成吉斯汗「料理」と本に書いた松永安左衛門

 きょうは永く中国に住んで中国の民俗風習を研究して「北京繁昌記」などの本を書いた中野江漢のことから話を進めます。中野が昭和6年「食道楽」という雑誌に書いた「成吉思汗料理の話」で、ジンギスカン料理と命名したのは北京にいた鷲沢與四二だと書いたことは、以前の「吉田誠一が書いた命名者伝説の出所」という主題で講義して、講義録に入ってますが、きょう配る資料に、もう一度入れて別の角度から説明します。はい、自分の分を取って廻す。後ろの席までいきましたね。
 中野江漢の本名は吉三郎で明治22年生まれ。明治39年、中国は南の方の漢口に渡り、佐藤胆齊の私塾に学び、新聞記者となり大正4年から北京に住み、北京聯合通信社を設立(1)して日本の新聞社などに記事を配信しました。
 大正8年には天津にあった京津日日新聞社に入り、北京支局主任を務め「京津繁昌記」という記事の連載を始めた。これは後にまとめて「北京繁昌記」という本として出版されました。また中野は支那風物研究会をつくって「支那風物叢書」なども発行しました。昭和年代になってから支那通としてマスコミ界で活躍しました。(2)その1つが「成吉思汗料理の話」なんですね。
 「北京繁昌記」は解題でも「繁昌記は『案内記』ではない(3)」と述べているように「一般新聞の連載記事にかかわらず、博引旁証、史書より風土文物の関係書や方誌にわたる文献典籍からの多数の援用がなされ(4)」ている硬い本であり、正陽楼など飲食店の記述は全くありません。この「成吉思汗料理の話」も資料その1以外のところに、そうした真面目な書籍の引用や考察があるのですが、命名の経緯としては最も大事な個所なのです。

資料その1

<略> この料理は、今から二十年前、當時北京に居住して居た井上一葉といふ料理通によつて発見された。井上氏は『正陽樓』といふ料理屋に於て、偶然にもこれを知つて、在留邦人間に吹聴し先づ鷲澤與四二氏を誘ひ出して賞味した。鷲澤氏は當時、時事新報の北京特派員で、現に同社の顧問であり、雑誌『べースボール』の社長である。その席上
 『支那に遺された唯一の原始料理だ、これを食べると、なんだか三千年の太古に還つたやうな氣がする』
 だが『烤羊肉では陳腐だ、何んとか奇抜な名をつけやうぢやないか』
 『三千歳とはどうだ』
と両人の間に話が纏まり、『三千歳』といふ新しい名称がつけられた。このことは、當時北京の邦人間で発行されて居た『燕塵』といふ雑誌で発表され、忽ち評判となつた。爾來これを食はざれば支那通にあらずといふ風に流行しだした。
 それから程なく、鷲澤氏は、折柄來遊せる人々を、此樓に招待して『三千歳』に舌鼓を打つて居ると、或人が『僕が蒙古を横断した時に、蒙古人は、牛糞の乾燥した燃料を用ゐて、羊肉をあぶつて食つて居たのを見た。よく聞くとジンギスカンが陣中で、好んで食つたといふことだ』
と話したので、鷲澤氏は、早速、
 『それでは「成吉思汗料理」と名づけやうではないか』
と提議、満場一致で命名された。このことも當時の『燕塵』誌上で発表されたので、遂々成吉思汗の遺物の如くに誤り伝へらるるに至つたのである。<略>

 いいですか、1回目は鷲沢と井上の2人が「三千歳」と命名した、2回目は成吉思汗料理と命名したと、合わせて2回「當時北京の邦人間で発行されて居た『燕塵』といふ雑誌で発表され」たと中野は書いたのです。この「燕塵」は北京在住の日本人有志が発行していた同人誌でしたが、日本にいて購読できたことから原本が揃っていて全記事が読めるのです。国会図書館では館内限定ですが、端末で1号から46号まで読めます。ただし月刊誌の「燕塵」と旬刊紙の「燕塵」と2種類が定説ですが、實はもう1回、それも中野が作った雑誌「支那と満蒙」の附録としてね、たった1回出ており、厳密には3種類になる。だからね、中野の言い方だと、どの「燕塵」かわかりません。
 資料その2にした「中関係日本文雑誌論説記事目録」に従った発行年月日のリストを見なさい。月刊誌を第1期、旬刊紙を第2期とすると、これは第1期分で、国会図書館の画像は明治44 年12月まであります。執筆者はほとんどペンネームで鷲沢與四二は珍妙坊、井上孝之助は一葉を使っており、それで書いたとわかる記事の題名も示しました。珍チヤンの「謡ペリル」は鷲沢が書いたものでしょう。
 ともあれ40ページから60ページの雑誌だった第1期「燕塵」の記事から鷲沢が特派員の仕事はそっちのけで、野球、射撃、習い事などいろいろな会合や行事で活躍したことはよくわかるけれど、中野のいう三千歳命名説、成吉思汗料理命名説らしい話、記事は全く見当たりません。発表した媒体は「燕塵」ではないのです。

資料その2

(1)
 北京在住邦人による同人誌「燕塵」創刊号の表紙

       


明治41年(第1年)
 第 1号(1月20日発行)
 第 2号(2月20日)
 第 3号(3月20日)
 第 4号(4月30日)
 第 5号(5月30日)
 第 6号(6月30日)
 第 7号(7月30日)
 第 8号(8月31日)
 第 9号(9月30日)
 第10号(10月20日)
 第11号(11月10日)
 第12号(12月1日)
明治42年(第2年)
 第13号(1月1日)
 第14号(2月1日)
 第15号(3月1日)
 第16号(4月1日)
 第17号(5月1日)椋助の「かどのぞき」連載始まる
 第18号(6月1日)
 第19号(7月1日)
 第20号(8月1日)
 第21号(9月1日)
 第22号(10月1日)
 第23号(11月1日)鷲沢着任の記事あり
 第24号(12月1日)
明治43年(第3年)
 第25号(1月1日)
 第26号(2月1日)義太夫を呑む(上) 珍妙坊
 第27号(3月1日)義太夫を呑む(下) 珍妙坊
 第28号(4月1日)
 第29号(5月1日)
 第30号(6月1日)
 第31号(7月1日)
 第32号(8月1日)
 第33号(9月1日)万寿山見物 一葉
 第34号(10月1日)日清懸案 珍妙坊<
 第35号(11月1日)
 第36号(12月1日)日清懸案(下) 珍妙坊
            「かどのぞき」14回で終わる
明治44年(第4年)
 第37号(1月1日)謡ペリル 珍チヤン
 第38号(2月11日)歴史上に見はれたる辛亥の支那(上)  南平?
 第39号(3月31日)日本の茶に及ぼせる支那の風習 一葉
 第40号(4月30日)
 第41号(5月20日)湯山奇聞 一葉 
 第42号(6月30日)
 第43号(7月31日)泰山石敢當 一葉
 第44号(8月31日)
 第45号(9月30日)
 第46号(12月10日)
明治45年(第5年)
 第47号(1月20日)
 第48号(2月20日)
 第49号(3月20日)

 「燕塵」49冊の中で食べ物のことを詳しく書いたものとしては、17号から始まるペンネーム椋助の「かどのぞき」があります。その緒言に「抑々椋助とは誰あらん、打見たる所『あの顔面(ツラ)で』と云はるる位至極の正直もの、椋十の御親類筋ならずやと人の云へは『混ぜかやすない』と統監か横合から油を差す程のおとなしやなり、少年文學に浮名流せし椋助とも同名の異物にて誠は一昨年あたりより燕の都に巣くひし椋の野郎と云へは識る人は知るなりけり、(5)」と自己紹介をしています。あのツラというからには、人相あまり宜しからず、今風には非イケメンと認めていたらしい。
 椋十の親類というのは、椋助の椋が当時沢山本を書いた藪野椋十と同じだから親類かいと聞かれるというんですが、本当かどうかね。藪野椋十は渋川玄耳という朝日新聞の記者のペンネームで、石川啄木の「一握の砂」に「世の中には途方もない仁もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。(6)」という書き出しの風変わりな序文を書いています。
 「少年文學に浮名流せし椋助」というのはね、尾崎紅葉が少年向けに書いた小説「二人むく助」に出てくる同名の百姓2人の「善人なりとも愚鈍」の椋助と「悪人ながら智者(7)」の椋助のどっちでもない椋助といいたかったのではないかな。ともあれ明治40年から北京に住んでいるというんです。そこでこの椋助が鷲沢の相棒だった井上一葉だと仮定して「かどのぞき」の内容を検討みましょう。
 井上一葉こと井上孝之助の生年没年、経歴はほとんどわかっていません。北京で井上に会った人の話とか井上が書いた文章から情報をつぎはぎするしかないない。ですからこれから話す井上のことは定説ではなく、尽波説として聞いて下さい。
 最も早く明確なことは、明治34年に神戸で中国人徐東泰と組んで北京語による日本語の会話教科書「貿易叢談 東文翻訳北京官話」を出したことです。貿易関係の話題を北京語で示し、その日本語の訳文が付けあります。例えば第50章の冒頭は「孔夫子説的小不忍則乱大謀、買賣場中第一要有忍心、不怕事情不好只要能忍、日後運氣來了、必可以發財的」に対して「孔夫子ノ説ニ小ニ忍バズバ大謀ヲ乱ル実ニ忍ブ心ノ有ルノガ第一肝要デス事情ノ難キヲモ恐レズ只能ク辛抱ヲシテ居レバ後日運ノ出タ時ハ、必ズ財産ヲ拵ヘマス(8)」とね、中国語と日本語の両方とも発音記号も単語の講釈もないから上級者向けなのでしょう。
 この本の出版の前か後か定かではないが、井上は明治34年から北京に住み、支那通ととしての磨きを掛け始めたらしいのです。国会図書館の本を検索すると明治36年は8月と11月、同38年3月と8月の4回、府立大阪商品陳列所が発行していた「通商月報」に天津からの報告(9)が載っています。中国語ができたから会話本を訳せたのであり、頼まれればこうした現地報告を書いたりして生活費を稼いだとみられます。
 私が明治34年移住と推定する根拠は、満洲日日新聞の主筆田原天南がですよ、大正3年1月から北部支那を視察して「端書便り」という短信を連載しました。その2月2日分に「午後二時井上孝之助氏来訪氏は京津の間に在ること十三年、在留同胞中の支那通我満日紙上子元生の名にて健筆を揮ひ新支那(日刊)上一葉の名にて洛陽旅行記を読載し居るは君なり(10)」と書いています。13年前は明治34年であり、子元という別のペンネームで書いていたとなれば椋助と名乗ってもおかしくない。
 もう1つは週刊紙「新支那」に香炉庵が書いた「○支那料理 食道楽」に「乃公が此塵の都の北京に這入つて來たのは辛丑の年で、(11)」と書いていること。この題名は第2期「燕塵」で井上が書いた料理談義と同じであり、香炉庵の支那語の先生になった阿茶山という男の名前をその料理談義の講師に使っていることから、やはり香炉庵は井上のもう1つの筆名とみられるのです。
  

参考文献
上記(1)の出典は中野江漢著、中野達編「北京繁昌記」397ページ、平成5年12月、東方書店=原本、 同(2)は同398ページ、同、 同(3)は同401ページ、同、同(4)は同400ページ、同、 資料その1は食道楽社編「食道楽」5年10号2ページ、中野江漢「成吉思汗料理の話」、昭和6年10月、食道楽社、同、 資料その2は近代中国研究センター編「中関係日本文雑誌論説記事目録 T」219ページ、昭和39年7月、近代中国研究センター、同、 (5)は燕塵社編「燕塵」17号34ページ、明治42年5月1日発行、燕塵社=原本、 (6)は石川啄木著「一握の砂」1ページ、明治43年12月、東雲堂=国会図書館インターネット本、 (7)は尾崎紅葉著「紅葉全集」1巻628ページ、明治37年1月、博文館、同、 (8)は徐東泰、井上孝之助著「貿易叢談 東文翻訳北京官話」140ページ、明治34年5月、文尚堂=館内限定デジ本、 (9)は@府立大阪商品陳列所編「通商月報」90号23ページ、井上孝之助「支那貿易品としての日本扇子」、明治36年8月、府立大阪商品陳列所=館内限定デジ本、A同93号12ページ、同「天津現今の商况と冬期の豫想」、同年11月、同、B同109号11ページ、同「在C本邦商人の營業振と内地製造家の覚悟」、同38年3月、同、C同114号12ページ、同「玩弄物に就て」、同年8月、同、 (10)は大正3年2月2日付満洲日日新聞1面=マイクロフィルム、 (11)は同2年4月9日付新支那55号10面=原本

 また「燕塵」22号の「かどのぞき」に「椋が燕京に巣くひてより今日十一月廿一日で満二ケ年、かどを覗くこと茲に八回、椋が期満ちて飛び去ればつまらぬ門のぞきも終をつぐべかりしに、忽ち飛電あ、更に一ケ年燕巣を守れと、<略> (12)」といわれ、もう少し続けて書くと予告しているし、その次の23号の「三感集」の北京に初めて来たときの感想など3つの質問に対する回答者の中の「二年坊」は「二年前十一月の末、日もくれて午後の八時頃、ぽつりと前門に下車した、夢中で支人諸君に引きまはされて、車に乗せられた、電燈があるなと云うて、まさかと笑はれたから、人力が沢山あるなと、喉まで出たのを、呑込んでしもうた、<略>(13)」と書いているから同じ人物でしょう。「電燈があるな」と言い「人力が沢山あな」と言おうとしたけど、やめといたというぐらい通じる中国語が話せたという点でも、椋助と二年坊は井上一葉だろうと思うわけです。
 私はね、明治34年に中国に来てから40年迄の6年間、井上は主に天津にいて日本からの陶磁器類の輸入業務に携わっていたと考えます。第2期「燕塵」には創刊号から署名のない「支那陶磁器談」が連載されており、井上の「支那料理食道楽」と回数がぴったり同じで「燕塵」が20号から「日本及支那」と改題した後も同じで、ちょいちょい見開きの片側に食道楽、反対面に陶磁器という組み方をしている。井上の執筆、割り付けによるとしか思えません。
 もう1つ、これは「燕塵」ではなく週刊紙「新支那」にね、YM生という人が、何かの拍子に地位も財産も一切パアになり、兎に角喰うために早速手につく商売はこれだろう―と10人ほどを見立た漫文「七転び八起」があります。それに井上も入っており「小理屈は一切止め、天津の一万坪を開拓し、花屋を開き傍ら雑誌『牛骨』を発刊す。(14)」つまり天津の土地勘があり商才ある男と見られていた証拠でしょう。
 「かどのぞき」の始まる1号前の「燕塵」16号に達観愚坊による「燕塵問答録」があり、仲間の自称中国語の大家たちを紹介したところだけを抜き出したのが資料その3ですが、井上は入っていません。達観愚坊氏は「椋の野郎と云へは識る人」ではなかったせいでしょう。この(2)の六樓先生とは鷲沢の前任特派員亀井陸良のことです。鷲沢は後に英字新聞を発行したくらいですから英語は自信満々だったでしょうが、時事新報に入っていきなりの北京特派員ですから中国語はチンプンカンプンだったでしょう。それで井上と仲良しになって清国の政治情勢はじめいろいろ教わり、たまには通訳を頼むこともあったと思われます。

