卑弥呼の鬼道祭祀とは!  『三国志』 魏書東夷伝倭人条 全文

[凡例]
  1. 魏志倭人伝は、中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称。全文は1988 (又は2008)文字からなっている。『三国志』は『魏書』30巻、『呉書』20巻、『蜀書』15巻からなる全65巻。
    1. 後漢        AD. 25~219  部落国家郡立(漢委奴国王印綬)
    2. 三国(魏呉蜀)   AD.220~279 邪馬台国(古代の鬼道祭祀)
    3. 晋(東晋・西晋)  AD.280~419 大和王朝(古鏡勾玉銅鐸)
    4. 南北朝       AD.420~588 古墳時代(眉庇付兜)

  2. 著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた。、『史記』『漢書』『後漢書』の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。
  3. 『三国志』の中に「倭人伝」という列伝が存在しているわけではなく、あくまでも「東夷伝」の中に倭及び倭人の記述がある。従って東夷伝の中に記された「東夷」の概念には当然倭人の事も含まれていると考えられるため、倭人に関する条のみならず、東夷伝全体を通読する必要があるので、全文を列記した。
  4. 中国正史に、はじめて日本に関するまとまった記事がある。当時の倭(日本)に、邪馬壹国を中心とした小国(中国語でいう国邑=囲われた町)の連合が存在し、又、邪馬壹国に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。又、当時の倭人の風習や動植物の様子がある程度解明されており、弥生時代後期後半の日本を知る第一級史料とされている。
  5. 卑弥呼が生きていた紀元200年頃の”古代の鬼道祭祀”とはどのようなものであったか神社史を探る上でも魏志倭人伝は興味深い書物である。
       
1、金印 一辺2.34㎝ 蛇体 中元2年(57) 福岡県糟屋郡 2、三角縁神獣鏡 径22.3㎝ 景初3年(239年) 島根神原神社出土 3、七支刀 身長75.0㎝ 太和4年(369年) 奈良石神神宮 4、横帯文銅鐸 総高19.98㎝ 弥生中期 鳥取県米子出土 5、金銅製眉庇付兜 総高17.0㎝ 古墳中期 木更津大塚山古墳出土
魏帝から卑弥呼への下賜品 景初三年銘の三角縁神獣鏡(左2)

魏書東夷伝倭人条
○魏志倭人伝
倭人傅  倭人在 帯方東南大海之中依 山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者 今使譯所通三十國 從郡至倭循 海岸水行歴韓國乍 南乍東到其北岸 狗邪韓國 七千餘里

【古語訳1】 邪馬台国への道程(順路①~⑩)
倭人は、帯方郡①↓(魏の国の帯方郡:現在の北朝鮮)の東南の大海の中にいる。
倭人伝の道 日本の歴史1倭国の誕生より 山の多い島で、国や村で成り立っていて、もとは百余りの国があって漢の時代には朝貢する者もいたが、 今は使者や通訳など通ってくるのは、30カ国である。
帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って水行しながら韓国を通り、南に行ったり東に行ったりするうちに、倭から見て北岸 にある狗邪韓国②↓(朝鮮半島南岸)に着く。
 ここまでで七千里余り。


始度一海千餘里至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴

【古語訳2】
始めて一海を渡ること千余里、対馬國③↓に至る。
その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。
土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。
良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に"市てき"(米穀を買い入れ)す。


又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里多 竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

【古語訳3】
又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。
一大國④↓(一支国 壱岐)に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。
竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に"市てき"(米穀を買い入れ)す。


又渡一海千餘里 至末盧國有四千餘戸濱 山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水 無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰 泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸丗有 王皆統属女王國 郡使往來常所駐

【古語訳4】 卑弥呼の統治
又一海を渡ること千余里、末盧國⑤↓(佐賀県東松浦半島)に至る。四千余戸有り。
山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。
好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
東南のかた陸行五百里にして、
伊都國⑥↓(福岡県糸島郡前原町)に至る。
官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。
 世王有るも皆女王國に統属す。
 郡の使の往来して常に駐る所なり。


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東南至奴國百里 官曰兒馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家

【古語訳5】
東南のかた奴國⑦↓(福岡市南方)に至ること百里。
官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。
東行して不彌國⑧↓に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。


南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那 利可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳醍 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸数道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳

【古語訳6】
南のかた投馬國⑨↓(宮崎県妻町 比定)に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。
南、邪馬壱國(邪馬台國)⑩に至る。
女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。
次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。
女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。


次有斯馬國、
次有巳百支國、
次有伊邪國、
次有都支國、
次有彌奴國、
次有好古都國、
次有不呼國、
次有姐奴國、
次有對蘇國、
次有蘇奴國、
次有呼邑國、
次有華奴蘇奴國、
次有鬼國、
次有爲吾國、
次有鬼奴國、
次有邪馬國、
次有窮臣國、
次有巴利國、
次有支惟國、
次有烏奴國、
次有奴國、
此女王境界所盡、

