese 1 European and 1 Japnese in the steerage. For Nagasaki.--1
Jpanese Officer, 1 Eropean and 58 Japanese in the steerage. For Shanghai.--
Messrs. A. Warrick, C. B. Winn, J. F Cordes, H. Francke, N. Garenee, Gen.
R. W. Kirkham Daughter and son, 4 Chinese and 1 Japanese in the steerage.
Per Oregonian, from Shanghai.--Mrs. Burditt, Messrs. Butzow, Buckheister,
Malin, Coignet and servant, J. M. Norham, E. W. sherwood, Rhodes, Miller,
Black, Starkwell, Dunlop, Humphries, Vianello, 8 Japanese Officers, and
128 Japanese in the steerage.
Dec. 3, 1870.] THE JAPAN WEEKLY MAIL 585
これだけでも黒田がケプロンらを携えて帰朝したという説は破棄できますが、念のためにケプロン側からも確かめてみます。それが資料その5です。パッセンジャーにゼネラル・ケプロン以下4人の名前がありますね。これではっきりと黒田とケプロンは別々の船だったと立証されました。
これはツイてましたね。というのは、この後から「ジャパンウイークリー」の船客名簿は徐々に圧縮され、不親切になっていくからです。末尾に下等船室の人数が記されていますが、留学生がこんな風に一括されなかったのは黒田の厚遇ゆえとみていいでしょう。なにしろ黒田はこの旅行の途中、サンフランシスコでホームレスみたいな生活をしていた日本人の元遭難船員4人と元領事使用人だった女性を助けて帰国させ、船員を救ったアメリカ定期船の船長にお礼をした(28)と「履歴書案」にあります。これはアメリカ人ながらサンフランシスコ駐在の日本領事を務めたブルークスの連絡文書にも残っています。このブルークスもしくはブルックスという名前は、日本への緬羊輸出にも関係して出てきます。また、黒田は遭難船員を救った定期船が、奇しくも自分が乗った「チャイナ」で同じ船長だったと知っていたかどうかまでは記録にありません。
資料その5
ARRIVALS
Aug. 23, America, Am. Str , Warsaw, 4,450, from San Francisco,
Mails and Genenel, to P. M. S. S. Company.
PASSENGERS
Per America, from San Francisco : For Yokohama Dr. Chas,
L. Mueller, Wife and Servant. Dr. T. H. Hoffman and Wife, Geo.
Treffts, Win. Rowbotham, U.S.N., Henry Busch, Wm. F. Smith,
U.S N., F. G. McKean, U.S.N., Dr. R. F. Hayes and Son, Mrs. C.
M. B. Hussy, and 3 Children J. R. Wasson, U.S A., Martin Doh-
men, J. Stoffel, D. M. Fulmer U. S. N., L. Inselvini, A. Begnotte,
C. Brisciani, Gen. Horace Capron, Major A. G. Warfield Jr., Prof.
Thomas Antisell, Prof. Stuart Eldiridge, A. J. Bauduin, M. Dames,
Jas. Davison, F. Schoene, Richard H. Poillion U. S. A., W. R. Hong,
U.S.A., H. H. C. Dunwoodv, U.S.A., Capt. L. L. Janes and Wife.
Mrs. Jno S. Corning, Miss Davis, Mrs. J. Almand. For Shanghai
−J. G. Glazier, Jas. H. Jones, E. C. Strobell and Servant., Edward
Dellt, R. A. Mownt and Wife, Fred. F. Jones, F. L. Stockwell. For
Hongkong−St. John Hutchinson, Thomas W. Stephens, Ernest
Stephens, W. W. Battles, Hon. Samuell McClellan, A. A. Linel and
Wife, Rev. J. W. Johonson and Wife, 10 Europeans and 227 Chinese
in the Steerage.
REPORTS
P. M. S. S. Co's Steamer America, E. R. Warsaw Commander.
sailed from San Francisco August 1st 1871. August 7th communi-
cated with Company's Steamer Japan, homeward bound, Lat. 86 deg.
40 N., Long. 149 deg. W. Had fine weather the entire voyage,
until 200 miles of Yokohamna, thence encountered strong easterly
gales and rainy weather. Arrived at Yokohama Aug 23rd 6.30 P M.
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参考文献
(22)は黒田偶得著「明治六十大臣 逸事奇談」77ページ、明治34年12月、大学館=近デジ本、
(23)は渡辺実著「近代日本海外留学生史」上巻352ページ、昭和52年9月、講談社=原本、
(24)は日置昌一著「日本歴史人名辞典」445ページ、昭和13年12月、改造社=原本、
資料その4(1)はJACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070931200、鹿児島藩鮫島武之助仏国ヘ遊学ヲ許ス/太政類典・第一編・慶応三年〜明治四年・第百二十巻・学制・生徒第二・太00120100(所蔵館:国立公文書館)
同(2)は同Ref.A15070471300、鮫島少弁務使英仏及独逸ヘ差遣塩田権大記等ヲ隨行セシム/太政類典・第一編・慶応三年〜明治四年・第六十巻・外国交際・内地旅行附不開港場回航・太00060100(所蔵館:国立公文書館)
同(3)は北根豊監修「日本初期新聞全集」3*巻585ページ、平成1*年*月、ぺりかん社=原本、原紙は The Japan Weekly
mail,Dec.3,1870、
(25)は慶應義塾編「慶應義塾総覧」21ページ、明治41年11月、慶應義塾=国会図書館インターネット本、
(26)は同154ページ、同、
(27)は北海道地方史研究会編「北海道地方史研究」47号40ページ、井黒彌太郎「黒田清隆に関する十の疑問」より、昭和38年12月、北海道地方史研究会=館内限定デジ本
(28)は黒田清隆著「黒田清隆履歴書案 自元治甲子至明治9年」全99ページに番号なし、複写年次不明=「黒田伯爵家文書一」と注ある北海道立図書館所蔵の写本、
資料その5の出典は北根豊監修「日本初期新聞全集」31巻476ページ、平成11年6月、ぺりかん社=原本、原紙は The Japan Weekly mail,Aug.26,1871
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ケプロンは明治8年に帰国し、翌年の9年5月6日、ワシントンの哲学会で「ジャパン」を講演しました。そのときに横浜港内で台風に遭い乗っている「アメリカ」が漂流するロシアの軍艦「バロッサ」がぶつかりそうになり、肝を冷やした(29)と語ったそうですし、西島さんの「蝦夷と江戸」にもその恐怖を書いています。ただ、ケプロンはアメリカにいたときの儘書き続けたためと思われますが、日誌の日付が1日早く日本時間23日朝入港だったのに22日、台風遭遇は23日になっています。