資料その3

   燕塵問答録    達観愚坊

(1)
○問 燕京に於て最も支那語に巧みなる人は誰なりや
 答 山崎誠軒君とす、君が支那語二三句(名詞と動詞との
  み助動詞の如きはマツピラ御免だ)を話すや、君の使用
  せる清人文案は、「明白々々」と云つて直に漢字新聞数十
  行の記事を起草するそうだ、そうすると誠軒君得意とな
  りて、北京の支那語家は先づ乃公と撫髯鼻高、傍にある
  清人文案独語して曰く「シヤンチー」先生の中国話は我
  れだから解かるので、「別的中国人」にはさつぱり解らな
  いと得意になつて居るから、益面白い
(2)
○問 北京に於て支那語研究に最も熱心なるは何人なるか
 答 曰く六樓先生、在燕已に八年、清語教習に月謝を払ふ
  こと己に数千弗に及ぶ、以て如何に清語研究に熱心なる
  かを知るべし、唯其進歩の支払俸給額に正比例せざるを
  遺憾とす、「幾歳」と「氣水」位の間違位は餘り珍らしくな
  いそうだ、之れと反対に「シータオ」大尉毎日六時間の支
  那語研究は非常の進歩を來すべき未知数を有して居るそ
  うだ

 椋助の「かどのぞき」は14回連載で、大まかにいええば17号の1回目は物売りの掛け声や歩きながら鳴らす物などの講釈。18号の2回目は触れ売りの八百屋の品物15種の呼び声と合わせての解説ですが、末尾に「炒、燜、熬、炸など多くの料理法は他日折を見てしるさん、ソレマデは暫くの御樂み!(15)」と書いているのです。
 3回目はいわゆる屑屋のことですが、4回目から食べ物に戻って点心の定義と饅頭売りなど5種類の解説だ。5回目も点心4種類、6回目17種類、7回目も13種類の点心、8回目は餅など10種類、9回目は16種類で、椋助の付けた通し番号で81種類の売り物を説明したことになるのです。
 10回目から要手芸的という路上の床屋、11回目が鋳掛け屋、12回目が研ぎ屋など合わせて18種類を紹介してます。13回からは点心ではなく、触れ売りのおかずになり12種類、14回は11種類を説明している。 名前だけでもこれだけ椋助に書かれては、支那料理の修業にきているコックも顔負けでしょう。
 第2期「燕塵」1号から始まった「支那料理食道楽」を読んで、初めて椋助は井上孝之助のもう1つのペンネームという結論に至りました。第1期「燕塵」17号から「ソレマデは暫く」がなんと8年、井上自身が編集兼発行人で、自分の思い通りにできる紙面を得たのですから、堰を切ったように蘊蓄を傾けて料理法を書いたのは当然のことだったのです。
 第1期「燕塵」18号の「かどのぞき」の2回目に出てくる食材売りを資料その4にまとめました。椋助の書き方のサンプルとして売青菜の前文と(1)から(3)までの3品を資料その4(1)で示しました。■<口篇に么>喝の発音は1回目に出ておりヤオホと振り仮名がつけてあります。
 いつもの資料の組み方だと行間が狭くて単語のルビが読みにくくなるので、いろいろ試したのですが、htmlでは例えば「烤羊肉(カオヤンロー)」とするには烤羊肉の前に10字、振り仮名との間に20字、振り仮名カオヤンローの後ろに23字の画面には現れない命令語が付くため、振り仮名付きの単語が沢山並ぶと、ブラウザーによって講義録の左寄せ組みが壊れて右に流れっぱなしになるんですなあ。特にファイヤーフォックスがいけない。
 それで資料その4ではルビ付けはやめて、振り仮名は単語の後ろに()で囲んで付ける。アルファベットと4声の数字による発音記号は全部略して《》で原文には書いてあることを示すことにしました。通し番号と改行は原文通りで點心81種、おかず21種、それらの枝番号の食品は88種になります。
 同(2)は(1)に続く食材(4)からの名前と説明の先頭文です。それぞれの後に同(1)のような説明が続くのです。それからね、いずれ料理法を書くという予告は(15)の後ろ、こんな風に付いていたのです。

資料その4

(1)  賣青菜的

北京には多くの茱攤兒(ツアイタル)《》即野菜屋若くは八百屋あ
りて新鮮なる野菜をひさげども門口兒に來て賣るものものも尠か
らず、一年を通して疏菜賣を集めんは徒に労多くして脱漏も
少からざれば其時々のものをものして膳部を賑はせんとて先
つ新暦五月廿日前後のものを記すことゝせり、彼等は響器を
携へす、たゞ■<口篇に么>喝のみにて過き行くなり、左に一種づゝを掲
くれど彼等は二種以上を携ふる場合多く、從て其の■<同>喝も多少
の変化を以て二種の菜名を連結すと知らまほし、
野菜賣に限らず多くの■<同>喝には實語の外に「葉(イエー)」「咳(ハイ)」「エイ」「來(レイ)」
「入愛(ルアイ)」「熱(ロー)」「ヤイ」などの附声をなすは我国の触賣にも此に類
似の語あるに同しけれど初めて聞く耳には實語即貨聲兒(ホウシヨングアル)
《》と混同して夫れときゝ訳けえぬ場合多きをう
らみなる、
(1)、賣水蘿葡的(マイシユイロブタ)《》、大(タ)水蘿葡《》
又水蕪葡大梱(タクンヌ)《》レイなど触れ流して、赤き
水大根を売るものなり、支那人は生にて食ふ、味美なり、梱
は把なり、六個を以て一梱とせり、價は一銭にて三梱位、
(2)、賣茴香菜的(マイホイシイアンツアイタ)《》香氣の強
き菜にて包子(パオツ)《》餃子(チイアオツ)《》の餡兒(シアル)《》に入
れて食す、其種子は輪掛(リンカケ)菓子の種子に用ふ、邀(ヤオ)茴香エーと
流す、邀は秤賣りする意なり、一斤一銭七八位なり、
(3)、賣韮菜的(マイテイユウツアイタ)《》韮を売るもの、清国
人ば好で之を食ふ、炒(チアオ)韮菜《》即豚肉を絲切にし
先つ葷油(ホンユウ)《》(フアツト)を用ひて傷め、韮菜と醤油とを
入れ煑たるものか、或は包子、餃子等の餡兒に入れて食す、其
■<同>喝は邀斤的(ヤオチンヌタ)韮菜エー《》又は邀韮菜と云ふ、邀斤
的と云ふと邀と云ふとに区別あり、秤賣するは一様なれど邀
斤的は他に青菜を有する意を表はし、邀はたゞ一種のみを賣
る意なりと云ふ、独り韮菜のみならず他の場合にも推して知
らまし、之をものしつゝある際に過き行く韮菜賣の■<同>喝をき
けは馬蘭(マレン)韮菜《》ヨー云へり、馬蘭とて花菖蒲の
如き小さき草花あり、其葉に似たる韮菜との喩なり、

(2)

 (4)、賣小葱兒的(マイシアオツオンアルタ)《》葱の青きを賣るもの
 (5)、賣倭笋的(マイオウスンヌタ)《》苣萵(チシヤ)の茎を賣るものなり、
 (6)、賣蒿子桿兒的(マイハオツカールタ)《》春菊を売るもの、
 (7)、賣香椿的(マイシイアングチユンヌタ)《》椿の芽賣なり、
 (8)、賣曲麻菜的(マイチユイマツアイタ)《》我國にては用ひざる菜なり、
 (9)、賣小白菜的(マイシイアンヌパイツアイタ)《》白菜の小さきものを賣るなり、
 (10)、賣青蒜的(マイチングスアンヌタ)《》我國のニンニクなり、
 (11)、賣豌豆角兒的(マイワンヌトウチアルタ)《》莢豌豆賣なり、
 (12)、賣黄瓜的(マイホワンクワタ)《》我國の胡瓜賣なり、
 (13)、賣豇豆的(マイチアングトウタ)《》さゝぎを賣るもの、
 (14)、賣扁豆的(マイピイエンヌトウタ)《》菜荳(インゲンマメ)賣なり、
 (15)、賣茄子的(マイチイエツタ)《》茄(ナス)を賣るもの、
  (尚賣魚的のこと記さん考なりしも今は五月廿日の午后三
   時、時間もなければ次號に譲りつ、炒、燜、熬、炸など多
   くの料理法は他日折を見てしるさん、ソレマデは暫くの
   御樂み!)、

 資料その5は「かどのぞき」の4回目以降に書いてある食品名です。中国語読みの振り仮名は省略しました。井上は年中朝昼晩、次々やってくる触れ売りを呼び、食べ物を買いながら名前や作り方を聞いて集めたと思うのですが、どう書くのかと字を聞いて即答できる売り子は何人いたか。元手が掛かっているはずですよね。
 賣羊肉包子的の説明に「凡そ燕京の粋者と云ふ程の粋者羊肉を知らざるものやある、知らぬはかく申す御本人の椋さん位なるべし、人の(ウハサ)に羊肉には墨より雪まである由なれど『スミまへんけれど椋さんはユキませんさかい』にたゞあこがるゝのみにて其味は知らず、又人の曰く、羊肉は最初たべぬ人には一寸鼻につく様なれど、食べなれては其味は忘るべくもあらず、一つ味つてはローレすかと...........おつとお門ちかひ、椋の門にはかゝる羊肉は通らざりけり(16)、」と関西弁になっていることから椋助は関西出身者と推定されます。
 これは上品な方で、13回目の賣羊肚兒的は「鍋の中には羊肚子、羊腸子をみるもうとましく水煑せり、灰色せる水にて煑らるゝ見るからに嘔吐を催すべきに舌鼓して食ふものありとは世も様々なるかな(17)」というゲテモノだそうです。馬、驢馬、駱駝などの死肉を煑て売る賣肉脯兒的は「椋も随分と勇気にとめど、こはいまだし/\(18)」とあるから、やはり椋助は食通かつイカモノ喰いでも知られた井上だろうと私は考えております。

資料その5

かどのぞき(四)2年8号
  賣點心的

(一)賣饅頭的(1)邀斤饅頭 〔イ〕饅頭〔ロ〕大饅頭〔ハ〕三角兒(二)窩頭(大饅頭)〔い〕饅頭〔ろ〕三角兒〔は〕花■<飠篇に巻>兒〔に〕■<𩙿篇に其>餅〔ほ〕方包子〔へ〕澄沙包子〔と〕棗兒饅頭(二)賣羊肉包子的〔イ〕羊肉包子〔ロ〕羊肉餡兒回頭(三)賣燙麺餃兒的〔1〕肉饅頭〔2〕門釘兒饅頭〔3〕焼挴(四)賣元宵的 (五)賣餛飩的


かどのぞき(五)2年9号
  賣點心的(二)

(六)賣油炸鬼、焼餅的〔イ〕油炸鬼(又は餜)〔ロ〕蔴花兒〔ハ〕拍叉兒〔ニ〕焼餅〔ホ〕花■<飠篇に巻>兒〔ヘ〕螺螄轉〔ト〕油炸糕(七)賣火焼的〔イ〕火焼〔ロ〕大火焼〔ハ〕糖火焼〔ニ〕油酥火焼〔ホ〕大饊子〔ヘ〕蜜花兒(九)賣蔴花的(十)賣大■<同>子的(十一)賣油炸糕的(十二)賣馬蹄兒焼餅的(十三)賣大火焼的(十四)賣大饊子的(十五)賣大饊子、蜜蔴花兒的(十六)黄米麺火焼(十七)賣烙餅的〔一〕家常餅〔二〕脂油餅〔三〕鶏絲餅(十八)賣麺麭的(十九)賣硬麺餑々的〔イ〕芝蔴鐲子〔ロ〕白糖鐲子〔ハ〕喜字兒〔ニ〕饊子〔ホ〕糟糕〔ヘ〕子兒餑々〔ト〕鼓盖兒


かどのぞき(六)2年10号
  賣點心的(三)

(二〇)賣梨膏的(二一)賣氷糖子兒的(二二)賣灌餡兒糖的(二三)賣糖胡廬的(二四)賣糖餅兒的(二五)賣酥糖的(二六)賣糖罐兒的(二七)番号と記載なし(二八)賣鶏骨糖的(二九)賣檳榔膏的(三〇)賣花生糖的(三一)賣山査捲兒的(三二)賣皮糖的(三三)賣沙糖人兒的(三四)賣糖杏乾兒的(三五)賣氷糖人兒的(三六)賣人参糖的


かどのぞき(七)2年11号
  賣點心的(四)

(三七)賣粥的(三八)賣大麦米粥的(三九)賣青豆汁兒粥的(四〇)賣小米兒粥的(四一)賣玉米身兒粥的(四二)賣炒麺的(四三)賣漿的(四四)賣茶湯的(四五)賣杏兒茶的(四六)賣麺茶的(四七)賣胳的(四八)賣老豆腐的(四九)賣豆腐脳兒的


かどのぞき(八)2年12号
  賣點心的(五)

