満蒙川型鍋が日本独特の星型鍋に変身

 はい、始めます。ジンギスカン鍋というと、羊肉の切り方からの料理全体を指す場合と鉄製の中高の鍋を指す場合と2通りありますが、ここでは後者の鍋そのものを取り上げて話を進めます。きょうは鍋の写真満載の資料だ。いま配ります。
 「鍋を裏返しにしたような鍋(1)」といった人がいます。うまい、笑点なら座布団2枚ですかね。いまの鍋は、たいてい脂落としの隙間がないから、引っ繰り返したら厚手の浅い鍋として使えるでしょう。
 料理研究家の沢崎梅子さんは「羊肉は脂に臭みがあるので、ジンギスカン用の鍋を使わないと、やはり味が思うようにゆきません。お椀をふせたようにこんもりとなっていて、まわりにくぼみのついた鉄の板の上で焼くので、沢山出る脂は下の方に流れ、肉が吸いこんでしまわないからよいのです。(2)」とメリットを認めました。
 どこのだれが、こんな変な形の鍋を発明したのかわかっていません。ただ、大まかにいえることは、中国北部の羊肉料理、烤羊肉(カオヤンロウ)の羊肉を焼く道具がルーツです。それがどうして日本へ伝わり、鍋と呼ばれるようになったのかという経緯を詳しく調べた学者、研究家はいませんし、本もありません。それで思い付きみたいな説がいろいろ唱えられているのです。
 たとえば神崎宣武氏が昭和59年に書いた「台所用具は語る」という本があります。200ページ余りの本の「鉄板」という章に、資料その1にしたジンギスカン鍋の写真の左下にたった1行「最近流行のジンギスカン鍋」という説明がある(3)だけです。ジンギスカン料理は外でやるものだから、その鍋は台所用具と認めにくいということで写真だけにしたのかも知れないし、どうしてこんな変な形なのに鍋と呼ぶのか説明しようにも資料がなくて、せめて写真だけでも載せておこうとなったのかも知れません。よく道民はジンギスカンが大好きで一家に1枚、鍋があるといわれますが、それは戦後の話で、戦前は縁遠い料理でした。

資料その1

    

 次の資料その2は、この鍋の取っ手を拡大した写真です。取っ手は紐の輪を手前に2回捻るとできるつながった3つ輪のごくありふれた形だが、これは3つの穴がないから輪ではなく3つ輪型板というべき取っ手です。その鍋の中に浮き彫りの字が見えますね。ジンギスまで読めるので、最も多く作られたジンギス印の鍋かも知れませんが、私はこんな手抜きのお粗末なジンギス印は初めて見るね。
 神崎さんは台所用具の専門家なんですから、模造らしい鍋、いま風にいうとパクリのこんな鍋でなく、まともな作りの鍋を吟味して取り上げるべきでしたね。この本は昭和59年の発行だから、そのころジンギスカン鍋がよく売れていたと言おうとして、鍋ならなんでもよかろうと手近にあったこの鍋を写したのでしょうか。うっふっふ。

資料その2

       

 北海道の滝川市立郷土館は鍋型金網も入れて鍋を9枚展示しています。公立の郷土資料館では最多の枚数でしょう。その1枚の写真が川村善之著「日本の民具の造形 ものに心を通わせた歩み」にあり「羊肉の焼き料理のための鉄板鍋、日本でも北海道から普及したが、瀧川の本図の鍋は、最初のものと伝えられている。円形を正確に五分割した構成である。(4)」と説明しているから、日本初の鍋は落とせないと資料その3としておいたから、よく見なさい。ふっふっふ。
 日本で初めて作られたジンギスカン鍋がこれだと伝えられているというけれど、いつごろどこで製造されたと、どなたが川村氏に教えたのでしょうか。そもそもこれが鉄板でできた鍋でしょうか。どう見てもある程度の厚さのありそうな鋳物ですよね。最初の鍋という最初はいつごろのを指すのか。川村氏は大学の名誉教授なのに、この「鉄板鍋」こそ「最初のもの」という裏付けを何も探さなかったから、だれかにからかわれたことに気付かず、聞いた通り真面目にね、本に書いたとしか思えません。

資料その3

     

 滝川市の郷土館でもう1例、いきましょう。「講座 食の文化4」という本では「どうということもない焼き肉鍋、ジンギスカン鍋だが、所は北海道旭川市にほど近い滝川町。当地が大正時代、ジンギスカン鍋の発祥地だと現地の人の意気軒昂な説明のため撮らざるをえなかった。鍋と書いたが焼鍋と鍋の中間か、周囲の溝が鍋か。(5)」と別の鍋を紹介しています。資料その4です。
 この写真と説明は道具学会理事、GKデザイン機構・GK道具学研究所長(出版當時)の山口昌伴氏が執筆した「台所道具の原像」という章にあります。滝川町は昭和のうちに市になっているんだが、ジンギスカン料理の発祥地であり、こういう鍋を使うことも滝川から始まったのだから是非写して行くべきだとでも勧められたので、渋々撮影したのでしょう。山口氏が愛郷精神旺盛な人につかまったお陰で講義の資料が1件増えたと私は感謝してますよ。

資料その4

      


 この鍋は通称ニチメンの鍋といわれる戦後作られた鍋で、成田市の緬羊会館で使っている鍋をスライドでみせましょう。焼き面がきれいな半球形で山口氏のいう「周囲の溝」が模様無しで平らなのが特徴です。
 計測データをいうとね、直径28.8センチ、頂点の高さは6センチ、重さ2.6キロで見た目より重い感じだ。裏返すと焼き面になるところはきれいな円形でその直径は20.8センチ、そこと外縁の間にユチメZと見間違うような「ニチメン」という字の浮き彫りがあります。
 平たい周環が特徴でその幅は2.7センチ、底面からの縁の高さは1.8センチ、周環からの高さは1.5センチだから鍋の厚さは3ミリぐらいとなる。焼き面は9本ずつ5箇所に放射状に脂落としの隙間があるきれいな球状で初代型とわかる。ニチメンの第2代型はそっくりだが、隙間が7本になってるからね。ツキサップじんぎすかんクラブでもかつて純正鍋を使っていたが、いま使っている鍋は洗浄機で洗うとき鍋をしっかり固定できるよう底面の形だけ変えた一見ニチメンだが、独自設計の鍋だそうです。岩見沢のジン鍋アートミュージアムに同クラブから頂いた1枚があります。

      

       
(成田市小菅の緬羊会館で使っているジンギスカン鍋)

 「ジンギスカン鍋の発祥地だと現地の人の意気軒昂な説明のため撮らざるをえなかった。」という根拠は、その人は滝川市がジンギスカンの発祥地だと名乗りを上げたことを知っており、誇りに思っていたからこそ、山口さんに堂々と説明したに違いないのです。
 思うに、その人はね、昭和59年に朝日新聞社が出した「別冊民力 エリア・都市別民力測定資料集」を読んだはずです。全国785都市・区に「主産物・特産物」「主な催事・行事」などのアンケート調査を行い、結果をまとめた本ですが、その中の「わが市のPR」として滝川市は「ジンギスカン料理発祥の地◇生活と生産の調和ある発展を(6)」と答えています。30年も前から堂々とそうPRしたのです。
 さらに平成11年に東洋経済新報社が全国694都市の特性をまとめた「672都市ランキング」が「週刊東洋経済」7月14日号に載っていますが、その中の「これだけは負けない、わが市”自慢”日本一」というアンケート調査に、滝川市は「あいがも生産日本一(一生産施設で)、ジンギスカン発祥の地(7)」と答えています。滝川こそ日本一のジンギスカン発祥地と自慢したわけですね。
 日本唯一でなくて、日本一と誇るからには、よそにも発祥地と称する市町村があり、それらと比較すると最古でなければならないでしょう。では滝川にどんな証拠があるのでしょうか。まさか郷土館に保存されているこれらの鍋ではないでしょう。
 滝川は松尾ジンギスカンの発祥地だというなら、だれも文句はないけれど、種羊場があって山田喜平場長が昭和6年に「緬羊と其飼ひ方」という本を出して鍋羊肉という名前でジンギスカン料理を広めたという歴史が根拠なら、とても認められません。なぜならば大正7年から滝川種羊場で緬羊の飼育が始まり、飼育員が「当時まだジンギスカン料理というものはなくて、みんなスキ焼にして食べたものです。(8)」と座談会で語っていますが、それより先に滝川町民のだれかが羊肉を食べるジンギスカン料理を考え出したという証拠があるとは思えません。
 山口さんはいつ調査したとは書いていませんが、その後11年も滝川のこの元祖鍋を気にかけていたのですなあ。というのはだね「講座 食の文化4」が出たのは平成11年だけど、山口さんは昭和63年の味の素主催の「食の文化フォーラム」の記録に資料その5にある通り滝川鍋に関する発言をしていました。いいですか、本に書いちゃったたけど、10年も気になっていた、再確認を望んでいたのです。
 私も、この発言の「当地」は「同地」つまり滝川の言い間違いか記録者の聞き違いではないかということと「元祖を自称する地域」というのは、鍋のことか料理の方かという2点をお尋ねしたいと気になっていたんですよ。それでこの際と検索したら平成25年にお亡くなりになっていました。(9)
 資料その5の発言者の吉川は吉川誠治氏で共立女子大・栄養学の学者、森枝は森枝卓士氏で食文化研究家、田中は田中静一氏で渋谷区医療生活協同組合専務理事・中国研究所員とその本にあります。田中さんの発言は北京の烤羊肉の鍋と日本のジンギスカンの鍋はサイズが違うだけみたいですが、かなり異なることを後で写真付きで取り上げます。

資料その5

 吉川 朝鮮の焼き肉用具、ジンギスカン鍋は日、韓いずれがさきでしょうか。
 森枝 朝鮮戦争後、鉄カブトが不要になって焼き肉用に流用されたという話を奥村さんにうかがったことがあります。
 山口 その話は少々無理だと思いますが、台所道具を探訪しているときに北海道の滝川町でジンギスカン鍋の元祖というのを見せられました。いま使われているような鋳物の山型の鍋でした。発祥の地は札幌のあたりだと、当地では主張していました。元祖を自称する地域はいろいろあるのですが、もう一度確かめてみたいと思っていることのひとつです。
 田中 中国でいえば北京の烤羊肉の鍋は、いま日本で使われている鍋状のものを大きくしたものです。しかしもっと前には鉄の桟がタテ、ヨコに入ったロストルのような網で焼いていたようです。われわれが満州にいたときは、零下二〇〜三〇度の原野で炭をおこしてやったものです。ただ朝鮮焼き肉はタレをつけてから焼きますが、中国では焼いてからタレをつける、味つけの違いはあると思います。

 平成28年春、岩見沢市内にジンギスカン鍋博物館ができて、その入館者用パンフレットに鍋の変遷を書いてほしいと私が頼まれたことと、北海道新聞の中高校生向けの記事「北の事始め」でジンギスカンを取り上げたいとライターから相談を受けたので「いまも発祥地滝川説は取り下げていないと思いますので」と滝川市当局に発祥地の根拠を尋ねてみたのです。
 なにしろ30年も前のことですから、当時の回答作成者はとっくに定年でおられなかったからでしょう。「タレの漬け込みジンギスカンの発祥地が滝川」であることが掲載されている(10)と、平成17年にジンギスカン王国滝川うメェー実行委員会が出した「滝川ジンギスカン物語」という本が送られてきたのです。
 私はこの本を持っていたので、送って頂かなくてもよかったのですがね。まあ、おおまかに内容を紹介すると@白井重有氏が書いた「たきかわ ジンギスカンの系譜」、Aジンギスカン鍋の変遷B白井氏とジンギスカン料理店2軒に関係した森本勝盛氏との対談C白井氏と松尾ジンギスカンの創業者松尾政次氏との対談D高石啓一氏の論文―で構成されてます。
 面白いのは10枚の鍋写真による「ジンギスカン鍋の変遷」で、資料その6として見せましょう。この中で一番古いのは右上端の籠みたいな金網鍋です。私は網と呼ぶべきだと思うのですが、ここは本の通りにしておきます。川村氏の鍋は右ページの内側の列の真ん中、古い順の5番目で「(4)のロストルのすき間を無くした鍋(燃料が電気・ガスへの転換に対応)」とあり「瀧川の本図の鍋は、最初のもの」なんてよくいうわ―です。山口氏の鍋は右下端にあり、3番目の古さで「(2)のロストル型の隙間が放射状になっている鍋」(11)と説明されています。写真を見れば頷けるでしょう。

資料その6

   

  

参考文献
上記(1)の出典は国土交通省総合政策局情報政策課建設統計室監修「建設統計月報」418号38ページ、 佐藤周規「北海道を丸ごと食べよう!」より、平成9年10月、建設物価調査会=館内限定近デジ本、 (2)は沢崎梅子著「家庭の客料理 下」22ページ、「焼肉(羊の肉を使って)」より、昭和37年*月、婦人の友社、=館内限定近デジ本、 (3)と資料その1と資料その3は神崎宣武著「台所用具は語る」121ページ、昭和59年12月、筑摩書房=原本、 (4)と資料その3は川村善之著「日本民具の造形 ものに心を通わせた歩み」33ページ、平成16年4月、京都の淡交社、同、 (5)と資料その4は石毛直道監修「講座 食の文化4 家庭の食事空間」123ページ、平成11年7月、味の素食の文化センター、同、 (6)は朝日新聞社編「別冊民力 エリア・都市別民力測定資料集」83ページ、昭和59年12月、朝日新聞社、同、 (7)は東洋経済新報社編「週刊東洋経済」5569号38ページ、平成11年7月14日発行、東洋経済新報社、同、 (8)は北海道緬羊協会編「北海道緬羊史」161ページ、昭和54年2月、北海道緬羊協会、同、 (9)は道具学会・イベント通知&報告/事務局からのお知らせ=http://
dougurepo.exblog.jp/20232188/ 資料その5は熊倉功夫、 石毛直道編「外来の食の文化 食の文化フォーラム」210ページ、昭和63年10月、ドメス出版=原本、 (10)は平成28年3月28日付の滝川市役所総務部企画課広報広聴係よりのメール、 資料その6と(11)はジンギスカン王国滝川うメェー実行委員会編「滝川ジンギスカン物語」36ページ、平成17年7月、ジンギスカン王国滝川うメェー実行委員会、同

 高石氏の論文の題名は平成8年の「畜産の研究」に掲載された「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」です。その前書きに「『いつ、誰が』作ったのかなどと謎解きを時折求められたり、問い合わせなどが多い。確固たる説を述べるものがないのが実情であるし、公的には裏付けの定説や史料もないのが実態である。巷では、その場合都合の良いように元祖が名乗られたり、本家が生まれてきている。(12)」とあります。滝川発祥地も怪しいことを早くも認めたようなものですなあ。
 いろいろ「まとめ」として「羊肉料理『ジンギスカン』については山田喜平著書が文献記事での始まりであった。それ以前の畜産関係書にはその言葉や表現は見られていない。また、それ以降についても新聞記事以外昭和10年当時までには見られない。したがって、今回示した昭和5年という時期が考察される。しかし、それは『ジンギスカン』という呼称名をつけた時期である。(13)」と書いてます。
 それでだ、喜平さんが昭和5年からジンギスカンという言葉を広めたから発祥地だと名乗ったのかと思ったら「北海道に誰が羊肉料理『ジンギスカン』と云うこの言葉と料理法を北海道に運んできたのか。これは先にも述べたが山田喜平その人である。(14)」と。要するに喜平さんがどこからか北海道に持ってきたものだと高石さんは断言してるんだからね。滝川がジンギスカンの発祥地なんて、いい加減な作り話だったことになります。はっはっは。
 さて鍋なんですが、高石氏は「鍋の話題と変遷については簡単に触れたい。」と断り、喜平さんの昭和6年のレシピから当時は金網で焼いているが、東京の羊肉料理店、成吉思荘が昭和12年に実用新案登録した「ストーブのロストルにも似ている鍋が最初のものである。たれ汁が洩れないよう縁が曲げられてもいる。(15)」とね。ご丁寧に鍋も滝川が発祥地ではないとおっしゃってます。ふっふっふ。
 では、成吉思荘の鍋以前に国産のジンギスカン鍋はなかったのかというと、ちゃんとあったんですなあ。以前の講義でも話した考証だが、陸軍糧秣本廠の外郭団体の糧友会が昭和元年から発行した雑誌「糧友」の創刊号から100号まで続けて購読した愛読者への御礼と会創立10周年記念事業を兼ねてジンギスカン鍋をプレゼントするという豪気な計画を立て、サイズや枚数、製造地などはわかりませんが、昭和10年4月に実行した(16)のです。
 これが国産鍋の嚆矢で、それまでは中国へ行き、鍋を買うしかなかったんです。以前の講義の復習になるが、日本で初めてジンギスカン料理を売り出した東京濱町の濱の家も、主人富山栄太郎氏が北京に出掛け、本場の老舗正陽楼から一式買ってきて営業していた(17)のです。ですから、鍋を持っている家庭はまずなかったと思いますね。
 続いて昭和12年に月刊雑誌「料理之友」を発行していた料理之友社が独自の鍋を作りだし、1枚1円で通信販売を始めた。(18)国産鍋の第2号です。それで東京大井にあり、国内では3番目にジンギスカンを売り出した支那料理店、春秋園の料理人吉田誠一氏が「料理の友」正月号に「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」を書き、この鍋を使えば家庭でも簡単にジンギスカンができるとレシピをつけて紹介した。(19)その内容の一部が支那通、今で言えば中国評論家、中野江漢氏が昭和6年の雑誌「食道楽」に書いた「成吉思汗料理の話」とそっくりだった(20)と以前の講義で示したが、皆さん、覚えているかな。
 資料その7(1)が料理の友社製の鍋の広告です。絵の下に小さく「コンロに乗せた図」とありますね。当時の「料理の友」を愛読する奥さんたちは、いまと違ってジンギスカン鍋という名前は知っていたとしても、それ用の鍋があるなんて初めて知った筈です。ましてや隙間だらけ蓋みたいな変梃な鍋です。下はコンロ、七輪であり、その上の目皿みたいなのが鍋だと説明しておかないと、買った読者から絵と違うと苦情がくること必定てすからね。
 糧友会の鍋と比べるためにも戦後の「料理の友」まで見て、鍋の写真を探したけれども、遂に見つかりませんでした。「料理の友」がジン鍋の写真を載せたのは、何の肉でも焼けると説明したこの1回だけで、その鍋にしても広告の絵と似てない。資料その7(2)がその鍋のクローズアップですが、印刷するまでに鍋の写真が間に合わず、代わりに糧友会が長期愛読者にプレゼントした鍋を使ったと見ますね。
 糧友会の鍋の使い方は「成吉思鍋をかけて、すつかり熱くなつてから肉が焦げつかぬやうに、其の上に胡麻油を塗つて、」と脂身を使わないのに、吉田氏のレシピは「火又子(ホチヤツ)を火にかけてそれを羊の生脂で擦つて肉を並べて」だから、脂身で糧友鍋を擦って写真を撮り、絵はその写真に基づいて描いたと考えています。