この日付の違いを調べようと8月26日発行の「ジャパンウィークリーメール」を見たら、24日の台風の動きと被害を報道していました。特に24日午前4時から11時まで15分から30分刻みの風向、風力、気圧変化の記録と台風の目通過と思われる解説まで載っていたのには驚きました。停泊中の外国蒸気船は16隻、同帆船は21隻、外国軍艦8隻で「バロッサ」は英国艦、大砲17門を持つ1800トンの商船護衛艦、艦長はムーア(30)だったとまでわかるのです。それから「蝦夷と江戸」では「英国の巨船バロッサ号(31)」とありますので、ロシアとしたのは講演速記かタイプのミスなんでしょうが、お役所の布告とうわさ話ばっかりみたいな明治初期の邦字紙と比べると、新聞においても、ちょうど人間が走る飛脚便と定期船の郵便物交換ぐらいの実力差があったと認めざるを得ません。
また、洋上の郵便物交換はアメリカ人のケプロンもびっくりだったようで「蝦夷と江戸」の8月7日分に「出港七日目の今日、長い航海の単調さは、サンフランシスコへ向かう一隻の太平洋郵船の汽船との出会いで破られた。この船のお陰で、友人に手紙を出すことができる。これは五千マイルを超える長い航海で出会う、最初で最後の船かもしれない。(32)」と記しているくらいです。ジンパ学でこんなことまで聞くとは思わなかったでしょう、諸君は。
さっそく資料その6で、ひとつブルークス領事からの連絡文書を見てもらいましょう。
資料その6
明治4年7月 外務省日誌13号(7月1〜13日)
○米国在留日本領事ノ来翰 返翰在八月三日
先便御差送ノ御状慥ニ致落手候陳ハ森鮫島両氏宛ノ紙包早速夫々差立申候且細川氏其他当港ヘ滞在頻リニ勉強被致候柳谷氏運上所ノ事務研究ノタメ日々運上所ヘ出仕被致拙者同人ヘ善キ教師世話致候岩山六角ノ両人当地ニテ語学并農学牧畜学修業中ニ有之候(以下一部省略)
黒田氏被雇入候「ゼ子ラール」ホーレスケプロン鉄道建築方「メジヨル」エ、シ、ワルフォールト舎密地質学者トーマス、アンチセル及ヒ医師兼書史スチュアト、エルトリッチ氏一同出帆致シ候右ノ人々ハ各其本業ニ可堪モノニシテ人撰甚タ行届候儀ト被存候「ゼ子ラール」ケプロンハ米国ニテ衆人大ニ尊敬致シ候人ニ有之候黒田氏ノ頼ミニ因リ物件買入代并出費ハ拙者ヨリ繰替洋銀七千五百三十二枚神奈川県知事ニ為替致置候間右為替差出次第知事ヨリ被払候様致度存候
且当領事館ノタメ向後横濱ニテ出板ノ新聞紙御取入御差送被下候様致シ度此段相願候右可得意如此御座候以上
千八百七十一年第八月一日
大日本領事
チャルレス、ウォルコット、ブルークス
外務卿閣下
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参考文献
上記(29)の出典はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ホーレス・ケプロン自伝」218ページ、平成元年5月、北海道出版企画センター=原本、
(30)は北根豊監修「日本初期新聞全集」31巻476ページ、平成11年6月、ぺりかん社=原本、原紙は The Japan Weekly mail,Aug.26,1871
資料その6は同486ページ、同、原紙は外務省日誌13号
(31)はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「蝦夷と江戸 ケプロン日誌」31ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、
(32)は同26ページ、同
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私にいわせると、このブルークス氏は実に筆まめな御仁で、在米留学生の動静などを詳しく報告しています。しかし「外務省日誌」には、黒田のサンフランシスコ経由のことはほとんどないことからみて、その一部しか公表されていないのではないかと思うのです。まあ、それはそれとして、ここで初めて細川氏と岩山六角なる3人の名前が登場します。岩山六角は「当地ニテ語学并農学牧畜学修業中ニ有之」とありますから、当然羊と関わりありと思うでしょうが、実は細川氏も関わっていたんです。私は特にケプロンと細川との関係を紹介したいのです。私は日本の緬羊導入の歴史を調べていて、ケプロンが明治政府による初めての緬羊導入に関係していた事実を知ったのです。それでまた、ケプロンと黒田の動きを念入りに調べてみたというわけなんです。しかし、ここはまず、ペンディングにした岩崎さんがなぜ黒田と一緒に帰国しなかったのかを調べて見つけた面白い結果を紹介しましょう。
まず黒田が海外出張を命じれたときの命令書から見ていきましょうかね。資料その7(1)は「日本初期新聞全集」の「太政官日誌」に載っています。(2)からの一連の文書は国立公文書館が運営するアジア歴史資料センターを検索した見つけた「黒田次官意見封事並同人外一名洋行御達」に含まれている出張関係の文書です。この一部は「黒田清隆履歴案」にも入っていますが、御雇い教師は2人、農機具はアメリカで買うと初めから決めていた黒田構想がうかがえます。
資料その7
(1)
明治3年11月 太政官日誌55号(11月15〜18日)
御沙汰書写
黒田開拓次官
御用有之欧羅巴并支那ヘ被差遣候事
(2)
黒田開拓次官
御用有之欧羅巴并支那ヘ被差遣候事
庚午十一月十七日 太政官
辛未正月四日出艦同年六月帰朝セリ
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黒田開拓次官
御用有之欧羅巴洲ヘ被差遣候間兼テ御規則ノ旅費御手當等御渡シ可有之候此段及御達候也
庚午十一月十七日
−−−−−−−−−−
黒田開拓次官
御用有之欧羅巴洲ヘ被差遣候段御達有之候處右ハ滞留日積等如何被仰付候儀ニ候哉旅費御
手當等仕出シ差合候ニ付此段相伺候也
庚午十一月十七日 大蔵省
辯官御中
{往返一箇年ノ見積候間其見込ニテ御渡シ可有之候也}
十一月十七日
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来年春夏ノ間北海道巡見トシテ大臣大納言ノ内出張大綱御決定可被仰出事
但細目ノ處ハ次官帰 朝ノ上実地検分御決定ノ事
一大臣納言巡見相済候迄ハ是迄ノ通長官ヘ御委任ノ事
一開墾ニ長シ候外国人雇入ノ儀次官ヘ御委任ノ事
一次官出張外国人雇入実地検知ノ上屹度見込相立候ハゝ定額費ノ外増方可被仰出事
一開墾器械ハ米国ヘ注文可相成事
一開墾有用ノ生徒同行被仰付候間人撰可申出事
庚午十一月 実美花押
右十一月廿九日大臣ヨリ黒田次官ヘ御口達覚
−−−−−−−−−−
一工作ニ處長ノ者一人
一農業ニ處長ノ者一人
右両人御雇一切ノ入費歳額ノ内ニハ見込無御坐候事
一欧羅巴徑歴ニ付御當地ニ通辯ニ長シタル者 無御坐被差出候生徒ノ内ヨリ某国々ニテ一人ツゝ通辯トシテ召列レ候様御沙汰有之度事
一私欧羅巴等被差遣候ニ付テハ実ニ国家ノ大事件ト愚考仕候間政府ヨリ一人同行被仰付御遺算無之様有御坐度事
庚午十二月二日 黒田清隆
辯官御中
−−−−−−−−−−
十二月五日達
岩崎権少史
御用有之黒田開拓次官同伴欧羅巴并支那行申付候事
十二月
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鮫島少辯務使
今般黒田開拓次官御用有之欧洲各国ヘ被差遣候ニ付テハ通辯一人可被差添處至當ノ者モ無之候間其國ニ留学生ノ内ヨリ人撰一時御用申付同人ノ指揮ヲ受候様可相達候事
庚午十二月 太政官
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森少辯務使
今般黒田開拓次官御用有之欧洲各国ヘ被差遣候ニ付テハ通辯一人可被差添處至當ノ者モ無之候間其國ニ留学生ノ内ヨリ人撰一時御用申付同人ノ指揮ヲ受候様可相達候事
庚午十二月 太政官
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岩崎権少史
御用有之欧羅巴洲ヘ被差遣候間兼テ御規則ノ旅費御手當等御渡可有之候此段及御達候也
庚午十二月五日 辯官
大蔵省御中
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私儀今般御用有之欧羅巴ヘ被差遣候ニ付テハ開拓ニ長シ候外国人相雇候儀兼テ御委任被仰付候ニ付工業学農業学熟達ノ者相撰両人雇入申度且又開拓器械米国ニテ買入候儀モ御委任相成候ニ付右外国人雇入御手當并器械買入料御渡相成候様大蔵省ヘ御達被下度此段相願候也
庚午十二月十八日 黒田開拓次官
辯官御中
{願ノ趣両条共辯務史ヘ打合可取計事}
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参考文献