(五〇)賣切糕的(五一)賣栗子糕的(五二)賣凉糕的(五三)賣粽子的(五四)賣豆麺糕的(五五)賣糕乾的(五六)賣豌豆糕的(五七)賣黏糕的(五八)賣扒糕的(五九)賣烙糕的(六〇)賣蒸餅的(六一)賣餡場餅的(六二)賣黄米麪見餅子的(六三)賣小米麺兒餅子的(六四)賣雑貨麺兒餅子的(六五)賣發麪餅的(番外)飯館子にて売るもの〔イ〕清油餅〔ロ〕薄餅(番外)有名な餅〔イ〕月餅〔ロ〕喜餅(番外)餑々舗にて売るもの〔イ〕奶油餅〔ロ〕如意餅〔ハ〕玫瑰餅〔ニ〕鶏油餅〔ホ〕西洋餅〔ト〕花餅


かどのぞき(九)3年1号
  賣點心的(六)

(六六)賣喀炸合兒的(六七)賣炸三角兒的(六八)賣炸喀炸的(六九)賣炸拍叉兒的(七〇)賣炸豆腐的(七一)賣炸肉火焼的(七二)賣凉粉的(七三)賣白薯的(七四)賣果子乾兒的(七五)賣玉米花兒的(七六)賣鐵蠶豆的(七七)脱落記載なし(七八)賣爛蠶豆的(七九)賣爛豌豆的(八〇)賣糖豆子的(八一)賣乾果子的〔イ〕瓜子兒〔ロ〕倭瓜子兒〔ハ〕鹹落花生=湿的と乾的〔ニ〕帯皮兒的落花生〔ホ〕糖落花生〔ヘ〕糖豌豆〔ト〕糖核桃〔チ〕生核桃〔リ〕鐵蠶豆〔ヌ〕柿餅子〔ル〕乾棗兒〔ヲ〕黒棗兒〔ワ〕山裏紅乾兒〔カ〕桃乾兒〔ヨ〕杏乾兒〔タ〕炒菓子〔レ〕各種の糖塊〔ソ〕糖胡蘆〔ツ〕蜜餞海棠〔ネ〕蜜餞山裏紅〔ナ〕蜜餞棗兒〔ラ〕時には梨、柿子、海棠などの鮮果子


かどのぞき(十三)3年11号
  賣熟菜的

(一)賣薫魚的(二)賣牛頭兒的(三)賣羊頭兒的(四)賣羊鍵子的(五)賣羊肚子的(六)賣炮羊肉的(七)賣炒肝兒的(八)賣肉脯兒的(九)賣灌腸子的(十)賣蘇造肉的(十一)賣驢肉的(十二)賣焼羊肉的


かどのぞき(十四)3年12号
  賣熟菜的(続)

(十三)賣羊雑砕的(十四)賣炸丸子的(十五)賣炸蝦米炸魚的(十六)賣炸鶏子兒的〔1〕小肚兒〔2〕焼猪肉〔3〕烤猪肉〔4〕鹹肉〔5〕火腿〔6〕醤肉〔7〕醤肘子〔8〕香醤羊肉〔9〕松花兒〔10〕鹹子兒及鹹鶏子兒〔11〕糟魚(十七)賣溜麺筋的(十八)賣炸豆腐的(十九)賣粗飯的、其菜は〔1〕炒豆腐〔2〕豆兒醤〔3〕炒蔴豆〔4〕炒圪塔絲兒〔5〕鹹茄泥〔6〕蘭絲兒〔7〕香椿豆兒(二十)賣豆腐的(二十一)賣豆腐絲兒的(二十二)賣醤豆腐、臭豆的(二十三)賣喀炸的

  

参考文献
上記(12)の出典は燕塵社編「燕塵」24号22ページ、明治42年12月1日発行、燕塵社=原本、 (13)は同25号45ページ、明治43年1月1日発行、同、同、 資料その3は同16号22ページ、明治42年4月1日発行、同、同、 (14)は新支那社編「新支那」55号10ページ、明治45年3月3日発行、同、同、(15)は燕塵社編「燕塵」18号30ページ、明治42年6月1日発行、同、同、 資料その4は燕塵社編「燕塵」18号28ページ、明治42年6月1日発行、燕塵社=原本、 (16)は
(17)と(18)は燕塵社編「燕塵」11号28ページ、明治42年6月1日発行、燕塵社=原本

 どういう事情か定かではないのですが、第1期「燕塵」は資料その2にあるように、明治45年3月20日発行の第49号を最後に廃刊してしまったのです。資料その5のように沢山食べ物の名前が「燕塵」には出てきたけれど、三千歳とか成吉思汗料理という名詞は入っていない。
 それで「燕塵」の文化を引き継ぐように生まれた週刊紙「新支那」がね、三千歳とジンギスカン料理の記事を掲載したのに中野が「燕塵」だったように錯覚したかも知れないので続けて「新支那」を考察していきます。
 毎日曜発行12ページ建ての「新支那」は明治45年3月3日の創刊です。最終面は全面広告とし、11面に「個人消息」「雑報」を載せている。題字は「新支那」だが、その上に小さく「京津週報」と入れていました。その発刊計画を知った「燕塵」編集部は48号の「編輯だより」に「新支那」の創刊を喜び、日本語の新聞として大いに期待すると書いています。
 それを資料その6(1)にしましたが、明治44年末の在留邦人の人口は天津2049人に対し北京は767人(19)と少なかったため、天津の京津日日新聞と対応する週刊でも日本語の新聞は北京にはなかったのです。
 資料その6(2)は、その「新支那」創刊号一面トップに掲載してある発刊に当たっての檄文です。「新支那」は激動するこの国の観察者だと宣言し、12ページのうちの3分の2はそうした政経関係の紙面でした。

資料その6

(1)
   編輯だより     遠甚子


○天津チヤイナ、トリビウンの姉妹号たる邦字週刊雑誌「新
支那」第一号は本号と前後して北京に呱々の声を挙げたり、
同人は双手をあげて此挙を賛し、長へに健全なる発達を為さ
んことを祷るものなり、北京には既にペキン、デーリー、ニ
ユースなる英字新聞あり、ジユルナール、ド、ペカンなる仏
字新聞あり、その今日まで一邦字新聞なきは吾人在留邦人の
顧みて大に遺憾とする所なりき、吾燕塵は邦文なりと雖も在
留民の一道楽雑誌たるに過ぎず、最近の清国時事を論評し報
道するの機関としては余りに不適当也、「新支那」の発行は
この欠陥を補ひ、吾人の意志を達する一楷段なるや明か也、
週刊はやがて日刊となり、燕京城頭堂々たる一邦字新聞の出
現せん事は今より之を「新支那」に期待せざるを得ず、新支
那の前途や洵に多望なりと謂ふ可し、こゝに重ねて新支那の
健全なる発達を祷る


(2)
新なる支那は生れんとす。「新支那」は乃ち其の
一産児なり。
支那は世界の舊邦也。今や国命を新にして新な
る運命を開かんが為めに努力す。求る處果して
何物ぞ。
生れたる「新支那」は微々たる一小紙に過ぎず。
何が為めに生れたるか。舊き支那の新しき運
命を語らんが為めに。

 「新支那」は当時、北京発行の唯一の邦字新聞であり、鷲沢は時事新報の記者でありながら井上と共に「新支那」にもニュースを書いた。外務省政務局の大正2年6月現在の「支那ニ於ケル新聞紙ニ関スル調査」によると「新支那」の主義は「支那ノ事情ヲ日本ニ紹介シ支那人ヲシテ日本ヲ了解セシメンコトヲ力<つと>ム」、持ち主は松本君平、主筆は安藤万吉と井上一葉。備考として「邦文週刊新聞、天津ノ『トリビューン』ト関係アリ、時事新報通信員鷲沢与四二借款ニ関スル重要記事ヲ担当シ近来支那人間ニモ読者多ク日支関係上良好ノ影響アリ、明治四十五年三月創刊(20)」となっています。鷲沢はこう書かれるぐらい「新支那」の編集に協力したのです。
 当然のことながらジンパ学の研究材料として「新支那」は非常に重要です。じっくり見ていったら明治45年6月15日付15号11面で初めて2コマの「編輯日誌」が現れました。16号は何もないが、7月7日付17号8面には珍助という筆者による「燕京日記」があります。「六月廿九日 日人八宝胡同てに泥酔米兵と格闘し、米兵帽を失ひ、日人頭を割らる。下瀬太夫蝎に噛まれ、公使足の筋を斬る。(21)」など日付別の7コマ構成です。資料その2の珍妙坊、珍チヤンを思い出して下さい。井上も4号から「我が輩が予想する支那共和国の将来」を4回寄稿した後、10号から31号までの間に「塩税概略」を14回連載しています。
 7月21日付19号9面から日付別に数行ずつ書く無署名の「燕京日誌」のスタイルが始まり、同号では7月8日から15日までが入ってます。7月30日明治天皇が亡くなり、元号が明治から大正に変わり、大正元年9月22日付28号11面の「燕京日誌」は「十五日 順天に新支那校正に出掛く。山田横山奉天両氏囲碁に夢中也。帰りに前門外正陽楼に二千年前の料理を喰ふ。薪火の上で羊肉を焼き乍ら喰ふのなり。野蛮なれ共美味絶す。美食に飽いた罰当りは一度試むべし。(22)」という1コマがある。鷲沢が書いたという署名はないが「正陽楼」と「二千年前」の初登場です。
 これはね「新支那」の社屋は東単牌楼総胡同にあったのですが、そこには印刷部門がなく、北石橋という所にあった「順天日報」という中国語の新聞の工場で印刷していたので、そこへ出向いて紙面の校正をしていた。そして、帰りに正陽楼に寄って後にジンギスカン料理と呼ぶことになった「二千年前の料理」を食べたという重要な証言であります。
 「二千年前の料理」はカオヤンローだともジンギスカンだとも書いていない。だけど初めて食べてみて、すぐ「二千年前」とわかるわけがない。この筆者、多分鷲沢は9月22日以前に1回は正陽楼で食べている。そのときにでも誰かから「二千年前から続く料理」だと聞いた、もしくは誰かと食べながら2000年ぐらい前からあった料理という見方で一致した。またはね、もう少し前にだれかから教わっていたから、ためらわずに「二千年前の料理」と書いた。
 それにね、この「二千年前の料理」は北京在住の日本人にはまだ知られていなかったから、わざわざ正陽楼という店名と簡単ではあるが、食べ方を書いて、こういう羊肉料理があると知らせる狙いもあったでしょう。でも10月13日付31号から「二千歳」となり7回出てくる。10月6日は井上も加わっているから、このころ二千歳と決めたと見られます。資料その1の前半の三千歳は、中野がこの記事を思い出して書いたのでしょう。
 「新支那」の編集後記である「燕京日誌」で正陽楼、二千、三千、テニスという単語を含むコマを抜き出して、大正元年8月から日付順に並べたのが資料その7です。テニスを入れているのは、入江湊氏が書いた「ジンギスカン料理由来」で大使館のテニスコート利用グルーブの1人として井上一葉の案内で正陽楼に行ったと書いたからです。また初めて「二千年前の料理」と書いた9月22日分は特に注意しほしい箇所を太字とし、全文書き写しました。「帰つて湯に入」の次の1字は「る」だと思うが、字が抜けているので原文通り空けたよ。

資料その7

8月11日付22号11面 
十日  武官室コートにテニスす、疲れる。

8月18日付23号10面
十四日 午后テニスす。

9月1日付25号11面
三十日 公使館テニスを見る。何れも精三さんに及ばずば頼もし。拙者の美髯伊欣差を驚かしたれど、無理するなと養生しろと叱られたり。

9月8日付26号11面
三日 テニスす大当り。

9月22日付28号11面
十五日 順天に新支那校正に出掛く。山田横山奉天両氏囲碁に夢中也。帰りに前門外正陽楼に二千年前の料理を喰ふのなり。薪火の上で羊肉を焼き乍ら喰ふのなり。野蛮なれ共美味絶す。美食に飽いた罰当りは一度試むべし。夜店を素見す。ガラクタ物ばかり也。スプーンに値を付け、苦もなく負けられて六十仙棒に振る。帰つて湯に入 と、実相寺氏太太郎神崎三井氏来訪。上等の茶菓子をクサシ乍ら話は依然乃木将軍殉死論。此頃の日本人少々眼の玉の色が変つて來り。太々犬コロを褒めるに乗じ、ノラ公を押付けんとせるも失敗に帰す。ノラはやはり拙者の家に高い米を喰ひつぶす事となる。

十八日 公使館を訪ふ。酔香小天地テニス場にあり。職怠慢を叱り置く、但し午后六時也。

9月29日付29号11面
廿日 新支那製造に閉息せられ、終日ペンとインクに虐めらる、夜池田君送別会正陽楼に開かる、会費一弗五拾仙也。安いと旨いは別問題也。小雨降る。

廿一日 遠山君池田君来訪。武官室コートに送別テニスあり、コンクリートの上に菰を敷いてスキ焼に冷酒、是は正しく四千年前の喰ひ方也。尻冷へて痔飛出す、野蛮は往々身体を損ず、况んや二次会の猛烈なるに於ておや。

10月6日付30号11面
二日 テニス一寸やり。突を一寸球き<原文のまま>局長をナメル。

10月13日付31号11面
六日 日曜好天気正に骨を延す可し、容齋一葉の諸君と正陽楼二千歳の蛮食を試む。烟の中より羊肉を引上げて喰ふの也。容齋翁ケシ炭と肉をゴツタに喰つて口を焼く、是眼の咎也。帰途ルリチヤンに骨董と出掛く。エビで鯛は釣れず。

八日 伊達の薄着見事に風を引く、公使館病尻の先に出づ。正しく二千歳の祟り也。下瀬太夫何と云ふとも公使館病の病源は支那料理也。吾輩の学説最も根拠あり。

10月27日付33号11面
二十日 菊地齋藤二少佐の送別会二千歳に催し、喰い余りを長春亭に持込み、室丈け借りて二時迄遊んで、おかみにビール三本寄附させたりと云ふ。喰物が悪ければ人間もダン/\性根が悪くなる様なり。

弐十一日 外蒙古独立の報達す。慌てゝ露国使館に駆込む。理屈はドツチにもあり、強い方がツマリ勝つ様也。有名なる二十一日会正陽楼二千歳の適處に開く。会するもの僅に七士のみ、北京人士の奮発足らず。但し六楼氏炉辺を去らず羊肉十斤を平く、いさゝか心地よし。