【古語訳7】 21の国々
次に斯馬國有り、五万余戸
次に己百支國有り、
次に伊邪國有り、千余戸
次に郡支國有り、
次に彌奴國有り、
次に好古都國有り、
次に不呼國有り、七万余戸
次に姐奴國有り、
次に対蘇國有り、
次に蘇奴國有り、
次に呼邑國有り、
次に華奴蘇奴國有り、
次に鬼國有り、
1、環濠集落の入り口(鳥のオブジェが多い。魔除けや守護神!) 次に爲吾國有り、
次に鬼奴國有り、
次に邪馬國有り、七万余戸
次に躬臣國有り、
次に巴利國有り、
次に支惟國有り、
次に烏奴國有り、
次に奴國有り、(筑前那珂郡 比定)二万余戸
此れ女王の境界の尽くる所なり。


其南有狗奴國 男子為王其 官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

【古語訳8】 邪馬台国は九州説畿内説  (資)吉野ヶ里遺跡
その南に狗奴國有り。男子を王となす。
その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。
郡より女王國に至ること萬二千余里。


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男子無大小 皆黥面文身自 古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子 封於曾稽 斷髪文身以避蛟龍之害 今 倭水人 好沈沒 捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾 諸國文身各異 或左或右或大 或小尊有差 計其道里 當在曾稽東冶之東

【古語訳9】 生活習慣
男子は大小と無く、皆黥面文身す。
古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。
夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。
今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。
諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。
その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。


其風俗不淫 男子皆露 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫 婦人被髪屈 作衣如單被穿 其中央貫頭衣之 種禾稻 紵麻 蠶桑績績 出細紵緜 其地無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲 兵用 矛 楯 木弓木弓短下長上 竹箭 或 鐡鏃 或骨鏃 所有無 與耳 朱崖 同

【古語訳10】 男女の風俗
その風俗は淫らならず。
男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。
婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。
禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。
その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、 あるいは骨鏃なり。
有無する所、タン耳・朱崖と同じ。


倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用邊豆 手食 其死有棺無槨 封土作冢 始死 停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 己葬擧 家詣水中澡浴 以如練沐

【古語訳11】 自然と生活習慣
倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。 屋室有り。
父母兄弟の臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし。
食飲にはヘン豆を用い、手もて食う。

その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る。
始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。
已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。


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其行來渡海 詣中國 恒使一人不梳頭 不去 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人名之爲 持衰若 行者吉善 共顧其 生口 財物 若有疾病 遭暴害便欲殺之謂 其持衰不謹 出眞珠靑玉 其山有丹 其木有 豫樟 櫪 投 檀 鳥號 楓香 其竹 篠 桃支 有 薑 橘 椒荷 不知以 爲 滋味 有 黑雉

【古語訳12】 権力支配と奴隷  倭国の樹木
その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、 キシツ(しらみ)を去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人(喪に服す)の如くせしむ。
これを名づけて持衰(じさい 司祭者 呪術師も舟に同行)と為す。
もし行く者吉善なれば、共にその生口(奴隷)・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。
その持衰謹まずといえばなり。

真珠・青玉を出す。
その山には丹あり。
その木には、ダン(楠)・杼(ちょ 団栗)・豫樟(よしょう イヌグス)・じゅう・櫪(れき クヌギ)・投(とう 杉又藤) ・檀(きょう カシ)・烏号(うごう クワ 弓)・楓香(ふうこう カエデ)あり。
その竹には、篠・桃支。
薑(きょう 食料)・橘(きつ 食料)・椒(しょう 食料)・椒荷(じょうか 食料)あるも、以て滋味となすを知らず。 ジ猿・黒雉あり。


其俗擧事行來 有所云爲 輒灼骨而 ト似占吉凶 先告所ト 其辭如令龜法 火拆占兆 其曾同坐起 父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬 但搏手以當跪拜 其人壽考 或百年 或八九十年 其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不妬 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者沒 其妻子重者減其門戸及宗族各有差序 足相臣服收賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之

【古語訳13】 倭人の階級  卑弥呼の権力支配
その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。
その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。

その会同・坐起には、父子男女別なし。
人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。
その人寿考(長生き)、あるいは百年、あるいは八、九十年。
その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌(嫉妬)せず、盗窃せず、諍訟少なし。

その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し(国の奴隷)、重き者はその門戸(親族)および宗族(一族全体)を没す。
尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。
租賦(租税)を収む、邸閣(租税を収める倉庫)あり、國國市あり。
有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。


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自女王國以北 特置一大率儉察 諸國諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王 遣使詣京都帯方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露傅 送文書賜遣之物詣女王 不得差錯 下戸與大人相逢道路 逡巡入草傅辭 説事 或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾

