風に吹かれて魏志倭人伝 伊都國
Itokoku History MUSEUM
2016.10.


 撮影:菊民夫2016.10.12
平原王墓から出土した銅鏡(国宝):伊都国歴史博物館 蔵



 伊都国歴史博物館(福岡県糸島市):2016.10.12撮影 《 糸島市の概要 》
 福岡県糸島市の、人口100,102人、行政面積215.70㎢、議員定数22。平成22年1月1日に、前原市と二丈町、志摩町の1市 2町が合併し、人口約10万人の「糸島市」が誕生。 今回、『伊都国歴史博物館』にて現地対応となった。
 「福岡県観光パスポート事業」の加入状況については企画部シティセールス課、「魏志倭人伝のクニグニネットワーク」については教育委員会の教育部文化課、「伊都国の歴史と文化」と「環境条例」については館長と学芸員から説明を受けた。 県の基本計画では、「恵まれた山、川、海、福岡県 知恵と工夫でつなぐ未来」を目指す環境像として定め、「自然環境の保全と創造」、「生活環境の保全」、「循環型社会の形成」、「地球環境問題への取組」、「各主体の自主的な環境保全の取組とネットワーク化」の5つの柱を掲げ取り組みを進めている。糸島市環境基本条例を見ますと(下記)


  1. *糸島市環境基本条例にみる基本計画とは! H22.1.1(合併)
    • 糸島市環境基本計画を平成23年3月に策定
    • 糸島市環境基本計画(後期計画) の策定
    • 伊島市環境基本計画(後期計画)の策定

 ●糸島市の福岡県観光パスポート事業
加入状況は伊都国歴史博物館・志摩歴史資料館の2件のみで、県内のパス ふくおかよかとこ「パスポート事業」 ポート事業参画施設でパスポートを提示するだけで割引等の特典を受けることができるがその事業所が自己負担となるだけに、まだ地域に浸透していない。古代伊都国跡を巡る、唐津街道深江宿を巡る、桜井・二見ヶ浦を巡る等、糸島を歩くコースが用意されている。吉野ヶ里遺跡公園に年間60万人の観光客!邪馬台国九州説の火付け役!



 【1】 福岡県糸島市 「伊都国歴史博物館」 の展示方法について。

 合併時に「糸島市立伊都国歴史博物館」と改称し収納資料も大幅に増加するに至り、文化庁から「重要文化財公開承認施設」に認定を受けている。魏志倭人伝の記述の伊都国の時代を中心として、旧石器時代から近代までの糸島地域の歴史通史展示をしている。特質すべきは魏志倭人伝には伊都国で「文書」(木簡)がとりあつかわれた記事があるが、今回の「硯(すずり)」の一部が出土したことで、その記述を裏付けている。伊都国の地で「文字」が使用された可能性を秘めている。今後の考古学の発見を待ちたい。射水市にも博物館はあるものの常設展示集客数や学芸員の数も違う。

桜井二見浦ヶ浦の夫婦岩:撮影2016.10.13

    参考資料
  1. 伊都国王墓「三雲南小路王墓」
  2. 伊都国王墓「井原鑓溝王墓」
  3. 伊都国王墓「平原王墓」
  4. 伊都国石斧交易「今山遺跡」
  5. 伊都国の港「深江井牟田遺跡・御床松原遺跡」
  6. 式内社 草岡神社の公式サイト魏志倭人伝編(HP管理者:菊民夫)

1、銅鏡のほとんどはバラバラに割られ出土:撮影2015.10.16 2、三雲南小路王墓の2号甕棺 3、硯辺の出土(文字) 4、江戸後半の福岡藩の国学 青柳種信
伊都国歴史博物館



 【2】 福岡県糸島市 「志摩歴史資料館」 の展示方法について。

志摩歴史資料館に支石墓の展示(2階渡りから見る)  志摩歴史資料館は、玄界灘に突き出た糸島半島の北部、志摩地域から出土した考古資料展示。古来から中国大陸や朝鮮半島との交易をはじめ、「海」を媒体とした地域で、「海」を大きな柱として「住居」「生活」「交易」「信仰」「漁業」「干拓」「生産」「墓制」の8つのテーマに分け展示している。 志摩資料館パンフより抜粋 

 エントランスホールの上部に「支石墓」を展示している。





 【3】 「魏志倭人伝」に記された、伊都国とは!

 三雲南小路・井原鑓溝・平原の三王墓の発見。
 伊都国に代々「王」がいたの記述が指し示す遺跡郡から読み解く!

 伊都国には千余戸の人々が住んでいた。
『伊都国が繁栄した弥生時代後期の約200年間に在位した他の伊都国王がまだこの地に眠っていると推定されている。平成16年の発掘調査では副葬品が出土したの墓は20基。発見された墓の総数73基の内三割におよぶ。出土した副葬品は、後漢鏡6面・ガラス玉12000個・玉玉玉7個・銅鏃1本等、ガラス玉は、棺内に散乱し、あるいは棺外の墓壙の埋土にも混ざった状態で出土。身に纏(ま)とっていたのではなく、遺体や棺、墓壙内にふりまかれていたと考えられる。古代中国において、玉は再生の力を見出し、遺骸に玉を纏わせて埋葬する葬玉の思想が色濃く反映したものと考えられる。水銀朱やベンガラが棺の内外に散布されていたのもこの送葬観念と結びついている。出土した後漢鏡は全て副葬前に破砕され、なかには鏡の一部だけが納められていたものもある。いずれの墓も埋葬された銅鏡は一面分ずつあった。鏡種としては、「内行花文鏡」にのみ限定した副葬されていることは、鏡種に対しての強いこだわりがあったとも疑いない。』   王の鏡(平成28年度伊都国歴史博物館秋季特別展)より抜粋

  1. 【魏志倭人伝 原文】
      よみがえる邪馬台国パンフレット
    • 『又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸濱 山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水 無深淺皆沈没取之』

    • 『東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰 泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸丗有 王皆統属女王國 郡使往來常所駐』

    • 『東南至奴國百里 官曰兒馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸』

    • 『東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家』

    • 『南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那 利可五萬餘戸』

    • 『南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳醍 可七萬餘戸』

    • 『自女王國以北 其戸数道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳』

三国史に見る倭国の群像にリンク

  1. 【魏志倭人伝 古語訳】
    • 又一海を渡ること千余里、末盧國⑤↓(佐賀県東松浦半島)に至る。四千余戸有り。
      山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。
      好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。

    • 東南のかた陸行五百里にして、伊都國⑥↓(福岡県糸島郡前原町)に至る。
      官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。
      世王有るも皆女王國に統属す(邪馬台国)
      郡の使の往来して常に駐る所なり。

    • 東南のかた奴國⑦↓(福岡市南方)に至ること百里。
      官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。

    • 東行して不彌國⑧↓に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。

    • 南のかた投馬國⑨↓(宮崎県妻町 比定)に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。

    • 南、邪馬壱國(邪馬台國)⑩に至る。
      女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。
      次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。

    • 女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。


地図情報:ネットより掲載 伊都国歴史博物館にて:2016.10.12撮影

Ⅰ.
伊都国歴史博物館
Ⅱ.
志摩歴史資料館


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