二十五日 又々二千歳を襲ふ。どふしても氏より育也。ツマリお人柄なる可し。

二十七日 梁啓超君を訪ふ。話より文章の方上等也。容齋翁に招かる。守屋代議士のネツ弁、流石に商売也。代議士一行明日入京すと、コツチも口の戸閉り肝心也。安藤君下痢す二千歳の祟り也と称す。兎に角鬼の霍乱也。

11月10日付35号11面 
三日 日曜也。日曜は喰つて遊んで骨を休むる日也。依つて二千歳に出掛く。安いから行くのにあらず。

11月17日付36号11面 
十日 国事多端。新支那の因果で日曜丸つぶれ。夜前門外に白菜料理のステキなやつを発見す。三千歳は暫くお休み也、人聞きも悪ければ。

 大正2年9月からの3カ月の間に「二千年前の料理」が「二千歳」と変わり、さらに誤植かも知れないが「三千歳」とも呼んだことがわかりますね。資料その1のように「何んとか奇抜な名をつけやうぢやないか」といった鷲沢と井上が相談したかどうかわかりませんが「三千歳」という名前を初めて公にしたのは「燕塵」ではなく「新支那」だったのです。
 ただ、この5年後に、もう一度「燕塵」という同じ名前の旬刊紙が鷲沢と井上によって発行されているので、それを調べずに「當時の『燕塵』誌上で発表された」という中野説は間違いだと即断はできません。
 「燕京日誌」は無署名の日もあったが、40号から復活して愚坊識、43号、46号、48号、49号、58号、62号は如是坊です。特に大正2年5月28日付の62号は「離京日誌」は「南京にて」とあり上海、南京を見て帰国するところですから、如是坊イコール鷲沢であることは確かです。
 その後の「燕京日誌」と記事に二千歳、三千歳は現れませんが、大正2年4月の54号と55号に香炉庵と名乗る人物による随筆「支那料理 食道楽」が2回掲載されていて、正陽楼に食べに行ったことが書いてあるのです。
 1回目は「乃公が此塵の都の北京に這入つて來たのは辛丑の年で、」つまり明治34年に北京にきたとき「丁度其頃此燕京に市原の源チヤンと云ふ支那通が居た、何かの機合ひで当時北京一等と称する余園飯壮子で御馳走すると云ふ事に成た、乃公共も其末席に加へられた訳で主客約十人も有たらう、」とあります。
 この「市原の源チヤン」は市原源次郎という熊本県出身の所謂大陸浪人で、神奈川大の大里浩秋教授の「宗方小太郎日記 明治34〜35年」という研究論文に収められている日記に、北京市原とか市原源次郎と11回も出てくる人物です。宗方は旧海軍嘱託としてスパイ活動をした人物で、明治20年から大正12年迄ある宗方の日記類を調べた大里さんの論文の中には宗方が鷲沢、井上との面会が記録されています。
 その宴会ですが、源チャンから「支那料理と云ふ者は面白い者だ、鱶の鰭の料理が出ると、主人には挨拶するに及ばぬが其料理に対して一同立て敬礼するのだ」と聞かされ「一声高くライラーと響き渡る堂官の声と共に運ばれたるが所謂る鱶鰭である、満座の内には未だ鱶鰭の料理を見た事の無い者もある、源君満面の愛嬌を両眼の周囲に集めて、『サー諸君是が鱶の翅だ請々』と遣つた、満座の羅漢一同起立し、厳粛に湯気舞上がる鱶鰭の膠煮に対して敬礼を表した(23)。」そうです。稚気満々、担ぐ方も担ぐ方だが、所謂支那通になるためのいい勉強になったことは確かですよね。
 香炉庵はその後、阿茶山という中国人から支那語を学ぶのですが、鱶鰭に最敬礼の話を聞かせたら笑われたといい、正月だからと資料その8のように、昼飯は正陽楼の烤羊肉を食べることになったというのです。中国語の便飯は手軽な食事を指すそうです。それから原文通り「雲はチラ/\」「雲は烟の中」としたが、これは「雪」ですね。その後の「六出の花」も雪、言い換えですね。
 この香炉庵はだれか。私は井上一葉だとみます。根拠その1は大正2年、井上は香炉營下4條に住んでいた。(24)根拠その2は何振山という支那語の先生がいた。資料その3に出てきた亀井もこの先生に習ったのではないかと思うのですが、井上はこの何振山をもじって阿茶山を作り出したと考えます。もしかすると、少しは習ったかも知れませんが、何は大正5年の日刊の「新支那」に支那語と英語を毎日1時間出張教授して授業料は月銀4ドルという広告を10回(25)続けて出しています。

資料その8

○支那料理 食道楽 (二)
 ▲赤毛布の発心 <略>
 ▲実地の研究 <略>
 ▲古代の料理
 人山人海の熱閙を右往左往と隙を拾ふ
て南に往くと鮮魚口と云ふ小路がある、
此小路に入ると正陽楼と題した料理屋が
如何にも老舗らしき體裁を示し、門口の
敷石までが客足繁きに踏み馴らされて居
る、阿茶山先つ部屋の有無を尋ね雅坐児
(部屋)は裏にあると云ふので鬱陶暗き庭
を通り、怪しげなる路地を辿りて内庭の
奥の雅坐児に坐り込んだ、阿茶山曰く、
此處は羊を美味く喰はせる所です、少し
喰ひ方は野蛮ですが便飯ですから是で仕
舞て置て、晩は何處か外の料理屋へ往つ
て緩くりと遣りましよう、乃公便飯でも
不便飯でも何でも搆はん、宜しい/\の
一点張りだ、阿茶山何だか註文をした、水
瓜の種を噛りて茶を喝みながら硝子越に
外を眺むれば、雲はチラ/\降つて來た、
室内も土間の事であるから脚の先から染
み込ように冷へて來る、外では大きな炉
にドン/\火を起して盛に燻べ始めた、
寒いので焼火を拵へて室の中へでも入れ
て呉れるのかと見て居れば、炉を置きた
る臺の上に盃盤が排置せられ、羊の肥痩
紅白染分けたような肉が沢山に運ばれ
た、ボーイが出來ましたとの合図に、阿茶
山「さあ吃べましよう」と九天から振り撒
く六出の花の中に出で、恰も野中の立食
と云て態で大きな炉に対した、生焼の炭
を沢山炉中に盛り上げてあるから、烟は
風に煽られて遠慮なく珍客を燻べ倒す、
雲は烟の中をこぐりて盃盤の上に堆くな
る、是が美味く喰はせる料理だとは聊か
驚いた。(未完)

  

参考文献
上記(19)の出典は燕塵社編「燕塵」48号ページ番号なし、「北支那居住の邦人戸口」より、明治45年2月20日、燕塵社=原本、 資料その6(1)同40ページ、同、同、 同(2)は明治45年3月3日付新支那1号1面=原本、 (20)はJACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03040675800、政務局編纂外国新聞調査書配布一件 第二巻(1-3-1-17_002)(外務省外交史料館)、 (21)は明治45年7月7日付新支那17号8面=原本、 (22)は大正元年9月22日付新支那28号11面、同、 (23)は同2年3月30日付同54号10面、同、 (24)は北京日本居留民会編「大正二年四月末日現在 北京日本居留民会定款、諸規則及会員名簿」71ページ、大正2年、北京日本居留民会=館内限定デジ本、 (25)は大正5年11月9日付新支那3面〜23日付同3面=マイクロフィルム、 資料その8は大正2年4月9日付新支那55号10面、新支那社=原本

 こうなれば台に片足を挙げてなどと3回目に書いてあると思うでしょうが、どういうわけか3度も探したけど続きが見付からない。2回未完のままで終わってしまったのですなあ。せめて「燕京日記」の二千歳は見付けたいと読み返したけれど、やっぱり見付からない。諦めざるを得ません。
 それから2月後の6月初め、鷲沢が東京の本社に戻ることになり、その盛大な送別会の記事と同じ面の広告として資料その9(1)の転勤挨拶が載っています。これは中国語とも日本語ともつかぬ鷲沢語で、要は略儀ながらご厚誼を謝し、この広告を以て御挨拶に代える―だね。
 資料その9(2)の「芳坊」は鷲沢のことで皆川芳子というペンネームで支那の政治情勢などの随想もちょいちょい書いたからです。題名はスキダワ、筆者のペンネームはキライヤシと読める。何々ヤシは関西弁で「だから」という意味というから題名で好きだといいながらペンネームで嫌いだからでは矛盾するが、埋め草だからね。大人はオトナでなくてタイジン、つまりボスだ。これらを合せて筆者は井上とみてます。

資料その9

(1)
敬啟者 敝人 在燕中多蒙 各
位之厚誼感激不盡此次因本
社之命回国擬赴告別無奈期
迫不能一々辭行負平素之厚
誼缺應行之套禮慚愧抱歉此
藉報端謹述別辭以謝 各位
之懇誼順請
台安
    東京時事新報社
     鷲澤與四二


(2)
  数寄駄話   鬼來野史

▲燕京日誌の芳坊去つて之れに代もの
なく、芳坊今ま「時事」編輯局樓上の冷飯
連となつて、北京で大人と呼ばれたヤン
チヤ時代のさぞや恋しからん、好漢近来
甚だ無沙汰す、燕京同塵に代つて叱り置
くもの也。

 北京特派員が交代するとき、北京では大和倶楽部で新旧2人によるお披露目宴会を開いていました。ところが鷲沢が着任したとき前任の亀井陸良がそれをしなかったようで、鷲沢も後任特派員の着任を待たずに去り、新支那も書かなかったか欠号のためか名前も着任月日もわからず、1年半もたってから中日記者懇親大会に出席した「日本側の記者は亀井陸良、水野秀、都甲文雄、村田孜郎(順天時報)神田正雄(大阪朝日新聞)豊島捨松(大阪毎日新聞)小川節(時事新報)井上一葉(大和新聞)桑田豊茂、吉野(帝国通信)鬼頭玉汝(満洲日々新聞)末次政次郎(福岡日々新聞)大和正夫(報知新聞)安藤(本社)等の諸氏(26)」という記事でね、初めて後任は小川節とわかったのです。
 またこの懇親大会に井上一葉が大和新聞、大和正夫という報知新聞の記者が参加しています。私が注目するのは大和の方で北京居留民会の会員名簿とこの記事から、大正2年から6年まで北京に住んでいた(27)ことがわかる。
 資料その10(1)は北京の中国語新聞順天時報の社長だった元時事新報北京特派員亀井陸良の世話で「大正4年まで本願寺築地輪番であった所、本願寺當局と意見が合はず辞職して十一ヶ月間東京で放浪して居つた(28)」渡邊哲信が報知の北京特派員に採用され、その渡邊の名前が初めて出てきた記事です。新支那の欠号で、着任ははっきりしませんが、この記事からみて大正5年5月以前でしょう。
 明治45年5月まで報知の北京特派員は石川半山(29)でした。石川の年譜には書いてませんが、石川は岡山市の代議士選挙で落選して報知をやめ(30)て北京を去ります。渡邊は「石川半山君の後を受けて報知新聞社の北京特派員となり(31)」と書いていますが、そうではなくて渡邊が着任するまでの間、ほぼ4年はこの大和が報知へ記事を送ったみられるのです。大和は渡邊が来たので東京通信という通信社へ移ったことが資料その10(3)でわかります。
 新支那を読むと北京ではいろいろな宴会が次々開かれる。その記事を書くためといえばいえますが、特派員の仕事の半分は宴会出席みたいで肝臓の痛みはともかく、うやましいお仕事ですなあ。資料その10もその1例で■は不鮮明な漢字、それから(2)は(3)より先の記事なのに13週も後の番号はあり得ない。書き間違いらしいから、京都大に行く機会があれば確かめてきます。

資料その10

(1)
□両少将の招宴 前任公使館附武官町田少
将及新任斉藤少将は昨夜大和倶楽部に於て支
那側文武大官及陪賓として日本側の重なる人
々を招待したるが支那側よりは参謀次長唐在
禮<略>
交通部参事権量、同陸夢■、李士偉、呂烈煌、傳
良佐等二十余氏にして日本側よりは日置公使
小幡参事官、出淵、船津、高尾三書記官川上満
鉄理事、加藤恒忠、実相寺貞彦、増田大佐、藤田
中佐、亀井順天社長、神田正雄、楢崎観一、小
川節、渡邊哲信、後藤朝太郎、児玉貞雄、其他
二十余名の人々に対して町田及斉藤両少将の挨
拶あり、之に対して支那側を代表せる薩鎮永氏
の謝辞ありて主客杯を挙げ十時散会したり


(2)
△記者連の小幡参事官招待 在京
新聞記者亀井、神田、楢崎、渡邊、
小川其他の諸氏は近く本省に栄転
さるゝ小幡参事官を六日正午大和
倶楽部に招待し送別会を催せり、
因に在留官民は小幡参事官在任中
の瘁公に報ゆる為め邇く大和倶楽
部に於て官民一同の大送別会を開
く筈


(3)
[京津雑報]
▲記者倶楽部大会 三日午后六時
半より大和倶楽部に於て中日報界
記者倶楽部の大会を開く、日支両
方面の新聞記者多数の來会あり、
幹事神田正雄氏より会務の報告あ
り、幹事朱h氏代理朱超祖氏支那
側に報告し、次に役員改選に移り
しが、神田幹事の指名に一任する
事となり、同幹事より
評議員<中国側6人、日本側神田、亀井、渡邊、田原の4人>
幹事<中国側3人、日本側小川、楢崎の2人>
当夜の列席会員は左の如し
<中国側18人>日本側は神田正雄(大阪朝日)楢崎観一(大阪毎日)小川節(時事)渡邊哲信(報知)有留重利(順天時報)都甲文雄(順天時報)井上孝之助(大和)大和正夫、辻武雄、豊田多賀雄(東京通信)長谷川賢(亜細亜通信)奥村政雄(大阪毎日)上田吉兵衛(大阪朝日)中野江漢(北京聯合通信)田原禎次郎(満洲日々)紀内実(上海日報)佐藤三郎(写真通信)末次政次郎(福岡日々)其他諸氏