【古語訳14】 邪馬台国の政治  倭人の二つの階級と奴隷
女王國より以北には、特に一大率(卑弥呼)を置き、諸國を検察せしむ。 諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史(中国の地方官)の 如きあり。
王、使を遣わして京都(魏の都)・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、 文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。

下戸(一般民衆)、大人(私有財産を持つ有力者層)と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、 両手は地に拠り、これが恭敬を為す。
対応の声を噫という、比するに然諾の如し。


其國 本亦以男子爲王 住七八十年 倭國相攻伐暦年 及共立一女子爲王 名曰彌呼事 鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟 佐治國自爲 王以來 少有見者 以婢千人自侍唯 有男子一人給 飲食傅 辭出入 居處 宮室 樓觀 城柵 嚴設 常有人持平守衞

【古語訳15】 二世紀後半に倭國に大乱あり  共立の女王卑弥呼
その國、本また男子を以て王となし、住(とど)まること七、八十年。
倭國乱れ(146~189年頃)、相攻伐すること歴年。

乃ち(すなわち)共に一女子を立てて王となす。
名付けて卑弥呼という。
鬼道(シャーマニズム司祭)に事え、能く衆を惑わす。

年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。


女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國 在其南 人長三 四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國復 在有東南 船行一年可至 參問倭地 絶在海中洲之上 或絶或連 周旋可五千餘里

【古語訳16】
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。
人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。
船行一年にして至るべし。
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。


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景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝献太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所献男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使 貢献是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魂倭王假金印紫綬装封付帯方大守假授汝其綏撫種人勉爲 孝順

【古語訳17】 魏の天子へ、景初三年六月(239)卑弥呼の使者朝貢
景初二年六月(238年6月・・・景初3年 比定)、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて 朝献せんことを求む。
太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。

その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王」卑弥呼に制詔す(称号を授ける)。
帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口(奴隷)四人・女生口六人・ 班布二匹二丈を奉り以て到る。
汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。
これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。
今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。
汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。


汝來使難升米 牛利 渉遠 路勤勞 今 以難升米爲率善中郎将 牛利爲率善校尉假 銀印青綬 引見勞賜遣還 今 以絳地交龍錦五匹 絳地芻粟罫十張 菁絳五十匹 紺青五十匹 答汝所献貢直 又 特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罫五張 白絹五十匹 金八両 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠 鉛丹 各五十斤 皆装封付 難升米 牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使 知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

【古語訳18】 卑弥呼の朝貢
汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。
今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。

今、絳地交竜錦(赤地に蛟龍の模様の錦)五匹・絳地スウ粟ケイ(赤地に羽毛の織物)十張・セン絳(茜染の赤色織物) 五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。

また、特に汝(卑弥呼)に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口銅鏡百牧 (三角縁神獣鏡 景初三年陳作)・真珠・鉛丹 各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。  還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。 故に鄭重に汝に好物を賜うなりと。


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正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬 詣倭國 拜假倭王井 齎詔賜 金帛 綿 刀 鏡 采者 倭王因 使上表 答謝詔聲 其四年 倭王 復遣 使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人上獻 生口 倭綿 靑 緜衣 帛布 丹 木 拊短弓矢 掖邪狗等 壹拜率善中郎將 印 其六年 詔賜倭 難升米 黄幢 付郡假授 其八年 太守王到官 倭女王彌呼與 狗奴國男王 彌弓呼 素不和 遣倭 載斬鳥越等 詣郡 説相攻撃 遣塞曹幢史張政 等因齎 詔書 黄幢 拜假難升米爲 檄告喩之

【古語訳19】 中国の使者が初めて卑弥呼に拝仮
三世紀半ばの東アジア日本の歴史1倭国の誕生より 正始元年(240年)、太守弓遵(魏国の帯方郡使者)、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王(卑弥呼)に拝仮し、 ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。

その四年(244年)、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・ 丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。

その6年、詔して倭の難升米に黄幢(黄色い旗)を賜い、 郡に付して仮授せしむ。

その8年(248年)、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず(交戦状態を報告)。

倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、 難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。


彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者 奴婢 百餘人 更立男王 國中不服 更相誅 殺當時殺千餘人 復立 彌呼宗 女壹與年十三爲王國中遂定 政等 以檄告喩壹與 壹與 遣 倭 大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺獻上 男女生口三十人貢 白珠五千孔 靑大狗珠二枚 異文雜綿二十匹

【古語訳20】 六十年以上王位についた卑弥呼死して再び内乱
卑弥呼以て死す(248、9年頃)
大いにチョウ(墓 300年頃から古墳築造)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
更に男王を立てしも、國中服せず(男王を立てたが再び内乱)。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。

また、卑弥呼の宗女(跡継ぎ)十三年(歳)なる壱与(いよ)を立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ(張政たちを丁重に帯方郡に送り返す)。
因って台に詣り(壱与の使者は落陽に行く)、男女生口(奴隷)三十人を献上し、白珠(貝製小玉)五千孔・青大勾珠(勾玉)二牧・異文雑錦二十匹を貢す。