上記資料その7(1)の出典は北根豊監修「日本初期新聞全集」第29巻411ページ、「太政官日誌」明治3年55号、平成11年6月、ぺりかん社=原本、同(2)はJACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01100
004500(第24画像目から)、黒田次官意見封事並同人外一名洋行御達/公文録・明治三年・第百十一巻・庚午〜辛未・樺太開拓使伺(国立公文書館)
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わかりましたね、黒田のお供は岩崎権少史という人でした。権少史はゴンショウシと読み、名前でなくて職場の階級です。井黒さんをはじめ私が目を通した黒田本では、お供がいたなんて一言も書いてなかったので職員録で名前を探しました。ところが明治政府は出来たてホヤホヤで、省庁、階級の改変が矢継ぎ早に行われたうえに、従何位藤原朝臣何某などという「なのり名」を使ってみたり、改名したり今みたいな姓名の書き方になったりする。ですから海外渡航者を調べた「幕末明治海外渡航者総覧」で黒田に随行した岩崎権少史は岩崎小二郎または小次郎(33)と書く人物ですから、その岩崎姓から「明治初期の官員録・職員録」で捜すと、明治3年6月の職員録では民部省大録兼大蔵大録源保直、同省土木司の少令史無位源朝臣信汎、集議院大主典従六位行源朝臣致行、開拓使少主典で真っ黒に塗りつぶされた人物、三陸磐城両羽按察使大主典藤原道行(34)の4人が載っています。いまいった源だの藤原といった遠いご先祖の氏名の下に小さく岩崎と記されているので、わかるのです。塗りつぶされた岩崎は、出版間際に間違いとわかったために抹消されたらしく、ほかの3人のどれかと同じという可能性があります。また、権少史という階級名は神祇官と太政官にしかなく、開拓使にはないポストなのです。「総覧」では渡航時の所属機関は開拓使としていますが、ないはずの権少史でしたから、渡航を命じられてから形だけそのどちらに転任し、権少史に格上げされたのでしょう。
明治4年末に出た「諸官省官員録」の岩崎姓は、神祇省中録の岩崎保直、民部省鉄道寮少属の岩崎政由、宮内省内舎人の岩崎致行、同権内舎人の岩崎為成、兵部省七等出仕の岩崎之紀、同十五等出仕の岩崎俊安、陸軍大尉の岩崎長明(35)の7人です。新登場の為成と岩崎大尉以下と之紀、俊安の兵隊筋の4人は除外し、保直、致行の2人は転勤者、政由は土木、鉄道ときた技術屋らしいので前名は信汎か。とすると、不在者は塗りつぶしと道行の2人。既に道行イコール小次郎とわかってますが、その経緯は後回しにします。
「総覧」によれば小次郎は儒学を修めた人であり、外国語ができるからお供をいいつかったとも思えませんが、この岩崎が黒田がケプロンに連れられて女子教育の視察で何学校にいったぐらい書き残してくれればありがたかったんですがねえ。
また岩崎は「明治過去帳」「日本人名事典」「幕末明治海外渡航者総覧」に載っており没年はありますが、いずれも生年がないのです。大蔵省銀行局長から秋田と滋賀と大分の3県の知事を務めた人が、いくつで死んだかわからずじまいになっています。ついでですから探してみましたら明治7年11月に大蔵省職員として岩崎ら4人が清国へ出張するとき、28歳10カ月と書いた渡航申請の書類(36)がアジア歴史資料センターにありました。逆算しますと弘化3年、1874年生まれとなり、亡くなったのが明治28年、1895年でしたから49歳のはずです。まさに人生50年。まだ写真がなかったので人相書きを代わりにして岩崎は「丈高キ方、顔圓キ方、色黄ナル方」だけで、ほか3人に付いている「耳目鼻口 常体(36)」という説明がない。どうやら岩崎君の耳か目か並でない造作だったらしい。はっはっは。
さらに探したら「地方長官人物評」という本に岩崎大分県知事は「氏弘化三年正月を以て肥前彼杵郡下嶽村に生る」(37)とあり、私の計算とぴったりなので安心しました。岩崎は明治10年も上海に行き、東京日日新聞に「○大蔵少書記官岩崎小次郎君ハ去る廿六日出帆の飛脚船にて支那上海へ行かれたる由(38)」と出ています。
かなり史学にずれていますが、もう少し続きがあるのです。岩崎は出張後「御用有之英国滞在申付候事 但御用済次第速ニ帰国可致事」(39)という命令を受けます。これは明治4年の「太政官日誌」46号に載っていますが、岩崎はこれでイギリスにとどまり、黒田と一緒に帰国しませんでした。一方、幕末から明治に掛けて先進国に学ぶべしと公費自費で渡航する留学生が増えましてね。それで政府は明治4年9月に一斉調査をしたのです。当然、岩崎は英国にいましたから「文物調査」をしている官費留学の岩崎権少史として記録(40)されました。それはそれで正しいのですが、後の世の人が困りました。私だけでなくね、富田仁編「海を越えた日本人名事典」では、生年は?の「岩崎 小二郎」の項に続いて「岩崎 権少史 いわさき・ごんのしょうし 生没年不明。明治4(1871)年9月以前に大助教の身分で官費によりイギリスへ留学。その後の消息は不明。」(41)という幽霊留学生を作らせることになってしまったのですからね。トリビアル過ぎましたかな、ふっふっふ。
それからね、さっきいった藤原道行イコール岩崎小次郎の件。「日本初期新聞全集」のこの「太政官日誌46号」のページを何回も見ているのに、残留命令を受けた役人の名前が「権少史 岩崎道行」となっているのに最近まで気づかなかった。それでね、もしやと「地方長官人物評」を読み直したら、続きにあったんだなあ。明治ね「三年十二月黒田開拓次官欧州并に支那差遣に付同伴申付らる、四年七月御用有之英国滞在申付らる、六年英国留学申付らる、七年大蔵省七等出仕に補す、(37)」とね。明治8年3月の「勅奏官職員録」は小二郎で7等出仕だから間違いない。麻雀などで「慌てる乞食は貰いが少ない」というが、情報収集を急ぐ余り視野狭窄に陥っちゃいかん、慌てずにその前後も調べるべきだと反省しましたね。
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参考文献
上記(33)の出典は手塚晃、 国立教育会館編集「幕末明治海外渡航者総覧」第1巻138ページ、平成4年3月、柏書房=原本、
(34)は寺岡寿一編「明治初期の官員録・職員録」第1巻265ページ、昭和51年5月、寺岡書洞=原本、
(35)は「袖珍官員録 明治四年十一月廿八日改」、明治4年12月、編集発行人不明、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054276600、職員録・明治四年十二月・諸官省官員録(袖珍)改(国立公文書館)、
(36)はJACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03030325800、「外務省ヘ河北俊弼外四名馬尼剌行ニ付航海公証渡方并通弁随行云々往復/単行書・処蕃始末・甲戌十一月之二・第七十二冊(国立公文書館)、明治7年11月、蕃地事務局、
(37)は大岡力著「地方長官人物評」172ページ、明治25年10月、長島為一郎=近デジ本、
(38)は明治10年1月31日付東京日日新聞2面=マイクロフィルム、
(39)はは北根豊監修「日本初期新聞全集」31巻511ページ、平成11年6月、ぺりかん社=原本、原紙は太政官日誌明治4年46号、
(40)は下村冨士男著「明治初年条約改正史の研究」141ページ、昭和37年1月、吉川弘文館=原本、
(41)は富田仁編「海を越えた日本人名事典」117ページ、昭和60年12月、日外アソシエーツ=原本
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さて、今回のテーマである明治4年の太政官日誌なんですが、未年だからではなかったとは思いますがね、1月20日付で牧畜の民部省移管の御沙汰が載っています。また民部省日誌に正月14日付で岩山壮八郎と三隅市助という民部省官員2人に対する海外留学の辞令が出ています。それが資料その8です。珍しいことに、なぜ岩山たちを派遣するかという理由説明のように、岩山が明治3年に政府に提言した建白書の要旨が付け加えられています。蚕より羊が役に立つこと明らかだ。こんなに自然に恵まれた國で羊が育たぬはずかないといっていますね。「牧畜雑誌」にあった「岩山敬義君詳伝」のコピーを用意していますので紹介しましょう。原文にはないけれど皆さんが聞いてわかるよう、濁点と句読点があるように読みます。