 鷲沢は北京での楽しさが忘れられず、もう一度我が輩に特派員をやらてくれと猛運動でもしたのでしょう。大正6年4月北京に戻ってきます。このころには大和倶楽部で新旧2人によるお披露目宴会を開くのが恒例になっていて、小川もそうしたから資料その11(1)の記事があるわけね。小川は独身で着任し、2年後に結婚して奥さんを連れてくるのですが、北京勤務は4年で終わりました。
 「成吉思汗料理の話」を書いた中野江漢は、同(2)と(3)で示したように大正5年秋、北京聯合通信社を設立以来、宴会は勿論、各方面の取材に励んでいました。だから資料その10(3)にその名前があるのです。
 鷲沢は旧友井上と組んで第2期「燕塵」と呼ばれる旬刊紙「燕塵」1号を大正6年9月10日に発行しました。資料その11(4)は、その創刊号の第1面、同(5)は鷲沢が書いたとみられる発刊挨拶。まるて「燕塵」発行が本業みたいですね。さっそくコラム「岡目八目」で「■南萍、一葉の徒、近頃柄にも無き茶目氣を出し、道樂に事欠き、燕塵発掘とは、物数奇も茲に至つては、人並を通り過き、開いた口も塞がらず■燕塵も、皮肉家の南萍、いか物喰の一葉に掘り出されては、定めし有難迷惑を爲し居るなるべし、其腹愈せに、八つ當りなどされては、隣り近處の大迷惑なり(32)」と茶目郎が冷やかしています。南萍は鷲沢のペンネームの1つです。

資料その11

(1)
[京津雑報]
△両記者送迎会 九日午后七時
大和倶楽部に於て時事新報北京
特派員小川節氏及び更代の鷲沢與
四二氏の為に倶楽部幹事主催の送
迎会を開く、出席者百余名、青木中
将小川氏に対する惜別及び鷲沢氏
に対する歓迎の辞を述べ、小川、
鷲沢両氏交も起つて謝辞を述べ非
常の盛会なりき


(2)
北京聯合通信社

中野江漢氏は今回内地地方新聞社の
団結を作り北京聯合通信社を設立し
来月初旬より通信を発行し精確なる
支那関係の材料を提供する由


(3)
初号出づ

天長の佳節を卜し北京聯合通信の
第一号を発刊せり我徒は更に筆を
洗ひ満腔を披瀝して天下の事象に
対す
獅兒に食牛の気あり北京聯合通信
の呱々の声は是何物かを叱咤する
の叫びなり
       北京聯合通信社


(4)   第2期「燕塵」創刊号の第1面
     

(5)
 燕塵發掘の辭

 雨降れば三尺の泥となり、風吹
けば萬丈の塵と化す、燕京の地層
一度之を穿てば、砂層既に幾十尺
なるを知らざる也。朔北の地平線
上淡紅の虹の如きものを見るや、
須臾にして燕都は紅塵の包む處と
なり、天地瞑晦、数時間にして萬目
塵化せざるは無し。蓋し紅塵萬丈
は燕都の名物、年々歳々積んで止
む時なきなり。
 十年の昔、吾等はこゝに『燕塵』
誌を有したり。地平線上の淡紅色
には非るも、炉邊一夕の談論、須臾
にして白熱し、天棚下の清談忽ち
にして煑沸す、朔風の時に紅塵を
上げざる日あるも、塵人の談論は
必らず風發す。然るに紅塵の一過
は必らず一砂層を遣すも、燕人の
談論は談ずるがまゝに消ゆる恨あ
り。茲に於てか『燕塵』誌の刊行あ
り、幾重の智識層を作つて、以て燕
人の爲めに氣を吐く事、紅塵風來
して、燕都爲めに一名物を得たる
に等しきものありたり。然るに、時
勢の非か、燕人の非か、いつしか刊
行の挙絶へて、あたら智識層は深
く砂層の底に埋れ、夙く既に化石
となれり。
 光緒宣統の治は、支那が永き眠
りより覚めたる、曙光時代と信じ
られ、誰か清朝三百歳の最後のペ
ージたらん事を豫想せんや。意は
ざりき武漢の一炬に民國は燦然と
して新なる光輝を發するに至りた
り。而して爾來六星霜を経たるも、
不幸にして民國建設の事業は、彼
の紅塵を以つて砂層を作るよりも
遅々たるのみならず、前途の艱難
愈々加ふ可きを想へば、徒らに之
を紅塵の風來に問ふも詮なし、若
かず吾友燕塵誌を砂層の深底より
發掘せんにはと、茲に同人は他に
其人あるを顧ず、化石せる『燕塵』
を起して再び燕人の旅伴とし、噴
火口として、以つてその装を新に
して民國の新舞臺に臨まんとする
ものなり。死馬の骨既に千金の値
ありとすれば、化石せる燕塵の發
掘、豈敢て千金の値なしとせんや、
只燕人同人の撫育に俟んのみ。

 井上は編集人となり、満を持したように1号から「支那料理 食道楽」という料理の記事を連載します。この題名は香炉庵が「新支那」で2回書いて未完で終わった記事と同じで、しかもそのとき香炉庵を正陽楼に連れて行った支那語の先生「阿茶山」を登場させ、料理の解説やレシピを教える形で書いたのです。阿茶山の「鷲澤さん一別五年話は山の如く有ります」といわせてますが、これは井上の友情そのものでしょう。
 第2期「燕塵」は21号から「日支時論」と合併して「日本及支那」と改題します。これら第2期「燕塵」20号までと「日本及支那」26号まで東洋文庫と東大総合図書館が所蔵しているので読めますが、井上は「燕塵」19号で1回休んだだけで「日本及支那」と合わせ45回まで書き続けたことがわかります。
 その全料理名は別に読めるようにしますが、資料その7でペンディングにした「三千歳」はない。完全に中野の間違いです。それからね、料理法で烤の講釈はしているが、烤羊肉はありません。井上は烤羊肉は正統派の支那料理ではないとして、取り上げなかったように思われます。
 はい、資料その12が「食道楽」第1回の前半です。普段から井上は縄暖簾博士と自称していたらしく第2期「燕塵」18号の「ちり籠」に「北京には妙な博士号を持つて居る人が随分たくさんある。今最近調べたものを一寸茲に書き並べて見よう」と頭文字だけも含め13人を挙げた中に、井上は縄暖簾博士、中野江漢は北京城壁博士、辻聴花は支那劇博士(33)と紹介されてます。

資料その12

支那
料理   食道楽  (一) 一葉生

  はしがき

 支那人は料理には発達して居るが医術には
発達して居らぬ、独逸人は医術には発達して
居るが料理には発達して居らぬ、夫れは道理
がある、支那人は食事を衛生的に調理して病
ひに罹らぬ方を講じて居る、独逸人は食事を
経済的に配合して疾に成れは医する法を考へ
て居る、其處で支那人に医術か発達せず独逸
人に料理が発達せざる訳と成る、然し是は何
れも中庸を得てない、若夫れ孰れが勝るかと
云へば、独逸の疾で後に医するよりは、支那の
病まぬ前に防く方が遙に賢こいと云はねばな
らぬ、是が支那料理を研究する価値のある所
である。    縄暖簾博士  一葉識す

  河南料理(一)

 東京時事新報の鷲澤南萍が再度
の特派員として此燕塵の中へ踏込
んで來た、相変らす汚いな……然
し支那政海の風馬牛的変化の面白
さと、支那料理の油の匂ひ香ばし
きとが忘れられんで遣て來たとは
落付き最初の挨拶であつた
 東京の新消息を聞かんと旧知の
者は続々遣て來る、中に兼てより
懇意の支那人阿茶山も來て居た
 阿茶山……鷲澤さん一別五年話
は山の如く有ります、が兎に角塵
落しに今から支那料理に往きまし
やう、日本の新しい事も聞かして
貰いたいが、支那の面白い話も聞
かせます
 南萍……夫は結構だが、実は少
し落付いたら此方から先に諸君を
招待したいと思つてる訳なんです
 阿茶山……夫は不可費せん、遠
來の友人には土着の者が洗塵する
のが支那の例です
 南萍……夫れでは御厚意難有く
順戴します、時に阿茶山、招ばれ
る仕儀で別に注文すると云ふ訳で
はないが、何か一品料理と云ふ様
な式で、乙な変な粋な物を拵へる
所に伴れて往つて貰へないかね 
 阿茶山……宜しい、夫れでは皆
様一緒に往きましやう
 前門外勧工場の三階楼上豫菜舘
玉樓春の一室に陣を設けた<略>

  

参考文献
上記 資料その9(1)の出典は大正25月25日付新支那61号11面=原本、 同(2)は同年6月29日付同67号12面、同 (26)は大正3年9月6日付新支那120号12面=原本、 (27)は@北京日本居留民会編「北京日本居留民会資料1」大正2年度会員名簿68ページ、北京日本居留民会=館内限定デジ本A同大正3年度同93ページ、同B同大正4年度同70ページ、同C同大正7年度同には掲載なし、同=国会図書館インターネット本、 (28)は日笠正治郎編「国士亀井陸良記念集」401ページ、渡邊哲信「稜々たる侠骨」より、昭和14年3月、国士亀井陸良記念集編纂会=原本、 (31)は同403ページ、同、同、 (29)は木村毅編「明治文学全集92 明治人物論集」401ページ、田熊渭津子編「年譜」より、昭和45年5月、筑摩書房=館内限定デジ本、 (30)は明治45年5月6日付報知新聞夕刊1面=マイクロフィルム、 資料その10(1)は大正5年5月17日付「新支那」197号11ページ=原本、 同(2)は同5年10月8日付「新支那」247号12ページ、同、 同(3)は同6年3月4日付「新支那」233号12ページ、同、 (32)は燕塵社編「燕塵」1号9ページ、同6年9月10日発行、燕塵社=原本、 資料その11(1)は新支那社編「新支那」238号12ページ、同6年4月8日発行、新支那社=原本、 同(2)は同5年9月26日付新支那3面=マイクロフィルム、 同(3)は同5年10月31日付新支那3面、同、 同(4)と(5)は燕塵社編「燕塵」1号1ページ、大正6年9月10日発行、燕塵社=原本、 (33)は同18号*ページ、同7年4月20日発行、同、 資料その12は同1号17ページ、同6年9月10日発行、同

 私は資料その7のように鷲沢たちは二千歳と呼ぶことが多かったと思うが、まあ、これは三千歳で話を進めましょう。ある宴会で鷲沢がカオヤンローは三千歳と呼ぶことにした経緯を語ったら、同席していた「或人」がそれを聞き、蒙古人からジンギスカンは陣中で好んで羊肉のあぶり焼きを食べたという話を聞いたと語った。もともと奇抜な名前として三千歳と命名したぐらいだからね、ジンギスカンの方がもっと奇抜だと認め、ジンギスカン料理と呼ぼうと提案、異議なしで決まったというのが中野の説明ですよね。
 「或人」とぼかされた人物はだれか。私は報知の渡邊哲信こそ、この「或人」だとみます。このころ北京には「僕が蒙古を横断した時に」と胸を張っていえる人物は渡邊以外にいなかったと考えます。
 渡邊は新聞記者になる前、西本願寺築地別院輪番を5年務めてますが、ただの坊さんではなかった。浄土真宗本願寺派第二十二世法主大谷光瑞の高弟で明治35年、大谷の率いる第1次探検隊に加わり、同僚の堀賢雄とともにタクラマカン沙漠を西から東に横断した(34)人でした。資料その13(1)にした渡邊の講演では、歩いた道のりとカシュガルの位置がわかりにくいから同(2)の地図を見なさい。大谷探検隊の探検コース図の中でもこの地図は渡邊に絞り、かつ通った場所を直線で結び、わかりやすいので、本願寺備後教堂備後教区にお願いして拝借しました。
 同(3)は(1)の講演の後の質疑応答です。これではポローの説明が足りないが、渡邊の「中央亜細亜探検談」によれば「羊の脂を釜の中へ入れて能く煑らし、其上に羊の肉を入れ、米を精ぎ、脂の煑へた處へ之を入れて、充分湧き上つた處で火を退き能き程に蒸して食する(35)」とあり、要するに肉と脂身の混ぜご飯らしい。
(4)は「新西域記」という大きな本にある渡邊の日記からで、綿羊を食べて飢えをしのぎながらの探検だったのですね。白須浄真 著「忘れられた明治の探検家渡邊哲信」は3月7日分を引用して「此の地」について(カシュガルとマラル・バシの間のシャプチューのオアシス)(36)と注記しています。
 キルギスはジンギスカンの東欧遠征の通り道であり、モンゴル帝国の領地になったこともあったから、渡邊は綿羊の値段交渉でキルギス語がわかるようになり、蒙古軍団の話を聞かされたとか、西安など中国を通るときにジンギスカン伝説を聞くこともあったでしょう。渡邊が北京に来たのは大正5年としても帰国してから11年もたっており、大谷探検隊の第1次探検隊員だったことは知られていたはずですから、皆渡邊の発言はさもありなん、とうなずいたでしょう。

資料その13

(1)
 私の西域旅行コースと沙門志満

 ここでちよつと私共がどういふやうに旅行して來たかといふことを概念に入れて置いて貰ひたいと思ふのであります。私共は明治三十五年八月にモスコーを出てバクーに來まして、それから船で対岸のクラスノヤルスクからトランス・カスピアン・レールウエイに依つてその終端のアンヂヂヤンといふ所に参りまして、そこがらオツシに参りまして、ここで馬を三十頭ばかり借りて馬のキヤラバンを拵へまして、さうしてパミールを越えたのであります。パミールを越えて新疆のカシユガルに來て、カシユガルからタリム盆地に入りまして、タシクルガンを通つて、それから沙漠を横断してアクスを通って又カシユガルに入つて、カシユガルから違つた道を通つてアクスに出て、クツチヤといふ所に四箇月ばかり発掘探検をして居りまして、それから迪化に來て、迪化から寡峪關といふ萬里の長城の一番西の關門を通つて、それから粛州、甘州、凉州、蘭州、西安と、斯ういふ風に來たのであります。その間二十一箇月餘掛つたのであります。<略>


(2)
 


(3)
問 食べるものは矢張り羊の肉ですか。
答 食ひものは羊です。米はロシアから來るし、作つて居る所もあります。ちよつとした二、三千の人口の町に行けば米を売つて居るから、その米を買つて牧畜して居る羊を買つて、羊飯をして食べました。それを土人はポローと言つて居る。英國にピラツフといふ米と羊の肉を一緒に煮た料理がありますが、ピラツフといふのはこのポローから出たものと思ひます。野菜は薬味位の葱があるだけで非常に困ります。


