izumo History MUSEUM
2015.11. 古事記・出雲風土記の世界
《地図① 出雲国風土記の日御碕神社 (比定) 》 ・日沈宮(下の宮):天照大御神を祀る~風土記の百枝槐(ももええにす)社 ・神の宮(上の宮):素戔鳴尊を祀る~古事記、根の国 日御碕神社は下の宮(日沈宮)と上の宮(神の宮)からなる。赤い楼門をくぐると、正面に「日沉宮」、右手の石段上に「神の宮」があります。2社とも平入りの本殿、唐破風向拝の拝殿と続く権現造りです。 現在の建物は、徳川家光の命により、寛永14年(1637)藩主京極忠高が着手し、同21年(1644)藩主松平直政によって完成。桃山時代の面影を残す貴重な神社建築として、両本殿と拝殿,楼門,回廊,東西門,客神社など14棟が一括国指定の重要文化財に指定されています。両本殿とも内壁や天井には、狩野派、土佐派の絵師たちが腕を競いあった壁画で飾られています。 この神社の歴史は、「出雲国風土記」に美佐伎(みさき)社、延喜式に「御崎社」と記載されています。社伝によれば下の宮には、天照大御神が祀られ、天暦2年(948)にすぐ前の日御碕海岸にある経島(ふみしま)から移したと伝えられています。上の宮には素戔嗚尊が祀られ、安寧天皇(あんねい)の時代に後方の隠ヶ丘(かぐれがおか)から移したと伝えられている。 【1】風土記と日沉宮(ひしずみのみや) 『日の出る所、伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮を建て、日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平7年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれた。日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として幸運恵みの神として崇拝されている。又、経島(西に向かって200m)はウミネコ繁殖地として知られる。 【2】古事記と神の宮(かむのみや) 素戔鳴尊が出雲の国造りを始めるとき、「根の国」に渡り能成るの峰に登り給い、栢の葉をとりて占い「吾が神魂はこの栢葉の止まる所に住まん」と仰せられてお投げになったところ、栢葉はひょうひょうと風に舞い遂にこの「美佐伎(みさき)」なる「隠れケ丘(かくれがおか)」に止まった。よって御子神 天葺根命(あめのふきねみこと)はここを素戔鳴尊の神魂の鎮まりの霊地となった。日御碕神社の神紋の由来である。 筆投島~日御碕神社~日御碕灯台 《地図② 古事記の稲佐の浜 (比定) 》 舛築大社(きずき)・出雲大社 『古事記』の「国譲り」の舞台となった「稲佐の浜」。 《あらすじ》 天照大御神のいる高天の原から追放された素戔鳴尊は、出雲の肥河(斐伊川)に降り立ち八岐大蛇を退治し て、須賀の宮(須賀神社)を造をつくり「根之国」へ。 素戔鳴尊と櫛名田比売を高祖とし7代目が若き大国主命である。 大国主神は母を異にする兄弟が多く、「八十神からの受難」「根の堅洲の国の試練」を受けながらも成長し「葦原の中つ国(出雲国)」を平定する。ある時、「御大の崎(美保の岬)」に降り立った小さな少名毘古那神(スクナビコノカミ)と二人力を合わせて出雲を治めた。 その様子を高天の原から、地上の「葦原の中つ国」を見つめていた天照大神は「あれは我が子が治める国である」と宣言した。天照大神のい「天つ国」から三度目に派遣された建御雷神(タケミカズチノカミ)は「伊耶佐の小浜(稲佐の小浜)」に降り立ち、大国主命に「天照大神が、葦原の中つ国は我が子が治める国であると仰せである。汝はどう思うか」と呼びかけ、国譲りを迫まった。大国主命は鳥獣と魚釣りに御大の岬に行って帰ってこない「我が子 事代主命にお聞き下さい」と答えたと。事代主命と二人の子供のもう一人、建御名方神(諏訪湖の神で諏訪大社に鎮座)も抵抗したが命令どおりに献上することをしぶしぶ承諾した。 大国主命は献上の条件に、「我が子の二柱の神が言うとおり、葦原の中つ国を献上します。ただし、私の住まいは、天つ神の御子が天つ日継を伝える天の住居のようにして、大磐石の上に宮柱を太く立て、高天の原に届くほど千木を高く上げて祀ってくれるなら、私は、東に当たる多芸志の小浜に (舛築大社)に住みましょう。事代主命 が先頭や後尾に立って仕えさせれば、我が子の大勢の神も背くことはないはずです」と答えた。 この稲佐の浜は、現在、神が降り立つ神聖な浜として信仰され、神幸祭(8月14日)と11月(旧暦10月10日)には「神迎え神事」などの神事が行われます。
