風に吹かれて魏志倭人伝 一支国
《 壱岐市の概要 》
壱岐市は、博多港から西北約76㎞、佐賀県唐津東港から北へ約42㎞。 島内の4町(郷ノ浦町・勝本町・芦辺町・石田町)が平成16年に合併し、現在(H.27.1.)の人口28,433人、世帯数11,632、面積は南北約17㎞、東西15㎞、射水市の1.3倍の138.56 ㎢である。 地形は一般に丘陵性の玄武岩をなし、高度100mを越える山地が占め、耕地面積は40.30㎢で、田の整備率は74%を占めている。気候は対馬暖流の影響を受けて、温暖な海洋性気候である。又、海岸線は大小の湾入があり天然の良港で大小の砂浜も点在している美しい島である。
古代から東アジア大陸と深い関わりがあり、歴史的にも重要な意味を持つ交流拠点として現在にいたっている。島内には国定指定特別史跡の「原の辻遺跡」、国指定史跡「勝本城址」、「勝本町と芦辺町にまたがる古墳群」など数多くの歴史文化遺産が存在する。昭和43年7月に壱岐の一部が壱岐対馬国定公園に指定され、昭和53年6月に、辰の島・手中島・妻ヶ島の3ヶ所が海中公園地区に指定されている。
1、長崎県壱岐市 「一支国博物館」 の展示方法について。
時系列で、現代から元寇・鯨組(中近世)、奈良時代の国分寺(嶋分寺)、壱岐古墳群(古墳時代)、そして弥生時代(原の辻)、縄文時代にタイムスリッピ! 通史的の歴史を各時代の遺物として480ヶ所以上の遺跡が点在する、『しまごと博物館』である。
『しまごと博物館』のコンセプトを通じて「原の辻遺跡」に隣接する「一支国博物館」は、壱岐市、古代奴国を語るうえで歴史的なランドマークとして、近隣の遺跡も展示の一部に取り入れたサイトミュージアムである。長崎方式と呼ばれる、展示設計・設計事務所・施工業者のJVでのポルボーザル方式による入札が実施されている。建物の設計は建築家 黒川紀章の遺作でもある。
博物館の2階フロアーから、三国志「魏志倭人伝」の世界を語る2008文字から一支国への旅が始まる。現代の壱岐市から一支国への時代の海との交流をテーマーに東アジア・日本史の歴史を実物資料と絵巻により紹介している。
特に紀元3世紀の一支国の姿をシンボリックに7つのシーンを、ジオラマミニチア模型で子供にもわかりやすい展示となっており、屋上展望広場から当時の首都「原の辻」が遺跡(復元)と共に再現されている。知識は博物館で得て、島全体の遺跡を展示物の一部として捉えていることに共感をえた。
又、2000年前後の縄文・弥生時代の本物の土器遺物にも、直接手で触れることができる。開館以来一度も壊されたことがないと。島内の価値ある文化財の多くを収納し、レプリカを現地展示していると聞く、文化財の盗難が多くあり、セキュリテーの安全な博物館に収納・展示を進めているとのことであった。
壱岐市景観条例の中で、自然的・歴史・文化的景観に対して原の辻遺跡の重点景観区域を定め、点在する多くの史跡、国指定特別史跡・国指定文化財・県指定文化財・その他の歴史、文化的景観要素・自然的景観要素の観点から「壱岐市景観条例」が定められている。直、壱岐市は、国定公園法・国立公園法・自然公園法・都市計画法(風致地区)そして市の景観条例等でしばりをかけている。特に、他市の条例と違うのは、太陽光発電・パネル等の規制をしている。100㎡を越えるパネルの設置には届け出を必要としている。 対馬の自然保護における『対馬市環境基本条例』の制定とはまた違う条例である。
観光客数は平成24年度実績数で233,988人(延べ数552,395人)である。交通手段は、長崎空港、博多港・厳原港・唐津東港からのジエットフオイルが運行されている。平成25年の輸送実績は719,583人である。
一支国博物館内
2、「魏志倭人伝」の世界が、壱岐「原の辻」によみがえる。
国の特別史跡である原の辻遺跡(弥生時代)の復元整備
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《倭人伝に記載された一支国に関する情報57文字》
- 【魏志倭人伝 原文】
『又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里多 竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴』
- 【魏志倭人伝 古語訳】
又南に一海を渡ること千余里で、一大国(一支国)に到達します。
官(地方長官)をまた卑狗(ひこ)といい、副(地方副長官)を卑奴母離(ひなもり)という。四方が三百里ばかりあり、
木やや竹がぎっしりと生えた土地です。三千ばかりの家があります。やや田地ありて、田を耕せども、なお食うするに足らず。又、対馬国と同様に南から北、各地に行って米を手に入れてきます。大規模な環濠集落ができ、その一画に王墓
