●埋蔵文化財の保存と開発について、お伺い致します。
埋蔵文化財を包蔵する土地が、どこに、どれだけあるか知ってもらうために、文化庁は、昭和35年頃から37年にかけて、全国の遺跡の、所在地の、調査を各県教育委員会に依頼し、台帳を、作り登録したものは、全国で14万個所を数え、それを基にして、昭和47年に集大成して『全国遺跡地図』が作成され、これが現在でも、各都道府県で使われているのであります
。
先進地の京都市では、昭和42年に府で編集されたものを、昭和48年に独自の遺跡地図を作成したと聞いており、これらは、確認申請段階での、都市計画用途地図と共に、開発業者等に配布され、遺跡がひとつでも、多く保護されるよう、配慮していると聞いています。当市においても、3月の予算委員会での、市の答弁では昭和46年に調査した、埋蔵文化財包蔵地は、33個所にのぼると報告を受けており、埋分・包蔵地での、開発の着手を、適切な判断で工事を進める上で、市独自の『遺跡地図』や調査員の確保が急務だと思うが、市当局の所見を、お伺い致します。
又、今年の4月の文芸春秋に、さまよえる邪馬台国と題して、同志社大学の森浩一氏と作家の対談が載っておりました。鳥取の上淀廃寺(かみよどはいじ)の大スクープに対して朝日新聞が謝罪文を出したとの事であります。新聞記者が考古学者の発言をふくらませて書いての、事のようであります。考古学が新聞のスクープとして最初に登場したのは、昭和47年の高松塚の壁画であり大変衝撃を受けたことを覚えております。建造物でも少し前に、北日本新聞でも江戸期の禅宗様式の瑞龍寺を一面で特集を組んだりしております。今まで埋蔵文化財等の発見は、新聞の一面のスクープになりえなかったものが、最近よく新聞の一面に取り上げられています。根強い考古学ファンがいて、それが地域の活性化の原動力になり、遺跡で村おこしをしている地域もあります。埋蔵文化財での『発掘』『保存』『研究』『公開』の手順での公開はぜひとも必要であり、埋文を理解し、市民に少しでも、知ってもらうことが大切であります。
来年、1994年に京都は、平安建都1200年を迎えるのを記念して、JR京都駅 改築 設計競技が、3年程前に行われました。総事業費1000億円をかけるとのことであり、大変興味深いものがあります。京都の、南北のエリア中間にあり、都市計画上きわめて重要な位置にあり、都市景観での配慮や、複合ターミナル機能の充実と、伝統との調和であり、埋蔵文化財の飛鳥時代以降遺跡の上に立つ再開発であります。
開発の大小はあれ、市の農村活性化事業での開発行為は、学術的発掘調査の報告の後の判断は、 1は、工事計画から除外して埋文を保存する方法。
2に、工事計画に一部を取り入れて、緑地として保存し開発する方法。
3は、やむをえない場合は、調査実施して記録を残し、もとの状態に戻しその上を開発する方法等が、あげられるが、3月定例会以降の、現状の開発の進め方をお聞かせ下さい。
再 質 問
それでは再質問をさせていただきます。
よく都市計画を論議していく中で、住民エゴとか、議員エゴとかよく聞くのであります。それらの圧力によって、本来の都市計画の、機能の、妨げになるケースがよくあります。又、住民のなかにも、都市計画を、固定的に捕らえ、本来の姿を見失ないがちであります。十分地元と協議をしていく時間をいただきたいと思います。
一番目の質問であります。15fの東部地区・都市整備計画・策定委員会を終えて、実現に向けて、今度は事務レベルでの、運輸省との海岸・堤防の撤去や、公共施設の見通しの中で、堀岡福祉センターや堀岡小学校の移転構想、緑地の中の小規模な運動公園等、将来につなげる計画として、地元との要望を十分協議していただき前向きの検討をしていただきたいのであります。
特に、私は、射水町地内の老朽化の激しい、簡易耐火の県営住宅、15棟余りを、東部埋立の都市再開発用地15fへ移転し、中層の集合住宅として生まれ代われないか、又現在の土地の払い下げをし、分譲すること等、県の建築住宅課に、働きかけて、いただきたいのであります。
2番目の、海老江地内での国や県の新事業との、道路の整合性についてであります。市が働きかけないと、その事業が、新湊市のために、いかされないように思えてなりませんので、十分庁内で論議され、県・国に働きかけていただきたいのであります。
・・・・・・・質問を終わります。 050615
(1993年6月15日 新湊市議会議場)