出雲大社 島根県立 古代出雲歴史博物館
《地図③ 風土記の加賀の潜戸 (比定) 》 ・古事記の八十神からの受難で、蘇生させた神を祀る佐太神社 ・佐太神社:祭神は佐太御子大神と須佐之男命と併せて12柱 ・加賀神社:祭神は支(枳)佐加比売命(キサカイヒメ~赤貝) 「潜戸」とは洞窟のことで、「潜戸鼻」と呼ばれ、先端には二つの洞窟がある。岬の先端にある「新潜戸」で、オオナムチ(大国主命)を助けた「支佐加比売命(クサカヒメ)」が佐太御子大神を生んだ洞窟。陸寄りの洞窟「旧潜戸」は、内部が広く、亡くなった子供の魂が集まるといわれる賽の河原である。11月に八百万の神が集う「神在祭」が催され、神々の参集の先触、竜宮の使いとして龍蛇が現われる。 《古事記の八十神からの受難のあらすじ》 大国主神の神話で、たくさんの兄神たちである八十神から嫉視された大国主神が、八十神が猪と偽って山上より転がした焼ける岩を抱き止めて焼け死んでしまった。 母神は嘆き悲しんで高天の原の「神産巣日之命(カミムスビノカミ)」に命請いをした。神産巣日之命は大国主命の治療に「蟄貝比売(キサカイヒメ~赤貝:支佐加比売)」と「蛤貝比売(ウムギヒメ~はまぐり貝)」の二人をつかわし蘇生した。 治療に当っては、蟄貝比売が「刮(きさ)げ集め」、蛤貝比売が「持ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て治療を施すと大国主神は蘇生したとある。 《地図④ 古事記の大国主命の国ずくり「御大の崎」 (比定) 》 ・大国主命と少名毘古那神が出会った岬 ・子の事代主命が日本初の魚釣りをした岬 ・美保神社:祭神は三穂津姫命と事代主命。 『古事記』の「国づくり」の舞台となった「御大の崎」。 《あらすじ》 天照大御神のいる高天の原から追放された素戔鳴尊は、出雲の肥河(斐伊川)に降り立ち八岐大蛇を退治して、須賀の宮(須賀神社)を造をつくり「根之国」へ。 素戔鳴尊と櫛名田比売を高祖とし7代目が若き大国主命である。 大国主神は母を異にする兄弟が多く、「八十神からの受難」「根の堅洲の国の試練」を受けながらも成長し「葦原の中つ国(出雲国)」を平定する。 ある時、「御大の崎(美保の岬)」に降り立った小さな少名毘古那神(スクナビコノカミ)と大国主命が二人力を合わせて出雲を治めた。 しかし、少名毘古那神は、ふと「常世の国」に渡ってしまった。大国主命は「私だけではどうしてもこの国をつくることができようか。どの神と一緒に国をつくればよいか」と憂えていた。その時、海を輝かせながら近づいてくる神がいた。「私を丁重に治め祀るなら、国づくりに強力しよう。それができないなら、国をつくり終えることができないだろう。」そうしてお祀りしたのが、今も御諸山(三輪山、奈良県桜井市)のおられる神である。 《古事記・国譲りのあらすじ》 天照大神のいる「天つ国」から三度目に派遣された建御雷神(タケミカズチノカミ)は「伊耶佐の小浜(稲佐の小浜)」に降り立ち、大国主命に「天照大神が、葦原の中つ国は我が子が治める国であると仰せである。汝はどう思うか」と呼びかけ、国譲りを迫まった。大国主命は鳥獣と魚釣りに御大の岬に行って帰ってこない「我が子 事代主命にお聞き下さい」と答えたと。事代主命と二人の子供のもう一人、建御名方神(諏訪湖の神で諏訪大社に鎮座)も抵抗したが命令どおりに献上することをしぶしぶ承諾した。 美保の岬は、事代主命が日本初の魚釣りをしたといわれている場所です。 