(4)
二月十五日<略>
是より、路は西に向ひ、一坂を過ぎ、アコイを捜索し得ず、人を各方に派す。余等四人待つこと時余、此の如くにして夜に入らんか、幕無く食無く凍餒を如何せん。一人遠くから呼ぶ、アコイありと。漸く危難を脱して其處に到り携帯のテントを張りて幕営す、キルギス羊一頭を屠りて饗す、羊補屠殺するに先立ち、一同羊の為めに祈祷す。<略>

三月七日<略>
羊一頭四十五天光にて買ふ。四十天光のものもあり。新疆に於ける羊の價は高低の差甚し、ウツシユとカシユガルの間は羊一頭買ひ、且つ七八騎と十五頭のカラバンの宿料を加へ、六銭を支払ふに止りしも、此の地は羊一頭のみに七銭を要す。<略>

 では何故に中野は渡邊を「或人」にしたのか。私は中野がちょっとした恨みがあったからだと考えます。資料その9でわかるように、北京ではニューフェースであり、売り出しで「新支那」に「白雲観遊記 附けたり我が観宗教論」を連載しました。大正5年7月18日掲載の18回で終わったのですが、最終回に「我帝国に大勢力を有する四大教、及一般教育は皆斯の如く孰れも完全無欠と云ふ事が出来ない」「然らば如何したならばよいか、結論は簡単だ、一言にして盡す、日本には日本特有の神道があるではないか、神国の人民は神道を信仰して世に號すればよいのだ、日本には日本特有の武士道があるではないか、日本人は此武士道を心得て置けばよいのだ」、そして教育は教育勅語が「我国民の羅針盤」(37)だと書いています。
 この連載中の7月11日夜に日置公使が公使館で北京在留官民200人を招いて「盛んなる惜別の宴」を開いたという記事に「◎東亭の中には、報知の渡邊君と大毎の楢崎君が、人気者の中野肥大漢を取巻いて談論風発中である、仏陀とかムハメットとか基督とか云ふ言葉が聞る、例の白雲観遊記の宗教論らしい、江漢先生が本職の渡邊君から一本やられてダチダチの姿だ、(38)」という1コマがあります。
 その1週間後、連載は「◎以上述べ來つた我観宗教論は、余りに浅薄で書生の論たる傾があるが専門家に非ざる僕が、併も短時間に於いて世界の大宗教に関し論評を下すのは至難事である、否不可能であるのだ、しかしたゞ僕の態度を明にし、自分が思つて居る事を有の儘にサラケダシたに過ぎない、これで筆を擱く。(完)(39)」と終わっています。私は渡邊と楢崎に批判されたため中野は最終回でこう弁解したとみておるのです。
 それから資料その14の記事のように渡邊は、こと仏教に関しては大臣であろうがなかろうが、徹底して論じる人だったようなのです。大正5年で渡邊43歳、中野28歳、まるで先生と生徒ぐらい年が違うこともあり、渡邊はちょいちょい宗教問題で中野を可愛がってたんじゃないかなあ。ふっふっふ。

資料その14

 【無題言】<略>
△報知新聞の渡邊哲信氏が近日伍新
外相に逢つていろ/\話をしたが、
渡邊氏が流暢な英語を操るので、唯
西洋通のハイカラと思つたか、人間
は何うしても仏教を研究せねば可か
ぬと得意の仏教哲学を滔々と試みた、
△焉ぞ知らん仏教は哲信師の本職、
殆ど釈迦に説法ならんとは△伍氏又
頻りに仏教を研究するには印度へ行
かなければ駄目であると主張する、
焉ぞ知らん、渡邊氏は印度は愚か亜
細亜欧羅巴かけて大旅行した研究家
である△渡邊氏最后に曰く、仏教を
研究するには何と云つても日本へ行
かなければ駄目です、一度是非御出
でなさいと△袁世凱を引張つて印度
へ行脚しやうと申込んだ伍老も、
何うやら渡邊氏に誘はれた日本へ行
かねばならぬことになつたらしい、

 一方、中野は鷲沢にとって選挙の際の頼みの綱、鷲澤が初めて代議士に立ったときから中野は3回も長野県に応援に行った仲でした。だから中野が主宰する支那満蒙研究会が昭和11年に「支那と満蒙」を発刊、その第3号の附録として「燕塵」創刊号を作るというので鷲沢は巻頭の「燕塵縁起」で協力したのです。日本国内には、その第3期「燕塵」創刊号しか残っていないので、何号まで続いたかわかりません。資料その15(1)がその表紙、題字は林権助公使の揮毫で第1期「燕塵」8号のそれの再利用。同(2)は鷲澤の「燕塵縁起」、同(2)が中野が書いた「宣言」です。同(3)は「支那と満蒙」2号に中野が書いた「江漢私記」の前半です。いまさっきいった日置公使の「惜別の宴」のとき中野が熱演して、どこかで前座をやってたのではないかと怪しまれたぐらい芸達者だったようです。

資料その15

(1)  第3期「燕塵」創刊号の表紙
     


(2)  燕塵縁起
              鷲澤與四二

風ふけば萬丈の塵、雨ふれば三尺の泥、北京名物の紅塵
は、晩秋春初にかけて、三日にあげず、燕京の空を掩ふ
て、めばりした戸障子のすき間から、人間の鼻の穴、肺臓
の奥迄、黄化せずんば止まぬ汚さくろしさ。然し之れある
に由つて、五穀豊穣の樂土が、昔も今も變らずに繰返され
る處に、すなはち、燕塵の尊さがある。燕塵は、燕人に通
じ、此黄土風塵の下に培はれた人こそ、今日の支那を吾薬
籠の中にでつち上げた由來を回想する時、老北京等は今更
の如く、吾燕塵を戀ふてやまぬ。林竹蔭欽差の題字と、孤
峯子の發刊之辞に誕生した昔は知らず、後の燕人その黄塵
を拝して止まず。再び、三度、起しては、止み、現はれて
は、絶え、その幾回の起伏は、恰も黄塵の去來に異らず。
こゝに又吾江漢子の助産を得て、燕人悉く移り住む東京を
舞台に、萬丈の塵焔を挙げんとの魂胆、實に時を得たりと
云ふ可く、吾輩も一筆巻頭に辞を載せて、生れぬ先の迷子
札となさんか。


(3)
 ▽宜言  江漢生
『燕塵』復活の議は、数年前
より在京燕人間に上れるも、
其の編輯を担任する人なく、
今日まで実現を見なかった。
数日前、波多野乾一君と、燕
京の思出を語つて居た時、談、
偶々これに及び、同君及び、
鷲澤與四二、竹内夏積、村田
孜郎、大西齊諸君の同意を得
て、愈々装を新にして復活す
ることとなつた。編輯は諸君
の推挙により、其の応援の下
に、不肖江漢が之に當ること
となつた。不肖、燕塵學窓の
中に半生を過し、聊か燕京の
事物を解すると雖も、この大
任を負ふに當り、たゞ光輝あ
る歴史を瑕けざらんことを恐
る。偏に燕塵同人の御支持と
撫育を希ふ。(四月十五日)


(4)
   江漢私記
 ▼創刊号を校了にして、まだ
製本も出來ぬ内に、雪の信州に
向つた。長野縣第二区から出馬
した同志鷲澤與四二氏応援のた
めである。北京時代からの関係
で同氏が最初に立候補した時に
応援したのが因縁となり、今度
で三度目だ。
 ▼鷲澤氏は、人も知る熱誠溢
るる雄弁家で、而も話材に富ん
で居るから、興湧けば時間など
は、お構ひなしである。話が面
白いので、聴衆と渾然一体とな
つて了ふから堪らぬ、次の会場
には容易に顔を見せぬ。
 ▼その飛沫を受けるのは私で
ある。候補者の直前を受持つて
居るのであるから、同氏が来る
まで「つなぎ」として喋舌らな
ければならぬ。そこで私は、先
づ「結論」を先に述べて置いて
から、候補者が來れば、いつで
も降壇できるやうに話を進めて
行くことにした。
 ▼而も聴衆を、倦してはなら
ぬので、政治、外交、経濟、漫
談、講談、猥談、浪花節、デカンシ
ョ節、諸芸の百出、なんでもお
座れといふ工合で、二時間や三
時間は珍らしいことではない。
 ▼聴衆にとつては、下手な田
舎廻りの芸術一座より、面白い
には相違ない。木戸銭は要ら
ず、爆笑裡に、世界の智識が得
られるのだから、一挙両得だ。
それが評判になつて、會場の都
合で顔出をせねば、司会者が自
動車を飛ばして迎ひに來るとい
う歓迎振りで「鷲澤一座」の人
氣役者になつて了つた。
 ▼そんなわけで、最終の日ま
で、巡行(?)をやり通したの
で、創刊最初の事務も、次号原稿
の整理も、手が附けられない。
発送の如き、演説会より旅館に
帰来、自ら封筒を書き、それを
東京に郵送したくらゐだつた。<略>

  

参考文献
上記(34)と資料その13(2)の出典は備後教区教務所編「備後教区」141号7ページ、「備後学僧逸伝(其の五)」より、平成23年4月、本願寺備後教堂備後教区教務所= http://bingo.gr.jp/contents/
wp-content/uploads/2013/01/ 82237ae0d098b84dca7212ee3cd 5599f.pdf (35)は明治37年7月3日付朝日新聞2面、渡邊哲信「中央亜細亜探検談」=聞蔵U、 (36)は白須浄真 著「忘れられた明治の探検家渡邊哲信」131ページ、1992年12月、中央公論社=原本、 資料その13(1)は日本交通協会編「汎交通」41巻7号81ページ、渡辺哲信「西域事情に就いて」より、昭和15年7月、日本交通協会=館内限定デジ本、 同(3)は同89ページ、同、同、 同(4)は上原芳太郎編「新西域記」上巻289ぺージ、渡邊哲信「西域旅行日記」より、昭和12年4月、有光社=原本、 同(5)は同293ぺージ、同、同、 (37)と(397)は大正5年7月18日付新支那3面=マイクロフィルム、 (38)は大正5年7月13日付新支那3面=マイクロフィルム、 資料その14は大正5年12月8日付新支那3面=マイクロフィルム、 資料その15(1)と(2)と(3)は支那満蒙研究会編「支那と満蒙」3号41ページ、昭和11年5月、支那満蒙研究会=館内限定デジ本、 同(4)は同2号74ページ、昭和11年3月、同

 ここでジンギスカン料理という料理名が初めて登場する本、松永左衛門著「支那我観」を紹介しましょう。目下のところ、大正8年3月出版のこの本より早く「ジンギスカン料理」と書いた本は見付かってまません。満洲日日新聞は大正3年で5年早いけど「ジンギスカン鍋」と書いた。料理ではありません。
 それでね、満洲では鍋で広まり新京日日新聞の広告などでは皆「鍋」です。昭和5年、秩父宮殿下が満洲公主嶺にお出でになったときの歓迎宴会の新聞記事や出席者の思い出は「野外料理のジンギスカン鍋の宴会」、「ヂンギスカン鍋に公主嶺農事試験場に飼育される羊廿頭を屠殺し」、「御前には成吉思汗鍋独特の汁を入れた皿を置かせられた、」等々、ほとんど鍋だ。またし、旅行者の満洲で食べた話は大抵、ジンギスカン鍋と書いています。田原豊著「満蒙綺譚」は「成吉斯汗鍋の由来」という章で3度食べた「この成吉斯汗鍋は、羊の肉を薄く切つて、これを焚火の上に直接置いてジリ/\焼きそれにニラを交へた支那醤油をつけてくふので、勿論うまかろう筈はない、然し成吉斯汗鍋の生命は味覚ではなく、気分である、(40)」という具合です。
 一方、北京の正陽楼で食べた里見クと志賀直哉は「料理」で通したし、正陽楼の鍋を買い込み、いち早く営業した濱町濱の家はの広告は「弊館の成吉思汗料理」とうたい、そもそも鷲沢井上命名説は中野の「成吉思汗料理の話」が発端なんでからね。京劇研究家の辻聴花なんか「ジンギスカン料理屋として邦人に知られてゐる、肉市の正陽楼」と書いているくらいです。
 いまはジンギスカンで通じるけれど、少し改まった言い方としては、鍋より料理が多いと思いますが、かつては初めて食べた地域の呼び方、満洲なら鍋、北京なら料理と呼んだり書いたりした。2通りの呼び方があるのは、こういう理由によると考えます。
 明治大学図書館の日経テレコンの接続画面で「新聞記事や企業情報を中心とした総合データベース(日本経済新聞社提供)。 1975年以降の日経四紙(日経・産業・流通・金融)の全文記事を収録。また企業情報、人事情報、株価・債権、経済統計等も見ることができます。1975年以降の日経四紙(日経・産業・流通・金融)の全文記事を収録。」と説明していることと、情報科学技術協会の会誌「情報の科学と技術」の末吉行雄氏の論文(41)から昭和50年から蓄積開始とみて、全期間と指定して「ジンギスカン料理」を検索すると182件出るが「ジンギスカン鍋」だと65件と3分の1なのは、日経の記者諸氏が記事には鍋より料理の方がよさそうと書くせいじゃないかな。はっはっは。
 国会図書館がインターネットで公開している松永安左衛門著「支那我観」は、非売品で松永が寄贈した本ですね。表紙と扉の間にある見返しに「呈帝国図書館御中 著者」とあり、その裏に紳士の写真が貼りつけてあります。それが資料その16(1)の(A)です。松永だと説明がないけど「支那我観」の4年後に出た「九電鉄二十六年史」にある九州電灯鉄道常務取締役としての写真、同(B)と同じ眉毛、髯が認められるから松永ですよね。出版したした大正8年撮影なら44歳の写真となります。もっとも自分の本にわざわざ他人の写真を張り付けることは考えられないが、北京側の重要な証言者ですから、念を入れて確認しました。はっはっは。
 資料その16(2)が松永が渡邊哲信に招かれて正陽楼で烤羊肉を食べたことを書いた「成吉斯汗料理」の章です。同(4)の記事にあるように、渡邊はこの松永歓迎会の4カ月前に順天時報社長亀井陸良の跡を継ぎ4代目社長になっていたので松永は渡辺順天社主と書いたのです。