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【推 察1】 邪馬台国から初期大和王権の成立
第二の内乱を克服した女王壱与(いよ)
部落の祭祀道具・銅鐸 弥生中期  壱与は、晋(AD280~419)にしばしば使者を送り、三世紀末に歴史上から姿を消す。 卑弥呼の鬼道(シャーマン)支配から脱却し新しい社会の到来である。
 朝廷という、ある程度の政治組織を持った”階級支配体制”が一段と発展し安定した世襲制の、 大和王権が誕生していったのではと考えられる。鐵を制する者は国を治める。

【弥生人の銅鐸のもつ意味】  弥生期初期に畿内を中心に多くの銅鐸が祭祀に使用されていたと考えられている。 弥生後期に銅鐸の鋳造及び使用が終わりをつげた。
 銅鐸の多くは一個づつ単独に出土しているが、出土一個所に数個の銅鐸がまとまって出土している。最も多いのは二個出土は30例、三個が5例、四個が5例、七個が1例、十四個が2例である。この内二個いっしょに出土するものは、形式からいって同じ時期に作られ、二個セットになって使用されていたのではないかといわれている。
 古事記に創造された日本の神話はアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)から、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)とカミムスビノカミ(神産巣日神)の二注が出現。ウマシアシカビヒコジノカミ(宇摩志阿斯訶備比古遅神)とアメノトコタチ(天之常立神)の二柱。クニノトコタチノカミ(国之常立神)とトヨクモノカミ(豊雲野神)の二柱。イザナギノミコト(伊耶那岐命)とイザナミノミコト(伊耶那美命)のご夫婦の二柱。二柱が一組(一代)となる神が多い。天皇が即位の礼の後の大嘗祭でも悠紀(ゆき)・主基(すき)二つの祭りがある。二つの祭祀を行なう伝統はこの時代までさかのぼることができるのかもしれない。
 問題は三個以上の出土である。では何故、今までのそれぞれの部落で祭りに用いられた銅鐸が一ヶ所に集められたのかである。 個々の村に分かれて生活を続けていた人々が、その村の枠をすてて、より大きな規模の集団を構成するにいたった。多くの集落が一つにまとまって大きな集団に至ったとき、従来の個々の祭りは不要になり、その中心的な道具である銅鐸は一ヶ所に集められ強制的に埋没されたことは(比定)、弥生期の末期にそうした新しい権力者が生まれたと思われる。その権力者がやがて、古墳をつくる有力者となったのであろう。これを豪族と呼び、地方の豪族たちによって共立し初期の大和政権が誕生していく。青銅器の剣・矛と銅鐸が姿を消し、鐵を制する者は国を治める時代に入っていくのである。 その初期大和王権が「古事記」「日本書紀」にみえる崇神・垂仁朝へと引き継がれていったのか、今後の歴史的検証を待ちたい!!
                  (参考文献:日本の歴史 倭国の誕生 直木孝次郎著 初本1973)

弥生人群像 日本の美術370抜粋
1、古鏡 2、勾玉 2、首飾り 3、腕輪 4、頭飾り 5、青銅製の矛と短剣 6、木製短甲
弥生期に出土した遺物を検証し、卑弥呼が生きた時代の弥生人群像に思いを馳せる。


 倭人について   中国史籍訳文(参考文献)にンク

[凡例]中国史籍
    ●二十六史
  1. 史記     前漢・司馬遷     130巻:BC.206年~  8年[首都長安]
  2. 漢書     後漢・班固       100巻:AD. 25年~220年[首都落陽]
  3. 後漢書    宋・范曄        120巻:AD.420年~479年[首都開封]
  4. 三国志    晋・陳寿         65巻:AD.265年~316年[首都落陽]
  5. 晋書     唐・房玄齢他      130巻:AD.618年~907年[首都長安]
  6. 宋書     南斉・沈約       100巻:AD.479年~502年[首都臨淄]
  7. 南斉書    梁・蕭子顕        59巻:AD.502年~557年[首都建康]
  8. 梁書     唐・姚思廉        56巻:AD.618年~907年[首都長安]
  9. 陳書     唐・姚思廉        36巻:AD.618年~907年[首都長安]
  10. 魏書     北斉・魏収       114巻:AD.550年~577年[首都ぎょう]
  11. 北斉書    唐・李百薬        50巻
  12. 周書     唐・令狐徳棻他     50巻
  13. 隋書     唐・魏徴、長孫無忌  85巻
  14. 南史     唐・李延寿        80巻
  15. 北史     唐・李延寿       100巻
  16. 旧唐書   後晋・劉昫他     200巻
  17. 新唐書   北宋・欧陽修、宋祁 225巻
  18. 旧五代史  北宋・薛居正他    150巻
  19. 新五代史  北宋・欧陽修      74巻
  20. 宋史     元・トクト(脱脱)他  496巻
  21. 遼史     元・トクト(脱脱)他  116巻
  22. 金史     元・トクト(脱脱)他  135巻
  23. 元史     明・宋濂他       210巻
  24. 明史     清・張廷玉等      332巻
  25. 新元史
  26. 清史稿