《 古事記に記される八重垣神社と「鏡の池」 (比定) 》 古事記の記述による出雲国 意宇郡の神々神話。 1、八重垣神社→ 2、神魂神社→ 3、熊野大社→ 4、須我神社を歩く(2015.11.14) 【1、八重垣神社(やえがき)】 松江市佐草町に鎮座する八重垣神社「古事記」や「出雲国風土記」に記される「櫛名田比売」が「八岐大蛇」から逃れた森が「佐久佐女の森」であると言われている。この森の中に、櫛名田比売が毎朝その姿を写したと伝えられる径5メートルほどの「鏡の池」がある。近年、若い女性が縁結びの占いに大勢訪れる。白紙に硬貨を載せて水面に浮かべ、早く沈めば良縁が早く訪れると!! 祭神は須佐之男命・櫛名田比売を祀る。 古事記ではオロチは尾に霊力を持つ正体不明の怪物の意で、その霊力の源が「草薙劔」の剣である。古事記に「高志之八俣遠呂智(こしのやまたのおろち)」と表記され、殺されて初めて正体は蛇だったと語られている「八俣大蛇」と書かれているのは日本書紀で、これが後世の大蛇像に結びついたとみられる。注目されるのは、「高志」でこれは日本書紀にはない記述で、高志(越国)は北陸地方全体を表す古名である。古代の出雲と北陸は日本海を通じて結ばれており、対立することがある一方で、交易の相手でもあった。高志は恐ろしい存在であるとともに、恩恵をもたらす土地でもあった。(古事記 監修 三浦佑之より) 【2、神魂神社(かもす)】 出雲国造の大祖 天穂日命(あめのほひのみこと)がこの地に天降され出雲の守護神として創建。この神官の家系は、出雲国造として25代までこの神魂神社の祭主を勤めていたが、西65kmの杵築の地に出雲大社が創建されると、祭主として大社に移住した。その後も「神火相続式」「古伝新嘗祭」奉仕のためこの神社に参向されている。 ちなみに、意宇六社(おうの)とは熊野大社、真名井神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社、揖屋神社の6社を指し、6社を巡礼する事を「六社参り」と呼ばれている。 現在の本殿は室町時代初期の天正11年(1583年)に再建され現存する最古の大社造りとして、昭和27年(1952)3月には国宝に指定された。この神社の祭神はイザナミノミコトは女神なので、本殿の屋根の千木の先端が水平に切ってある。 祭神は、伊邪那美神・伊邪那岐神(合祀)を祀る。 【3、熊野神社(くまの)】 『日本書紀』(720)に出雲國造をして厳神の宮を作らしむとの記載あり。『出雲國風土記』(733)に熊野大社、『延喜式神名帳』(927)に熊野坐神社と見え、日本火出初神社とも称され、古来杵築大社(出雲大社)と並びて出雲の國の大社と遇された。又、古事記にも「天神は伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神の類是なり」として出雲国造つまり出雲臣の奉斎神が熊野大神であるとしている。祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)・須佐之男命をまつる。 【4、須我神社(すが)】 出雲神話のひとつとして有名な「八岐大蛇伝説」。 出雲国肥河の川上に住いする翁嫗の夫婦神(夫は足名椎、妻は手名椎)に八人の娘がいたが、八俣大蛇に、年に一人ずつ人身御供に求められ、すでに七人の娘を奪われていた。最後に一人残った櫛名田比売命もやがて捧げねばならず、泣いているところを、高天原を追われて出雲へ降った須佐之男神に助けられた。この時、櫛名田比売命は爪形の櫛に姿を変え、須佐之男神は髪に刺した。須佐之男命は大蛇を退治した後、櫛名田比売と結ばれ、「初めて宮作り」をしたとされる神社。
日本の律令制下において一郡全体が特定の神社の所領・神域として定められた郡。 社領(神領)の一種で、郡からの収入はその神社の修理・祭祀費用に充てられた。 八重垣神社と櫛名田比売(古事記 八岐大蛇)
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