資料その16

(1)
    (A)               (B)
       
            どちらも松永安左衛門


(2)
   成吉斯汗(ジンギスカン)料理

 帰宿後、渡辺順天社主の案内に依り、正陽門外の肉市正陽楼
に於て有名なる「二千年料理」(實名烤羊肉(カウヤンロー)と称す)を供せらる。
「二千年料理」とは、渡辺氏の同人連の命名したる所のものにし
て、庭外にて盛に榾を燃し、其上に羊肉を灸りて一種の液中に
漬け、之れを食するものにして、支那人の如く煮沸するにあら
すんば一切口にせざる人種の食物としては、最も稀なるもの
に属す。從つて二千年前、曠世の英傑成吉斯汗(ジンギスカン)が千里の行軍
に、天寒く地凍るの時、降雪霏々たる曠野に於て、快喫を擅にし
たる夜営の光景を想像せしめ、豪快云ふベからざるものあり。
故に渡辺氏の同人連は之れを発見すると同時に「二千年料理」
と称し、密かに他に誇りしもの、いつしか「成吉斯汗(ジンギスカン)料理」として
北京食通の間に重んぜらるに至れり。喫し了りて更に北京
名物の蟹を供せらる。鷲澤時事氏、蟹通を振廻すこと頻なり。
滋味亦言ふべからず。
 之等の諸氏と共に、「チエンメン」街の繁雑境を過ぎて宿に帰
らんとすれば、雨大に降る。故國を出でて三十日目にして、始
めて雨に逢ふ亦珍とすべきか。


(3)
     
      「支那我観」初版の表紙


(4)

[京津雑報]
□順天時報新旧社長の招宴 十三
日午后七時半大和倶楽部に於て順
天時報前社長亀井陸良、新社長渡
邊哲信両氏の招宴あり、来会百数
十名、亀井氏は起ちて招待の趣旨
を述べ過去に於ける一同の眷遇を
謝し、渡邊哲信氏は今後の経営に
就ては諸君の同情を得て大過なき
を期せんと挨拶し、林公使は来賓
一同を代表して両氏の招宴を謝し
亀井氏が日支国交の為め長く新聞
の経営に尽瘁したるの功蹟を賞へ
主客杯を交して十時散会せり
□亀井氏送別会 十四日午後八時
大和倶楽部に於て今回辞任帰朝の
順天時報社長亀井陸良氏の為めに
送別会を催したるが、來会官民百
数十名の多数にして青木中将主人
側を代表して送別の辞を述べて一
同と共に杯を挙げて氏の健康を祝
し亀井氏は之に対する謝辞を述べ
午后十時散会したり

 読みましたね。ではこの内容を検討してみましょう。「支那我観」は「対支政策」と附録と「支那小游」の3部構成の本で、自序の日付が大正8年2月であり、この章の前の章を読むと、11月3日は昼間、万寿山などを見物し、いったん宿に戻り正陽楼に出掛けた(42)とわかる。つまり松永は大正7年11月3日の夜「成吉斯汗料理」を食べたのです。「新支那」には松永が北京視察の記事が載っていたと思うのですが、日刊、週刊ともに国内は保存されていない。でも東大図書館にある「日支時論」と「燕塵」が合併してできた「日本及支那」の大正7年11月21日発行の13号に「△松永安左衛門氏(福岡県代議士)來京中六日漢口に向け出発(43)」とあるから、大正7年は間違いないのです。九州電灯鉄道常務取締役だった松永は大正6年から代議士でもあったのです。
 なぜ鷲沢ではなく渡邊が松永に命名の経緯を聞かせたのか。私の推理はこうです。鷲沢が大正2年に転勤するまでは二千年で、ジンギスカンと呼んでいなかったはずです。中野の命名説の通りなら、鷲沢不在では命名話が成り立たないから、どうしても命名は鷲沢の2度目の北京勤務になってから、つまり大正6年以降ということになる。
 鷲沢が北京を去った後の大正2年10月、大和倶楽部で満鉄の中村是公総裁の歓迎会が開かれたとき「新支那」は「酒肴として吾社が曾て広く紹介せし例の三千年以上連綿として今日に伝はれるの料理即ち羊肉の烤焼を倶楽部の庭上にて神代式の振ひたる珍味を試みたり(44)」と書いた。三千年に留まっていたのです。
 乃公出でずんば―と鷲沢が北京に着任するや、さっそく井上一葉が久し振りに二千年で飲もうと記者たちに声を掛け、おなじみだった正陽楼で歓迎会を開いたでしょう。報知の渡邊も往時「新支那」で書きまくった鷲沢の噂は聞いてますから、ぜひお近づき願おうと参加したでしょう。このころの「新支那」を読むと、日本人の歓送迎会など宴会は大抵大和倶楽部で開いており、資料その7のように正陽楼の名前は出てきません。
 当然、カオヤンローで酒を飲み、だれかが渡邊に二千年と呼ぶのは鷲沢と井上の命名によると説明した。それで渡邊が大谷探検隊で沙漠を越えるときなど、よく羊肉を焼いて食べたと語ったのでしょう。沙漠、蒙古、ジンギスカンと話が弾み、二千年よりジンギスカンの方が奇抜だ。今後はジンギスカンで行こうとなった。中野はその席におらず、後でこういうことでジンギスカン料理と呼ぶことにしたと鷲沢から聞いたのでしょう。
 「新支那」に「△中野江漢氏 十日議会の暴動見物中奇禍に遇ひ、倉田医院にて加療中、二十日前後全癒の筈(45)」という記事があるので、もしかすると歓迎会は鷲沢の都合で延び延びになり、この怪我で中野が動けないときに開いたかも知れません。
 その翌年、渡邊は順天時報の社長になっていて松永を正陽楼に招くぐらいのことはできた。鷲沢からみれば、渡邊は坊主上がりで記者歴こそ短いが、9つも年上であり英語、ロシア語ができて欧州からの旅行経験者。しかも明治37、38年の日露戦争当時北京にいて「渡邊堀の二氏は、嘗て本願寺法主に随行して中央亜細亜を横断したる大旅行家にして、瀟洒たる青年僧侶なり、堀氏は今北京の雍和宮に入り、喇嘛僧の中に在て蒙古語を研究しつゝあれば、予の北京滞在中は渡邊氏常に東道の主と爲りて引廻はし説明し呉れたり、感謝々々。(46)」と香川悦二著「支那旅行便覧」にあるくらい土地勘があったから、鷲沢は一目も二目も置かざるを得なかったでしょう。
 松永にジンギスカン料理の命名話を聞かせるのは招待者の渡邊に任せ、鷲沢はそばにいたとしても、うなずくだけだったんじゃないかと思います。渡邊はまず「同人連の命名」つまり新聞記者仲間がが付けたと説明した。「二千年」は渡邊が報知特派員として北京に来る前の呼び方だから当然ですよね。それが「成吉斯汗料理」に変わったきっかけは、鷲澤への遠慮もあり自分の発言だとはいわず、ある酒席で蒙古の羊の食べ方が話題になりましてね―といった調子で遠回しに語ったんでしょう。それで松永は改名は渡邊が北京に来てからだったとは受け取らず、いつの間にか変わったと聞いたのですね。
 話が一段落したところで、鷲沢は正陽楼はいい蟹を食わせる店でもあるなど蘊蓄を傾けたので、松永は「鷲澤時事氏、蟹通を振廻すこと頻なり。」と書いた。
 松永はこの前日の2日夜「三井大村氏」に招待されています。この宴会には「北京在住一流の士」と三井社員が同席しており報道関係では「渡邊順天時報社主、楢崎大毎氏、中島大望氏、鷲沢時事氏、(47)」の名前があります。ですから、正陽楼で初めて顔を合わせたわけではありません。その席で、それとなく三井側からこれら記者たちの噂を聞いており、命名の経緯を語ると思っていた鷲沢が蟹の話をしたので、なお印象に残ったと思われます。大の支那通を以て任じる中野としては、松永が「支那我観」の「いつしか」説が気にいらず、真相はこうだ、鷲澤がいたから決まったと「成吉思汗料理の話」では、敢えて親友の鷲澤を立てた書き方をしたとも考えられます。
 鷲沢と渡邊の顔写真が載っている「北京ノ人人」のページのコピーを資料その17にしました。私はてっきり国会図書館にある「支那在留邦人人名録」11版と思っていたが、そうじゃなかった。京大経済学部図書館に大正6年発行の8版があるとわかったので確かめに行きましたね。大正6年なら鷲沢は北京に来ていたし、渡邊も順天時報社長になっていたから、この本だと思ったのですが、著者の島津長次郎がいた上海など南の方だけの名簿でしたね。
 北京を含む全支那を網羅するようになったのは、たいぶ後の版からのようで、私が作った所蔵館のリストを資料その17に入れました。10版、13版は見ていないが、14版にもこの「北京ノ人人」はなかった。わかったら講義録の参考文献に加えておきます。

資料その17

  


   「支那在留邦人人名録」所蔵図書館表

版番号 西暦出版年 年号   所蔵館
8   1917  大正6   京大経済学部、山口大、奈良大<20版と分類>
10  1919  大正8   大阪府立
11  1920  大正9   国会、大阪府立、拓殖大、山口大
12  1921  大正10  名古屋鶴舞、東洋文庫
13  1922  大正11  大阪市立大
14  1923  大正12  京都府立、山口県立、東洋文庫、大阪府立
16  1925  大正14  名古屋鶴舞
17  1926  昭和1   東大駒場、一橋大
18  1927  昭和2   東京都立、明治大、長崎大
19  1928  昭和3   東洋大
21  1930  昭和5   京都府立、横浜市立、名古屋大、明治大
24  1933  昭和8   国会、東大明治新聞雑誌
26  1934  昭和9年12 東洋文庫、東大東洋文化研、大阪大、一橋大
27  1935  昭和10  東大東洋文化研
28  1936  昭和13  大阪府立
29  1939  昭和14  東洋文庫
29  1939  昭和14  大阪府立<中支版と分類>
30  1940  昭和15  京大法学部、東洋大、大阪府立、名古屋市立大
                         (作成尽波)

  

参考文献
上記(40)の出典は田原豊著「満蒙綺談」28ページ、昭和9年7月、日本軍用図書=館内限定デジ本、 (41)は明治大学図書館日経テレコン(日経四紙) http://www.lib.meiji.ac.jp/
db/exdb/login/telecom21.html 及び情報科学技術協会編「情報の科学と技術」58巻8号408ページ、末吉行雄「NEEDS、日経テレコンの思い出」、平成20年8月、情報科学技術協会、 http://www.infosta.or.jp/
journal/rensai05.pdf#search =%27%E6%97%A5%E7%B5%8C%E3%83 %86%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83% B3%27 資料その16(1)(A)は松永安左衛門著「支那我観」ページ番号なし。大正8年3月、実業之世界社、非売品=国会図書館インターネット本、同Bは野田正穂・原田勝正・青木栄一編「大正期鉄道資料 第十四巻 九電鉄二十六年史」役員顔写真はページ番号なし、昭和59年5月、日本経済評論社=原本、底本は塩柄盛義編「九電鉄二十六年史」、大正12年12月、東邦電力株式会社発行、 同(2)は松永安左衛門著「支那小游」69ページ、「支那小游」より、大正8年3月、実業之世界社、奥付に非売品とある=国会図書館インターネット本、 同(3)は同表紙、同、 同(4)は新支那社編「新支那」246号12ページ、大正6年6月24日発行、新支那社=原本、 (42)は松永安左衛門著「支那我観」66ページ、大正8年3月、実業之世界社=国会図書館インターネット本、 (47)は同65ページ、同、同、 (43)は日本及支那社編「日本及支那」13号32ページ、「北京だより」より、大正7年11月21日発行、日本及支那社=原本、 (44)は大正2年10月22日付新支那80号8面=原本、 (45)は大正6年5月13日付新支那242号12ページ=原本、 (46)は香川悦二著「支那旅行便覧」547ページ、明治39年3月、博文館=国会図書館インターネット本、 資料その17の「北京ノ人々」は平成30年1月現在不明

 時間がなくなりました。中野の「成吉思汗料理の話」は、根も葉もない噂話ではない。何しろジンギスカンですからね、火のないところに煙は立たない。中野はこれを書くとき、きっかけの発言者が思い出せないなら、時事新報の「同社の顧問であり、雑誌『べースボール』の社長である」鷲沢に電話して確かめられたのですよ。それをしなかったのは渡邊だと思い出したからでしょう。あの生臭坊主め、よく説教してくれたなあ、意地でも奴の名前を書くもんか。「或人」で十分とした。江戸の仇を長崎で討つというようなもんです。
 しかし、二千年も、ジンギスカン料理という名前は、北京にいた日本人社会にバッと広まらなかったらしい。資料その18(1)は大正8年10月に正陽楼で食べた東洋史学者の那波利貞が書いたものです。「北京在住の邦人にして之を試食せし者は甚だ稀有」と那波を案内した人は珍らしさを強調したため、那波はまるで大発見みたいに詳しく書いてますよね。
 しかし、案内した人の説明通りなら、その御仁は鷲沢たちの命名を知らなかったことになるし、那波は那波でジンギスカンの勝利の祝宴を連想していながら、ジンギスカン料理とも呼ぶとは知らず食べたことになる。面白いすれ違いですなあ。うっふっふ。
 同(2)は60ページ近い長い論文です。46年前は「珍らしくも蒙古料理の會食」に 招かれたと書いたけど、その後の研究により「蒙古料理・成吉思汗料理などと呼ばるるが、本來は蒙古人独特のものには非ず」と訂正して、塞外、万里の長城の外側の民族というから満蒙の住民も含まれるわけですな。そこで「古來共通して行はれ」ていた料理とわかった。私が正陽楼でそれを食べたのは大正8年だったぞといいながら(1)と日付が一致していないのは、お年のせいでしょう。ふっふっふ。