倭人伝・倭国伝 概論 
NO1~NO11
『1、山海経 せんがいきょう』
戦国時代から秦朝(紀元前221~紀元前206年)・漢代(紀元前206年~263年)の最古の地理書
  • 「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
      蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕(えん 紀元前1100年~ 紀元前222年
      北京周辺:周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在した国)に属す。


『2、漢書(前漢書)』
中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢(紀元前206年~8年)のことを記した歴史書。
  • 「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。
      樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
      然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、説(も)し
      海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆえ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分かれて
      百余国をなし、歳時をもって来たりて献見すと云う。


『3、論衡 ろんこう』
中国後漢時代(25年~220年)の王充(27年 - 1世紀末頃)が著した全30巻85篇
実証主義の立場から王充は自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判した。
  • 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
      周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

  • 「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
      成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

  • 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
      周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。
      白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。


『4、後漢書』
後漢朝(25年~220年)について書かれた歴史書。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。
  • 「倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、
      國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘
      邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。」
      倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅
      ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を
      称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界か
      ら、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会
      稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同
      じである。

  • 「土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績為縑布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣温煗、冬夏生
      菜茹。無牛馬虎豹羊鵲(雞)。其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨為鏃。男子皆黥面文
      身、以其文左右大小別尊卑之差。」
      風土は粟、稲、紵麻(カラムシ)の栽培に適し、養蚕し、縑布を織ることを知っている。
      白珠、青玉を産出する。その山には丹砂がある。気候は温暖で、冬や夏も生野菜を食べ
      る。牛、馬、虎、豹、羊、鵲(鶏)はいない。そこの兵器には矛、楯、木弓、竹矢、あ
      るいは骨の鏃がある。男子は皆、黥面文身、その文様の左右大小の別で尊卑の差がある。

  • 「其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈紒、衣如單被、貫頭而著之;並以丹朱坋身、如中國
      之用粉也。有城柵屋室。父母兄弟異處、唯會同男女無別。飲食以手、而用籩豆。」
      そこの男の衣は皆、幅広で互いを結束して連ねる。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被
      (ひとえ)のようにして頭を突き出して着る(貫頭衣)。並びに、丹砂の朱粉を体に
      塗る、中国での白粉の用法のようである。城柵、屋室あり。父母兄弟は居が異なるが
      、会同では男女の別はない。飲食は手を使い、御膳を用いる。

  • 「俗皆徒跣、以蹲踞為恭敬。人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚眾。國多女子、大人皆有
      四五妻、其餘或兩或三。女人不淫不妒。又俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅
      其門族。其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞為樂。灼骨以卜、用決吉
      凶。行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物
      ;如病疾遭害、以為持 衰不謹、便共殺之。」
      習俗は皆、裸足で歩き、蹲踞(そんきょ)で恭敬を示す。人々の性質は酒を嗜む。長寿
      が多く、百余歳に届く者も甚だ多勢いる。国に女子が多く、大人は皆、四~五人の妻が
      おり、その余は二~三人である。女人は淫ではなく嫉妬もしない。また、風俗は盜みを
      せず、争訟は少ない。法を犯した者は、その妻子を没収し、重罪はその家系一門を誅滅
      する。その喪は十余日で停止する。家人は哭泣し、酒食を摂らず、而して等類は歌舞を
      楽しむ。灼骨で卜占し、吉凶を決するのに用いる。海を渡って行き来するときは、一人
      に櫛や沐浴を使わせず、肉食をさせず、婦人を近づかせない、名づけて持衰という。
      もし道に在って(海運で)吉利を得れば財物を以て支払う。もし病疾の災害に遭遇すれ
      ば、持衰が慎まなかったことして、すなわち共にこれを殺す。

  • 「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安
      帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」
      建武中元二年(57年)、倭の奴国が謹んで貢献して朝賀した。使人は大夫を自称する。
      倭国の極南界なり。光武帝は印綬を賜る。安帝の永初元年(107年)、倭国王が帥升
      らに奴隷百六十人を献上させ、朝見(天子に拝謁する)を請い願う。

  • 「桓霊間倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、
      能以妖惑衆。於是共立為王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。
      居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。」
      桓帝と霊帝の間(146-189年)、倭国は大乱、互いに攻伐しており、暦年に亘って
      君主がいなかった。一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼
      道に仕え、よく妖術を以て大衆を惑わす。ここにおいて(卑彌呼を)王に共立した。
      侍婢は千人、会える者は少ない。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。
      暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器を持って守衛する。法俗は峻厳である。

