【U フイレンツエ】
15世紀のフイレンツエは、アルノ川の両岸にひらいた当時約9万人と推定される花の都であった。
羊毛工業と絹織物の中心として成長してきたが、14世紀末には市民勢力の激しい党争を経て富豪メデイチ
家(金融・東方貿易・薬)の力によって平成を取り戻しルネッサンス社会に大きな一時代を造る。既に14
世紀には人文主義者達が他の文化の面において、古典主義を再生しはじめる。フイレンツエ人は古代にじか
に触れるためにローマまで旅行しなければならなかった。当時の建築家は遺跡に古代の手法をさぐり、古
代建築の形式を再生しはじめた。ルネッサンスは古典は単なる研究の対象ではなく、人間の自覚であり、
新しい生活、新しい未来の創造であり、決して古代を模倣する事ではなかった。都市は職業組合の連合体
が主権をもつ市民的な国家であったが本来、民主社会の芸術でありながら多分に貴族的性格を持っていた。
民主政治につきものの党争は権力家(大資本家=メデイチ家・旧貴族・軍の首領・教皇領)を生み一種の貴族的
政治が行われていたようである。ウルム市では上層市民は『組合加入のほかに、市内に居住すること、租
税を納入すること、市の予知なくして決闘その他の腕力権を公使せざること、これらを誓約せしめられた』
都市法の服従誓約都市である。フイレンツエの建造物の装飾を見るにつけ、その時代に人間の能力が尊重さ
れ、各個性が意味をもち、作品は個人名によって認められ、記憶された事はこの時代にとって特筆すべき
大きな出来事であったように思われる。しかし市民に字を教えず、宗教画によって物を教えたことはフイレ
ンツエ自由都市の陰の面ではなかったのか。
時代を超えても人々の生活の場である街の広場が現在も使われ、コミニテイとしての広場の大きさや配置が印象的な視察であった。
- 視察建造物
- サンタマリア大聖堂,
- ウフイツツイ美術館(メデイチ家),
- ベッキオ橋,ベッキオ宮殿,
- アカデミア美術館,バルジエツロ国立美術館,
- ミケランジェロ広場,シニヨリア広場,レプブリカ広場,etc.
【V ロ ー マ】
ローマ建築は紀元前はもとより紀元後も、しばしばギリシャ世界の建築家の移入によって建設された。
特に紀元後の帝政時代に入って著しい発展をとげ、その後十数世紀にわたってその成長をやめなかったた
め、紀元前の建物はほとんど消失しまった。
しかし今回も見学できなかったポンペイの住宅遺跡は、またまた時間がとれず見る事ができなかった。
とても残念でならない。 ローマ建築は、ギリシャ建築と同様神殿に集中され、神殿以外の公共建築物も
民主主義にささえられ美しく建てられていた。帝政時代になると建築をささえるものは市民ではなく、
皇帝であり、貴族であり、大ローマ帝国の権力と経済力に支えられ、世俗建築が量においても質におい
ても神殿をしのぎ、その種類もまた豊富になり、記念門、劇場、浴場、バシリカ(市場)、フオルム(広場)、
宮殿、図書館、水道橋等であった。特に市の核はフオルム(広場)はギリシャのアゴラにあたり、四周が神
殿やバジリカや民会場で囲まれ、一端には演壇も設けられていたが、帝政時代になると、記念門が建ち、
広場の中にさえ記念柱や記念像が進入し狭められていった。ローマの街を歩いていると、行く手に必ず、噴水や記念塔を配置したフオルムが規模の大小はあるが、
今もなを健在である。今回の視察を通して、都市計画における公共建築物の配置にはおおいに刺激され
た。会派で視察を企画し、ローマの街を、自分で歩き、自分の目で確かめ、古代遺跡を通して古代民主
政に触れたことは大きな収穫であった。
- 視察建造物
- コンスタンテイヌス凱旋門,コロツセオ,真実の広場,ビットリオ・エマヌエーレ2世記念堂,
- サン・ピエトロ大寺院,バチカン美術館,フオロ・
- ロマ−ノのサトウルノ神殿,トライアヌスの市場(半円形),
- バシリカ(広場),
- トレビの泉,スペイン広場,etc..
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