資料その7

(1)
   


(2)
   

   旧満洲国に住んでいた日本人は、もっと早くから鍋を作っていました。本場の大連にあった満鐵工場で大正2年に鍋5枚を作らせたことがあった(21)らしいのですが、内地といわれた日本国内で作られた鍋は、この糧友鍋が最初なのです。資料その8(1)が糧友会が関係者にも配った1枚とみられる鍋の写真です。この松井商店はね、私の講義では松井本店と呼んでいる宮内省御用達で羊肉卸商でもあった精肉店で、店主の松井初太郎さんこそ後で説明しますが、ジンギスカン用の鍋と焜炉を作り出し、東京高円寺で経営した成吉思荘で使い、それぞれ実用新案と意匠登録をした人なのです。それからね、この広告は昭和11年の「糧友」の正月号に載っていた年賀広告(22)であり、松井さんの鍋の前に糧友会の鍋が存在したという証拠でもあるのです。
 話を進める前に松井さん、この後息子の統治さんも取り上げるので、父親は初太郎さんと呼ぶことにしますが、その初太郎さんが考案して成吉思荘で使っていた鍋と焜炉の写真を資料その8(2)にしました。糧友会の鍋とはかなり違う形でしょう。これは焼き面に鉄棒を突き刺したところじゃなくて、氷屋の氷挟みに似たハンドルの片方の先を、焼き面の手前に見える四角な穴に差し込んで、下の特製焜炉に炭を継ぎ足すため焼き面を少し持ち上げてみせたところです。焼き面には脂落としの隙間が14本、四角い穴付きの隙間が左右に1本ずつで計16本の隙間がありました。
 初太郎さんは糧友会の鍋は「練鉄でして、鉄の地金を丸くしてやつたもので、肉がくつついて仕様がなかつた。そこで私は、これをだんだん改良し、肉を厚くし、八〇〇匁位にし一方七輪の方も総鋳物にしたので、運ぶのに、女中さんではちよつと大変だつた。そこで専門の鍋係りを一人雇つたような始末です。(23)」と雑誌「緬羊」のインタビューに答えています。
 初太郎さん開発のその重たい焜炉と鍋一式を客室に運んできたところの写真が「月刊専門料理」にあったので、スライドで見せましょう。小さい写真を拡大したので、少しぼやけてますが、コックみたいな御仁が左手に持っているのがわかりますね。成吉思荘で使い始めた昭和10年代の運び人は、紺の印半天を着てたんじゃないかなあ。いずれにしても着物を着た女性が持ち歩けるサイズではないですよね。

         
 (柴田書店編「月刊食堂」4巻1号ページ番号なし、昭和44年1月、柴田書店=原本、)

 このインタビューで初太郎さんは「昭和十三年頃になると、牛、豚など肉の統制がはじまりましたが、めん羊の肉はまだ統制外でしたので、自由に扱えました。そこで私は、このときこそ羊肉を普及すべきだ…と考え、これを売るには、まず鍋を…というわけで、鍋をつくるべく、『一家に一台』をスローガンに東京市内の全部の町会へ宣伝しようと、宣伝ビラまでつくつて用意したところ、金属の統制に引つかかつてしまつた。やむなくこの計画はオジャンになりました(24)」と鍋開発の動機も語ったことになっています。
 でもこれは誤解を招く書き方です。昭和13年ごろから鍋を開発しようとしたのではない。後の資料その9で示しますが、初太郎さんは昭和11年の開店前にジンギスカン鍋と焜炉一式を完成させていました。羊肉が13年ごろからの食糧統制の対象にならなかったので、実用新案の鍋を売るチャンスとして宣伝しようとしたけれど、鉄材の統制で思うように鍋製造ができずに終わったということです。
 私は運び男を雇わねばならなかった鍋と焜炉一式を統治さんが保存しているとわかったので、ぜひその重さを測っておこうと、10キロまで測れるバネ秤を買ったのですがね。統治さんの入院で鍋計測はオジャンになりました―という次第で、焼き面だけなら今後測る機会はありそうですが、焜炉はもう駄目でしょうね。

資料その8


(1)
    


(2)
    
    (松井統治氏所蔵=平成18年4月撮影)

  

参考文献
上記(12)の出典はジンギスカン王国滝川うメェー実行委員会編「滝川ジンギスカン物語」59ページ、平成17年7月、ベジジンギスカン王国滝川うメェー実行委員会=原本、底本は養賢堂編「畜産の研究」50巻6号71ページ、高石啓一「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」、平成8年6月、養賢堂、 (13)は同70ページ、同、 (14)は同68ページ、同、 (15)は同69ページ、同、 (16)は糧友会編「糧友」10巻5号77ページ、昭和10年5月、糧友会=原本、 (17)は文芸春秋社編「文芸春秋」10巻1号319ページ広告、昭和7年1月、文芸春秋社、同、 (18)は料理の友社編「料理の友」25巻2号16ページ、昭和12年2月、料理の友社=原本、 (19)は同21巻5号120ページ、吉田誠一「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」、昭和8年5月、料理の友社=マイクロフィッシュ、 (20)は食道楽社編「食道楽」5年10号388ページ、中野江漢「成吉思汗料理の話」、昭和6年10月、食道楽社=原本、 資料その7(1)は料理の友社編「料理の友」25巻4号21ページ、昭和12年4月、料理の友社、同、 同(2)は同25巻1号口絵、ページ番号なし、昭和12年1月、同、 (21)は大正2年11月19日付満洲日日新聞2面=マイクロフィルム、 (23)と(24)は日本緬羊協会編「緬羊」135号9ページ、「羊肉普及に半世紀 成吉思荘の松井さん」より、昭和34年8月、日本緬羊協会=原本、 (22)と資料その8(1)は糧友会編「糧友」11巻1号広告、ページ番号なし、昭和11年1月、糧友会、同、 同(2)は松井初太郎考案のジンギスカン鍋と焜炉、松井統治氏所蔵=平成18年4月撮影

 私もそうだったんだが、普通の人は本当の特許と実用新案の登録と商標登録と意匠登録の区別がわからず、ひっくるめて特許をとったという。特許庁に届けたとか、特許事務所に手続きを頼んだと聞けば、もう高度の発明を保護する特許権の登録ずみになったと思いっちゃうんだな。いま松井氏が昭和10年に実用新案を登録したと高石氏が書いているといいましたが、特許庁の中にある独立行政法人の工業所有権情報・研修館で特許情報プラットフォームや戦前の関連情報目録を調べてもらったのですが、初太郎さんの実用新案の書類が見つからないのです。工業所有権情報・研修館という長い名前は、この後省略して研修館と呼ぶことにします。
 パテントマップガイダンスという厖大な目次によると、ジンギスカン鍋の実用新案の情報は、A47Jという台所用具の中の37/06という「ロースター;グリル;サンドウィッチグリル」という分野が含む14項目の351という場所にあるのです。札幌の住所に例えれば札幌市がA47J、北区が37/06、北8西5が351です。351のジンギスカン鍋は「焼き調理以外にも使用できる場合は27/00も付与」とあります。裏返して煮物鍋にも使えるとうたったら、北8西5のほかに北大構内という表記も認めるということになるかな。
 351は平成27年5月現在で161件あり、うち11件が戦前に公告された実用新案で、最も古い出願は大正14年で横濱の川口一夫氏による「焙器」登録7824号でした。頂点から四方に隙間を延ばした焼き面を2つ重ねにしてフライパンのような柄を付けた鍋(25) でした。ジンギスカン用とはっきり書いていたのは昭和8年出願の東京の山岸八造氏の「肉焼器」登録6689号で「本案は主として支那料理中の肉焼会食(蒙古『ジンギスカン』焼)料理に使用する器具にして (26)」と説明しています。ロストル型の焼き面に3本の足を付けたような鍋で、七輪のサイズに合わせて焼き面と足の角度を変えて掛けると説明しています。きょうは鍋の講義ですから、2つの図面を資料その9にしました。どちらも実際に作って売り出したという証拠が見つかってません。

資料その9

(1)
   
      (川口一夫氏による「焙器」の図面)


(2)
   
      (山岸八造氏による「肉焼器」の図面)

 戦前の11件だけでなく私は戦後の150件も見たのですが、肝腎の松井式鍋の実用新案の書類がないのです。私は初太郎さんの跡を継いだ統治さん所有の商標登録の通知書を見せてもらい撮影していたので、それを調べたら昭和10年8月に公告されています。高石さんは多分統治さんから聞いた通り書いたのでしょうが、昭和10年にやったことは実用新案の登録ではなく、商標登録でした。(27)その証拠として特許情報プラットフォームにある書類を資料その10(1)として見てもらいましょう。
 これとは別に私が研究仲間からもらった意匠登録第86470号という初太郎さんが意匠権者となっている図面をみると、日付が昭和16年9月5日登録です。それは資料その10(2)としましたが、焼き面の絵の右側にある説明は「意匠ノ名勝 焙肉器ノ形状、模様及色彩ノ結合」、「登録請求ノ範囲 図面ニ示ス通リノ焙肉器ノ形状、模様及ビ色彩ノ結合」、「意匠ヲ現スヘキ物品 第七類 焙肉器(28)」となっています。商標登録をして6年もたってから鍋だけ意匠登録をしたのはなぜか。もう初太郎さんも統治さんも亡くなっているので理由をお尋ねできません。

資料その10

(1)
     


(2)
   

 福岡大学所蔵の「松井家文書」には「一、実用新案特許  松井式成吉思汗焼鍋発明 発明の動機は (一)羊肉消費普及を目的に (二)滋養に富む羊肉の味覚と栄養価を活かすために 鋭意工風理想的肉焼器として考案したものです 尚其際現品を一家に一台と言ふ計画にて販売企画をしたが 当時日、支戦時下にて早くも金属統制発令され此為遂に製作中止とやむなきに至り 計画は未完成となつた(29)」とあります。初太郎さんは考案したとは書いているが、登録番号は書いていないし、その後の意匠登録も触れていないのです。
 この文書は初太郎さんが晩年に書いたもので、福岡大にあるのはそのコピーだと統治さんから私は伺った。この肉焼き器をどう探したものかと成吉思荘関係の資料を見直していたら昭和34年の「緬羊」という雑誌に初太郎さんにインタビューした記事「羊肉普及に半世紀」があり、その初太郎さんの略歴に「昭和十二年七月十三日 肉炙用厨爐を考案し、実用新案登録する(登録第二三九七四号)(30)」とあったのです。さっそく研修館へ行き、5桁ですがと指導員の方に探してもらいましたね。
 それで「緬羊」の5桁は誤記であり、登録番号は239742とやはり6桁でした。当時の分類では131類の「厨爐」となっており、いまいった戦前の川口氏や山岸氏は129類の「焙焼器」で登録して、初太郎さんの書類は違う分類に入っていました。資料その9は研修館でコピーしてもらった初太郎さんの出願書と添付した図面です。書類の漢字は原文の通りですが、行替えは読みやすいように変えてあります。

資料その11

昭和十二年
實用新案出願公告第四四八一號 第百三十一類 一、厨爐

                     願書番號昭和十一年第一九九五二號
                     出願  昭和十一年六月十八日
                     公告  昭和十二年四月九日

              東京市赤坂區田町六丁目一〇番地
                     出願人 考案者  松井初太郎
              東京市芝區田村町二丁目一一番地兼房ビル
                     代理人 辨理士  石田研

   肉炙用厨爐

圖面ノ略解
第一圖ハ本案炙リ盤ノ一部ヲ切断セル平面圖第二圖ハ同一部断面ヲ示ス側面圖第三圖ハ挿込把子ノ正面圖ナリ

實用新案ノ性質、作用及効果ノ要領
圖面ニ示セル如ク本案ハ曲ケ鐵ニテ作レル臺(1)ノ下方内面ニ淺キ金属板製灰受(2)ヲ据ヘ其上ニ金属製火爐(3)ヲ置ク火爐ノ底ハ放射状二孔隙ヲ切抜キタル二枚ノ金属圓板(4)及(5)ヲ重ネ下圓板(5)ハ其中心ニ於テ鐵製ノ折リ曲ケタル廻轉把手(6)二固着セシメ火爐ノ外方二延ヒタル一端ヲ動カシ上圓板(4)ト下圓板(5)トノ孔隙ヲ或ハ相通ゼシメ或ハ閉閉鎖スル如ク火爐(3)ノ上鐵製ノ炙リ盤(7)ヲ載ス炙リ盤ハ鐵炙(8)ヲ弧状ニ湾曲セシメテ中高トナシ鐵炙ト相隣レル鐵炙トハ或間隔ヲ有セシメ又炙スリ盤(7)周縁ノ一箇所又ハニ箇所ニ切込(9)ヲ入レ其端ヲニ段ニ屈曲セシメタル挿込把手(10)ヲ之二挿入スベクナシタリ
本案ハ其使用二當リ火爐(3)二點火シタル木炭又ハ他ノ燃料ヲ入レ時々下圓板(5)ノ廻轉把子(6)ヲ動カシツツ火爐二下方ヨリ空氣ヲ入レ且ツ生シタル灰ヲ灰受(2)二落下セシム次二挿込把子(10)ニヨリテ炎リ盤(7)ヲ載セ爐火ヲ盛ナラシメツツ鐵炙(8)上ニ肉片ヲ并ヘ鐵炙上面及間隙ヨリ上昇スル火熱卜ニヨリ適當ナル炙肉トナス効果アリ而シテ本案ノ如ク随時下圓板(5)ヲ動カシテ灰ヲ除去スルハ炙肉ヨリ油滴灰上二落下シ不快ナル臭ヲ発スルヲ防除スル特徴アリトス

登録請求ノ範圍
圖面ニ示ス如ク曲ケ鐵ニテ作レル臺(1)ニ鐵製灰受(2)ヲ据ヘ其上二火爐(3)ヲ載セ火爐ノ底ハ上圓板(4)ト下圓板(5)トヲ通シテ折リ曲ケタル廻轉把手(6)ヲ附シ又火爐ノ上ニ挿込把手(10)ヲ用ヒテ鐵炙(8)ヲ弧状ニ間隔的ニ並列セシメタル中高ノ炙リ盤(7)ヲ載セテ成ル肉炎用厨爐ノ構造

  

 資料その11の図面でだいたいの構造はわかったと思いますが、資料その12として写真4枚を使って説明しましょう。まず(1)は焼き面を外したところです。資料その6(2)とハンドルが違うでしょう。多分焼き面の厚さを増すに連れて予想以上に重くなり、とても栓抜き型の短いハンドルで持ち上げるのは容易でないとわかり、何種類かの氷挟み型のハンドルを作ったようです。
 栓抜き型の実物は出願図面の感じより遙かに長いものだったことが、滝川種羊場の料理実習の写真から察することができます。柄が向こう向きになってますが、以前の講義で使ったその写真を資料その10(5)にしました。これぐらい柄が長ければ、女性でも両手で掴んで焼き面を持ち上げられるでしょう。
 同(2)は初太郎さんのいう七輪です。擂り鉢型の底の8つの穴の下にもう1枚、同じ大きさの穴を開けた鉄板があり、それが左右に少し回せるようになっています。それで穴を通って底から入る空気の量を加減して炭火の火力を加減できるようにしている。石炭ストーブでいえば、隙間の間隔を変えられるロストルですね。(1)の写真の手前になっている足の脇で突き出した赤茶色の指みたいに見えるのが、下の鉄板を回すレバーです。
 (3)は七輪を外さない見えない灰受けです。焼き面と七輪を支えるため頑丈にできています。またテーブルに乗せて焼くとき、七輪と灰受けの熱がテーブルに伝わらないよう鉄板張りの敷板が足にくくりつけになっています。
  資料その8(2)の写真のハンドルは向こう側の先が妙な形のように見えますね。これが(4)の左側の大型ハンドルで、開く角度を変えられるその右足の先の鶏の蹴爪みたいな突起があります。これ焼き面の穴に差し込んだので、その左の二本指みたいな鉄棒が向こう向きになっていたのでした。二本指は左右対称ですから、専門の鍋係が鍋と七輪全体をどう持つのか聞きませんでしたが、この爪を(3)に見える七輪を置く輪に引っ掛けて持ち上げ、運んでいたのでしょう。この爪を(3)に見える七輪を置く輪に左右から引っ掛けて運んでいたのでしょう。また(4)の右の小さいハンドルは(1)のように鍋を持ち上げる専用ですね。
 同(5)はこの松井式の肉炙用厨爐が昭和12年に滝川種羊場にきており、ジンギスカン料理の実習で使われていたことがわかる写真です。松井統治さんは持っていませんでしたが、この写真は資料その11の第3図のハンドルが向こう側に向きになっているけど、実在したこともわかります。

資料その12

(1)
      


(2)
  


(3)
     


(4)
   


(5)
        

  

参考文献
上記(25)の出典は特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 (26)は同、 資料その9(1)は焙器の特許庁実用新案公報、同(2)は肉焼器の特許庁実用新案公報、同、 (27)と資料その10(1)はジンギスカン商標の特許庁商標公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 同(2)と(28)は焙肉器の特許庁意匠登録公報、同、 (29)は「福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、松井家文書」より、平成19年11月筆写、 (30)は日本緬羊協会編「緬羊」135号8ページ、昭和34年8月、日本緬羊協会=原本、 資料その11は肉炙用厨爐の特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 資料その10(1)から同(4)まで松井統治氏所蔵の焙肉器と肉炙用厨爐=平成18年4月撮影、 同(5)は道開拓記念館体験講座「70年前のジンギスカン、どんな味?」パンフレットの表紙、平成21年10月=原本、底本は北海道庁種羊場編『昭和十二年 五周年記念アルバム』(個人所蔵)