「顧みれば維新創業の際、百事多端、政府は農事を奨励するの方向を採らず因習の久しき農民は徒に旧慣を墨守して毫も改良の策を講ぜず。上下斯の如くにして十数年を経過せば、国富益々減耗し終に欧米諸国と対峙能ざるに至らん。茲に至て君が愛国の情は袖手傍観空しく沈黙するに忍びず、敢て脳裡に鬱結せる意見を認め、時の大木民部大輔(今の枢密院議長大木喬任君)に建言せしに、大木君は君が建言を通読して大に感じ、此人空しく槽櫪の間に鈍馬と共に起臥せしむべきに非ずと、乃ち君を一介の書生より起し農事視察として米国へ派遣する旨を命令せり」(42)。
大抜擢だったんです。それらこたえるべく岩山は理論だけでなく牧場にも住み込んで実習し、英国農業も視察した。帰国後は下総牧場を開くなど畜産振興に努め、さらに宮崎県知事になりました。
この岩山提案は「牧羊の」となっていますね。古の下に又を書いた「」はUNICODEにもない漢字です。現代漢語例解辞典では部は「また」部になのに本見出し漢字は「はねぼう」部の「争」になっているので、私は外国に負けず羊を増やす競争という意味に取っていたのですが、ほかの命令などで「〜する」という用例を見つけ、争に置換するとおかしいことに気づきました。異体字解読字典で調べたら「事」の字であり、これなら命令でも「〜すること」でぴったりです。辞典も頭から信用できないんですね。卒論で明治の文書を扱うときは、こうした異体字が出てきますよ。倍蓰は「ばいし」と読み、何倍もという意味です。それからですね、岩山さんのいう毛布は、寝る毛布でなくて、広い意味の毛織物を指しています。輸出入額の始まりの凢はボンまたはハンと読み、凡と同じ意味で使われていました。
資料その6のブルークス報告の「岩山六角ノ両人」とは、渡米半年後のこの2人のことで、六角は三隅のmisumiをmusumiと読み違えるかして、苦し紛れに音で六角という姓に訳したものと思われます。この三隅は病気のため間もなく帰国するのですが、岩山は畜産学の勉強を続けて帰国、下総の緬羊牧場経営で活躍します。それでケプロン発注の羊9頭輸入の方が先なんですが、我が国の緬羊史では岩山が緬羊輸入の開祖とするものが少なくありません。その一例が大林雄也著「大日本産業事跡」です。農事取り調べ、御沙汰に続くのが「産業事跡」のから引用、その次は田中芳男の「羊の話」の引用です。
資料その8
(1)太政官日誌第3号
○二十日庚戌
御沙汰書写
○ 民部省
牧畜之儀ハ元来其省所管之事務ニ有之候處先般大蔵省合併中ヨリ通商司取扱ニ相成居候得共自今ハ其省於テ取扱可申付テハ牧牛馬并牧場等之書類及官員共大蔵省ヨリ受取可申事
但牛、馬売買渡世之者鑑札冥加金等之儀ハ是迄之通大蔵省ニ於テ取扱候事
(2)明治4年民部省日誌第一号 自正月至二月
十四日
○鹿児島藩士族岩山壮八郎山口藩士族三隅市助民部省出仕申付農事取調トシテ三年ノ間米利堅國ニ遣サル
昨年九月岩山壮八郎牧羊ノヲ建白ス其畧ニ云國ヲ冨スハ物産ヲ蕃殖スルヲ以テ先務トスヘシ我國蚕葉ノ業盛ナリト雖トモ之ヲ牧羊ノ利ニ比スレハ其及ハサルコト甚遠シトス其証ハ左ニ挙ル如ク己巳ノ歳諸港ニ於テ貿易スル所ノ毛布之ヲ蚕絲ニ比スレハ其数タゝ倍蓰ノミナラス是上縉紳ノ士ヨリ下庶民ニ至ルマテ毛布ヲ用ヒサル者ナク且海陸ノ軍制ヲ改定セラレシヨリ兵士公褻皆之ヲ服用スルニ依ル方今斯ノ如ク必需ノ物之ヲ洋商ノ輸入ニ仰キ巨萬ノ利ヲ海外ニ棄ルハ吾國ノ至計ニ非ス夫皇國の水土万國ニ冠絶シ草木ノ蕃茂此ノ如盛美ニシテ牧羊ノ道開ケサルノ理ナシ就テハ牧羊ノ一課ヲ初メトシ動植ノ学ヲ講究シ其術ニ修熟セハ終ニ将来莫大ノ利ヲ起シ國家冨強ノ稗益タルヘシト云云
己巳年各港輸入毛織物代銀総計
凢二百拾六万千四百弗
同輸出蚕絲代銀総計
凢五拾七万四千七百二拾九弗
(3)十一 本邦種牛、馬、羊、豚維新後舶来の事
本邦に種牛馬等を輸入せしことの久遠なることはさきに叙述せしが、実に繁殖を謀るの目的を以て種畜を海外より輸入せしは明治維新後にありとす。今ここにこれを記さんに、始めて泰西産の種牛、羊を本邦に輸入せしは去る明治六年八月岩山直樹氏(のちに敬義と称す、さきの農務局長たり、農事取調委員として米国その他に派遣せらる)が純粋短角牛種牝牡三頭「スパニイシュ、メリノオ」羊、「シレミヤン、メリノォ」羊、「ソルブシルダォン」羊と他牝牡四十頭を英米より牽て帰朝せしを創始とす。これらの種畜は初め旧勧農寮所轄東京内藤新宿試験場において飼養せしが、その後下総牧羊場を開かるるにおよび、羊をこれに移し、香取種畜揚を設けらるるに至りて牛をこれに移したり。また馬は明治八年八月洋種乗用、農用および貨箪用の良馬購求のため旧勧業寮より吏員を米国に派遣せられ、牽誘せしに起源す。
(4)去る十九年東京府下に、乳牛共進会を設くるに尽力せし加藤懋氏は、牧畜事業に熱心の余り、我邦の牧羊事業并に毛織物の事蹟を探究せらるゝにより、余も屡其事に就きて尽力したり、又其頃生存せる旧幕府の役員たる人等に就きて質問をもなし、遂に日本牧羊考と云ふ書を撰みしが、完備に至らずして米國に渡航せるにより、右稿本は大日本農會へ寄贈せり、同氏は其後帰朝したるも、再び校定するの暇なく、物故するを以て、未だ世に公にするに至らざるは遺滅のことなり、
右稿に就きて旧幕時代にありし種々の事蹟を挙ぐる時は、事頗る多けれども、今日は省きて述べず、
而して維新以後の事を述べんに、外國貿易の次第に開くるに從ひ、毛織物の必用を感じ、明治五年頃より、漸次東京地方及北海道の地に羊を試養し、明治八年に、下総國に牧羊場を起し、米國人を雇ひ、生徒を養成し、同九年に、羅紗製造所の創設に着手し、十二年九月千住製絨研の開業式あるに至れれり、而して牧羊場も種畜場と改まり、牛馬羊改良模範場となし、又其幾分を割りて払下げをなしたりし、
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参考文献
上記(42)の出典は牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」第31号5ページ、「岩山敬義君詳伝」(承前)、明治24年2月、牧畜雑誌社=原本、
資料その8(1)は北根豊監修「日本初期新聞全集」第31巻511ページ、「太政官日誌」明治4年46号、平成11年6月、ぺりかん社=原本、同(2)同第30巻426ページ、「民部省日誌」1号、同、同(3)は大林雄也著「大日本産業事遺蹟1」208ページ、昭和62年8月、平凡社=原本、同(4)は東京学士会院雑誌第15編の8(復刻版)401ページ、田中芳男「羊の話」、昭和52年9月、鳳出版=原本
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我が小谷武治先生の「羊と山羊」は、田中芳男の明治26年の講演「羊の話」を古い史実の参考にしたらしく、参考文献のトップに挙げています。そして「明治年間の事項は吾人の記憶に新なれば特に之を記するの要甚だ少しと雖も試みに之を列挙すれば、明治五年五月十七日大蔵省に於て在米勧農助由良守応等より送致せる綿羊を仮りに雉子橋外の邸内に飼養す。(御入用筋廻議綴込)」(43)と、明治5年から始めています。この出所は3冊組みの「大日本農史」の「近世」で原文通り書いてあります。その前の明治4年のところに「同年四月三日本年米国桑港ニ工業博覧会アルヲ以テ出品セントスル者ハ随意申請セシム尋デ民部権少丞細川潤次郎ヲ遣ハシ該會ニ臨ミ且ツ該國東部ノ農事博覧会ヲ歴観セシム 布告全書新國記行等」(44)とあるのですが、緬羊はうんぬんしていません。
細川メリノーに気付いた小谷さんは、大正9年に第5版を出すまでの4回の改版の間に「而して明治維新後に於ては明治二年細川少議官米国に於てスパニシ、メリノー種八頭を購入したるを以て嚆矢となす」(45)を追加し、この後に「明治五年五月十七日…」と続くように書き改めています。いまや殆どの文献は、このように明治2年に細川少議官がメリノー8頭を購入して帰朝したのが最初だと書いてある。山田喜平さんもそうで「牝六頭牡二頭計八頭を購入し輸入したのが抑も政府が本事業奨励の端緒である」(46)としています。それで本当のところはどうなのかと調べてみたら、繰り返しになりますが、この細川とケプロンの意外な接点がわかったのですよ。それを調べる過程での副産物が、ここまでに話した黒田とケプロンの出入国であり、幻の岩崎権少史の存在だったのです。
明治2年細川輸入説は半分間違いであり、半分正しいというのが私の判定です。大正7年の雑誌「畜産」1月号に道家齊が「緬羊の増殖に就て」を書き、その中で「西洋種の緬羊を最初輸入したるは明治二年即ち細川少議官米国に於てスパニツシユ、メリノー種八頭を購入したるを嚆矢とす、其の後明治五年在米勧農権助由良応等の購入せる緬羊到着し、仮に之を勧業寮の所管たる雉子橋外の邸内に飼養し、次で明治六年には岩山壮太郎氏米国より各種の緬羊数十頭を輸入し」(47)と順序を示しています。