  • 「自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱
      儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。」
      女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王
      には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三
      ~四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所は
      これに尽きる。

  • 「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男
      女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。
      人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。」
      会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲があ
      る。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海
      に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰ら
      ず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り
      交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がい
      る。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。


『5、晋書』
晋王朝(西晋・東晋)265年~ 420年について書かれた歴史書。
  • 「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」 西晋太康10年(289年)の条
      絶遠の国が日本であるといわれる。


『6、宋書』
南朝の宋(420~479年)について書かれた歴史書。志30巻は502年(天監元)にできあがった。
  • 「倭国伝」
      「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平
      海北九十五國」
      昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川
      (さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。
      東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を
      平らぐること、九十五国。

  • 「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
      詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将
      軍、倭王に叙爵した。と日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ朝鮮半島の支配を認
      めたとしており、当時の外交状況が見て取れる。


『7、北史』
南北朝時代の北朝(439年~589年)この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した
「倭国伝」
  • 「倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中依山島而居。魏時、譯通中國三十餘國、
      皆稱子。夷人不知里數、但計以日。」
      倭国は百済と新羅の東南に在り、水陸を行くこと三千里、大海中の山島に依って居を構
      えている。三国魏の時代、通訳を連れて中国に通じる国が三十余国、皆が子を称した。
      東夷の夷人は里数(距離計算)を知らない、ただ要した日程で計っている。

  • 「其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢、東高西下。居於邪摩堆、則魏
      志所謂邪馬臺者也。又云:去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽東、與儋耳相近。
      俗皆文身、自云太伯之後。」
      その国境は東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程、各々が海に至る。その地形は
      東が高く西が低い。邪摩堆で暮らす、魏志に則れば、言うところの邪馬臺である。ま
      た言う、楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似する。
      俗は皆が身体に刺青をし、太伯の後裔だと自称する。

  • 「計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海。又南千餘里、
      度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里
      、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。
      又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。」
      帯方郡から倭国に至る距離を計れば、海を巡って水行し、朝鮮国を経て、南へ東へと七
      千余里、初めて一海を渡る。また南に千余里、一海を渡る、広さは千余里、名は瀚海、
      一支国に至る。また一海を渡ること千余里、名は末盧国。また東南に陸行すること五百
      里、伊都国に至る。また東南に百里、奴国に至る。また東に行くこと百里、至彌国に至
      る。また南に水行すること二十日、投馬国に至る。また南に水行すること十日、陸行す
      ること一月、邪馬臺国に至る、すなわち倭王の王都である。

  • 「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。靈帝光和中、其國
      亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立為王。無夫、有
      二男子、給王飲食、通傳言語。其王有宮室、樓觀、城柵、皆持兵守衛、為法甚嚴。」
      後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝、大夫を自称する。安帝の時(106-125
      年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という。霊帝の光和中(178-184年)、
      その国は乱れ、互いが順番に攻伐しあい、何年も君主がいなかった。卑彌呼という名
      の女性がおり、よく鬼道を以て衆を惑わすので、国人は王に共立した。夫はおらず、
      二人の男子がおり、王に飲食を給仕し、言葉を伝達する。その王は宮室におり、楼観
      、城柵、いずれも武器を持って守衛し、法は甚だ厳しく為されている。

  • 「魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼始遣使朝貢。魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死
      、更立男王。國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受中國
      爵命。江左歴晉、宋、齊、梁、朝聘不絶。」
      魏の景初三年(239年)、公孫文懿(公孫淵)が誅伐された後、卑彌呼は初めて遣使を
      以て朝貢。魏主は假(仮の)金印紫綬を授けた。正始中(240-249年)、卑彌呼が死
      に、改めて男王を立てたが、国中が服さず、益々互いを誅殺しあったので、再び卑彌
      呼の宗女「臺與」を立てて王とした。その後、再び男の王が立ち、それぞれが中国か
      ら爵位を拝命した。江左(江東)は、晋、宋、斉、梁を経て、朝聘は絶えなかった。

  • 「及陳平、至開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令
      所司訪其風俗、使者言倭王以天為兄、以日為弟、天明時出聽政〔3〕、跏趺坐、日出
      便停理務、云委我弟。文帝曰:「此大無義理。」於是訓令改之。」
      南朝の陳を平定するに及び、開皇二十年(600年)に至って、倭王「姓は阿毎、字は
      多利思比孤、号は阿輩雞彌」が遣使を王宮に詣でさせた。上(天子)は所司にそこの
      風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄とし、日を以て弟とし、天が
      (未だ)明けざる時、出てきて聴政、結跏趺坐し、日が出ればすなわち政務を停め、
      我が弟に委ねるという。文帝が曰く「これは全く道理に適っていない」。ここに於い
      て訓令でこれを改めさせる。