 松井初太郎さんの長男で成吉思荘の2代目経営者となった統治さんは都市ガスで焼く鍋を考案し、滝野秀雄弁理士を代理人として昭和51年、実用新案として出願(31)しました。次は昭和53―3768として登録された統治さんの「ジンギスカン料理用鍋装置」を考察します。
 資料その13にした説明では「今日使用されているジンギスカン鍋」の「不都合」を挙げてますが、この装置導入はガスを燃やして「鍋のどの部分に於ても良好に焼き得るようにした」だけでなく、運搬要員や燃料の合理化にもなったのです。

資料その13

3.考案の詳細な説明

 本考案はジンギスカン料理(カオヤンロー料理〔烤羊肉料理〕)用の鍋装置に関し、更に詳細には熱源用ハウジングと鍋より成るジンギスカン料理用鍋装置に關するものである。
 ジンギスカン料理とは、元来がカオヤンロー料理のことで、即ちジンギスカンが雪原での戦いに際し、軍勢の志気を鼓舞するために、羊の肉を焙り焼きにして食させた伝説にちなんで、我が国で称呼させるようになつた名称であるが、今日に於ては羊肉のみならず、牛肉及びその他の肉類並びに生しいたけ、ピーマン等の野菜類も材料として使用され、又これが特殊の鍋で焼かれている。
 そして、今日使用されているジンギスカン鍋の一般的形状は、周辺部より中心部に向つて弧状に隆起し、これに数多のスリットが放射状に穿たれ、且つ周辺部に汁受用の環状溝が穿たれたものであつた。しかしこの様なものに於ては、そのスリット部に当る個所が直接火焔で焼かれ、為に焦付いたり不均一なる焼上りとなつたりし、これを防止するには頻繁に反転したり移動したりするの要があり、又頂部及び頂部に近い個所が周辺部に比し余計に加熱され、即ち均一なる加熱が得られなかつたものである。
 本考案は叙上の点に着目し、前記の如き不都合を排除すると共に、更に之に新規なる効果を付与したもので、即ち本考案の目的は、こげつきを防止し、且つ均一に加熱され、鍋のどの部分に於ても良好に焼き得るようにしたジンギスカン料理用鍋装置を提供するにある。
 又本考案の他の目的は、料理に際し肉類その他より生じた汁を受汁溝を介して受汁筒に受け、必要に於て、その受汁筒を取外すことにより簡易に廃棄出来るようにしたジンギスカン料理用鍋装置を提供するにある。
 更に本考案の他の目的は、熱源用ハウジングを設けたことにより熱効率が良く、又スリットが存しないことにより汁が熱源に滴下したりすることがないジンギスカン料理用鍋装置を提供するにある。
 次に上記の目的を達成し得る本考案の一実施例を図面について詳細に説明する。<略>

 登録願いの明細書には5枚の図面がありますが、構造がわかりやすいと思うので資料その14の写真で説明しましょう。まず(1)ですが、もう少し低い位置から撮れば、全体の形がなんとなくパオに似ていると認めてもらえたように思うが、これで察して下さい。その屋根に当たるところで肉を焼くわけね。「周辺部より中央部に向つて漸次と肉厚に且つ弧状に隆起させ、又上部に数多の溝を放射状に設け(32)」た溝が24本刻んであります。肉からの脂は流れて周環を経て2つある穴に流れ込むようになっており、その手前の穴とその真下の筒が見えますね。
   (2)は焼き面の頂点にある丸餅のような蓋です。表面の模様は徳王が成吉思荘に贈った壁掛けの模様で、成吉思荘では衝立に仕立たりして模様を活用していたようです。
 統治さんが頂板と呼んだその蓋を取ると(3)の頂板を支える4つの突起に囲まれた排気孔があります。焼き面は頂点に近づくほど厚みを増すように作られており、排気孔のあたりは突起の厚さぐらいになっているそうです。溝は鋳型によってつくるのではなく、つるりとした焼き面を作っておいて掘り込むため、えらく苦労させられたと工員にぼやかれたと統治さんは語っていました。
 (4)は焼き面を外して、ハウジングと呼ぶ囲いの中のガス焜炉と脂受けの筒を外して見せたところです。敷板は初太郎さんの鍋のと同じなので、この鍋装置ができたので転用したのでしょう。

資料その14

(1)
    


(2)
    


(3)
    


(4)
    

 成吉思荘の親子2代が開発した鍋は例外中の例外。試作から実用までこんなに情報がある鍋はほかにありません。似ているからといっても、どっちが先に製造されたか鍋の形だけではわからないことがあります。いつごろ何というメーカーが作ったという製品情報が得られないため、調べようがないのです。見るからに古い鍋があっても、親が買ったとき外箱は捨てたらしいとか、子供の時からこれで焼いていたという答えばかりです。せめて外箱があれば、それに印刷してあった会社名とか登録番号がわかり、探しようもあると思うのですがね。
 しかし、稀には先輩後輩がわかることがあるのです。その先輩鍋は私が旧満洲の新京東光小学校の同期生、例によってA子さんとしますが、60年もたってからの同期生旅行会でお会いしたときジンパ学の話を聞かせたら、私の古い鍋を上げるということで頂いた鍋です。結婚して広島県呉市に住んでいたとき買ったということでした。
 送られてきた重い箱を開けてみたら、中に買ったときの外箱と説明書がそっくり付いていたのには驚きましたね。物持ちのいい人は違いますね。資料その15として、縦横とも15センチ、3つ折り6ページのその説明書の写真を見せますが、解説が読みにくいから、各ページの下に説明と合わせて書きました。

資料その15

  
@表紙
 全面が写真。背の低いコンロに鍋を掛けて大きな肉片3枚だけが焼き面にある。周環の仕切りからこれは大型の鍋と見られる。コンロ前にタレを入れた皿と割り箸、右側にカゴメのパーベキューソースのレッテルを正面に向けた瓶があり、周囲に玉葱、ピーマン、長葱、レモンなどが置かれている。その写真下部に重ねて、縦書きで「銀星印」、横に「成吉思汗」と「バーベキュー 調理器」と2行に分けて入れてある。


  
A表紙裏
 外箱と鍋、鍋だけと写真2枚が左側にあり、右側に下記のようにある。

●成吉思汗銀星鍋の特長
■煙がでません
 脂肪分の多いものを焼いても、煙や匂い
 がでませんので、室内でも屋外と同じよ
 うに御使用いただけます。
■栄養が逃げない
 肉、魚を焼いてでた脂(特にこの油に栄
 養があります)で野菜を素焼きするので
 栄養も逃げず、材料の風味をそこなわず
 おいしくいただけます。
■燃料は1/3ですみます。
 鍋は凸状になっていますので、小火で
 熱を有効に利用できます。燃料は炭、石
 炭、ガス、石油、煉炭と、何でも結構で
 す。
■丸焼き、丸むしもOK
 鍋を裏返しに火にかけ、熱くなったら火
 を小さくして下さい。いか、あわび、海
 老、貝、サザエ、鳥の丸焼き、野菜類で
 はピーマン、松茸、なすの丸焼きなども
 できます。


  
B表紙裏の対向面
「賞状/成吉思汗鍋セット/イースタン株式会社/右は第十一回名古屋金物/見本市の贈答用金物コ/ンクールにおいて人気投票/の結果優秀な成績を得/られたのでこれを賞します/昭和****九月十七日/名古屋市長小林橘川」という賞状を背景にした贈答用セットの写真。同セットは小型と思われる鍋1枚と皿5枚、醤油注ぎ(たれ入れと思われる)でなっている。写真下の宣伝文は下記の通り。

*喜んで受取っていただくのが上手な贈物のコツです……
     欲しいナ、と考えていたものをいただいたとき
    それは嬉しさを通りこして感謝の気持に変ってま
    いります。いただいたものよりもむしろその贈り
    主のゆきとどいたセンスに、心からお礼を述べた
    くなるでしょう。
     そんな贈物が銀星印の成吉思汗セットです。A
    セット(写真)のほか、Bセット、Cセットとい
    ろいろの組合せがございます。
     お中元、お歳暮、ご婚礼に、真心のこもった贈
    物としてご好評をいただいております。
    全国有名百貨店・家庭金物店にてお求め下さい。


  
Cパンフを開くと3面になり、その中央(裏表紙の真裏)のページ
 男女4人で鍋を囲んでいる写真が4分の3を占め、残る4分の1に組立式コンロの分解した様子と組み立て終わったコンロを外箱に乗せた写真がある。その隙間に下記の文がある。ここでもカゴメのバーベキューソースの瓶が真正面を向けて立っている。また鍋には玉葱など野菜がたんまり乗せていることがわかる。

●バーベキュー野外料理に組立式コンロもお伴に
最近流行のバーベキュー料理が好評を博しております。
海や山へのピクニックには、銀星なべ組立式コンロをぜ
ひお伴に加えて下さい。
径33cmはガス、煉炭、炭の三役出来るコンロです。
  新案特許 No 29501




  
D3面になったときの右端のページ
●成吉思汗料理のコツ
 まず鍋を熱し、ご使用前に脂身で表面を拭いて下さい。その脂身を鍋
の中央に置き、水をいれずに牛肉又は豚肉のパラを少々厚目に手切りに
して、野菜と一緒にのせて焼きます。
 中央に置いた脂身が熱で溶けて、野菜や肉にしみ込んだところで、カ
ゴメ・バーベキューソースにつけて召上がっていただきます。
「タレの作り方」にはコツがありますが、カゴメ・バーベキューソースを
お使い下されば、簡単に誰でも何処でもおいしい栄養価のたかい最高の
お料理ができます。
尚、薬味としてパセリ、ネギ、レモンの皮のミジン切りや七味を入れる
と一層風味を増します。

 その下に大小と思われる2枚の鍋の写真、右端にカゴメのバーベキューソースのレッテルがよく見えるように撮った瓶の写真がある。鍋はカネヒロの鍋のように中央に水平な焼き面がぽこんと盛り上がった恰好になっており、水平な焼き面に対して十の字型に脂落としの隙間が並んでいる。その写真の下に下記の説明がある。

●味好鍋<みよしなべとルビ>の特長は、成吉思
汗料理を兼ね、四方で湯
豆、すき焼、水たき、
パタ焼などができる重宝
な鍋です


  
E畳んだときの裏表紙になるページ
「CHINGGIS KHAN & BARBECUE COOKING BPROILER」という文字列の下に縦書きの短文がある。

 成吉思汗料理とは……
 成吉思汗料理は成吉思汗が戦場
で、鉄かぶとに穴を開けて羊の肉
を焼いて食べたのが初めとされて
おり、いわば一種の陣中料理でバ
ーベキューの元祖でもあります。
室内でも煙らない新案成吉思汗銀
星鍋で栄養ある料理を御賞味下さ
い。

  銀星印製造<下端のため以下ちぎれていて読めない>

 ウィキペディアによると、小林橘川は、昭和27年9月から昭和36年3月まで8年半、名古屋市長を務めた(33)とあり、賞状の何年かの9月と読めるから新聞は昭和35年9月までの9年間の9月分だけ調べるほか、私は愛知県図書館に第11回名古屋金物見本市の開催年を教えてとお尋ねしました。
 するとレファレンスの方が昭和34年9月16、17日に開かれた。第11回のことが載っている名古屋金物見本市協会編「名古屋金物見本市協会十五年史」(昭和40年9月発行)には鍋の広告もあり、製造元は「三重県桑名郡多度町宮川 イースタン株式会社」(34)と教えてくださった。これで新聞調べはその前後だけで済むわけで、私はさっそく大助かりですとお礼メールを送りましたね。
 新聞では中部経済新聞が最も詳しく、資料その16の通り3回載っていましたが、イースタンの社名がなぜかイースタンホームズです。鍋の説明書はイースタンだから、子会社が出品したのかも知れません。ともあれこの銀星印鍋は昭和33年ないし34年製とわかったのです。

資料その16

(1)金物大見本市
     16、17日に金山体育館で

名古屋金物見本市協会(会長大橋長造氏)主催第十一回名古屋金物
大見本市は、十六、十七の二日間、金山体育館で開かれる。出品商社
は家庭金物関係二十一、建築金物関係十三、利器工匠具関係九、鋳
物およびガス器具関係五、鉄鋼二次製品、火造金物、金庫関係八、計
五十六、協賛メーカーは約百五十社におよび、金山体育館全館を開
放、出品がふえているので各社ごとに防火準備もしている。
 また、併催の中部家庭金物卸商組合主「贈答用金物コンクー
 ル」もことしは卸部門のほか、メーカー部門も参加、入場者の
 人気投票によって愛知県知事賞、名古屋屋市長賞、名古屋商工会
 議所会頭賞などが贈られること になっている


(2)量、質そろった豪華版
     『名古屋金物大見本市』人気よぶ

名古屋金物見本市協会主催、愛知県、名古屋市、名会議所後援の第
十一回名古屋金物大見本市≠ヘ十六、十七の両日、金山体育館で開
かれている。年一回の総合見本市とあって、家庭金物の二十一社は
じめ、建築金物十三社、利器工匠具九社、鋳物とガス器具五社、二
次製品、火造金物、金庫八社の計五十六社が、それぞれの新製品を
出品、これに全国の有名メーカー百五十社からも賛助出品され
て、さすが広い会場もこの日ばかりはややせまい感じ。
 これ以外には金物と名のつくものはありません、というほどの
 量・質ともデラックスさである。ことしはとくに金物器具の
 値上げが発表されたあとだけに買気もつよく、市中、地方の金
 物屋さんたちは品定めやら契約に汗だくの奮闘ぶり。売上げは
 二日間で約一億二千万円が見込まれている。
なお、会場は贈答用金物コンクールも並行して行われており、きょ
う十七日、審査の結果、一位に愛知県知事賞以下市長賞、名商議会
頭賞がそれぞれおくられる。
【写真説明】にぎわう「名古屋金物大見本市」の会場


(3)知事賞は日新アルミニウムへ
       名市で金物コンクール

第十一回名古屋金物見本市に並行して贈答用金物コンクールが入場
者の人気投票によって行われ、このほど審査の結果、入賞者がつぎ
のとおり決った。
 【メーカー部門】▽愛知縣知事賞=日新アルミニウム(キリン
 セット)▽名古屋市長賞=イースタンホームズ(ジンギスカン
 なべセット)▽名古屋商工会議所会頭賞=日新アルミニウム
 (マダムなべ化粧箱入り)【問屋部門】愛知県知事賞=井手
 商店(キッチンセット)▽名古屋市長賞=三光商会(キッチン
 たなせット)▽名古屋商工会議所会頭賞=立松商会(モーニン
 グセット)

 さて鍋です。資料その17(1)が真上から見たイータスン鍋の焼き面です。直径が29センチあり、重さは、ゼロ点調整がちょっと怪しいバネ秤で量ったところ2.8キロ、頂点の高さは5.8センチと大型です。
 焼き面の頂点が5角形になっていて、そこに吉の下に古をくっつけて2つ並べた字、一見囍に似た字が彫り込まれています。頂点の5角形を囲んで脂流しの溝が2本ずつあり、さらにその2本の間の5角形からも2本の溝が並行して周環に彫ってあり、溝の交差でできる四角い島には丸穴が空いています。
 また周環に向かう溝でできる細長い6本の島にはそれぞれ脂流しの隙間があります。5角形の1辺毎に6本の隙間があり、周環を5等分する位置に仕切りがあり、その延長上に1本の短い隙間があるので隙間は全部で35本、丸穴は40空いています。それからね、周環には雷紋、ラーメン丼の四角い連続模様ですね、あれが仕切りごとに1つずつ浮き彫りになってます。縁は緩い高低があり、仕切りの位置は高くなっています。
 ジン鍋アートミュージアムこと鍋博物館とレトロスペース坂会館にね、この鍋と非常によく似た鍋があります。鍋博物館を鍋博と略しますが、同(5)が鍋博の鍋の焼き面、同(6)が底面の写真ですから見比べなさい。見た目は同じなので、鍋博鍋の写真を使っていますが、まだ直径、重さなどのデータが揃っていないので、同一という判定はできません。
 上から読んでも鍋博鍋、下から読んでも鍋博鍋、おっとっと、脱線はいかん。鍋博鍋は私の手元の鍋のように頂点の5角形の底辺が両方の取っ手を結ぶ線と平行ではなく、45度ぐらい右上がりになっていて、つれて頂点の字が傾いている。平行になる辺から見れば字は逆さに近いといえます。また仕切りがなくなり、連れてその延長上のあった短い脂落としの隙間がなくなり、深くなって溝に合わせて、三角のくぼみになり、縁の高低のほかに6カ所に浅い切れ込みになったところが大きな違いだ。
 同(2)が裏から見た鍋底で、周環の底に当たる部分に同(3)の「PAT NO 6354」と同(4)の「MADE IN JAPAN」の浮き彫りがあります。
 同(3)が底の外環に彫ってある特許番号です。鍋博の鍋とレトロ鍋は、頂点の字と底面の浮き彫りが同じですからも、イースタン製品であることは間違いない。つまり同型鍋が3枚あることがわかったのです。
 写真で底面を比較すると、同(6)鍋博鍋と同(7)にしたレトロ鍋は隙間の穴と線への掘り込みが厚ぼったくて下手な感じがするのに対して、同(2)は掘りが深く周辺処理が綺麗だ。顔に例えれば目鼻立ちがすっきりしているということから、レトロ鍋の方が先に作られた、古いように見えますが、焼き面の脂流しの溝を深くするために鍋を厚く鋳込んだせいだとも考えられます。近く鍋博にバネ秤を持って調べに行きますから、結果は私の講義録を見なさい。こういう比較と考察を積み重ねていけば、いずれ凡ての鍋を製造順に並べられると信じてるのです。

資料その17

(1)
  


(2)
    


(3)
    


(4)
      


(5)
  


(6)
     


(7)
      

 次は外箱の検討です。縦30センチ、横29.5センチ、高さ6センチ、資料その18(1)に見られるように全体にすすけているが、裏の底面は(2)のように汚れが少なく、説明文が読めます。外箱の横に呉市にあったらしい「旭スーパーストアー」と読める値札が貼ってあるが、値段は手書きだったらしく汚れで読めない。A子さんによると、家や職場で使っていたが、昭和42年に広島市に引っ越してからは借家だったので、汚してはいけないと一度も使わなかったそうです。それにしても鍋は錆ていないので、私も錆びたまま写しました。資料その18は外箱の写真と観察データです。

資料その18

(1)
     


(2)
       