私が半分間違いという点は「大日本農史」にもあるようにですよ、明治2年に細川は少議官ではなかったし、まだアメリカに出かけていなかったからです。明治4年になって細川が明治政府の官金でアメリカから緬羊を初輸入したという点は正しいのです。道家は、いまさっきの引用個所に続けて「尚北海道に在りては開拓使庁に於て明治五年頃より緬羊を輸入し、渡島七飯村農事試験場竝に同七年札幌本庁札幌官園内に於て緬羊の飼育を開始せり」(47)と書いているように、細川の羊は半年以上早く到着し、ケプロン発注の羊が着く前に、子供も生まれたのですから敵いませんよね。
まず細川説の本は、申し合わせたように「明治2年細川少議官」と書いているのはなぜか。ずっと以前にだれがそう書き、その後の人たちは細川何某なのかということすら調べず、丸写しを繰り返して今日に至った。私の知る限りで、違うのは松前卓平著「緬羊と其の利用」が「明治3年細川少議官」(48)としたぐらいですな。
思うに最初に間違えた執筆者は「大日本農史」の出た明治24年以後、大正7年にそう書いた道家さん以前の人でしょうね。案外道家さんだったりして。というのは、道家さんは「緬羊の増殖に就て」の中で、明治2年から8年までの下総牧場と開拓使の輸入緬羊の頭数表を掲げ、明治2年に下総に8頭、同5年に開拓使に9頭、同6年は下総40頭、開拓使88頭など(47)としているからです。つまり、明治2年の8頭は細川メリノーであり、5年の開拓使9頭はケプロン発注の羊を指し、明治2年細川嚆矢説の根拠を示したのです。細川少議官としか書かず、潤次郎がない。おまけに明治9年の内務省火災で、民部省関係の記録の大半が失われた。そんな事情もあり、農商務省農務局長の論文にある明治2年細川少議官説が信用された可能性はありそうでしょう。これはもう少し調べなけりゃなりません。
それからですね、明治2年は戊申戦争がまだ続いており、5月の五稜郭の攻防で黒田清隆が攻め、土方歳三が戦死し、榎本武揚が降伏します。政府としては民部官を改めて7月8日、民部省を置き、9月に出した太政官日誌で「民部省規則」の1項目に「田畑ヲ培養シ山野河海利ヲ興シ種樹牧牛馬等総テ生産シ繁殖シ以テ冨國ノ道ヲ開成スベキ事」(49)と示すぐらいが関の山で、外国へ誰かを派遣して羊を買ってこいなんて命令はとても出せる体制ではなかったと思われます。
幸い明治4年の外務省日誌に、さっきのブルークス領事から外務省へ送ったいくつかの報告があり、それから細川少議官と思われる人の名は潤次郎とわかります。そこで明治2年にさかのぼって新聞を読み返しますと細川の投稿が載っていました。4月発行の「官板議案録 第二」に「皇国ノ人多ク良人とナラシメ外国ノ人ヲ以テ奴隷トスルヲ許スノ議」(50)、5月25日発行の中外新聞第17号に「金札議」をそれぞれ投稿していました。内容は省きますが、中外新聞の投稿は開成学校権判事(51)という肩書きでした。「大正人名辞典」の経歴では、細川は「三年民部権少丞に任ぜられ(52)」たことになっています。
「明治初期の官員録・職員録」を見ると、官の付く階級は意外に少ない。明治2年12月職員録を見ると、明治2年は宣教使と集議院と開拓使と留守官に長官、次官、判官、権判官と三陸磐城両羽按察使に次官、判官、権判官があるだけだし、明治3年職員録では集議院と開拓使と留守官に長官、次官、判官、権判官と三陸磐城両羽按察使に次官、判官、権判官があるだけで、いずれも議官はなし。当然、民部省には少議官というポストはありません。(53)つまり細川がアメリカにいる間、明治4年7月に民部省が廃止されて大蔵省勧業司となり、細川は帰国後、新設された左院少議官になった。明治4年末の「諸官省官員録」を見ると、少議官の2番目で「正七位 細川習(54)」とあります。いまでいえば農水産省から衆議院の事務局みたいなポストに転勤したのですね。だから「明治2年細川少議官」は存在しなかったことは、官制からも指摘できるのです。
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参考文献
上記(43)の出典は小谷武治著「羊と山羊」第1版15ページ、明治45年4月、丸山舎書籍部=原本、
(44)は農商務省農務局纂訂「大日本農史 近世」65ページ、明治24年7月、農商務省農務局=原本、
(45)は小谷武治著「羊と山羊」第5版15ページ、大正9年3月、丸山舎書籍部=原本、
(46)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方の」第8版76ページ、昭和16年6月、子安農園出版部=原本、
(47)は中央畜産会編「畜産」4巻1号3ページ、道家齊「緬羊の増殖に就て」より、大正7年1月、中央畜産会=原本、
(48)は松前卓平著「緬羊と其の利用」87ページ、昭和13年9月、育生社=原本、
(49)は北根豊監修「日本初期新聞全集」24巻85ページ、平成2年6月、ぺりかん社=原本、原紙は太政官日誌明治2年84号、
(50)は同第22巻359ページ、平成2年2月、同、原紙は官板議案録3、
(51)は同23巻113ページ、同2年4月、同、原紙は5月25日発行中外新聞第17号、
(52)は「大正人名辞典」1333ページ、大正6年12月、東洋経済新報社=近デジ本、
(53)は寺岡寿一編「明治初期の官員録・職員録」第1巻165ページ、昭和51年5月、寺岡書洞=原本、
(54)は「袖珍官員録 明治四年十一月廿八日改」、明治4年12月、編集発行人不明、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054276600、職員録・明治四年十二月・諸官省官員録(袖珍)改(国立公文書館)
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明治4年に細川にアメリカ出張の命令が出ます。その関係をまとめたのが、資料その9です。
資料その9
(1)明治4年4月 太政官日誌第23号
御沙汰書写
○ 民部権少丞細川習
御用ニ付米国ヘ被差遣候事
(2)明治4年5月 民部省日誌第4号
二日
○民部権少丞細川習米利幹地方ニ用ユル農具其他新奇ノ機器査検ノ事ヲ奉ハリ同国サンフランシスコノ展覧会ニ赴ク
(3)明治4年7月 太政官日誌第17号
御布告写
當辛未年六月十五日ヨリ七月十七日迄即チ西暦千八百七十一年第八月中亜米利加合衆国桑法朗西斯哥港ニ於テ展覧会相開候ニ付御国商民ヨリモ物産差出度軰ハ勝手ニ可願出候抑展覧会ノ儀ハ各国ノ物産并新発明ノ器械類ヲ取集メ人民ノ知識ヲ拡充シ通商ノ方法ヲ裨益スルノ趣意ニ候間有力ノ者申合セ精々産物差送候ハゞ御国産ノ富饒ヲ普示シ将来彼此貿易ノ道ヲ盛大ニスルノ一端ニ候ヘバ一巳ノ利益ニ拘泥セス各勉励シテ夫夫御国産ヲ取集メ可差出候右展覧会発聞ノ期ハ来ル六月十五日ニ付 西洋千八百七十一年第八月一日 四月廿日 西洋第六月十七日 頃迄ニ荷物取揃ヘ輸送候様可依テ其品物ノ種類大略別紙掲示候条有志ノ者ハ来ル四月廿日其府藩県管轄所ヘ願出身元取調人相立候上同所添翰ヲ以テ各開港場ヘ届出勝手次第渡航候様可致事
但往来舩賃ハ平常五分ノ三相払可申物品運賃ノ儀ハ彼地ニ於テ売却不致候ハゞ相払ニ不及候事
辛未四月
別紙(略)
(4)明治4年8月 新聞雑誌3号
○米利堅「サンフランシスコ」博覧会ニ渡海セシ八名ハ細川民部少丞真崎東京府権大属白井東京少属吉田次郎東京商社中ノ鹿嶋万兵衛佐羽吉右衛門同幸兵衛等ナリ其他ニモ数員アルベシ又東京招魂社内ニテ展覧セシ物産会奇物異品等ハ第四号ニ記スベシ
(5)明治4年7月 外務省日誌第14号
七月十三日 洋暦千八百七十一年第八月廿八日
○米国在留日本領事ノ来翰
以手紙致啓上候然ハ横濱ヨリ開帆ノ蒸気「アメリカ」舩号 舩ニテ第七月十五日左ノ貴國人當港ヘ到着相成申候
名前 身分 行先 住所
細川潤次郎 民部省官員 サンフランシスコ 東京
吉田二郎 会計局掛 ワシントン 仝
(以下略)
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参考文献
上記資料その9(1)の出典は北根豊監修「日本初期新聞全集」第31巻111ページ、平成11年6月、ぺりかん社=原本、原紙は「太政官日誌」23号、同(2)は同304ページ、同、原紙は「民部省日誌」4号、同(3)は同18ページ、同、原紙は「太政官日誌」17号、同(4)は同第32巻187ページ、同、原紙は「新聞雑誌」3号、同(5)は同538ページ、同、原紙は「外務省日誌」14号
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これで細川がサンフランシスコに向かった命令と到着したところまでが明らかになりました。「明治2年細川少議官」は、まず2年が違いますから「明治4年細川民部権少丞」でなければならんということです。肩書きの変わりようは、ちょっと複雑なので後回しにしておきます。細川は安政年間に土佐藩の藩命で江戸に出て航海術を学んだり、ジョン万次郎として知られる中浜万次郎について英語も勉強(55)しましたから、会話はさして困らなかったでしょう。上陸後ブルークスに迎えられ、馬車でグランド公館、グランドホテルへ案内されています。その後の細川の動静についてブルークス領事の外務省への連絡の中で何度も出てくるのは、細川が英語を話せたからかも知れません。