一支国の成立は弥生時代の中期の終りから後期のはじめぐらいの時期に国が成立していたと考えられる。国の成立あるいは形成過程を考える場合、考古学の分野では墓とか集落の遺跡が重要視される。地域のトップに立つ首長に率いられた地域共同体が中国の漢・魏帝国と外交関係を持ったときに中国から、何々国の王という形で認証されと考えられるならば、原の辻遺跡の周溝状遺構や、近隣の「石田・大原地区」の墓域(首長墓~王墓)から、一支国の首都が、現在 国の特別史跡である拠点的な中心集落 「原の辻」 が比定される。
「倭人伝」の最初に、倭人は帯方東南(朝鮮)の大海の中にあり、山島に依りて国邑(こくゆう)をなすと書かれている。 そびえ立った島に国を作っていると書かれている。その国の王都(国邑)があるとも! これらの事から一支国に王がいたことになります。この拠点集落の王都が原の辻遺跡であり特定されているのである。原の辻遺跡は三重の大溝で囲まれた環濠集落で、濠のなかの面積はおよそ24㌶で周辺の石田大原地区や大川地区の遺跡群を含めると80㌶に及ぶとされている。環濠を出たところから弥生時代の「道路状遺構」が二ヶ所発見されています。全国に京都府の日向市(1)とこの壱岐市(2)しか発見されていません。又銅矛や船着き場の跡も発見され、今後の発掘調査が日本史を変えるかも知れません。期待したいものです。
参考資料
- 魏志倭人伝の考古学「邪馬台国への道~壱岐・対馬」 西谷正 著
- 壱岐・対馬と松浦半島 佐伯弘次 著
- 魏志倭人伝 3世紀
- 海東諸国紀 李朝時代の申叔舟(しんしゅくしゆう):15世紀
- 式内社 草岡神社の公式サイト(HP管理者:菊民夫)
祭りの儀式:写真のバーコードリーダーをかざして見て下さい(説明を読む)。
3、古事記から学ぶ、大和王権への道
- 古事記「国造り」大八島国の項。・・・壱岐国
- 古事記 「三柱の神の誕生」 伊邪那岐命の禊ぎ祓いの項。・・・月読命
- 古事記「海幸と山幸と海神の宮」豊玉姫の項。・・・娘、玉依姫命(神武天皇の母君)
① 古事記の「国造り」の項で、太陽や月や地球ができはじめたとき、高天原にさまざまな神が現われた。最後に現われた伊邪那岐神(イザナアギ)と伊邪那美神(イザナミ)が国造りを命じられた。 八島国(オオヤシマクニ)項で、淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州である。こうして国ができたので、続いて神々を生んだ。海の神・河口の神・風の神・木の神・山の神・野の神たちである。
② 古事記の「禊ぎ祓い」の項で、黄泉の国からようやく逃れた伊邪那岐命(イザナギノミコト)筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓いの儀式を行なった。伊邪那岐命が禊ぎ祓いをしたとき、多くの神が生まれた。最後に、左目を洗えば天照大神、右の目を洗えば「月読命」、鼻を洗えば、「建速 須佐之男命」が生まれた。三柱の神と呼ぶ。伊邪那岐神は頸にかけた玉飾りをゆらゆら揺すりながら、天照大神に「お前は高之原を治めるがよい」、月読命に「お前は夜之食国を治めよ」、須佐之男命には「お前は海原を治めよ」と命じた。
4、古墳時代の墳丘に豪族の円墳・前方後円墳
壱岐島内に256基で、長崎県内の古墳の総数423基の60.5%を占めています。
紀元3世紀移行の豪族の墓
5、貴重な歴史遺産と自然の壱岐。
- 壱岐対馬国定公園と自然について
- 壱岐市景観計画、しまごと博物館「自然的、歴史的・文化的景観図」
壱岐対馬国定公園 猿岩(勝本町)
壱岐市最北端の勝本町(辰ノ島遊覧・渡船)
6、壱岐市の観光客数、年間延べ55万人程(実質24万人)
対馬に比べ韓国からの観光客は少ない。博多港は上海からの中国人観光客が多い。
壱岐郷ノ浦港から博多港まで76㎞(対馬と壱岐の距離68㎞)
壱岐市からの資料提供 2015.10.16
- 当市からの調査事項の回答(議会事務局)~議会事務局対応
- 壱岐市議会概要(平成27年度版)
- 壱岐市議会だより(平成27年8月発刊)
- 壱岐市市勢要覧(平成26年度 改訂版)
- 壱岐市で過ごす、とっておきの”壱岐日記”(壱岐市観光連盟)
- 壱岐市立 一支国博物館(長崎県埋蔵文化センター)~学芸員対応
- 壱岐風土記の丘 古墳館・古民家園ガイドブック~教育委員会文化財課
- 全国国分寺サミット(壱岐市教育委員会文化財課)
- 壱岐市景観計画・計画の取組・条例施行規則~建設部対応
- その他、現地調査~昭和初期の町並み 「勝本浦町並保存区域」を視察
昭和初期の町並み 計画中の「勝本浦町並保存区域」を視察
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