資料その18

(1)
津浦鐵路にて北京より南京へ
  ―燕呉載筆録(第廿四回)―
      文学士  那波利貞

 四十一、蒙古料理

 十月初二日、北京滞留期も愈々終末となり、明
三日朝には愈々六朝の史祉豊なる南京へ向つて出
発する豫定なれば、入呉の喜は胸に溢るるも、亦
暫時住み馴れたる此の地を去る出燕の愁は綿々と
して尽きない。之に加ふるに秋意愈々満ちて今日
は早くも支那暦の八月九日、中秋も六日の先に迫
り居り、江南風光明媚の地に中秋の明月を観るは
幸福なりなど人の謂ひくるるにけつても、居常何
となく周章氣味となつて來た。今日も亦幸に好晴
にして午前中は懇切なる款接に預りし北京在留の
二三氏方を訪ひ感謝の意を表したりしが、正午は
何の夙縁に依るか、珍らしくも蒙古料理の會食に
招かるゝ機會を得た。
 蒙古料理は我が邦に於ける支那人居留地の料亭
などにては経験するを許されざるものにして、北
京在住の邦人にして之を試食せし者は甚だ稀有だ
と謂はれて居る。前にも叙ぶる通り、北京一流の
飯荘、飯舘、大菜館は何れも山東料理を以て名を
博する所謂支那料理である。尤も大李紗■<巾篇に冐の字>胡同の
醒春居、王廣幅斜街の一枝春、小樂天、大柵欄の
厚徳幅、韓家潭の華芳園などは、所謂南菜館にし
て等しく江南地方の料理を爲し、陜西巷の天然居
か所謂廣東菜舘にして廣東料理を製し、勧業場の
小有天、煤市街の京華春が所謂?菜飯にして?越
地方の料理を為すと謂ふも、此の正陽門外の正陽
楼の蒙古料理だけは全然別種のものにして是非と
も味ふべきもの、其の形式の蛮気横逸する所は蹟
に漠北に逍遙する遊牧生活者の勃興的氣分を示せ
るものである。
 案内せられて奥まりたる個所に至れば中庭を中
心として周囲に客室あること古くはクリート(Creat
)のクノッソス(Kunossos)宮殿の遺趾乃至は希
臘古建築の計画の如く、中庭に据えたるものは高
さも幅も三尺程の四角の大竃、紅連の焔立ち昇る
上には遅しき鉄網が覆はれて、網の條々赤熟近寄
るべからず、宛として軍営中の焚火の感がある。
 料理の材料は羊肉と蟹とにして、給仕人は山の
如く盛りたる羊肉の皿を竈の傍に齎らす、客は各
各一尺二三寸もあり且つ頑強なる箸を以て、此の
羊肉を所定の漿液に漬け以て赤熟せる該鐵網上に
置き燃ゆる焔に焼けしめる。然るに不可思議なる
哉、羊肉の鐵網に焦げ附くことは皆無にして一臠
一臠好都合にあぶらるゝのである。これ此の一種
の漿液が致す微妙の作用にして漿液中には我が芹
に似たる疏菜を切り込みあり、其の芳香は一入食
慾を刺戟して意はず健啖せしめらるる。数人の客
が大竈の周囲に片足を掛けて、漿液に湿しては羊
肉を焼き、焼けては食ひ以て大白を引く光景は豪
壮と評すべきか、凄壮と評すべきか、即ちこれ蒙
古民が狩獵に得たる獲物をば天幕の外にて會食す
る風俗、元の大祖成吉思汗鐵木眞などが四方を切
り從へて戦捷の祝杯を擧げたる光景も斯くやとば
かりに推想せられる。其の燃料は一種の半植物、
半炭化の薪にして、これが又肉の味に微妙なる關
係を有すると謂はる。時は秋の半にて肌には汗な
ど出づべき季節には非ざれども、斯く炎々たる猛
火と灼熱せる鐵網の傍に寄り、舌焦さんばかりの
羊肉を飽食し、尚ほ且つ大白を引くことなれば、
全身は汗にて酷暑裏の如く、多少の風邪ぐらいは
容易に退散致し得る有様、酷寒の節、氷柱屋簷に
氷花を生ずる日、紛々たる飛雪を蒙りつゝ之を食
ふは洵に痛快事なりと謂ふが、蓋し然るならむと
思はれる。<略>


(2)
唐代の長安城内の朝野人の生活に浸潤したる突厥風俗に就きての小攷

<略>又大銅鑪六熟鼎を造りて牛馬羊の肉を烹燖して食ひたることは、古來塞外民族間に慣行する肉食料理法を行つたことで、現今に於ても漢人の一部好事家に愛好せられ、日本人の間で通俗的に蒙古料理・成吉思汗料理など呼ばるるが、本來は蒙古人独特のものには非ずして、塞外民族間で古來共通して行はれ、突厥族の間にても慣行せられた。現今の北京の隆福寺街や正陽門外にその専門料理店があり、正陽門南の正陽樓は最も著明、余も大正八年[西紀一九一九年]九月下澣の某日、正陽樓にてその羊肉を賞味したる者で、帳幕生活の行國民の勇悍殺伐な氣風充満して實に豪快な料理である。<略>

 劣ったものを捨て、より優れたものに乗り換えることを「牛を馬に乗り換える」といいますが、なんと鷲沢は後に「羊を兎に乗り換えた」。北京正陽楼のカオヤンローが気に入ってジンギスカン料理と呼ぼうと旗を振った鷲沢がですよ、昭和7年、羊毛より兎毛の方が役に立つと東京アンゴラ兎毛という会社の初代社長になり、鐘紡と組んでアンゴラ兎の飼育振興に乗り出し、PRの本も出したのです。資料その19は「アンゴラ飼育と現金収入」に書いた鷲沢の「満蒙とアンゴラ」の中で「吾輩は緬羊飼育は吾国では駄目だと云ふ絶対論者だ。」として挙げた理由です。

資料その19

    一、羊は他の動物の踏んだ草を喰はない。
 他動物の踏まない草を日本の何處に求めんとするか。若し何処でも豚や兎を飼ふやうに飼へるものなら、ロンドン、巴里の真中でも飼へる、イヤ、ゴビの沙漠も、オーストラリヤの草原もいらない事になる。蚕の糞で飼へると云ふ愚説もある。好んで他動物の糞を食ひ度がるという程、羊は下等な動物ぢやない、然し、それはよしとして、一日に三升も四升も喰ふ蚕糞を何処に求めんとするか。

   一、緬羊は日本では生育しない。
 これが濠洲では科學的に見極めがついて居るのだ。だから優秀な種羊をドン/\輸出するのだ若し、緬羊が他の何處でも生育するものなら、濠洲の生命である種羊を何んで外國に輸出するのか。頂度日本で蚕種の輸出を禁じて居るのと同様だ。

   一、採毛では採算がとれぬ。
 一頭年に五六封度が初めの中の採毛量であらう。アンゴラを十頭飼える飼料で一年タツタ五六封度の収入で何で採算が取れやう。

   一、仔羊のブローカーが本業
 採毛で採算取れぬのに何故に羊を飼ふかと云へば、政府の奨励に由つて仔羊が売れるからだ現在の緬羊飼育者は皆仔羊のブローカー業者なのだ毛などを問題にして居るものは皆無だ。

   一、助成金が目的で羊毛が目的でない。
 一頭に五十円の助成金が出るなら飼つてやれと云ふ空気が農林省あたりに判らないとはどう云ふわけだ。

 挙げ来ればいくらでもあるが十年に一千二百萬圓もの金を掛けて見込のない羊毛を採るよりも、國内では只のやうなアンゴラ兎の飼育に全力を注ぎ、吾自由天地で羊の産地である満蒙に羊種の改良と増殖を計る可きだ、今日村に一二頭の羊を珍らしがつて居るからいゝやうなものゝ、毎戸と云はずとも十戸に一頭宛も飼はれたら、緬羊亡国が唱へられるであらふ。吾輩は再び満蒙を指摘したい。そして何の為めに満蒙を手中に収めたのかと反省を促し度い。地下の満蒙犠牲者は泣いて居らふ。(昭和十一年九月五日記)

 東京アンゴラ兎毛という会社は、斉藤憲三という農民運動家と小田急と鐘淵紡績が作ったともいえる会社で、鷲沢はその関係から社長になったようです。斉藤が全国の農家の副業としてアンゴラ兎飼育を奨励した。代議士中野正剛の紹介で国民同盟の同志、鷲沢を知ることになります。
 鷲沢は以前の講義で触れたように、小田急の林間都市計画に関わっていたことから斉藤を小田急の利光鶴松社長に会わせ、神奈川県大和市にあった小田急の土地を激安で借りて大きなアンゴラ飼育場を作り、また鷲沢と慶応大学の同級生であった鐘紡の津田信吾社長が大量の兎毛を購入するとの約束を得られたので鷲沢は社長、斉藤は専務で会社を設立した
(48)ということのようです。
 資本金15万円で大和市の9000坪の借地に兎毛選別工場と模範飼育場をつくり、立川市に飼育研究所を設け国内で最大のアンゴラ会社となったのですが、斉藤は昭和10年に退職して東京工大で勉強をし直して、いまのTDKの前身、東京電気化学工業を設立してフェライト生産で成功(49)しました。
 平成11年9月のことだが、メーラーがフリーズしたかと思うぐらい大量の資料が鷲沢の親類のある方から送られてきたのです。手書きの家系図、戸籍謄本、墓所、人名事典や鷲沢の講演が載った雑誌のページ、新聞のスクラップなどの写真32枚が4本のメールにてんこ盛りになっていたのです。そのころ私がツイッターをやっていて、鷲沢調査の現状を説明したら、参考にと送ってくだったのでした。
 中身を見て、すぐ使えそうな情報2件は手打ちして別置きのデータベースに入れ、残りはメーラーに残した。その後、ハードディスクが壊れ、折角のメールの残りは失われたけれど、データベースは無事で、資料その19とアンゴラ兎毛関係の情報に生かせました。この際、この講義録を通じて親類Nさんにお詫びを致し、ご協力のお礼を申し上げます。
 はい、本題に戻る。「歴代國会議員名鑑」によればですよ、鷲沢はその後もいくつかの社長を務めた。「東京アンゴラ・東京繊維興業・東京化学産業・東京繊維・国策新報各(株)社長となる。昭和7年第十八期衆議院議員に当選し、国民同盟に所属する。昭和31年10月1日死去。(50)」と書いてあります。
 井上の方はね、大正10年、元大阪毎日新聞編集主幹の渡辺巳之次郎が井上宅を訪れたと本に書いてます。「井上氏は現に『読売新聞』特派員の肩書を有し、北京に在ること久しく、常に支那服を着け、支那家屋に住み、支那的設備と装飾との間に支那的生活を営めるもの。(51)<略>」と暮らしぶりを書いていますが、井上は読売の仕事だけでなく不動産の投資に興味を持っていたらしい。さっき話した「YM生が見立た名士18人の『七転び八起』」を思い出しなさい。もし天から100万円が降ってきたら、井上は「小理屈は一切止め、天津の一万坪を開拓し、花屋を開き傍ら雑誌『牛骨』を発刊す(52)」でしたね。これに対して皆川芳子こと鷲澤は「早速特派員を止め、国へ帰って大親分となる(53)」で、子分を集めては気焔を挙げるような演説好きと、いいところ見てますよね。支那通の竹内夏積は「今様北支風土記」に資料その20にした井上伝説を書いています。

資料その20

<略> 天津名物は、何といつても何年目かに来る大洪水であらう。この洪水で成金になつた故井上一葉といふ支那通がある。北京で古書にがぢりついてゐた井上氏は、ふと天津日本租界外にある長い堤に気がついた。天津の人々は平常此の堤が邪魔になるので、何の為めの堤か知らなかつた、それでその堤をとりはらつて土地の利用をやつたものである、井上氏は天津日本租界の大洪水を予告し、堤の近くにあつた沼が、洪水の泥によつて平地になるであらうことに着目し、只の様な価で沼を買つたのである。果して数年後に秋の大洪水となり、沼は立派に泥で埋め立てられ、一躍非常な土地成金になり、兵庫の須磨に悠々たる生活をして死んだ。

 中国語のウィキペデイアのグーグル訳によれば、大正6年と昭和14年は大洪水になった(54)とあるので、北京にいながら天津の沼地を買い、大正6年の水害でもうけたのかも知れん。井上は兵庫県佐用郡三日月村(55)、いまの三日月町出身という文書があるから、帰国して須磨に住むことはあり得ますね。
 きょう話したように松永の「支那我観」は鷲沢を長老とする北京特派員グループが大正7年以前、6年ごろにジンギスカン料理という呼び名を決め、広める動きをしたことを示しました。ただタッチの差でも松永より先に「ジンギスカン料理」という名前を書いた文献があり得る。例えば国内にはない大正6、7年の日刊「新支那」です。だから今後も探索は続けねばならんのです。終わります。
  

参考文献
上記資料その18(1)の出典は史学地理学同巧會編「歴史と地理」10巻4号52ページ、大正11年10月、史学地理学同巧會=原本、 同(2)は甲南大学文学会編「甲南大学文学会論集」27号1ページ、那波利貞「唐代の長安城内の朝野人の生活に浸潤したる突厥風俗に就きての小攷」より、昭和40年3月、甲南大学文学会=館内限定デジ本、 資料その19は鷲沢与四二著「アンゴラ飼育と現金収入」45ページ、昭和14年7月、国策新報社=近デジ本、 (48)は平成15年4月10日付相模経済新聞6面、鈴木邦男「大和・時代考(69)/アンゴラ兎と斉藤憲三/南林間で兎毛を生産」より=原本、 (49)は同13年12月17日付日本経済新聞朝刊26面、「地域産業」より、同、 (50)は歴代國会議員名鑑編纂委員会編「歴代国会議員名鑑 上巻」1305ページ、平成7年2月、議会制度研究会、同、 (51)は渡辺巳之次郎著「老大国の山河(余と朝鮮及支那)」214ページ、大正10年3月、金尾文淵堂=国会図書館インターネット本、 (52)と(53)は大正2年2月15日付「新支那」45号10面=原本、 資料その20は文芸春秋社編「文芸春秋」15巻16号408ページ、竹内夏積「今様北支風土記」、昭和12年12月、文芸春秋社、同、 (54)ウィキペディア中国版 https://zh.wikipedia.org/
wiki/1939%E5%B9%B4%E5%A4%A
9%E6%B4%A5%E6%B0%B4%E7%81%BE
(55)はJACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B11090615200、造幣関係雑件 第一巻(B-3-4-3-37_001)(外務省外交史料館)

 
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