1.外箱表面は中央に緑色の帯がある。帯の左端は吉の下が古にして2つ並べ、囍に似た感じの模様を入れた星形を置き、星の両肩に銀星という字がある。いずれも白抜き。中央は白抜きの大きな字で「成吉思汗鍋」とあり、その上に黒字で「BARBECUE」と印刷してある。
 緑色の帯の上側に「★何を焼いても煙のたゝない調理器」「栄養の逃げない鍋」の2行がある。下端には「意匠登録 NO.6354 MADE IN JAPAN」と小さめの黒字で印刷してある。

2.外箱左側が蓋で左から「御家庭に一つ」「じんぎすかん」とあり、前記両文の中央に緑の帯があり、その上に「銀星」と大の字を入れた丸がある。「じんぎすかん」の下は若紫といわれる色で「成吉思汗鍋」と印刷してあった形跡があり、明瞭な「じんぎすかん」はその振り仮名とわかる。

3.外箱右側は日焼けしておらず、左側と同じで、若紫色がはっきり残っている。

4.外箱上側は左から「銀星」「成吉思汗<じんぎすかんとルビ>鍋」「丸に大のマーク」と並んでいる。

5.外箱下側は上側に同じ。

6.外箱裏面は中央に四角い白地がある。そこに下記の説明が印刷してある。

 裏面の説明文は下記の通り。

新案成吉思汗(銀星)鍋の特徴

  (成吉思汗料理法)
鍋を熱し御使用前に脂身で表面を拭き後中央に置き水は最後まで入れずに牛
肉又は豚肉のバラを手切にして肉野菜等を焙焼するとエキスは鍋の周囲に入
り好みの材料を入れて焼上つたら(たれ汁)をつけて食す事にて最高の味と
栄養の逃げない御料理が出来ます(焼物は200度位の温度に熱したら火を
小さくしてください)

  (全然栄養の逃げない鍋)
新案成吉思汗鍋は凸状になつている為熱を有効に利用出来ます。肉・鳥・魚を
焼いても出た脂(特に脂に栄養がある)油を引く事も不要で煙もたゝづ焼物
が出来ます(鍋裏返し使用法イカ、あわび、貝類、ピーマン、松茸等の丸焼
は有合せの鍋ふたを御利用下さい)使用後は熱い時に洗って油引をして置く

  (成吉思汗たれの造り方)
(5人分) コンブのだし汁1カップ、酢大匙サジ5杯、醤油大サジ5杯、ソ
ース大サジ3杯、レモン汁又はリンゴのしぼり汁1個、食塩小サジ3杯、砂
糖小サジ4杯、味の素少々入れ熱して薬味はレモン柚子等の表皮パセリネギ
のミジン切を入れて下さい。  (御贈答記念品セットをぜひ)
 
  名古屋市金物展示会にて名古屋市長賞を受賞
      製造元 イースタン株式会社

  

参考文献
上記(31)と資料その13の出典はジンギスカン料理用鍋装置の特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 (32)は松井統治氏が昭和51年6月28日に特許庁に提出した実用新案登録願10ページより、 資料その14(1)から同(4)まで松井統治氏所蔵のジンギスカン料理用鍋装置の鍋本体と熱源用ハウジング=平成18年4月撮影、 資料その15はイースタン株式会社製造の成吉思汗銀星鍋の取り扱い説明書=原本、 (33)はhttps://ja.wikipedia.org/
wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%
E6%A9%98%E5%B7%9D
(34)は愛知県立図書館からの回答メール、平成23年11月受信、 資料その16(1)は昭和34年9月15日付中部経済新聞朝刊8面=マイクロフィルム、同(2)は同9月17日付同8面、同、 同(3)は同9月19日付同10面、同、 資料その17(1)から同(4)まではA子さんよりの銀星印鍋、 同(5)は鍋博物館所蔵の同型鍋焼き面、 同(6)同鍋の底面、 同(7)はレトロスペース坂会館所蔵の同型鍋、 資料その18(1)はA子さんよりの銀星印鍋の外箱の表、同(2)は同外箱の裏

 果報は寝て待て―といいますが、私は以上の先輩鍋の同類が見つかっただけでも、かなり満足していたのですが、たまたま某オークションで資料その19(1)にした写真を見付けた。こりゃ外箱と説明書付き、願ってもない研究材料だぞ。もし銀星印でなくても説明書が役立つ筈だからン万円まで競るぞと入札しましたね。
 ところがですよ、がんがん競り合うだろうという私の予想に反してだね。わずか980円で落とせたのですから授かり物です、大助かり。出品者に御礼メールは送らなかったけど、初詣で北海道神宮へ行き、今度はロストル鍋が出るようにとお願いしてきましたよ。ロストルなら5万円まで競ると予告しておきますか。はっはっは。
 さて真面目な話に戻して、今度は資料その19(2)の綺麗な外箱から中の鍋に向かう順序で考察します。カラーであり、表の字は皆読めるので説明しませんが、箱のサイズは縦横共に26.3センチ、高さ4.5センチです。表の飾り写真の鍋は縁が波打つように高低になっており、中身の鍋とは違います。資料その16(5)のレトロ鍋かとも思ったが、取っ手のすぐ脇に浅い切れ目がある点が異なり、別物と判定しました。乗せてある肉はかなり厚切りだし、脂身たっぷりで本当に羊肉なのか怪しい。
 外箱の側面をみると、上面と下面には「cooking broil」「CHINGGIS KHAN」と2行ずつ印刷してある。左面と右面には大きく「成吉思汗鍋」と入れ、その左上に片仮名で小さく「ジンギスカン」と印刷してある。右面にはそのほかに「ヤ」「NO26」と丸で囲んだ中の字があります。26は鍋の直径、商品分類として中サイズを表していると思います。ただ、鍋測定の経験から言えば、鍋の直径は底面の直径で表すはずなんですが、この鍋底で測ると23.5センチしかなく、上縁の間隔なら頂点の出っ張りがあるため正確に測れないが、26センチ見当になるので、26は直径の数値を表らしいとしかいえません。また鍋は説明書によれば「成吉思汗つば付き銀星鍋」であり、外箱に「中」とあるから、小の直径は20センチ前後でしょう。
 外箱の底は何も印刷されておらず白紙の儘です。同(3)で示すように鍋は「成吉思汗鍋」「美容栄養食」「イースタン」と赤い字で3行を印刷したビニール袋に入れ、箱に入っていました。

資料その19
(1)
      


(2)
    


(3)
        

 次は後輩の鍋。資料その20(1)が焼き面で、未使用らしく實に綺麗です。焼き面の頂点が5角形になっていて、そこに吉の下に古をくっつけて2つ並べた字、同(5)で示した囍に似た字が彫り込まれています。辞典にない架空の字だから私は模様文字と呼んでおるが、これが付いているのが銀星印の特徴の1つですね。
 頂点の5角形の各辺から深い脂流しの溝が2本ずつ周環に向かって彫ってあり、その溝の間の細長い島には長さ6センチの脂落としの隙間がある。さらに5角形の各角から逆V字型に溝が2本ずつ等間隔に彫ってあり、その溝によってできる逆V字型の島の先端部に丸穴が1つずつ、全部で10、穴が開います。周環には3本の輪が通っており、脂流しの溝6本毎に浅い脂だめがあります。焼き面全体の太い溝の方向が星形を感じさせます。つばのワラビ紋のような模様は、つばと同じ高さの取っ手の表面にも掛かっています。
 同(2)が底面。周環の底に当たる部分に「MADE IN JAPAN」と「JINGUS BRAND」と「NO.26」と3箇所に浮き彫りがあります。同(3)と同(4)がそのクローズアップね。鍋博所蔵のこれに似た鍋を同(6)と(7)で示しました。同(5)をよく見なさいよ、焼き面に違いがあります。どこか。はいはい、その通り。焼き面の脂落としの隙間がなくなり、逆V型の島の丸穴が減って5つになっています。この方が作りやすくて、隙間と穴周辺の仕上げがいらなくなるというメリットが考えられます。
 鍋博鍋はまた底面に「PAT 168793」という実用新案らしい登録番号が加わっている違いがあります。つまり手元の鍋同(1)はこの番号が決まる前の製品ということであり、鍋博鍋の同(6)の方が新しいと判定しました。どちらも「JINGUS BRAND」と彫ってあるから、イースタンがジンギス印の鍋の製造元かというと、まだ登録番号を調べてないので、一応イースタンはジンギスの会社ではないということにしておきます。
 同(8)は先輩後輩を並べてサイズの違いをみせたおまけで特に意味はありません。
 表紙のEページの柄付きの鍋敷きは聖火、富士山、円盤投げをデザインしているので、東京五輪のころ、昭和39年前後の発売と思うが、調べ忘れた登録番号168793がわかれば、はっきりするはずです。

資料その20

(1)
  


(2)
  


  (3)
  


  (4)
  


  (5)
     


  (6)
    


(7)
      


(8)
  

 こっちが本命だった説明書ですが、15センチ四方で3つ折り。拡げて表紙を1ページとし、その真裏を2ページとして、その右側の続きを3、4ページとする。裏返して左端を5ページとすると、その右の6ページが1ページの左隣となる―として各ページの内容を資料その21にしました。

資料その21

  
@表紙
 庭園にテーブルクロスを掛けたテーブルを据え、其の上に肉と野菜をてんこ盛りにした鍋とその周りにタレの瓶や皿が置いてある。おじさん2人が向き合って座り、若い女性がビールを注いでいるカラー写真。銀星印のところの字配りと字体は資料その13@の表紙と同じように下部に銀星印と縦に入れ、その右側に「成吉思汗」と「バーベキュー」と2行に横書きした右に「調理器」とある。
<左側の男性は資料その18Cの男性と同じ人物のように見える>


  
A表紙裏
<左の鍋の写真の下に> 成吉思汗鍋 大・中・小の3種類あります。
<右の鍋の写真の下に>
成吉思汗つば付き銀星鍋(中)(小)新製品
成吉思汗銀星鍋の特長<左端に縦書き、以下は横書き>
■栄養が逃げない
 肉・魚を焼いて出た脂(この油に栄養があります)で野菜を素焼きにする
 ので栄養が逃げず材料の風味をそこなうことなくおいしく召上れます
■鍋が凸状になっていますので 小火でも熱を有効に利用できます
 燃料は炭・ガス・煉炭のどれでも使えます
■脂肪分の多いものを焼いても 煙が出ませんので 室内でも屋外と同じよ
 うにご使用いただけます
■丸焼き、丸むしもOK
 鍋を裏返して火にかけ 熱くなってから火を細めます
 いか・あわび・えび・貝・サザエ・鳥の丸焼きなど 野菜類ではピーマン
 松茸・なすの丸焼きができます
<左の鍋の写真を拡大したBを見ると資料その16(5)の鍋であり、同時期に製造されたといえよう。またその外箱には「はだあれを防ぐ/美容栄養食/栄養のにげない鍋」と印刷されていたとわかる>

B
    

 Aの表紙裏の鍋の拡大写真ですが、これでみると縁の上端の切れ目が資料その16(1)と違っており、鍋博にある鍋の同(5)と同じです。つまりこの26センチ鍋は「PAT 168793」の番号入りの鍋と同じころ売り出しされたということですね。
  

C表紙裏の対向面
<たこ焼き鍋を含む3種類の鍋と道具を組合わせた3種のセット写真の左下に>
★喜んで受取っていただくのが上手な
 贈物のコツです……
<右下隅に>
贈り主のゆきとどいたセンスに 心
からお礼を述べたくなるでしょう
それが銀星印の成吉思汗セットです
AセットのほかBセット・Cセット
といろいろ組合せがあります
お中元 お歳暮 結婚祝いに 真心
のこもった贈物として ご好評をい
ただいております
新製品 蒸焼鍋は特に好評です


 
Dパンフを開くと3面になり、その中央(裏表紙の真裏)のページ<4種のすきやき鍋の写真があり、その下に新製品の白い蓋付きの蒸し焼き鍋の写真がある。その右側に下記の説明がある>

蒸焼鍋の特長
 使って便利な万能料理法
 鍋の上に昆布を敷き塩をふりかけて其の上に魚切身、
 貝類、鳥肉、玉子はそのまま野菜、キャベツ、ピーマ
 ン、キウリ、ナス好みの材料盛合せて蒸焼して八分で
 出来上ります。味塩をふりかけておけば、そのまま栄
 養の逃げない御料理が出来ます。
 その他ギョウザ、お好み焼、キッチンスターとして御
 使用下さい。


  
E3面の右端のページ

   成吉思汗料理のコツ

  (バーベキュー料理)
1.成吉思汗料理は 季節の野菜と 牛肉または豚のバラ肉を 厚目に手切り
  にしてご使用ください。
2.焼物の温度は200°としたもので それより高くなると 煙りますから 鍋
  温度をかげんしてください
3.中央においた脂身が 熱でとけて 野菜や肉によくしみこんだところで
  「カゴメ・バーベキューソース」につけていただきます
4.好みによっては 肉をもう一度 軽く焼いて頂きます
5.辛あじがお好みの方は 漬汁の中に 液体唐ガラシともいえる新製品の
 「カゴメ・レッドソース」を 1〜2滴おとし 混ぜあわせておきます
6.薬味として ネギ・パセリなどの ミジン切りを入れますと 一層風味を
増します

<たこ焼き鍋2種と鉄製と思われる鍋敷き3種の写真の左上に>
成吉思汗料理

たれ汁は カゴメ・バーベキュー
ソースを 御利用下さい
合せて漬け汁の中に「カゴメ・レ
ッドソース」を1〜2滴おとすと
一増美味が増します
<以上4ページ>


  
F裏表紙になるページ
  ■新聞にも紹介されたジンギスカン鍋の効果!
●誌上での文面は…………
ハダ荒れを防ぐ  ジンギスカンなべ
ジンギスカンなべは、中国から伝わってきた料理で、炭火の上に渡した鉄サンの上で、薄切りのマトン(羊肉)を焼き、好みのタレと薬味をつけていただくもの。しかもこのタレは、にんにくやしょうがゝ欠かせないもの、というところに、美容食として価値があるのです。
ところで、寒いときにとくに必要なビタミン類は、血液の循環をよくし、ハダ荒れを防ぐB2、B6、B12などです。尚、牛肉、豚肉、バラ肉も美味しく頂けます。
マトンは他の肉類と同様に、バランスのとれたタンパク質があるほか、前記したビタミンが多く含まれます。また、たれにつかうにんにくにはご存じのように、体内にはいってからビタミンB1になって、よい吸収率を示す成分もあり、にんにく入りのしょうゆをつけることによって、マトンのくさみをとると同時に、一層の効果をだすのです。
マトンといっしょに、ねぎ、キヤベツ、ピーマンなどを焼いて召し上がれば、申し分のない一品になります。
                                (市川桂子)

<左下にバーベキュー、BARBECUE、レッドの3種のカゴメ製ソースの写真があり、その下に下記の説明がある。>
カゴメバーベキューソースは360ml
ビン詰のほかに、レノパック詰(200ml)
もございます。
なお薬味として真赤な唐辛子とフルーツ
ビネガーからつくられた風味ゆたかなカ
ゴメレッドソースをお使い、いただくと
いっそうおいしく召し上れます。
<以上6ページ>

 平成29年、札幌に近い岩見沢にジンギスカン鍋を集めて研究するジン鍋アートミュージアム、ジン鍋博物館が開館し、収集鍋が250枚を超えたところで、イースタンの鍋はここまで私が話した小と中2種だけじゃなくて大もあり、さらに同じように頂天に囍の字に似た模様を彫った直径38センチ、重さはなんと6.5キロもある特大鍋も含めて4種あったことがわかったのです。
 溝口館長の報告によると、業務用か受注生産品と推測される特大鍋は取っ手から取っ手までは44センチ、縁の高さ4.4センチ、中心の高さ6.5センチ、脂だまりの幅7センチ。裏面の文字は「PAT NO 6354/GENGHISKHAN BROILER/PRINTED IN JAPAN」と読める。私もこの鍋は見てますが、航空母艦の甲板みたいはオーバーだが、とにかく雷紋を彫った周環が広くて実にでかい。
 それでイースタン鍋に似せた鍋、館長の言い方では従兄弟鍋2枚を左側に置いた6枚をスライドで見せましょう。イースタンの中は昭和33年製ということで、後ろの掲示のタイトルが「60年ぶり涙の再会 in ジン鍋博物館」と昔のお涙頂戴、母物映画の宣伝みたいだが、そこはそれ。60年前、昭和のレトロ鍋だからね。バカボンのパパじゃないが、これでいいのだ。はっはっは。


   

  

参考文献
上記の資料その19(1)の出典はヤフーオークションの出品リスト、平成27年6月、名古屋方面の出品者撮影、 同(2)はヤクオフ購入鍋の頂点、平成27年6月撮影、 同(3)は同鍋と包装のビニール袋、同、 資料その20(1)は同鍋の焼き面、同、 同(2)は同鍋の底面、同、 同(3)は同鍋の底面の文字列「JINGISU BRAND」、同、 同(4)は同鍋の底面の文字列「NO.26」と「MADE IN JAPAN」、同、同(5)は同鍋の頂点の模様文字と脂落としの隙間、同、 同(6)は鍋博物館所蔵の銀星印鍋の焼き面、平成28年5月撮影、 同(7)は同鍋の底面、同、 同(8)の右はA子さんよりのサイズ大の銀星印鍋、左はヤクオフ購入のサイズ中の銀星印鍋、平成28年7月撮影、 資料その21はヤクオフ購入鍋の取扱説明書、同

 さて、イースタン鍋の前に示した資料その7(2)の昭和8年の山岸鍋、昭和10年の糧友会の愛読者贈呈鍋、昭和12年の料理の友社鍋と成吉思荘の初代鍋を思い出して下さい。これらの鍋は皆、脂落としの隙間が一直線で、焼き面は膨れあがった簀の子みたいになっていました。私はこれを川型と呼んでおるが、いまの鍋は脂落としの隙間が頂点から放射状になっており、隙間 のない鍋の溝も同様に放射状に付いているので、私は星型または花型と分類している。
 戦前の木型が残っていたこともありましょうが、戦後も引き続き川型の鍋が作られた。日本緬羊協会の機関紙「緬羊」に掲載された日本緬羊株式会社の鍋の広告で示しましょう。私の調べでは昭和26年12月号と27年11月号の2回でした。1回目の広告は戦後のレシピの変遷の講義で使ったので、きょうは2回目の広告を見せましょう。資料その22です。550円という値段、ハンドルで持ち上げる川型鍋の写真は全く同じ、レシピの字句が少し違う(35)だけです。
 日本緬羊株式会社、略して日緬は日本緬羊協会が法人関係の法律改正で資材の販売ができなくなったために作られた組織です。それはともかく昭和25年の「緬羊」9月号に日緬の広告があり、その中に「ヂンギスカン鍋 一個三〇〇円 送料一個 七〇円/日緬K・K自製品、ヂンキスカン料理の作り方進呈(36)」という2行の広告があるので、日緬はこのころから鍋を売り出したようです。このころは敗戦後に起きたインレーションが続いており、1年後に倍近い値上がりもあり得たと思います。
 昭和26年12月号と27年1月号には「ジンギスカン鍋/家庭用、宴会用に是非御用命を!!!/本年の新製品は大好評で追加新製/品完成入荷(37)」と4行広告があるので、25年広告の鍋はやはりこれだったと思いますね。