  • 「王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:
      一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、
      次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一
      伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」
      王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。
      城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、
      大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がな
      い。軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置
      き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。

  • 「其服飾、男子衣裙襦、其袖微小、履如屨形、漆其上、繁之於腳。人庶多跣足。不得
      用金銀為飾。故時衣橫幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。」
      その服飾は、男子の衣は裙襦、その袖は微小、履(靴)は草鞋(わらじ)のような
      形で、漆(うるし)をその上に塗り、頻繁にこれを足に履く。庶民は多くが裸足で
      ある。金銀を用いて装飾することを得ず。故時、衣は幅広で、互いを連ねて結束し、
      縫製はしない。頭にも冠はなく、ただ髮を両耳の上に垂らしている。

  • 「至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳
      皆有○。攕竹為梳、編草為薦。雜皮為表、縁以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、欑、
      斧、漆皮為甲、骨為矢鏑。雖有兵、無征戰。」
      隋に至って、その王は初めて冠を造り、錦の紗(薄絹)を以て冠と為し、模様を彫
      金した金銀で装飾した。婦人は髮を後で束ね、また衣は裙と襦、裳には皆○がある
      。攕竹を櫛と為し、草を編んで薦(ムシロ)にする。雑皮を表面とし、文様のある
      毛皮で縁取る。弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧があり、皮を漆で塗って甲とし、骨を
      矢鏑とする。兵はいるが、征服戦はない。

  • 「其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬。俗、殺人、強盜及姦、皆死、盜者
      計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木
      壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。
      或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。」
      その王の朝会では必ず儀仗を陳設し、その国の音楽を演奏する。戸数は十万ほど。
      そこの習俗では、殺人、強盜や姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計って、
      財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して奴隷と為す。その余は罪の軽重によ
      って、あるいは流刑、あるいは杖刑とする。犯罪事件の取調べでは毎回、承引せざ
      る者は、木で膝を圧迫、あるいは強弓を張り、弦でその項を撃つ。あるいは沸騰し
      た湯の中に小石を置き、競いあう者にこれを探させる、理由は、正直ではない者は
      手が爛れるのだという。あるいは蛇を甕の中に置き、これを取り出させる、正直
      ではない者は手を刺されるのだという。

  • 「人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身、沒水捕魚。
      無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。知卜筮、尤信巫覡。」
      人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。楽器には五弦、琴、笛が
      ある。男女の多くが臂(肩から手首まで)、顔、全身に刺青をし、潜水して魚を捕
      る。文字はなく、ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。仏法を敬い、百
      済で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき
      =男女の巫者)を信じている。

  • 「毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖
      、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。」
      毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と
      同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬
      も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜
      の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。

  • 「俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、
      男女相悅者即為婚。婦入夫家、必先跨犬、乃與夫相見。婦人不淫妒。」
      風俗は盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように
      使う。性質は素直、雅風がある。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女
      が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と
      相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。

  • 「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯、庶人卜日而瘞。
      及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。」
      死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。
      貴人の場合、三年間は殯(かりもがり=埋葬前に遺体を棺桶に安置する)をし、
      庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引す
      る、あるいは小さな御輿を以て行なう。

  • 「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大
      如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒
      通使往來。」
      阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異なことだ
      とし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大き
      さで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は皆、倭を大国で、珍物が
      多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。

  • 「大業三年、其王多利思比孤遣朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝
      拜、兼沙門數十人來學佛法。」國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝
      覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
      大業三年(607年)、その王の多利思比孤が(使者を)遣わして朝貢。
      使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、
      兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。国書に曰く「日出ずる所の天子、書
      を日沒する所の天子に致す。つつがなきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿
      が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と言った。

  • 「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、
      迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、
      疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。」
      翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹
      島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に
      一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)
      と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸
      に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

  • 「倭王遣小德何輩臺從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毗從二百
      餘騎、郊勞。既至彼都、其王與世清。來貢方物。此後遂絶。」
      倭王は小德の阿輩臺を派遣し、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。
      十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。既に彼の
      都に至り、その王、裴世清と(相見える)。方物を貢献させに来た。この後、遂に
      途絶えた。


『8、南斉書』
南朝の斉(せい、479年~502年)について書かれた歴史書。
  • 「倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。建元元年、進新除使持
      節、都督倭新羅任那加羅秦韓(慕韓)六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍。」
      倭国、帯方郡の東南、大海の島の中に在り、漢末以来、女王を立てた。土俗は既に前
      史に見える。建元元年(343年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・(慕韓)
      六国諸軍事、安東大将軍に新に進め、倭王の武の号を鎮東大将軍に叙した。

      倭国は、帯方郡の東南大海中に在り、漢末の時代以来女王を立てた。
      風俗は、前史に見える。
      健元元年(343)に、使持節、都督倭・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安
      東大将軍に新たに進め、倭王の武の号を鎮東大将軍に叙した。
      南斉書は、6世紀前半に梁という国で作成されています。 倭国についての記載は、短
      いですが今までの史書が簡潔にまとめられているとも言えます。 また、倭王の武は、
      5王の中でもかなり傑出した大倭王と見なされていたようです。