細川は日本の太陰暦のままの日付、しかも漢文で日誌を書き、それを12年後の明治16年に「新國紀行」という本にしました。それを読んで、私は初めて細川がサンフランシスコで日本行きの船待ちをしていたケプロンと4回も会い、一緒に農機具を買いに出かけたりしたことを知ったのです。
西島さんが訳した「蝦夷と江戸」ではね、ケプロンは7月25日にシスコに着きます。この日は旧暦6月8日ですから、細川の日記とも一致します。「グランド・ホテルに一行の部屋が取ってあり、多分これは第一級のホテルと思われる。日本領事ブルークス氏は、何くれとなく世話をしてくれる。(56)」とケプロンは書いてますが、細川に会いに行ったとは書いていません。
これは「蝦夷と江戸」が日々書き込んだ日記ではないためで、西島氏は同書の「はじめに」で「離日九年後の一八八四年(明治十七年)、本人がまとめたもので、一般の日誌とは形態を異にする。従って、ある日付の中に後日の出来事が載っていたり、長々と思い出を語るなど、いわば回想風の日誌である。英文は十九世紀特有の冗長な文が多く、やや不正確な文と読みにくい文字があり、第三者には理解しにくい内容もあり、また本人の記憶違いもあろう。(57) 」と説明しています。
それのせいか、細川は全く現れません。細川は出港するケプロンを見送りにいったのだが「何千人、ひょっとしたら千人かもしれないが、華やかに着飾った婦人が多く、皆、我々を見送るため、埠頭やほかの船の上に集まっている。別れのあいさつを交わした人の中には、マサチューセッツ選出の著名な下院議員(ドーズ氏)夫妻と、人目を引く二人の令嬢がいる。(58)」と、女性ばっかり見とれていたようで、細川なんか眼中になかった、いや、すっかり忘れられたんですなあ。
細川日記によれば旧暦6月8日、これは7月25日だからケプロンはシスコに着いたその日の夕方に会いにきたことになります。ブルークスからでも日本の細川という農業指導者がこのグランドホテルの135号室に泊まっている(59)と聞いて、それならばとノックしたと思われます。ケプロンは7日後の8月1日出航までシスコに滞在しており、細川がケプロンを見送った日付もまた、陰洋換算しますとぴったり合います。ただ、インターネットの日本語の万年暦で曜日を調べると1日ずれます。世界各国で使えるように作られたパーペプチャルカレンダーで調べないといけませんよ。
この「蝦夷と江戸」を読んだ北大の高倉新一郎先生は「当時北海道開拓に注目する外国人は、その資源を私しようとし、もしくは米国を嫉視して、ケプロンの計画を批難して妨害を図り、日本の指導者の中にも、旧習になじんでケプロンの真意を理解せず、失敗と浪費によって真面目なケプロンを苛立たせた。<略> (60)」と、当時のケプロンたちの気持ちを察していますが、事実そうした動きがあり資料その10のようにアメリカの新聞にまで書かれたのですね。
資料その10
○華盛頓新聞抄訳
近来日本よりの新聞に旧習の余党権威高く開化党の
上に出て兎角に日新の進歩を害し外人を悪み昔時の
形勢に復せんとするの勢ありて近来日本北部の地開
拓の事に雇ひたる米人ケプロン氏等をは免職せられ
るか抔の説一時諸新聞の内に種々載せたりしか今此
等の報聞は悉皆虚説たる事を知れり其證は日本辨務
使森氏本年第十月四日本国よりの報告を桑港にて受
取おり日本国方今極めて静穏にして政府の事務駸々
乎として日進すと且森氏は近日の流布せる妄説ハ日
本の開化を妨ぐる大害なれば打消べき旨電報を以て
命じたり又ケプロン氏等は免職等の事情なく彼等若
干の年期を約定して給料をも取極め日本へ赴きたれ
ば其期限充るまでハ日本に止る事必せり又森氏は私
情を以て昨冬辞職の表を日本政府へ差出したれども
当夏中同政府より同氏職務上に於て充分実効ありし
旨賞詞ありて同氏の官を辨理公使に進められたり同
氏を右の尊命を辱すといへども尚強て辞職の願を出
されたり同氏除職望むは敬ふべき事なれども再命の
到来迄ハ尚当国に止りあるべし
番号はないけど、細川が横濱出発から帰ってくるまでの10カ月間、漢文で書いた日記「新國紀行」を見せましょう。これは国会図書館が保護期間満了になったのでインターネットで公開している画像だから、アクセスすれば誰でも読めます。資料とはうたっていませんが、6枚のうち5枚目までは明治4年6月、2ページを組み合わせた最後の1枚は9月の記録です。
なぜこういう形にしたかというとだね、最近、左寄せで作ってあるこの細川関係の講義録の形が崩れて、モニター画面の半分を超える幅になっているのに気付いた。この講義録が崩れたのは今回が初めてじゃなくて、出なくて私が12年続けている研究日記によるとだね、3年前の1月にも崩れたことがわかる。
サーバーに入れたときにちゃんと形が整っているからといって安心しておれん。多分サーバー側で記憶装置の更新などをした際のショックで組みが狂ってくるんじゃないかと思うが、エントロピーが増大して諸行無常、形あるものは必ず崩れるんですなあ。
ぴんぴんころり「PPKのすすめ」という本の共著者である青山英康先生はね、まだ終わりの終活なんて単語のないころだがね、私はああいう本を書いたが、宗旨替えをした。癌ならどんなヤブでも半年前にわかる。そうとわかったら遺産を残さぬようやりたいことに使ってしまえ―つまり終活について講演された。先生は私より短命で既にお亡くなりになっておられるが、有言実行されたかどうか知りたいもんだ。まあ私はね。癌とわかったら終活でこの講義録を消去するが、それまではメンテしなきゃならんから、崩れたページを見付けたら私にメール下さいよ。
元の形に戻そうといろいろやってみたけど、うまくいかない。それで元通りにするのは諦め、イージーだが、漢文は「新国紀行」の画像を使い、縦組みはオリジナルはやめて、お手本に従い、その意訳文だけ組むことにしました。すぐわかると思うが、各ページが微かに右肩上がりに入っている。これは画像を0.3度ぐらい回転させると、日記の字画が微かに太く見えるようになることを発見したので、わざと捻ったのです。ジンパ学研究が右肩上がりに発展することを望んでのトリミングじゃないよ。
ところが細い線の枠内で縦組みにするお手本通りに変えたら、ブラウザーによって見え方が違うようになっちゃった。私が望む形で読めるのはグーグルのクロームだけ、エッジは「新国紀行その1」から「その6」までの間の枠の下に1行だけ入ってから、なにか隠れ図形でもあるように2行または3行の空白が入り、その右端に1字ずつ字が縦に並び、空白下にある文につながるという誠に不本意な組みに見える。この空白を除去しようといろいろ試したが、うまくいかない。
ファイアフォックスはウィンドウズ10がプロフェッショナル版かホーム版かで「その2」と「その6」の枠右側に張り付く行数が違うほか、幅16ピクセルのパディングが丸見えで出現位置が異なる。もう菅原洋一じゃないが、マックのことは知りたくないのー、だね。目下の私のテクでは3ブラウザーのどれでも同じという組み方ができない。講義録の組み方改良よりもっと大事でかつ急ぐべきことがあるので、このままで我慢してもらいましょう。
さて「新国紀行その1」の現代語訳を付けましたが、これはA君としておきますが、学生のレポートの訳文です。高校で漢文を習わなかったけど「新国紀行」の渡された資料ぐらいは現代語に訳してみようと「新版漢文解釈辞典」の古本をアマゾンで買い、訳してみたそうです。實は私も漢文には弱くて誤りを指摘できないので、A君の努力を買ってそのまま今回から資料に加えました。「新国紀行」でケプロンの名前が出ているのは、ここと29丁裏のハンという人が果樹に詳しいとケプロンから聞いていたところだけです。細川は織物工場のことなども書いているので、漢文に自信のある人はその辺を訳してレポートにしてもよろしい。
公館とはホテルのことで、細川は6丁裏に「克蘭土公館」と書いてグランドと振り仮名を付け、さっきいったように、その135号室に入りました。細川は、このように無理矢理でも人名や英語の名前を漢字で書いており、開拓使顧問ホーレス・ケプロンは結布倫、首都ワシントンは華盛頓だ。
「新国紀行」その1
八日 このホテルは目抜きの場所にあるため頻繁に客が出入り
してうるさく、じっくり本が読めない。それで静かな部屋を見
つけたい。夕方ケプロン某と会った。アメリカ東岸の人で嘗て
アメリカ国農務局長官を務め、農業についてとても詳しい。そ
れで黒田開拓使次官がその名声を知り、北海道開拓の立案指導
のために日本に招いたので、ワシントンからこのサンフランシ
スコに来て、日本行きの郵船が出るのを待っているのだった。