資料その22


      

 生々流転。満蒙型から発した日本のジンギスカン鍋は、ここでまた流転するんですなあ。ある時点で星型鍋が出現し、こりゃ恰好いいと星型造りが流行だし、遂に川型が市場から姿を消した、それどころか多くの家庭では買い換えて川型は捨てちゃったらしい。だから、私の講義録の目次で10余年呼び掛けても反応がないのだと解釈しとるんだが、いままた鍋博物館として面目に掛けてもこうした古い川型鍋を加えたいと、館長が血眼になって探し廻っても見付からない。前にもいったかも知れんが、川型を2、3枚持つジン鍋博物館が本州に出来てごらん。道民の家庭に必ず1枚はあるなんて真っ赤な嘘だったとなるよ。
 では彗星のごとく現れたらしい星型鍋を考え出したのは、どこのだれなのか。古そうな星型鍋の持ち主に尋ねたところで、子供のころから使っていたなど製造年月、購入年の情報は得られません。そうなると、ごく少数の鍋ですが、底などに刻まれている特許番号に頼るしかないが、たかがジンギスカン鍋じゃなか、そんな先祖なんか調べてどうするんだとね、まあオーソドックスな研究対象としては洟も引っかけてもらえないが、そこはジンパ学です。満蒙型の流れを汲む川型鍋から日本独自の星型鍋が生まれた、蛹から蝶が出たような劇的変化という点でも、きわめて重要なテーマであります。
 成吉思荘の鍋の話を思い出して下さい。工業所有権情報・研修館で調べられるのです。といってもグーグルやヤフーで検索するような訳にはいかず、相談員の方々のご指導を仰ぎつつ、いや私みたいに特許番号の違いもわからない素人の場合、いちいち検索して頂くようなものだが、とにかく調べることができるのです。
 ジンギスカン鍋の実用新案として公告された件数は平成27年5月現在で161件、この中で最初に現れる星型鍋の考案者は東京の谷口ンメカ氏だった。ンから始まる珍しい名前だが、多分女性、漢字を当てはめれば梅の香りと書くのでしょうが、そのお方が昭和27年に出願して29年に実用新案目録に登録されていました。その目録の登録番号が417157番、つまりジンギス印の鍋に彫り込まれている「PAT.No 417157」だったのです。
 星型の元祖の出生証明書として重要なので、資料その23に登録書類に近い形で全文と図を引用させてもらいました。初期のジンギス印はひっくり返して蓋をして蒸し焼きもでき鍋を狙ったとは、これを読むまで思いも寄りませんでしたね。この際、特許問題調べの参考になるようこの後の資料はなるべく特許庁の各公報の組み方に近づけて引用しました。

資料その23

 127 E 27     特許庁         実用新案出願公告
          実用新案公報        昭29-4165
   公告 昭29.4.22  出願 昭27.12.16   実願 昭27−32545
出願人  考案者 谷口ンメカ   東京都板橋区板橋町1の2547 土屋多喜三方
代理人  弁理士 宮田憲介             (全2頁)
<
   蒸焼兼用焙焼鍋

   図面の略解

 第1図は本案蒸焼兼用焙焼鍋の平面図、第2図は一部を切欠いた側面図である。

   実用新案の性質、作用及効果の要領

 本案は膨隆状を為す鍋1の中央部に円形凹窠2を設くると共に該円形凹窠2を中心として放射状に区分し、該区分線の各区劃毎に山形に並行する細条透孔3を穿ち細条透孔3間を凹溝4とし更に凹溝4の末端に於て之と接続して内側溝5内に油汁溜部6を設け且内側溝5の外周に外側溝7を設けて成るもので8は内側溝5と外側溝7を連通する溝、9は油汁の流出口、10は把手、11は油汁溜部6の外底にして脚体としたるものである。
 本案は上記する如く膨隆状に形成したる鍋1の中央に円形曲窠2を設けたるを以て鍋1を熱源にかけたる初期に於て熱気は円形凹窠2の下底に当り他の部分よりも早く加熱せらる、従つて円形凹窠2内に油身の断片を入れるときは之が鎔融と共に放射状に設けたる凹溝5内に流出し従来の如く油をいちいち引く必要なく獣魚肉、野菜類を凹溝5内の部分全体に載せ焙焼出来るものである。
 而して之等の焙焼と共に生じる油、液汁は放射状に区分した各区劃毎の凹溝4内を迅速に周側の溜部6に流下するから油液汁を無駄に焙焼することなく又更に油汁溜部6より溢出したるものは内側溝5、外側溝7に順次受けられると共に外側溝7に依り油、液汁等の飛散並びに獣、魚肉、野菜等が傾斜せる凹溝4部から鍋外に跳出することを防止すことができる、又本案鍋は之を裏返しにして内部に魚類、野菜、果実等を収容し上部に適合する蓋を為し内容物を蒸焼することが出来るものである。

   登録請求の範囲

 図面に示す如く膨隆状を為す鍋1の中央に円形凹窠2を設くると共に該円形凹窠2を中心として放射状に区分し、該区分線の各区劃毎に山形に並行する細条透孔3を穿ち、細条透孔3間を凹溝4とし更に凹溝4の末端に於て之と接続して内側溝5内に油汁溜部6を設け且内側溝5の外周に外側溝7を設けて成る蒸焼兼用焙焼鍋の構造。

    

 この説明はわざとわかりにくくしているように思うのですが、脂落としの隙間があるのかないのか、一読したぐらいではわからん。ひっくり返して蒸し焼きに使えるというからには、簀の子みたいだったら水蒸気が洩れちゃって蒸し焼きにならないだろう。だから隙間なし、つまり脂と肉汁が火の中にしたたり落ちて発生する煙は出ない、肉が焦げる煙しか出ない鍋だろうと推理するのが関の山ですよね。
 ところが明快なる説明が新聞に載っていたのです。昭和27年7月7日付け読売新聞夕刊の婦人欄の「お買いもの」に、谷口ンメカさんが実用新案を出願した星型鍋とみられる鍋の記事と写真か載っていたのです。資料その24がそれです。室内でも焼けるという特長を示すためらしく、わざわざガス焜炉に掛けている。写真から焼き面の頂天が非常に高く縁は水平、左手前に突き出た脂の捨て口が見え、取っ手は枠型でかつ少し上反角が付いていることがわかる。ぜひ探し出してジン鍋博物館に飾りたいものです。

資料その24

   


  成吉思汗なべ

なべ料理といえば、とかく冬のもののように思いがちだが、夏場に羊、豚、牛などの肉を鉄なべでジュージュー焼きながらたべる成吉思汗料理は、なかなか野趣に富んだもの。写真の成吉思汗なべは、鉄面に放射状のミゾがつけてあり下方に油がたまるように作られているから、従来のように油が火に落ちて、着物にハネ返ることも、あたりが煙ることもない。また裏返して、有合せのなべ蓋を使うと淡泊な魚類や貝類、これから出回るナスやピーマンの蒸焼に便利。炭火、電気コンロ、ガスにかけられ、一つあれば半永久的。小型五百円、大型七百円。(日本橋・高島屋調べ)

 後で脂落としの隙間のない焼き面の無煙鍋を取り上げますが、谷口さんの蒸焼兼用焙焼鍋は「細条透孔3を穿ち」つまり隙間があるのですから、この星型かつ無煙というジンギスカン鍋のデザインの大革命、いやコペルニクス的転回だったのですなあ。
 私はグーグルの画像検索ができる前からホームページで出会った鍋関係の写真をコピーして集めていました。今になると、パソコンが何台も代替わりして、もはやURLが定かでない古い写真が結構ありまして、それを掲載すると無断転載になりますよね。著作権を尊重して転載のお許しを得ようと調べると、ずっと以前に書き込みが止まっていたりして、今となっては制作者の調べようがないページかあるのです。
 それでね、さし当たりご容赦願って無断転載し、出典不明となっている写真を掲載したホームページを制作された方が私にご連絡くださるのを待ち、すぐ転載のお許しを願うことにして講義を進めます。資料その25(1)は鍋博物館の溝口館長がオークションで買ったジンギス印の鍋に付いてきた取り扱い説明書の1枚目で、この6つの登録ナンバーを調べました。一番上の実用新案417157は谷口さん、いいですね。
 同(2)は2枚目で書いてあるレシピです。どこかで見たような―と、検索したら灯台もと暗し、すぐ前の資料その17のイースタン鍋のレシピが似ているんだなあ。つまりね、何人分何キロと羊肉の量は書いていないことと、タレにウースターソースと酢を入れるところは同じで、違いはタレの量。イースタンは大宴会向けか15人分なのに対して、こっちは常識的な5人分です。
 またイースタンが「レモン、柚子、ネーブル、橙等のしぼり汁一個分、塩、テイースプーン二杯、砂糖同じく三杯、味の素少々」と書き、ジンギス印は「レモン汁又はリンゴのしぼり汁1個、食塩小サジ3杯、砂糖小サジ4杯、味の素少々」と並べ方も似ている。ジンギス印は柚子、ネーブル、橙を思いつかなかったらしいから、イースタンはこっちを手本にしたような気がします。
 別の講義で戦後のレシピの変遷を取り上げるが、その講義用に70件ほどレシピを集めてあるので、それをキーワード「ウスター」で検索したら、ウースターソースと酢を使うタレは昭和37年に出た井上幸作著「洋食教本」にある「ジンギスカン鍋」だけだった。ホームページを検索すると、井上さんは関西の有名料理長だったらしいが、ジンギスカンは和風カオヤンローなんだから、洋風カオヤンローもありさ。ふっふっふ。

資料その25

(1)
    


(2)
   成吉思なべ
       (厚生省・日本栄養士会推薦)

「鍋」の概念を破つた科学的なこの鍋の発明は栄養・美味・衛生・労力と燃料節約・すべての点で、すき焼・バタ焼・網焼を遙かに凌いで居ります。
ジンギスカン料理・バーべキユー(肉の直火焼)は世界各国に流行を極めて居ります。それは直火で焼きたてを食べてこそ肉も魚も野菜も最高に美味しく又栄養も豊富だからです。
本器は従来の難点(煙と臭気が立つ)を全く解消して居りますから、奥様方に大変喜ばれて居ります。

   御使用こ就いて

一、新しい鍋は最初石ケン湯でタワシをかけ好く洗つて下さい。
一、鍋を二分間位熱してから中心に脂身一片を置き野菜類を焼いて周囲におろしてて後に肉類。魚類を焼き始めて下さい。焼き始めましたら火を弱くする事をお忘れない様にして下さい。
一、御使用後は鍋の熱い内良く洗い更に熱して乾わかして薄く食用油をお引き置き下さい。

   たれの作り方

コンブのだし汁一合、酢五勺、醤油五勺、ウスターソース五勺、レモン、柚子、ネーブル、橙等のしぼり汁一個分、塩、テイースプーン二杯、砂糖同じく三杯、味の素少々(右は十五人分)
薬味はネーブル、レモン、柚子、橙等の表皮、パセリ、ネギと三色位をミジン切とし、黄、青、白と色どりよく盛合せ、他に胡椒、ニンニク、オロシ大根等お好みに応じ右の調味料に加えて戴きます。(ポン酢、生姜醤油にても可)


      

 さて、研修館で検索させてもらった結果、資料その25(1)の写真の上から2つめの467326は実用新案特許とあるので、実用新案目録から探すとね、番号間違いらしく昭和30年にトンボ楽器が得たハーモニカの骨枠になり、特許なら昭和4年の特殊製鋼が得たアンテナが出るのです。でも、3つ目から下の意匠と商標の登録4つががわかったのです。
 谷口さんは実用新案のほかに鍋と七輪の意匠登録をしていました。3つ目の100531が鍋、4つ目の124417が七輪で、資料その26はそれらの説明と図解です。この出願日からすると鍋の意匠登録が先です。平面図できっちりした星形、断面図できれいな球形を示してますが、これでは脂落としの隙間があるのかないのかわからん。それで改めて隙間のない鍋であることを明確にするため実用新案としても登録したのでしょう。
 その後谷口さんは中央区に引っ越し、鉄製の七輪の意匠登録をしたことになりますが、その出願に際して代理人に藤江という弁理士を頼んでます。私は5つめと6つめの意匠登録をした西生スエヨという女性が谷口さんの鍋となんらかの関係を持つに至ったのは、この藤江弁理士が仲立ちをしたからだと思いますね。

資料その26

(1)
              特許庁         
             意匠公報          第7類
 100531    出願 昭27.3.13  意願 昭27-1309  登録 昭27.9.3
      意匠権者(考案者)  谷口ンメカ  東京都板橋区板橋町10の2547
      代理人  弁理士  宮田憲介          

意匠の名称     肉焼器の形状お呼び模様の結合
登録請求の範囲   図面に示す通りの肉焼器の形状及び模様の結合
意匠を現すべき物品 第7類 肉焼器

    


(2)
              特許庁         
             意匠公報          第6類
 124417    出願 昭31.2.8  意願 昭31-1491  登録 昭32.1.18
      意匠権者(考案者)  谷口ンメカ  東京都中央区宝町2の2
      代理人  弁理士  藤江穂          

登録請求の範囲   図面に示す通りの七輪の形状及び模様の結合
意匠を現すべき物品 第6類 七輪

       

 東京麻布にいた西生スエヨという女性は昭和33年にジンギスカン関係の商標を2つ登録しています。これから察するに、西生さんは東京のどこかで成吉思本舗という料理店を開き、店名を商標として登録する手続きをした。蒙古兵士のシルエットのマーク出願がその半月後ですから、弁理士に勧められたのかも知れませんが、どうせならマークもと手続きをしたことが考えられます。資料その27が西生さんの商標登録2件の図面と説明です。

資料その27

(1)
商標出願
公告  昭33-9620       
    公告 昭33.5.19  出願 昭32.12.12 
    商願 昭32-34614

       

  指定商品7  他類に属しない金属製品
  
  出願人 西生スエヨ 東京都港区麻布霞町17
  代理人弁護士 藤江穂


(2)
商標出願
公告  昭33-11612       
    公告 昭33.7.9  出願 昭33.12.30 
    商願 昭32-36560
連合商標登録番号 420351 

       

  指定商品7  他類に属しない金属製品
  
  出願人 西生スエヨ 東京都港区麻布霞町17
  代理人弁護士 藤江穂

  

参考文献
上記の(35)の出典は日本緬羊協会編「緬羊」32号16ページ、昭和25年9月、日本緬羊協会=原本、 (36)は同48号16ページ、昭和27年11月、同、 (37)は同46・47合併号16ページ、昭和26年12月、同、 資料その22は同58号16ページ、昭和27年11月、同、 資料その23は蒸焼兼用焙焼鍋の特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 資料その24は昭和27年7月7日付読売新聞夕刊4面、婦人欄「お買いもの」=マイクロフィルム、 資料その25(1)はジン鍋博物館所蔵ジンギス印鍋の取り扱い説明書「御栞」1枚目、平成28年5月撮影、 同(2)は同2枚目、同、 資料その26(1)は肉焼器の特許庁意匠公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 同(2)は七輪の特許庁意匠公報、同、 資料その27(1)は成吉思本舗の特許庁意匠公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 同(2)はトレードマークの特許庁意匠公報、同