余は農商務省の役人だから、ケプロン氏の農業ばかりの話は実
に楽しめた。
九日 再びケプロン氏がいろいろ教えてもらう。
11日はケプロンの友人多分カールと伸ばすと思いますが、カルなんとか夫妻の馬車でその農園を見学します。下巻に加児知斯と書いてカルチス、カーチスが出でくるので、カーチスかも知れません。それから7行目の「細艸は」の次の字はUNICODEでも見つからない字です。氈の異体字である氊かとも思うのですが、下の横棒がなくて氈の毛と同じく短くはねている。明治のインテリは難しい字をたくさん使ってくれます。
検索すると、百年草は英語のcentury plantの訳らしく、リュウゼツラン属の開花まで数10年かかるサボテンみたい植物とみられます。
「新国紀行」その2
十日 終日読書をした。
十一日 ケプロン氏と共にオークランドに行った。ケプロン氏
の友人のカル某氏夫妻が馬車で迎えに来た。一緒に乗って某氏
の庭園に行った。百年草の花を見せらた。この百年草は雨の少
ない温帯ならどこにでも生えていて、百年経つと花を付けるが、
すぐ枯れてしまう。それで百年草という名があるという。とこ
ろがここでは十三年で花を咲かせたので新聞ダネになったが、
ある植物学者は気候や地質の違いだろうと解説していた。
別の庭園では恰好いい木が多く、芝生は毛氈みたいだった。木
陰には人々が休めるようベンチが置かれていた。大理石の彫像
も多く、その間に東屋があったりして、その配置が見事だ。遠
講義録の形がまた崩れないよう幅を押さえたため「その2」の11日分が溢れて「その3」のスペースの大半を占め、また「その3」が押せ押せで「その4」まで入っているが、勘弁してね。
12日細川はケプロンとレーケル&ハミルトン商会へ農機具を買いに行きます。農機具の鎌の次の2字は画数が多過ぎるだけでなくて読めないですよね。鎌の次の鑱は辞書を見ますとサンと読み、鉄製の土を掘る道具とありますから、スコップの類でしょうが、干し草や敷き藁用のフォークだったかも知れません。その次の鏟もサンと読み、かんなの類とあります。農機具ですから地面を均すレーキのようなものでしょうか。買い物の後、細川はホテルを出て貸間に引っ越した。そこの地名の掲穵列はケアレ、主人の伽児利伽はガルリガと振り仮名があります。
「新国紀行」その3
くの穴から池に水を回しているのだが、そこは隠して天然の景
色に見せている。こうして人工の風景を多用した見本で金持ち
の庭園作りに応じている。見終わったところでカロ氏のパン、
酒、菓子などを軽く食べた。近くの学校を参観した後、また馬
車で別の庭園に行ったら沢山花が咲いていて花屋みたいだった。
最後にもう一つ庭園に行ったら果樹が多かった。これら二つの
庭園の持ち主は園内で育てた花や果物を売って暮らしている。
果樹園の外は畑で一人の老人が籠を持って苺摘みをしていた。
畑の外は垣根で囲った放牧地になっており、牛や豚があちこち
で寝たり噛み直しをしていた。また七面鳥の雛は餌探しをして
いた。まことに一幅の田園風景の西洋画そのものだ。
十二日。ケプロン氏と共に農機具を買いにレーケル&ハミルト
13日はダン氏宅に連れて行かれ、夕飯を食べてから講演を聴きに教会に行ったんですな。細川は5月30日から毎日のようにダンと会っているので、ダンは通訳兼ガイドかも知れません。真駒内にある銅像のエドウィン・ダンとは別人です。
「新国紀行」その4
ン商会に行った。丈夫で使いやすそうな犂、鎌、鑱鏟。播種器、
草刈り器などを買った。これらはさっさと郵船で我が省に送ろ
う。午後ゲアレ街第二百二十七号の下宿に移った。主人はガル
リガ氏でホテルに較べると町外れだが、部屋は奇麗で清潔で気
に入った。
十三日。連絡文書を書いた。午後ダン氏宅を訪ねた。夕飯を呼
ばれてからダン氏一家と共にミション街の礼拝堂に僕も迎えら
れて過ごす。先日東部からシスコに来た某講師が初めて登壇し
た。堂内はぎっしり満員で講師は高い壇上に上がり身振り手振
りで、人生は移り変わりが激しいから早く備えを固めねばなら
ぬと力説した。聴衆は肩を落とし目頭を押さえ、涙を流す者も
いた。いまの時代は習慣や風俗が乱れ、功名と利益を競い悪賢
14日は農器具の日本に送る手続きで苦闘を強いられて、お役人の細川がアメリカのお役所仕事に遭い、輸出入なら我が日本の方がもっと融通が利くぞと、腹を立てながらも指示通り書類などを作ったと思われます。
「新国紀行」その5
さは風を起こすほどだが、神の教えを守って良い方向に変えよ
う。人の生死、禍福あるという話は人の心を強く揺すぶる。
十四日。早起きして農機具店に行き先日買った器具を運び出し、
運賃を納める郵船局と税関に行き、農機具は日本行きの郵船に
引き渡した。アメリカの例では輸入貨物に対しては関税がかか
るが、輸出貨物は課税されない。しかし、品物毎に説明する必
要があり、すでに農機具店からの書類はあるのだが、さらに日
本領事の説明書がなければ輸出が許可されない。僕はそうした
決まりを知らず、また現地の人の手を借りで自分でやった。実
に面倒でふらふらになった。部屋に戻り昼飯を食べる時間も無
く、腹が減ったので街の小さな店でおやつを食べた。初めてア
メリカに来た人は、同じように苦労するぞと笑ってしまった。
15日、細川は横浜行きの船までケプロンを見送りに行きました。黒田清隆と一緒に乗船していなかったことは、この日記からも明らかです。ケプロンの単独出発と、その次の55丁表の1行とその裏の3行からわかる綿羊8頭の購入、これが組み方に苦心しても「新国紀行」を紹介したかった理由です。
別の講義でやりますが、8隻なんて船みたいに数えられたこの中に妊娠している雌がいて、翌5年に出産したのですが、日記にはいいメリノは高いと値段のことだけですが、なぜメリノにしたのか書いていません。
そこです。日本では綿羊は飼われておらず、織物工場なんかありませんと細川がいったら、ケプロンは織物工場を経営した経験もありますから、いずれ羊が増えれば毛織物が生産できる。北海道はイングランドに似た気候と森辨少使からの説明書にあったことだし、当面は良質の羊毛が採れるメリノ種を増やすとよかろう。ミスター細川、羊を買って帰るなら、ぜひメリノにしなさいよ。飼育に要する道具も教えるから、あさって一緒に買いに行きましょうと話がまとまったのではないか。相手は民部省で農業政策も担当するポストにいて、しかもアメリカの農業政策を学ぼうというミスター細川なんですから、自分の経験をぶたないわけがない。ケプロンが羊は馬牛並みに大事だと力説したと思われます。
でなければ、細川がメリノ種だけ買うとは考えにくい。羊に関して殆ど知らなければ、もし8頭買うなら2種類ぐらいにしておくと思いませんか。東部農業博覧会視察での見聞もあったとしても、農機具と同じようにケプロンの推奨種が、細川の品種選択に多大なる影響を与えたと見るべきでしょう。
「新国紀行」その6
十五日 ケプロン氏が乗った郵船に行き、船内に入って握手し
て別れた。部屋に戻り日が暮れるまで本を読んだ。それで昨日
の疲れが取れた。夜になり月を見たら昼のように明るくて寝る
には惜しいので、十字街を散歩した。望遠鏡を据えて、覗き賃
をとりながらこれで月を見てご覧よと勧めている商売に出会っ
た。その周りに子供たちが集まって嬉しそうに遊んでいたが、
天文学の役に立つようだからいいか。
(右の35丁表と裏の部分は9月14日の日記から)
十四日 帰国するための雑務をこなした。また日本に持ち帰る
綿羊を八頭買った。優れた綿羊の品種はメリノといい一頭百元
以上だ。雑種だと精々三、四元だが、一寸見では違いがわから
ない。純血か雑種の識別はとても難しい
綿羊八隻なんて船みたいだが、隻は一羽の鳥を手で捕まえる形で一羽の鳥、さらに「生物器具を数えるに用ふる詞」と大漢和辞典にあると、だいぶ前の講義でいったと思うがね。結婚の披露宴などで使う金屏風、あれは隻で数えるのがが正しい。多分、屏風を広げるとき大きな鳥の翼を思わせるからそうなったというのは冗談。はっはっは。
それから細川はメリノーの値段は百元を下らないと書いていますよね。音読みでフツ、訓読みでドルというあの弗という字を使わなかったのはなぜか。元という単位と弗の関係がわからなかったからか、明治4年の円換算で1頭何円になると書いた本ないんですねえ。
明治2年3月に政府の参与大隈重信と造幣判事久世治作は4進法の「銖両ハ元来支那量目ノ名ニシテ価位ノ数ニ非ス夫レ数ハ十進一位万国皆同シ故ニ今新貨ノ価位ヲ立ル宜ク旧來沿襲ノ陋制ヲ廃シテ各国通行ノ制ニ則リ百銭ヲ以テ一元ト定メ以下十分ノ一ヲ十銭トシ銭ノ十分ノ一ヲ厘ト為セハ」計算が簡単になる(61)と建議しました。でも実際には元ではなく圓・銭・厘を基本単位と定めた新貨条例が公布されたのです。それがね、細川が横浜を出てから4日後の5月10日(62)だったので、細川はわざと金額を元で示したという見方もできますが、私が実際に元が使われていたという証拠を探してみたら、あったんですなあ。
それは欧米の人文科学を研究する大学南校の「御雇教師部類」という記録です。明治3年1月から1年間、エドワルト・コルンスというアメリカ人の教師の俸給を「一箇月三百元宛ト定メ日本ノ月末ニ相渡可申事 但洋銀又ハ洋銀札共同君ノ意ニ任セテ渡シ可申事(63)」とありました。同じようにダラスという教師は「一箇月三百元宛ト定メ日本ノ月末ニ相渡可申事(64)」と書いてあります。
これだけでは1元がいくらかわからんが、不幸にもコルンス先生、7月に築地沖で乗っていた船のボイラー破裂で死んじゃった。それで大蔵省が大学南校に「其校教師コルンス葬礼料トシテ給料三ケ月分洋銀九百弗并當月朔日迄之分給料共御申越之通渡方可致候」だから、受け取りにきて(65)と通知した。これらの文書から月給300元とは300ドルラルのことだとわかりますね。
つまり大蔵省、外務省と大学南校との文書のやりとりではドルの漢字として時々元を書いていた。当然細川の務める民部省でも使っていた。となれば大隈、久世のご両人は、役所ではドルを元と書いたりしているのだから、貨幣の基本単位を元にした方がグローバルでいいじゃないのと考えての建議だったかも知れませんよ。はっはっは。
ともあれ細川メリノーは1頭100ドル以上の「最上ノ品種ナリ価直モ亦随テ貴ク凢ソ平均一匹ニ付キ洋銀百五十弗内外ニ當レリトソ(66)」という新聞雑誌の記事はいい線いってるね。明治4年の円単位を始めたときは円ドル同価、1円は1ドルでした。その年に渡米した細川の権少丞の月給は100円(67)だったから1頭買えたかどうか。明治8年左院2等議官に昇格して1頭は買える月給250円(63)になってます。それぐらいメリノは高かったんですなあ。
明治4年に渡米した細川権少丞の月給は100円だったから、メリノーが1頭買えたかどうかと話してきたが、細川は帰国後ぐんぐん偉くなり、明治8年左院2等議官に昇格して1頭は買える月給250円(68)になってます。
明治5年5月10日にケプロンがアメリカに注文した牛8頭、馬5頭、緬羊9頭が横浜に着きました。「また同じ船で、大量の機械が運ばれ、蒸気機関、製材用鋸(丸鋸及び直立鋸)、製粉機、屋根板機、木擢機、旋盤、農機具一式を含む。これらは家畜を除いて、全部蝦夷へ送った。(69)」と日記に書いていますが、ケプロンがアメリカから優良品種の牛を取り寄せるといううわさが京都まで広まっていたんですね。
失業者対策の酪農事業に本腰を入れ始めた京都府から「今般御雇入相成候米利堅合衆国ホラシケプロン牛三千疋持参之由ニ付右之内御分配相成候ハゝ廉価ニモ可有之段当府雇入米利堅人ボールレンヨリ申出候相違モ無之儀ニ候哉御配分相叶候事ニ候ハゝ猶以仕合ニ可申候此段モ御答ニ御申聞セ被下度候也」早い話がケプロンが牛を3000頭も連れてくるそうだが、我が京都にも少し分けてくれないかと問い合わせてきた。それで内務省では「米利堅合衆国ヨリ牛三千疋持参之義当省牧畜掛ニ於テ是迄取扱無之候事(70)」そんなに沢山持参するなんて話は聞いてませんよと返事をしてます。8頭に尾ひれ羽ひれがついて3000頭、はっはっは。
資料その11はケプロンが帰国した後の明治12年2月に開拓使が出した「開拓使顧問ホラシ、ケプロン報文」からです。綿羊は肉用はソーツドウン、いまの呼び方ではサウスダウンね、毛用はメリノを挙げてるでしょう。ケブロンは羊肉の最高峰はサウスダウンだと信じてやまなかったことをいずれ話しましょう。リンコルンことリンカーン種は毛肉両用と、羊毛にも気を配っていたことかわかりますね。
資料その11
第八條 東京近傍ニ養樹園及ビ農園ヲ設クル事
此事業ニ於ル、國家ノ為メニ緊要ナリト云フモ敢テ過
言ニ非ザルべシ。唯予ガ竊カニ憂フル所ハ、邦人ノ未ダ
其貴重スベキヲ知ラザルニアリ。○左ニ載スル所ノ者
ハ、既ニ東京ノ官園ニ備ヘタル家畜類ノ一部分ナリ。
・純粋最上牛ノ両種(短角種竝ニ「デオン」種)凡五十頭、
最上羊「ソーツドウン」「メリノ」及ビ有名ナル「リンコ
ルン」種(紐育ノ「サミュール、カムブベル」ノ牧養ニ係
ル)合テ百頭アリ。其他、西班牙細毛羊数頭、又毛ノ中
等ナル(粗ナラズ又精ナラズ)者若干、及ビ騎車ニ両用
スベキ聯邦最上ノ種馬二頭アリ。
それからケプロンはですね、日本に着いてから東京にいてあれこれ指導しており、北海道に出かけたのは明治5年5月に入ってからです。細川の経歴書にある帰国日の10月16日(71)をケプロンが使った西暦に直せば1871年11月28日となる。だから12月から翌年4月末までの5カ月間は2人とも東京にいたわけで細川がシスコではお世話になりましたとあいさつに行けたはずです。またケプロンが帰国するとき細川は左院の二等議官(72)になっていて、居場所はすぐわかったはずだけど、お互いに会ったと書き残していないから、シスコでの一期一会で終わったのでしょう。
この「新國紀行」の書き出しには、貿易上役に立つからサンフランシスコで初めて開く展覧会には日本もぜひ特産品を出展すべきであり、政府も視察員を送るべきだと唱えたら、細川は勧農工業の担当者だからお前が行け、ついでにニューヨークの東部農事博覧会も見て(73)こいとね。瓢箪から駒みたいなことで出かけることになったという、視察のいきさつが書いてあります。ご本人も英語には自信があったから喜んでOKしたようです。細川はナイヤガラ瀑布の真ん中にある島ゴートアイランドを、ちゃんと山羊島と訳して、ゴートと振り仮名委を付けている。アメリカに来てから綿羊との違いを知ったにしても、見るもの聞くもの、もうすべて覚えようと努めたに違いありません。漢文に自信のある人は読んでみたらよろしい。はい、終わります。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
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参考文献
上記(55)の出典は五十嵐栄吉編「大正人名辞典」下巻1333ページ、平成2年11月、日本図書センター=原本、
(56)はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「蝦夷と江戸 ケプロン日誌」25ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、
(57)は同5ページ、「はじめに」より、同、
(58)は同26ページ、同、
(59)は細川潤次郎著「新國紀行」13丁表、明治16年1月、細川潤次郎=近デジ本、(60)は経済往来社編「経済往来」37巻7号176ページ、高倉新一郎「ケプロン日誌 ―蝦夷と江戸」より、昭和60年7月、経済往来社=館内限定近デジ本、
資料その10は郵便報知新聞刊行会編「郵便報知新聞」1巻125ページ、平成元年3月、柏書房、原紙は明治5年発行25号5丁裏、
(61)は大蔵省編「貨政考要 正貨事歴 上編」52ページ、明治20年5月、大蔵省=近デジ本、
(62)は大蔵省編「貨政考要 法令編」1巻23ページ、明治18年12月、同、
(63)は大学南校編「御雇教師部類・大学南校 庚午正月ヨリ同十月マテ」13ページ、明治3年、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07060002700、記録材料・御雇教師部類・大学南校(国立公文書館)」、
(64)同12ページ、同、
(65)は同33ページ、同、
(66)は北根豊監修「日本初期新聞全集」34巻117ページ、平成3年12月、ぺりかん社=原本、原紙は明治5年1月付「新聞雑誌」26号3丁裏、
(67)は妻木忠太著「史実参照 木戸松菊公逸話」 479ページ、昭和10年4月、有朋堂書店=館内限定近デジ本、
(68)は西村組出版局編「掌中官員録 明治八年三月改正」4丁表、 明治8年、西村組出版局=近デジ本、
(69)はホーレス・ケプロン著、西島照男訳「ケプロン日誌 蝦夷と江戸」7*ページ、昭和60年2月、北海道新聞社=原本、
(70)は農林省農業総合研究所編「農務顛末」4巻13ページ、昭和30年12月、農林省=館内限定近デジ本、原本は農商務省農務局編纂課編「農務顛末」
資料その11は北海道庁編「新撰北海道史」6巻史料108ページ、「ホラシ、ケプロン第二期報文抄略」より、平成3年2月、清文堂出版=原本、
(71)は西沢宥綜編著「暦日大鑑 明治改暦1873〜2100年 新旧暦・干支九星六曜対照」*ページ、平成6年2月、新人物往来社=原本、
(72)は細川潤次郎著「吾園叢書 15」ページ番号なし、明治14年、発行者不明=同、
(73)は細側潤次郎著「新国紀行」1丁表、明治16年1月、細川潤次郎=近デジ本
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