 兵士マークの登録が谷口さんの意匠登録から5年後ですが、実際にはジンギス印ながら登録番号のない鍋があるので、谷口さんと鍋の製造会社は密接な関係にあり、意匠登録と同時ぐらいにジンギス印と銘打って鍋を売り出したらしいのです。しかし、製造会社がどこにあるのかがわからん。何社かが星型の鍋にジンギス印のマークと登録番号417157を入れる申し合わせて、それぞれのスタイルの鍋を作ったと推測するしかなかったが、平成29年になってやっとわかったのです。ジンギス印はね、やっぱり複数のメーカーが作った鍋だったのです。だからジンギス印という商標は同じでも、その字体は勿論、蒙古兵士のマークの有無など、いろいろ異なる鍋が現存するとわかったのです。
 きっかけは鍋の通販をしている長野県のあるショップの方から愛知県のある人なら知っていると思うと教えられたことでした。でも、見ず知らずの人に、いきなり電話でこういうことでジンギス印の鍋を調べているというよりも、この講義録の谷口さんと西生さんの登録のところをプリントして先に郵送しておき、狙いを理解してもらってから話を伺ったのです。
 匿名希望で聞いたことですから要約して話しますが、85歳になるその方は若いときから金物販売業界で働き、谷口さんは知らないが、西生さんは会ったことがある。東京・広尾に住み薩摩琵琶の先生だった。成吉思本舗があり、そこの番頭がいろいろ仕切っていた。その方は名義料とはいいませんでしたが、なにがしか金を払うことによりジンギス印を名乗ることができたので、川口や山形などのメーカーが鍋を作った。
 最初は谷口さんの実用新案通りの焼き面に脂落としの隙間のある鍋を作った。これは鋳造が難しく、不良品が多く出て困った。関東ではあまり売れなかったが、北海道では春から夏にかけてよく売れた。そのうちに北海道の金物業界から煙の出ない鍋がほしいと要望され、それで隙間なしの鍋を作り始めた。これは鋳造しやすくて助かった―ということでした。
 私はこの話を聞き、慌てて谷口さんの実用新案公報を読み直しましたね。「該区分線の各区劃毎に山形に並行する細条透孔3を穿ち細条透孔3間を凹溝4とし」は、隙間ありなのですね。羊肉からにじみ出た脂と肉汁は、まず畝の上にある細条透孔3から滴り落ち、油汁溜部6にたまるのは畝の間の凹溝に流れ込んだ分だったのです。私は星型に広がる山脈の尾根に隙間を作り、山脈と山脈の間は谷と見たのだが、谷口さんはロストルはまったく念頭に置かず平面に星型の隙間を作り、隙間と隙間の間を凹ませるという考え方で書類を書いていたとはねえ。
 読売新聞の記事は昭和27年ですから、谷口さんの出願とほぼ同時。しかも隙間がないということは、出願前から脂落としの隙間のある星型鍋を作っていて、北海道からのリクエストを知るや、すぐ隙間なしの鍋を作り始めたと解釈せざるを得ません。生き馬の目を抜くような鋳物工場があったんですね。
 資料その28(1)でもう一度、谷口さんが実用新案で登録した鍋の説明図を出して、その下の現存する脂落としの隙間あるジンギス印鍋の最大公約数と考える鍋の手描きの説明図を比べてみよう。脂落としの隙間を表す赤黒線を消せば、そのまま隙間なしの鍋の説明図になるのはわかりますね。両図の間にあるのは上(1)の説明に使われた呼び方で、下の(2)の図でそれに対応する箇所に同じ番号を付けました。油汁の流出口9を下になるように描いた外に、青写真と実際に作り出された鍋は、山形に並行する細条透孔という3の位置が全く違うことがわかりますね。
 私が9を下に描いた理由は2に左向きの蒙古兵士マークが入り、青写真ではわからなかった鍋の正面ができたからです。笑っちゃいかん。大抵の物体には正面があるのです。例えば夕張メロンの正面はどこか。丸い果実に付いているTの字型の蔓がね、お辞儀をしたように曲がっている方向が正面。そこに純正夕張種を証明するラベルを張るのです。蔓が根元からもげたらジュース用だね。おっとっと、脱線でした。
 正面から見ると、ジンギス印という商標は周環の左側で下から上向きに並ぶことになり、登録番号は右側に上から下向きになり、合わせて文字配列は時計方向になる。それから取っ手は輪になっている平たい紐を捻り交差箇所では着物と同じく右前になるよう反時計方向に2回捻りしたデザインにしている。
 さらに正面から見れば円を5分割する直線の畝があり、直線の畝間に3つ重ねの山型の畝がある。脂落としの隙間は、直線の畝に長い隙間を造り、山型畝の最上層の畝には交差しないよう中ぐらい長さの隙間、中層の畝には同じく短い隙間を造り、最下層の畝は隙間なしだ。よって長中短の隙間5本を1組とみれば星型の5方向合計25本となります。
 そこでジン鍋博物館です。230枚の中から私が谷口さんの登録図解に近いと見る兵士マークのないジンギス印の写真を資料その27(3)にしました。決め手は油汁溜部、脂だまりの長さが等長ではなく、油汁の流出口の面した脂だまりが明らかに短い。計ったことはないのだが、焼き面の5分割は等角度ではないと思います。この鍋の頂天のクローズアップが同(4)、字体は同(4)です。
 よく見てもらいたいのは、写真を大きくした同(6)です。実にきれいな焼き面なのに、なぜか畝の尾根の溝の幅も長さも不揃だよね。函館でいまも隙間ありの鍋を作っている上野山技巧の上野山隆一さんによれば、この隙間は鋳型ではうまく出来ず、底の方からグラインダーみたいな薄い刃物を当てて、形を整えるらしいのです。木型と鋳型の関係は、そのときはわかったと思ったのですが、いざ誰かに伝えようとすると、こんがらかってダメ。いずれもう一度教えて頂くつもりでおります。

資料その28

(1)
   


  1 鍋             6 油汁溜部
  2 円形凹窠          7 外側溝
  3 山形に並行する細条透孔   8 内側溝と外側溝を連通する溝
  4 凹溝            9 油汁の流出口
  5 内側溝          10 把手

(2)
   


(3)
  

(4)
      

(5)
      

(6)
  

  

参考文献
資料その28(1)は蒸焼兼用焙焼鍋の特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 同(2)は尽波満洲男・画、 同(3)〜同(6)はジン鍋アートミュージアム館長溝口雅明撮影・提供、平成29年10月15日

 資料その28(3)は焼き面を含めてきれいな仕上がりの鍋を選んだのであって、私が見たジンギス印で一番古そうな鍋を資料その29で見てもらおうかね。この鍋は月寒の元種羊場、いまの北海道農業研究センターに務めておられた北村さんという方が研究仲間を通じて、資料として私に進呈するといわれた鍋2枚の写真です。
 この(1)でわかるように脂落としの隙間があり、右にジンギス印と浮き彫りになっている。同(2)は左の取っ手の前のクローズアップ。永年金属ブラシで擦ってから洗ってきたからか、字がすり減って読めなくなっていますが、例の417157だったかも知れません。同(3)は底ですが、何も彫っていません。
 もう1枚の同(4)は一目瞭然、隙間なしの新しいジンギス印。同(5)でわかるように取っ手の穴が1つという変わり型です。同(6)はこの鍋が納まっていた箱で、きれいなまま保存されていました。
 道開拓記念館には義経鍋しかないようだからと、私が勧めたので北村さんは間もなく寄贈したと聞きました。3枚のような気もするので、そのころの研究日記を見たら平成17年8月18日に北村さんのお宅に伺い、2枚を撮影したと書いてありました。また平成21年10月に開拓記念館が開いた「70年前のジンギスカン、どんな味?」という体験講座で学芸員がこの鍋は4年前に月寒種羊場に務めていた方から寄贈されたと説明したと日記にあるから、平成17年寄贈は間違いない。
 記念館は北海道博物館と衣替えして、以前と同じく所蔵品の一部を検索できるようにしていますが、平成28年7月現在、ジンギスカンでも鍋でもジン鍋の画像は出てこないんだなあ。錆がひどいからと捨てはしないと思うが、北海道遺産は名前だけ、肉を食うことだけで、鍋なんかどうでもいいらしい。はっはっは。

資料その29

(1)
  


(2)
     


(3)
   


(4)
    


(5)
   


(6)
    

 それにしても、道内から隙間なしで煙の出ない鍋がほしいとリクエストされ、それで星型隙間なしが作り出されたというのは、いい話だなあ。また隙間なしは作りやすく、不良品が減れば採算上も大助かりだったでしょう。
 私がこれまでにみた鍋ではジンギス印が一番多いと思うので、ジン鍋博物館の溝口館長にジンギス印の枚数を尋ねたところ、写真右下の四角い鍋もジンギス印と彫ってあり、底面に兵士マークがあるのでカウントして平成29年9月現在、214枚のうち15枚、7%を占めるとのことでした。彼は意識してジンギス印を集めたわけではないそうですが、こういう割合でした。資料その30は鍋博物館のジンギス印勢揃いの写真です。

資料その30

  

 この後ですが、溝口館長がもう1枚、扇矢印のメーカーなのにジンギス印も作った証拠といえる鍋を入手したので資料その31でその写真を見せましょう。(1)が鍋とその化粧箱です。そのままの位置でジンギス印であることがわかるようクローズアップしたのが同(2)ね。同(3)は底面にあるマーク。これは扇形に矢を重ねた商標ではなく、崩れた中の字と見ます。なにしろどこかの鍋を型どりしたらしく、脂落としの隙間の形が不揃いで右取っ手の穴が2つしか開いていないとか極めて雑な作りだ。
 扇矢印だという決定打は同(4)の箱のです。これはジン鍋博物館の紹介報告で示した扇矢印の箱と同じく「扇印」です。ここをクリックすれば、鍋博報告の扇矢と浮き彫りのある鍋と買ったとき鍋が入っていた箱の写真にジャンプするから、よく見なさい。
 溝口館長によると入手先は大分県だったというから、札幌のAさん所有の箱は赤い「中国・夏宮」ですが、九州向けは、それを親しみある長崎のグラバー邸の涼しげな写真に取り替えたことが考えられます。
 箱の側面の「成吉思汗鍋」「最高級鋳鉄製/特殊焼付処理」が同じで、異なるのは「中」の字が「26cm」になっているだけです。それから「扇印」ですが、これは扇矢印の業者が矢の字抜けに気付かず何種類か大量に箱を作ってしまったので、目をつぶって使ったとみますね。だから今後、箱の写真だけ違う扇矢印がいくつか見つかるんじゃないかな。

資料その30

   (1)
      

   (2)
      

   (3)
      

   (4)
      

 さて、ジンギス印の隙間なし鍋出現を知ってかどうかわかりませんが、日本緬羊協会でも脂落としの隙間のない鍋を考えてたんですね。日本緬羊協会の機関誌「緬羊」の昭和29年2月号に煙の少ない鍋の試作しているという記事(38)が載っています。その後「緬羊」にはその鍋の記事は見当たらないのですが、8年後の昭和35年10月号と11月号の裏表紙に無煙鍋として広告(39)が載っていました。鍋試作の記事と鍋の広告が資料その31の(1)です。10月号の広告は国会図書館の所蔵印が重なっているので、ハンドルの形がわかるのでダブりですが、11月号の広告を同(2)にしました。
 広告の左の鍋は見た覚えがありませんか。そうです。資料その4とスライドで見せた鍋ですよ。日本緬羊協会、略称日緬が売っていた鍋だからニチメンの鍋と呼ばれたのでした。鍋の値段は「@ふつう形 大(径 28.5cm)650円 小(径 24cm)550円  A無穴形 (径 28.5cm)650円 いずれも把手つきです」となっています。しかし、この書き方ではどっちの鍋の値段なのかわからん。どっちも同じ値段だったのかも知れません。
 鍋に添えたずんぐりしたハンドルの形に注目してほしいね。滝川市郷土館の壁面に1本だけ飾られているハンドルそっくりだ。資料その5でわかるように、あそこにはこの「ふつう形」があるから、ハンドルはそれに付いてきたものでしょう。反っているため長さがわからないが、鍋の直径が28センチだからほぼ真上から見てその半分14センチはありそうだから、全体の長さは18センチぐらいでしょう。
 資料の整理がまずくて「緬羊」何号といえないが、多く買えば割引くという広告があります。それが同(3)で大型は1〜5枚は単価600円、6〜10枚は550円、11枚以上は500円。小型は1〜5枚は単価500円、6〜10枚は450円、11枚以上は400円で送料は日緬負担としています。
 新発売、改良新型とうたっているから昭和35年より後でしょう。写真をよく見ればこれは焼き面を5分割した1区画にある最長の隙間の両脇に3本ずつだが、旧型は4本ずつだ。新型は最も短い楕円の穴みたいな隙間をなくしたのです。きょうの講義の始めに見せたスライドの鍋は旧型ですね。講義録を読んでいる人は確かめなさい。同(4)の広告も年月不明でおまけだ。いずれ調べて正しい発行年月を明記します。
 脱線だが、私は昭和31年卒で、そのときの授業料は年額6000円だった。いまは53万ちょいだから88倍、その比率でいくと650円の鍋は時価5万円を軽く超える。いま1万円もするジン鍋は売ってないでしょう。でもね、私が川型と呼ぶストーブのロストルみたいな鍋があったら、私は研究材料として5万円で買うね。小遣い稼ぎをしたい人はロストル型の鍋を見つけて私に売りなさい。喜んで買う。本気の話だよ、はっはっは。えっ、さっきもいったって、はっはっは。

資料その31

(1)
   無煙型じんぎす鍋を完成

 日緬販売課ではこの程写真のようなす
き間なしのじんぎすかん鍋を試作、関係
方面にテスト焼?してもらつているが、
この新型鍋の特徴は@アナがないので油
が落ちず、したがつて発煙率は従来のも
のに比べて三分の一以下になり、殆んど
「煙」の心配はない、A油が落ちないの
で、ガスコンロ等にも安心して使え、都
市の家庭向きとして好適である。B孔が
ないので、魔法コンロ等に載せた場合密
着してしまうので、空気抜けのために脚
を付けたこと…等であるが、一方試用者
側にいわせると『確かに発煙の悩みはな
くなつたが、すき間がないので、火熱を
もろに受ける度合が強くなつたためか、
肉が鍋に付着してしまうので、絶更ず油
を敷くことに気を配らねばならない。し
かし油落ちや前述の発煙のおそれがない
ので、家庭なかんずく室内でやるには好
適だ』とのこと。


       


(2)
       


(3)
     
(4)
          

  

参考文献
上記資料その29(1)は札幌市月寒・北村氏所蔵のジンギス印鍋の焼き面、平成17年8月撮影、 同(2)は文字列が浮き彫りになっていたと思われる同鍋の周環、同、 同(3)は同鍋の底面、同、 同(4)は札幌市月寒・北村氏所蔵の鍋にある太字体のジンギス印、平成17年8月撮影、 同(5)は同鍋の底面、同、 同(6)は太字ジンギス印鍋の外箱、 資料その30は鍋博物館所蔵のジンギス印鍋、平成29年9月、溝口雅明館長撮影・提供  (38)と資料その31(1)の出典は日本緬羊協会編「緬羊」129号10ページ、昭和29年2月、日本緬羊協会=マイクロフィルム、 (39)と資料その31(2)は同150号裏表紙、昭和35年10月、同、 資料その31(3)と同(4)は日本緬羊協会編「緬羊」号番号、ページ番号、発行年月調べ中=原本コピー

 無煙鍋のまとめ買いの続きですが、山形大まで出かけて集めた「緬羊」コピーに載っていないかと探していて、日本緬羊協会の後身である畜産技術協会の倉庫に古い鍋が残ってないかお尋ねすることを思いついたのです。メールで伺い、あるなら東京湯島ですから計測に行くつもりでしたが、協会緬羊山羊振興部から資料その31にした写真など7枚も頂き、無煙鍋とニチメン鍋の2種が技術協会に保存されているとわかった。いま改めてご協力に対してお礼を申し上げます。
 資料その32(1)は無煙鍋2枚で裏と表が見えます。左端の金属の輪は火力調節用とみられますが、付属品だったがどうかわかりません。同(2)から焼き面の縁の高さは3.5センチ、頂点の高さは5センチと察せられます。
  鍋の直径ですが、私の経験からすると、ジンギス印に限らず、鍋の直径は底面の直径いいますが、無煙鍋は底面の造りが同(3)でわかるように、輪の上に乗ったようなニチメンの銘入り底面を直径とすれば、巻き尺の目盛りは輪の外側まで26.5センチ、その外の縁の幅2センチと読めるので両側合わせて直径は約30センチ、同(4)から周環の幅は3センチだったのですね。
 また通称ニチメンの鍋は脂落としの隙間数が星形の1方向に9つだから旧型の方ですね。周環の幅は3センチで無縁鍋より広かった。
 緬羊協会は昭和38年11月に緬羊会館に直営「成吉思汗・緬羊会館」を併設して営業を始めたのです。ところが意外にもこれらの鍋は使わなかったのです。無煙鍋の候補の一つだったのではないかと思われる一見すき焼き鍋みたいな鍋でした。いまとなってはその選択理由はわかりませんが、資料その32(6)はその鍋の説明、同(7)は鍋の形がわかる写真、同(8)は6人で囲めるテーブルを横から見たところで16卓を用意したとあります。

資料その32

(1)

   


(2)
   


(3)
   


(4)
   


(5)
   


(6)
<略> このなべは本会が数年前に考案したもので、通称無穴型なべと称し、表面には全然穴があいておりません。このため羊肉の油が下の火に落ちして煙が出るというおそれはなくなりましたが、火力をまともにうけるため従来の穴あき型に比べ表面の油が乾きやすく、熱の当たりがつよいので動もするとこげつきやすいのですが、それはテーブルの真下にある火力源にあるところのガスのコックをちょっと弱目に調節していただくことによって加減できます。<略>
(日本緬羊協会編「緬羊」129号9ページ、昭和38年12月、日本緬羊協会=マイクロフィルム、)


(7)
   
(同号表紙、同、)


(8)
     
(同10ページ、同、)

 鍋博にある250枚を超える鍋の中に焼き面に短い煙突を付つけた鍋、資料その33(1)がそれですが、その取っ手に同(2)のように「PATENT 48229」にもう1つナンバー3か9があります。そこで研修館へ参上して482299で探したら、ズバリ旭川市の塚本真氏が昭和31年に出願し、実用新案出願公告の昭33−7745号として登録された鍋とわかりました。ジンパをやっている皆さんなら同(3)の図解を見たら構造の見当がつくでしょう。
 焼き面が傾斜していて脂は周環に落ち、煙突は七輪の中を通ってくる空気の流れをよくして火力を強め、また煙突にきっちり嵌まる筒型の蓋5を被せて煙突がなかったときの空気の流れにして火力にブレーキを掛ける。蓋と煙突に7で示す小穴があって、両方の穴を合わたり、ずらして塞いだりして、煙突の働きを少し加減することもできる鍋でした。道内からの出願なので同(4)として新案の説明をつけました。いまもこの形の鍋が売られています。

資料その33

(1)
      


(2)
       


(3)
      


(4)
 127 E 27     特許庁         実用新案出願公告
          実用新案公報        昭33-7745
   公告 昭33.5.23  出願 昭31.11.7    実願 昭31−54908
出願人  考案者  塚本真    旭川市二条通8の左の2
代理人  弁理士  勅使河原七治        (全2頁)
<
   成吉思汗鍋
  
   図面の略解

 図は本案の構造を示す第1図は全体の横断面図
第2図は周斜面図、第3図は一部の斜面図である。

   実用新案の説明

 本実用新案は成吉思汗鍋の改良に係る考案であ
つて、図中1は鍋の周縁で中央に設けた肉焼台部2
との間に汁留溝部3、3を形成したもの4は煙突で
肉焼台部2の先方に突設し上部一側に調節用孔7
を穿設したもの5は煙突蓋で煙突4に冠着し煙突
4に有する調節孔7と合致する孔7’を有するもの
6は溝部3の一側に設けた余汁注出ロ8、8は鍋の
両側に設けた把手9は火焔当り部である。
 本実用新案はこのような構造のものであつて従
来品のように肉焼台2に肉片を並べて焼焦するも
のであるが、従来此の種の鍋は火炉に掛けた場合

火炉に於ける空気の供給を妨げ之が為め火力は消
滅する事あり。
 然るに本案は前記の如く焼台2の先方に煙突を
設け且之に空気調節孔7を設けた蓋5を冠着し空
気の流通を調節するようにしたから、従来の如き
欠点なく又煮沸した余剰の汁は注出口6から容易
に注出し溝3から溢出せしむる事がないから卓上
を汚損すること無く極めて有益なる特長がある。

   登録請求の範囲

 図面に示すように肉鍋の中央に肉焼台部2を設
けその周囲の鍋縁1との間に溝3を形成しその一
側に注汁口6を設け肉焼台2の一端部に火力調節
用孔を有する煙突4を突設し之に空気調節孔7を
有する蓋5を冠脱自在に冠着して成る成吉思汗鍋
の構造。

 焼き面を2枚重ねにして、下の火の中に脂がしたたり落ちるないようにしたサロン印鍋の登録者もわかりました。発案は川口市の高橋理平氏で昭和33年に実用新案で登録されていました。この鍋はレトロスペース坂会館の講義で昭和34年の新聞広告のことと、金色のしゃちほこ形のハンドル付きだったことなどを話したから、覚えているでしょう。登録番号ではなく実用新案公報の鍋の図解を見ていて見つけました。
 資料その34(1)が焼く前の正規の鍋の姿。高橋さんの説明用語を借りれば上鍋は外せるので、外してところが同(2)で、右が上鍋、左が下鍋です。上鍋のつるりとした焼き面の5方向、6本ずつの隙間にぴったり合わせ、隙間の下には水も洩らさぬじゃない、羊肉からの溶け出した脂は1滴も火に落ちないようように作られた溝の集合体になっているのです。
 同(3)はサロン印のサイズ大の底面。鍋博物館には大が2枚あり、それぞれ底面に特許番号が彫られていますが、片方は5つなのに対して写真の鍋は7つです。つまり、7つの方が後から売り出されたことがわかりますが、それだけ高橋さんが製品改良に励み、特許管理をしっかりやっていたということですよね。
 同(4)は上鍋の脂落としの隙間と下鍋の溝の方向の平面図で、同(5)は重なり方の断面図です。説明にありますが、周環に上鍋を固定する突起があるので、上鍋は回らず、隙間と受け溝がずれて脂が火の中に落ちること起きません。

資料その34

(1)
   


(2)
    


(3)

<    



(4)
      

(5)
      

(5)

 127 E 2      特許庁         実用新案出願公告
(127 C 7)    実用新案公報        昭33-12162
   公告 昭33.8.12  出願 昭32.9.18    実願 昭32-41543
出願人  考案者  高橋理平   川口市本町4の23
代理人  弁理士  浅村成久外1名        (全2頁)

   焼鍋

   図面の略解
 第1図は本案焼鍋の縦断側面図、第2図は上鍋
の平面図、第3図は下鍋の平面図である。

   実用新案の説明

 本考案は上下2枚の格子状鍋より成り上鍋の格
子からたれる油を、下鍋の格子の溝状部で受けて
周縁に集まるようにしたものでその構造を図面に
ついて説明すれば、1は上鍋で各格子2はその下
面を円弧状にえぐり取つて両側に突縁3,4を形成
し、下鍋5は上鍋1の格子聞隙と一致する格子6
を有し、各格子6の上面には凹溝7を設け、下鍋
の外周に設けた油溜部8に連絡せしめ、油溜部8
の一部に突起9を突設し、之に上鍋1の一部に設
けた凹陥部10を嵌め込んで上下両鍋の関係位置
を確保するようにしてある。
 本考案は前に述べたような構造から成つている
からこの鍋を炭火の上にのせ、上鍋1の上に肉を
おいて焼くと油がたれて格子の下部突縁3,4から
下鍋5の格子6上に設けた凹溝7に落ち之を伝お
つて外周の油溜部8に流れ込むからこの部で野菜
やその他のものを煮ることが出来、従来のものの
ように油が直接炭火上に落ちて肉が黒くなるよう
な事がない。

   登録請求の範囲

 図面に示すように上鍋1の各格子2の下面をえ
ぐつて縁部に突縁3,4を設け、下鍋5には上鍋1
の格子間隙と一致する格子6を有し、各格子の上
面には夫々凹溝7を設け、下鍋5の外周には油溜
部8を突設し、上下両鍋を重合わせて成る焼鍋の
構造。

 10年ぐらい前「『井草の黒うさぎ』の部屋」というホームページで資料その35(1)の写真を見つけました。関東に住むノムオダ家にある鍋(40)だそうですが、外箱に蝦夷成吉思とあるので、てっきり道民の登録だろうと思っていたのですが、今回248751という番号から川口市の角田栄一氏が昭和40年に意匠登録した鍋だとわかりました。北海道向けのパッケージだったかも知れんが、焼き面が真っ平らで周環がお堀のように深い特徴ある鍋です。
同(2)はジンギスカン鍋博物館の溝口館長が見付けて収集品に加えた蝦夷成吉思です。外箱が日焼けして黄色くなっているが、同(1)と比べると鍋の絵の下が「新案特許意匠登録/出願中」となっているから、248751と特許番号が入った同(1)より先に売り出された鍋ですね。同(3)が意匠公報の説明と図解です。こうして鍋情報が集まるから私はすべての検索を欠かさないのです。

資料その35

(1)
      


(2)
   


(3)
    特許庁
昭和40.7.28 発行   意匠公報       11
意願 昭38-22422  登録 昭40.6.12
      意匠権者(創作者)  角田 栄一    川口市栄町3の119
      代理人  弁理士  安田照明
意匠に係る物品  両手鍋
説明       左右側面図は対称
    

 資料その36にした義経鍋は私が特許公報の鍋の図解で見つけた鍋です。特許公報の図でわかるように5枚の小さな焼き面が連結しており、その中央の円筒形の鍋で煮物も同時にできる鍋です。昭和33年に北上市の後藤忠夫氏が特許を取っており、公報の「発明の詳細なる説明」の一部は省きました。
 製造販売元の南部義経堂のホームページによれば、後藤氏が旧満州ハルピンでモンゴル人の羊肉水炊きを見て、焼き肉も同時にできる鍋のヒントを得た。源義経が平泉に落ち延びる途中、キジを食べて精を付けた故事とジンギスカン義経説から義経鍋と命名した(41)そうです。
 私が顧問になっている岩見沢のジン鍋博物館には4人用の義経鍋もあるが、この写真の鍋は義経工業株式会社の製品。底面に243370という番号が刻まれています。
 奈良県にある某ホテルに、この鍋を使った料理の義経鍋があり、その由来も書いてありますが、昭和33年に生まれた鍋だなんてことは一切書いてません。当然ですよね。ふっふっふ。

資料その36

 127 C 7      特許庁         特許出願公告
(127 E 2)     特許公報         昭33-2082
   公告 昭33.3.26  出願 昭32.2.25    特願 昭32-1378
発朋者       後藤忠夫    北上市黒沢尻町字町分第16地割232
出願人       木和アサ子   同所
代理人  弁理士  南巳代司          (全2頁)

    鍋

   図面の略解

 図面はこの発明の実施例を示すものであつて第
1図は縦断正面図、第2図は一部欠戴平面図であ
る。

   発明の詳細なる説明

<略>これを要するにこの発明は適当にいため煮され
た肉や野菜の汁が斜面状の調理室に沿つて流れ前
記の汁が失はれることがなく調味料と共に混合し
且適当に暖められておるから先にいため煮炊した
肉や野菜は美味で且栄養が高い等の効果がある。

   特許請求の範囲

 燃焼室上に形成した覆蓋の中央に開口部を又該
開口部の周側から覆蓋表面を経て周縁に至る迄の
間に数条の放射状劃壁を形成しその劃壁間の上側
を斜状面の調理室としその下側に調味料室を形成
し調理時に流出する凡ゆる汁が調味料室に流れ込
むようにした鍋。
      


     


 朝日新聞の懸賞小説に選ばれた「氷点」で一躍有名になった作家の三浦綾子は義経鍋が好きで「丘の上の邂逅」とには「この義経鍋は、誰にご馳走しても必ず喜ばれる料理で、マトン、鮭、貝、鶏肉、えび、しゅん菊、かぼちゃ、ねぎなどを鉄板の上で焼いたり、真ん中のスープ鍋で煮たりしながら食べる料理なのだ。(42) 」と書き、また「丘の上の邂逅」に「<略>章子は皿の上からホタテ貝や鮭の切り身を鍋の上にのせる。モヤシやネギは、中の出し汁の中に入れる。義経鍋は真ん中にものを煮るへこみがあり、その周囲は広い鍔になっているのだ。」と「果て遠き丘」に書いた(43)とあります。
 「丘の上の邂逅」では、さらに「この中に出てくる義経鍋が”北海道鍋”の前身なのである。(44)」と断言している。北海道鍋なんて寡聞にして私は知らんが、三浦綾子記念文学館の森下辰衛特別研究員が書いた「丘の上の邂逅」収録作品解題の義経鍋の項を読んでわかりました。
 森下によると「義経鍋は義経が大陸に渡ってジンギスカンになったという伝説から、日本の汁鍋とジンギスカン鍋を組み合わせた形の鍋。中央に水炊き用の鍋があり、周囲に庇状になった焼肉用鉄板がある。これから発した北海道鍋は北海道の形をしている。(45)」つまり、丸い鍋の縁を北海道の形に拡げたジン鍋のことだ。資料その37はジン鍋博物館にあるそれと思しき鍋で義経鍋と似てなくもないが、水炊きのへこみよ、いずこ。義経鍋から発展したみるのはちょっと無理じゃないかねえ。
 三浦は「鍋ものというと、大てい煮るだけとか、焼くだけとか決まっている。が、この鍋のおもしろさは、材料のどれでもすべて、焼いた食べたければ焼き、煮て食べたければ煮ることのできるところにある。その自由さがひどく楽しいのだ。無論、充分においしい。(46)」ことは認めますが、北海道鍋の前身説は頂けませんなあ。
 義経鍋には3人用と4人用もあり5人用までと思っていたら、人数不定型もあったんですねえ。昭和43年の「婦人生活」に「ジンギスカン鍋と同じようなものです。」と紹介されていますが、本物が850円なのに対して、こっちは1400円と違いがある。変わり型もあるということで、資料その37(2)にしました。これなら日本刀とはいえなくても竹刀の鍔には見えるでしょう。

資料その37

 (1)
   


 (2)
        


 はい、次。資料その38は焼き面にたくさん付けた凹みに脂とたれがたまるようにして、肉の焦げ付きを減らそうと工夫された鍋です。川口市の長谷川五平氏が昭和40年に特許を取っていますが、同(1)の鍋裏のねじを外すと全体が3つに分解できる変わった構造です。焼き面の汁だめのくぼみが同(2)のような独特の模様を形作っております。同(3)が特許公報の説明と図解の一部です。

資料その38

(1)
      


(2)
      

(3)

 127 E 2      特許庁         実用新案出願公告
         実用新案公報        昭37-1836
   公告 昭37.2.10  出願 昭34.10.20    実願 昭34-456233
出願人  考案者  長谷川五平   川口市寿町135
                            (全2頁)
   肉焼器

   図面の略解

 第1図は本考案の肉焼器の断面図、第2図はそ
の平面図で全面が同一模様形状をなしているので
その一部分のみが示されている。

   実用新案の説明

 本考案はガス焜炉または炭火等の上にこれ等熱
源をほとんど覆うように置かれて使用される肉焼
器、例えばジンギスカン焼用の肉焼器に関するも
のである。<略>

     

  

参考文献
上記資料その32(1)と(2)と(3)と(4)と(5)はいずれも平成30年4月、畜産技術協会緬羊山羊振興部より、 資料その33(1)の出典は鍋博物館所蔵の煙突付きの焼き面、平成28年5月撮影、 同(2)は同鍋の取っ手、同、 同(3)と同(4)は成吉思汗鍋の特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 資料その34(1)は鍋博物館所蔵の2重鍋の焼き面、平成28年5月撮影、同(2)は下鍋から上鍋を外したところ、同、 同(3)から(5)は焼鍋の特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 (40)と資料その35(1)は「井草の黒うさぎ」の部屋・改  過去ログ23、 http://www.geocities.jp/
soraphoo/gk023.htm 同(2)は両手鍋の特許庁意匠公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 (41)は南部義経堂のホームページ「よくあるご質問」、http://yoshitune.info/
PanService.html (42)は三浦綾子著「丘の上の邂逅」107ページ、平成27年4月、小学館=原本、(43)と(44)と(46)は同169ページ、「旭川とわたし」より、同、 (45)は同198ページ、同、 資料その36は義経鍋の特許庁意匠公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 資料その37(1)はジン鍋アートミュージアム所蔵品、平成30年8月、溝口雅明館長提供、 同(2)は婦人生活社編「婦人生活」23巻2号327ページ、「卓上鍋」より、昭和44年2月、婦人生活社=館内限定デジ本、 資料その38(1)は鍋博物館所蔵の積み重ね型鍋の底面、平成28年5月撮影、 同(2)は出典不明の積み重ね型鍋の焼き面、撮影年月不明、 同(3)は肉焼器の特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在

 繰り返しになるが、PAT何々という番号だけでは本当の特許なのか実用新案なのかわからないのです。いまいった長谷川鍋に付いている2つの番号(47)のうち580155が特許だとすると、昭37-19519のアメリカ人出願の金属メッキ装置になり、573575が実用新案だとすると川口の長谷川五平氏の肉焼器で昭37-1836で実用新案出願公告となり、ああ、これだったかとなるわけです。
 また資料その39(1)にしたヤマハ印寿鍋の286465(48)なんか特許だとすると昭36-8327のゴム補強充填剤となり、実用新案だとすると昭和15年公告の安井富三郎氏のモザイクタイルとなり、合わないのです。同(2)のタイコーという鍋の417125はジンギス印鍋の417157に近いのですが、実用新案だとすると繊維加工処理剤となり、意匠の番号かも知れないから、いずれ調べ直します。
 3枚組みのこの写真はね、PICKUP CAMPERと名乗る方が開いていたブログ「《新》軽快・気軽にオートキャンプ」にあるもので、私はいつごろの鍋かなどとお尋ねメールを送り、返事を頂いたのですなあ。それをすっかり忘れて2年ぐらいたってから、また意匠登録番号の417152の最後の2は細い字体のように見えるがなどとお尋ねメールを送るという失態をしでかした。質問は2度目だといわれたのには参りしたね。せっかくの講義ですから、この際3枚とも見てもらうことにしたのです。
 最初のイースタンの大きい方の鍋の6354にしても、特許番号で探したら明治36年の「灰吹」という煙突みたいな灰皿であり、実用新案なら玩具、意匠なら静岡県のお菓子であり、こうした宿題がたくさん残ってるんです。

資料その39

(1)
         


(2)
    


         

 さて、食の文化フォーラムで朝鮮戦争の後、いらなくなった鉄兜が焼き肉用に使われたような話があったらしいのですが、この作り話の原形は蒙古兵士の鉄兜をかたどったとよくいわれるジンギスカン鍋だと思うので、この際、実物がどんな形だったか見せましょう。元寇の役のクビライ軍の遺物が福岡市の元寇史料館にあり、その兜の絵葉書を資料その40にしましたから、よく見なさい。
 (1)は工芸作品みたいな兜だから将軍とか指揮官のような偉い人物用でしょう。手前は彼等の短い弓です。同(2)は兜と鐙です。要は頭を刀や矢から守れば十分という簡単な作りからみて下級兵士用だね。肉を焼くとしたら狭い庇しかない。こんなとんがり兜のどこをかたどってジン鍋を作ったのか、そういう説を真面目に唱えておる方々に伺いたいものです。
 同(3)は「北海道遺産 こぼれ話4」という企業広告です。蒙古兵士の兜とは書いていませんが、なぜか「鉄かぶとの形」と説明しています。「中央部が盛り上がり」なら麦わら帽子でもいいんじゃないかねえ。何、あんなふにゃふにゃで、つば広じゃ鉄鍋のイメージにならないって? それもあるか、はっはっは。
 どうしても蒙古の何かにこだわるならばだ、私はラマ僧の帽子といえば、まだマシだと思うのです。証拠は資料その40(4)と(5)です。(4)の前3人の帽子は兜より遙かにジン鍋に近い形をしている。これは昭和13年に出た国際写真新聞の紙面(5)に載っていた写真です。同(6)が写真3枚の上にある説明。便服とは普段着のことです。

資料その40

(1)
   


(2)
      


(3)
           


(4)
    


(5)
           


(6)
    蒙古風俗の研究は困難

   幾世紀もの長い時代を凡ゆる高   は、古代風俗の理解、風俗史の研
  度文化から隔離されて過して來た   究ともなるのである。
  だけに、彼等の風俗また頗る程度    神秘的な喇嘛教の支配と支那文
  の低いことは何うしてもまぬがれ   化の浸潤は彼等の生活を非常な迷
  ない。               神的なものとしてしまつた。
   統制された文化がない以上、そ    この傳統的な、そして神秘的な
  れが多種多様に亘ることは當然で   風俗を正確に理解することが如何
  あり、従つて廣漠たる土地に的確   に困難であるか、蒙古が今まで世
  に風俗を把握することは容易なこ   界の謎として、好奇的な興味的な
  とではない。            存在であつたにも拘はらず、蒙古
   然しながら、内部的に文化の發   風俗に関する文献の少いことを見
  展のなかつた、従つて矛盾の殆ん   ても知られる。
  ど絶無な、遊牧制を持続して來た   上 冬服を着けた役人
  彼等に今尚多分に残つてゐる古代   中 便服を着た婦人と子供
  からの風習を研究することは、即   下 便服の喇嘛僧
  ち彼等の現代風俗を理解すること

 それから資料その5のフォーラムで田中さんが「北京の烤羊肉の鍋は、いま日本で使われている鍋状のものを大きくしたもの」と説明していますが、資料その41は「中国名菜譜 第一輯 北京特殊風味」の原本に載っている北京の有名店烤肉季の鍋の写真と炉の絵です。写真の解像度がよくないが、焼き面は幅の狭い鉄棒をぎっしり並べ、全体として平らな円形だとわかりますね。
 この本を中山時子氏が訳した「中国名菜譜 北方編」の説明によれば、図1の左の鉄と王篇に不の2字は「鉄製の輪」、下はそのまま「烤肉炙子」(49)となっています。ただ訳本は烤肉炙子を円盤に紐の輪みたいな絵で、鉄棒のすのこの感じがまるでないので、違いを知ってもらうために敢えて原本の写真と絵を拝借しました。
 図2は焼き面をはずしたら現れる炉です。訳本は番号はなく、それぞれの個所に線を引いて1は「黄土」、2は「鉄製の火鉢」、3は「丸テーブル形の木製置き台」とし、全体を「烤肉季の烤肉炙子用火鉢と木製置き台」としています。焼き面の説明は「直径六〇pの、縁つきの丸い鉄盤で、底には一・二〜一・五p幅、約〇・三p厚さの鉄の棒が並んでいて、鉄の棒の間には〇・三pの間隔がある」(50)と訳されています。中央が盛り上がっていると思えない焼き面が「日本の鍋状のものを大きくしたもの」ですか。遠い遠い祖先の形を伝えてはいるのでありましょうが、もはや日本の焼き面は全く別物だと合点がいくでしょう。

資料その41

  

 おしまいにジンギスカンに似たお狩り場焼きの鍋調べを話しましょう。研究仲間から慶応大学新聞研究所年報の「婦人雑誌広告―昭和前期」という論文(51)に「松竹映画『新道』で紹介された純肉すきやき『兜なべ』を食べさせる料理店8店の連名広告】と書いてあると教えてもらったのがきっかけでした。雑誌名がわからないから、映画から調べたら原作は菊池寛の「新道」で、子爵令嬢の朱実がある男を深く愛したけれど、男が事故死する。それで死んだ男の弟一平が身ごもっていた兄の子のために兄に代わって朱実と結婚する(52)というストーリーでした。
 原作では朱実のお腹で育っている兄の子をどうするか相談するため、朱実は一平とアラスカというレストランで会い、食事をするんですね。朱実が「オニオンにスパゲツテイ、後レタースが、ほしいわ。」というと、一平は「兄貴は何處へ行つても、スパゲツテイの後レタース、それにチキンの料理が好きだつたし‥‥」(53)と注文する。兜鍋なんて出てきそうもない、どうになっておるのか。
 仕方がないから、3900円もしたVHSテープをオークションで買って物置から古いビデオデッキを出してきた見ましたね。それでわかったのですが、監督五所平之助と脚本家野田高梧が場所も料理もすっかり変えて田中絹代の朱実と一平の上原謙はね、銀座のお狩り場焼きを出す料理屋で会うようになっていたのです。店に入って朱実が「変わったところね」というと、一平は「お狩り場焼きといって、とってもうまいんですよ」(54)という。美男子のサンプルみたいな上原が、耳慣れない料理を「ンまいんですよ」と保証するんだから、思わず一度は食べてみたいと思った観客は少なくないでしょう。映画が封切りされた昭和11年の一般市民には、お狩り場焼きという料理は目新しかったたようで、昭和12年2月10日の読売新聞に新宿の鳥田中という料理店が出した広告の「味覚の極致 鴨のお狩場焼」(55)には「かりば」と、2字だけに振り仮名をつけています。
 映画では直径40センチぐらいで焼き面に大きめの丸穴が並んだ鍋で、テーブルは鍋専用らしく下は七輪か焜炉か隠れて見えない。女中が注文を聞くと、一平は見繕いでいいといい、ビールはと聞かれるとサイダーをもらうという。結局丸穴の並ぶ焼き面はちらり見えたけど、2人が番茶を飲むだけでこのシーンは終わってしまったのにはがっくりきましたね。
 資料その42(1)は「お狩り場焼き」の鍋と呼ばれるようになったらしい「兜鍋」を紹介した記事、同(2)はその写真です。私はね、この記事から鍋の形湯や使い方を説明をした大石長五郎という人物は、浅草の「とんかつ喜太八」の店主、大石辰五郎ではないかと思うんです。辰を長と誤植だとすれば、以前の講義録で取り上げた「大石式開化食卓」を考案した大石辰五郎であり、ある程度の資料もあるのです。  それから私は「糧友」で、この兜鍋の広告を見た覚えがある。どうもこの記事より早かったような気がするのですが、どれもこれもコロナのせいで調べに行けない。いずれ特許申請と合わせて調べに行き、ここに付け足します。
 それからね、兜鍋に似ているのが同(3)で示した実用新案の焙焼器です。兜鍋のように頂天の円盤がないし、張り巡らしたように縁にないから明らかに別件ですが、店によってはお狩場焼の鍋として使われたかも知れません。

資料その42
(1)

これも時代の要求
 スキ焼きに革命
  新しい煮方の發明
          
新考案の     寒さとともに
『兜鍋』     スキ鰍きのシ
<2行横見出し> ーズンに入り
         ますが、こゝ
にも時代のカが現れて、一変異が
見られます、外国人からも「シユ
キヤキ」とさわがれ国際的美味と
認められてゐるものゝ、これまで
の通り普通のスキ焼鍋で、わり下
をドプ/\に入れて煮るのはいさ
さか飽かれ、ビフテキに近い味覚
が喜ばれる傾向があります
 こ れ は 最近のグリル
       (焼き肉専門店)
の続出でも分りますが、家庭で簡
単にやるには『ジンギスカン鍋』
のやうなやり方が、一番よいが、
太い鉄の傘のやうな、あの道具は、
脂が落ちて、煙を立て家中すつか
り燻されてしまひます、そこでス
キヤキ鍋を無理に使つて、チリ
い焦げつかせたりしてゐました
が、最近珍しいスキヤキ鍋が特許
をとり、スキヤキ料理に新生面を
開きました
 大 体 の システムは、
       「ジンギスカ
ンなべ」にもとづいてゐますが、鉄
の傘状鉄棒のかはりに、クローム
メツキされた二枚の椀状鉄板を用
ひ、これに火の通る道として、円
い穴がポツ/\あてあり、鐵兜を
伏せたやうな形をしてゐます、上
下同じやうな形の鍋を、穴をたが
ひちがひにしで火の上に乗せ、一
分厚くらゐの肉を鍋の表面でヂリ
ヂリ焼くのです、鍋の周囲に溝が
ついてゐてそこにジユースがたま
り、ねぎ、しゆんぎくなどをそこ
へ置けばいゝぐあひに煮えます、
牛肉、豚肉はももろんバカ貝など
もこの方法でやれば
 自 然 の 味と栄養価を
       失はず、とて
もおいしくたべられます、クロー
ムメツキのおかげで、焦げついて
もたやすく洗ひ落すことができま
すが、肉の表面にサラダ油をざつ
と引いて焼くと、絶対に焦げつき
ません、おろし、醤油または食塩
と山椒粉と調味料をまぜたものな
どをつけるのが、一番あつさりし
ておいしい、焼く前に肉を生フド
ウ酒にちよつと浸ると風味を一層
増します(大石長五郎氏談)(写真
が新案スキヤキ器兜鍋)
(昭和11年11月11日付東京日日新聞朝刊5面=原本、)


(2)
   

(3)

昭和十二年 実用新案出願公告第四七四六號 第百二十九類 三、焙焼器
願書番號昭和十一年第三〇一八二號
出願  昭和十一年九月七日
  公告  昭和十二年四月十三日

東京市品川区大井關原町一二六九番地
             考案者 木村彰三
        東京市京橋区銀座二丁目二番地五
             出願人 合資會社十一屋商店
        東京市小石川区原町十二番地
             代理人 弁理士 早川潔
    焙焼器

圖面ノ略解
 第一圖ハ縦断正面圖第二圖ハ平面圖ニシテ一部切欠ス

実用新案ノ性質、作用及効果ノ要領
 本考案ハ数個ノ脚(1)ヲ備ヘタル環枠(2)上二数多ノ氣孔(3)ヲ開穿セル火皿(4)ヲ支持セシメ且ツ全面二渉リテ小孔(5)ヲ有スル緩球凸面板(6)ヲ覆載シタル構造二係リ火皿(4)内二炭火ヲ入レ緩球凸面板(6)ノ上面ニ肉又ハ魚等ヲ載セ焙焼スルモノナリ環枠(2)ハ脚(1)ヲ備ヘ火皿(4)ノ周縁(9)ヲ掛合嵌載スヘクシ一定ノ高サニ支持シ下部二水皿(7)ヲ挿入セシムルモノナリ而シテ該水皿ハ輻射熱ニヨリ蒸汽ヲ発生セシメテ空氣卜共ニ氣孔(3)ヲ通シテ炭火内二流通シ燃焼ヲ旺盛ナラシム緩球凸面板(6)ハ金属板ヲ圧搾形成シ全面二捗リテ小孔(5)ヲ開穿セルカ故二火氣ノ発散自由ニシテ板自体モ亦赤熱セラレ載置サレタル魚肉ハ良ク焙焼セラレ液汁ハ球面二沿ヒテ周囲二流レ火皿内二入リ氣孔(3)ヨリ水皿(7)内二滴下ス(8)ハ緩球凸面板ノ把手トス
 本考案ハ以上ノ如ク数多ノ小孔ヲ開穿セル火皿ト緩球凸面板トノ間二炭火ヲ入レ脚ヲ備ヘタル環枠上二支持セルヲ以テ少量ノ炭火ニテ通氣良好燃焼旺盛ニシタ消火ノ憂ナク燃料ノ節約ヲナシ単ニ緩球凸面板上ニ載セ焙焼シ得テ使用上便利ナルモノナリ
 又熱板カ緩球凸面ナレハ液汁カ周囲二流下シテ焙焼ヲ妨ケサル効果アリ

登録請求ノ範囲  
 圖面ニ示ス如ク数個ノ脚(1)ヲ備ヘタル環枠(2)上二数多ノ氣孔(3)ヲ開穿セル火皿(4)ヲ支持セシメ且ツ全面二渉リテ小孔(5)ヲ有スル緩球凸面板(6)ヲ覆載シタル焙僥器ノ構造


       

 後で見つけたのですが、映画監督の小津安二郎も、やはり昭和12年の7月8日の日記に「日本橋つるやにてお狩場やき(56)」と書いていたので、探したら昭和15年の朝日新聞にその「つるや」の広告(57)があったので資料その43にしました。東京の松竹大谷図書館にいけば、お狩り場焼の鍋が見えるスチル写真があるかも知れませんが、ジンギスカン鍋じゃないからねえ。

資料その43

     

 お狩り場焼きがジンギスカンほど広まらなかったのは、料理の友社とか成吉思荘のように道具、料理を宣伝して売る組織がなかったことと、鍋は新型でも伝統ある料理なのに、英雄ジンギスカンも好んだ料理という、大衆受けする俗説が生まれなかったこともあるでしょう。
  

参考文献
上記(47)の出典は鍋博物館所蔵鍋の積み重ね型鍋の最下段部内側の番号、 (48)は同ヤマハ印鍋の周環の番号、 資料その39(1)は同ヤマハ印鍋周環の番号、同、 同(2)はPICKUP CAMPER氏のブログ「<<新>>軽快・気軽にオートキャンプ」より、 http://pickupcamper2008.
blog60.fc2.com/blog-entry-948.html 資料その40(1)と(2)は元寇史料館編「日蓮聖人銅像を含む絵葉書セット」より、販売元は福岡市博多区、元寇史料館、 同(3)は平成19年10月14日付日本経済新聞朝刊40面=原本、 同(4)と同(5)と同(6)は同盟通信社編「国際写真新聞」219号、ページ番号なし、昭和13年11月20日発行、同盟通信社=館内限定デジ本、 資料その41は商業部飲食服務業管理局編「中国名菜譜 第一輯 北京特殊風味」第2刷31ページ、1963年9月、中国財政経済出版=原本、 (49)と(50)は中山時子訳「中国名菜譜 北方編」34ぺージ、昭和47年3月、柴田書店=原本、 (51)は慶応大学新聞研究所編「慶応大学新聞研究所年報」44号*ページ、加藤敬子「婦人雑誌広告ー昭和前期」、平成7年*月、慶応大学新聞研究所、 (52)はSHV松竹ホームビデオ編「新道」外箱の内容説明より、平成4年1月発売、松竹ホームビデオ、 (53)は菊池寛著「菊池寛全集」12巻505ページ、「新道」より、昭和12年7月、中央公論社=原本、初出は昭和11年1月から東京日日新聞、大阪毎日新聞に連載、 (54)はSHV松竹ホームビデオ編「新道」の視聴しての聞き取り記録、平成4年1月発売、松竹ホームビデオ、 (55)は昭和12年2月10日付読売新聞夕刊9面=マイクロフィルム、 同(3)はは焙焼器の特許庁実用新案公報、独立行政法人工業所有権情報・研修館所蔵、平成28年7月現在、 (56)は小津安二郎著・田中真澄編「全日記 小津安二郎」222ページ、平成5年12月、フイルムアート社=原本、 (57)は昭和15年3月10日付朝日新聞夕刊3面=聞蔵U、 資料その42(1)と同(2)は昭和11年11月11日付東京日日新聞朝刊5面=原本、 資料その43は昭和15年3月10日付朝日新聞夕刊3面掲載の「つるや」の広告=聞蔵U


 さてと、兜鍋とお狩り場焼でいささか脱線したが、さらにね、義経鍋の後輩として牛若鍋と弁慶鍋へと大脱線させて終わることにします。実はね、私はこの講義録のホームページを開く前にね「汝、南部煎餅を愛せよ」というホームページを開いて、胡麻付きのあの固い煎餅の発祥地は盛岡でなく八戸だと主張していたんですよ。
 東北新幹線は最初盛岡までだったので、盛岡の煎餅屋諸氏が南部煎餅もあるよと猛烈に売り込んだために、八戸の煎餅屋はシーラカンスみたいになってしまったが、本当に八戸が本家なんだよ。
 証拠の1つとして石川啄木が小説「雲は天才である」で、石本俊吉という男が「友人なる或菓子屋に雇はれて名物の八戸煎餅を燒き、都合六圓の金を得て(1)」いたと書いておるとか、いまは八戸駅と駅名が変わったが、私が高校生のときは、あの駅は尻内でね、ホームで駅弁みたいに紙袋に何枚ずつだったか南部煎餅入れて売っていたと書いたりしてました。
 それでね、B級グルメで有名になった「せんべい汁」を推進する八戸せんべい汁研究所のの方々と知り合いになり、たいぶ前だが、私が食べ忘れて10年たった煎餅の試食会に加わってもらったりした。えっ、はいはい、胡麻がいかれていてね、黴はなかったが臭くて、とても食えなかった。はっはっは。
 令和4年春、汁研所長の木村聡さんが新聞に出ていたのを見てね、正しくは汁の字に濁点をつけてジルケンと読ませるんだが、それはともかく私はまだジンギスカン調べをしてますと知らせたことから、木村さんと前所長で煎餅関係プロジェクト専任指導員だった田村暢英さんからレスがあり、義経鍋だけでなく牛若鍋もあると知ったのです。
 私は初耳だったので、それは焼き面の枚数の違いではないかと尋ねたら、田村さんからイヤイヤ別で、こちらの馬肉料理店で使っているよと鍋の写真を添えたメールが来て、さらに田村さんが保存している平成18年の「小説新潮」3月号に載っている日経の野瀬泰申編集委員が書いた「食日本紀」のコピーも送られて来たのです。
 その記事によると、野瀬記者は田村さんの車で五戸町の尾形精肉店と十和田市の馬肉料理専門店「吉兆」とハシゴして、両店で馬肉を焼いて賞味している。さらに野瀬記者は義経鍋と牛若鍋を製造販売している岩手県北上市の南部義経堂を訪ね、同社代表の木和与平さんから聞いた開発者の祖父後藤忠夫さんからの様々なエピソード(1)も書いてありました。
 野瀬さんは尾形精肉店で食べたときのことを「ほどなく義経鍋が運ばれた。店長の原正雄さんがやって来た。ここの鍋は領土侵犯防止用の仕切りのない鍋で、正確には義経鍋の姉妹品『牛若鍋』を用いている。使い込まれた鍋はコーティングが剥げ、銀色に底光りしている。貫禄である(1)。」と書いてます。
 義経鍋が運ばれてきたはずなのに「京の五条の橋の上」じゃなし、原店長が「燕のような早業」で牛若鍋に取り替えたわけではないのです。焼き面の中央に煮物もできる小鍋があり、周辺に肉から流れ出る脂溜めが何個か付いている義経鍋とよく似た鍋だというために、わざとこう書いたんでしょう。
 わたしは今、脂だめといいましたが、義経鍋の特許申請の説明では、調味料室と説明しているから、焼き面に紐を張りつけたような仕切のない、この牛若鍋の特許申請でも調味料室と書いてあるかも知れませんよ。
 田村さんは、メールに添えた写真は間に合わせの借り物だから、ジンパ学の講義録で堂々と紹介できるよう私が撮った鍋写真を送ると、わざわざ尾形精肉店の分店に撮影に行き、送って下さった写真のうちの3枚を資料その44で見せましょう。

資料その44

(1)
  

(2)
    

(3)
    

 まず焜炉に載せて写した(1)ですが、南部義経堂のカタログにあるサイズの39センチは相対する両側の脂だめも入れた幅でしょう。馬肉は羊肉と違って脂肪分が少ないので、馬の脂身を塗りつけて焼く。全身筋肉みたいな馬のどこに脂身があるかというとね、あの長い首の後ろの「たてがみ」漢字で書くと髪の上半分と鼠の下半分をくっつけたような字「鬣」の下に固まってあるそうだ。
 コーネと呼ばれるそれは、田村さんにいわせるとメカジキの刺身そっくり。旨くて止まらず健康診断の前夜、刺身で2人前食べたら、コレステロール異常で医師に呼ばれたそうだ。笑っちゃいかんが、はっはっは。
 (2)は上から目線という角度でね、義経鍋と違って焼き面に仕切が全くないことがわかる。仕切は「領土侵犯防止用」とはうまい表現だよね。田村さんのメールによると、コーネから流れ出る脂をそれぞれの脂だめに流し込み、赤肉をそこに浸してから焼くのが正しい焼き方のはずとあります。
 鍋底を写した(3)でわかるように、特許の登録番号が3行浮き彫りになっている。一番下の243370は義経鍋の番号で、講義録を見ている人は、少し上に戻ったところにある義経鍋の説明にこの番号が出てくることを確かめてご覧。
 田村さんから頂いた資料で最も驚いたのが、弁慶鍋も存在したという事実です。南部義経堂に確認のため2回お尋ねメールを送りましたが、レスないので田村さんの資料だけて説明しますと、形は資料その45の写真でわかるように長方形、中央の小鍋も長方形でした。

資料その45

      

 この写真が小さいのは田村さんが保存しているカタログの写真のせいで、実物は44センチ×29センチ、上の小鍋は16センチ×5センチの弁慶という名にふさわしい大鍋だった。また同時に添えられた説明によると、弁慶鍋は昭和58年名古屋で開かれた全日本中小企業見本市の鉄器部門で優等賞を獲得したけれど、ガス焜炉からはみ出すサイズのせいか不人気だったようで、もう製造していないとあったそうです。
 話が長くなって足がつりそうだが、ともかく牛若、弁慶両鍋まで説明できてよかった。田村さんのお力添えに謝意を表して今回の講義、終わります。
 
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)