『9、梁書 りょうじょ』
梁(502年~557年)の歴史を記した歴史書。56巻。636年(貞観10)に完成
  • 「諸夷伝」 巻五四の諸夷伝
      「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。」
        倭とは、自らは太伯の後裔だという。俗は皆、身体に刺青をする。帯方郡から一万二千
      余里、おおよそ会稽郡の東に在り、互いに絶海の遠方である。
      梁書巻五四の諸夷伝に倭に関する記述がある。先行する倭に関係する記述を適宜に採録
      したものである。倭の五王名や続柄が『宋書』と異なっている。

  • 「從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、
      至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、
      至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月
      日、至邪馬臺國、即倭王所居。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。」
      帯方郡から倭に行くには、海を巡って韓国を経て、東へ南へと航行すること七千余里で、
      初めて一海を渡る。海の広さは千余里、名は瀚海、「一支国」に至る。また一海を渡るこ
      と千余里、名は「未盧国」。また東南に陸行すること五百里、「伊都国」に至る。また東
      南に行くこと百里、「奴国」に至る。また東に行くこと百里、「不彌国」に至る。また南
      に水行すること二十日、「投馬国」に至る。また南に水行すること十日、陸行すること一
      カ月で、「邪馬臺国」に至る。すなわち倭王が居する所である。その官には伊支馬があり
      、次は彌馬獲支といい、次は奴往鞮という。

  • 「民種禾稻紵麻、蠶桑織績。有薑、桂、橘、椒、蘇。出黑雉、真珠、青玉。有獸如牛、名山
      鼠。又有大蛇吞此獸。蛇皮堅不可斫、其上有孔、乍開乍閉、時或有光、射之中、
      蛇則死矣。」
      民は水稲や紵麻の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。薑、桂、橘、椒、蘇がある。黒雉、
      真珠、青玉を産出する。牛のような獣がおりる、名は山鼠。また、この獣を呑み込むとい
      う大蛇がいる。その蛇皮は堅くて叩き切れないが、頭上に孔があり、開いたり閉じたりし
      て、時には光を発するのだが、この中を射れば、蛇は死ぬ。

  • 「物産略與儋耳、朱崖同。地温暖、風俗不淫。男女皆露紒。富貴者以錦繍雜采為帽、似中國
      胡公頭。食飲用籩豆。其死、有棺無槨、封土作家。」
      物産はほぼ儋耳、朱崖と同じ。土地は温暖、風俗は淫ではない。男女は皆、頭に何も被らな
      い。富貴な者は錦に彩色の刺繍をして帽子とし、中国の胡族の頭装に似ている。飲食には
      御膳を用いる。そこの死者の埋葬には棺はあるが槨はなく、土を封じて塚とする。

  • 「人性皆嗜酒。俗不知正歳、多壽考、多至八九十、或至百歳。其俗女多男少、貴者至四五
      妻、賤者猶兩三妻。婦人無婬妒。無盜竊、少諍訟。若犯法、輕者沒其妻子、重則滅其
      宗族。」
      人の性は皆、酒を嗜む。俗は歴を知らず、長寿が多く、多くは八~九十歳、あるいは百歳
      になる。そこの風俗では女が多く男が少ないので、貴者は四~五妻、賎者でも二~三人の
      妻がいる。婦人は嫉妬せず。盗難もなく、諍訟は少ない。もし法を犯せば、軽い罪なら妻
      子の没収、重い罪ならその宗族を滅ぼす。

  • 「漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿、挾鬼道、能
      惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳
      教令。所處宮室、常有兵守衛。」
      漢の霊帝の光和中(178-184年)、倭国は乱れ、何年も戦さを続けたので、卑彌呼という
      一人の女性を共立して王とした。彌呼には夫婿はなく、鬼道を身につけ、よく衆を惑わす
      ので、国人はこれを立てた。国政を補佐する弟がいる。王となってより会った者は少ない、
      千人の婢が側に侍り、ただ一人の男子に教令の伝達のため出入させている。暮らしている
      宮殿には常に兵がいて守衛している。

  • 「至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼始遣使朝貢、魏以為親魏王、假金印紫綬。正始中、卑
      彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王、並受
      中國爵命。」
      魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏
      は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。 正始中(240-249年)、卑彌呼が死に、改
      めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺
      與」を王として立てた。その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。

  • 「晉安帝時、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。
      齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位、
      進武號征東大將軍。」
      晋の安帝時(396-418年)、倭王讃がいた。讃が死に、弟の彌が立った。彌が死に、子
      の済が立った。済が死に、子の興が立った。興が死に、弟の武が立った。 斉の建元中
      (315-316年)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大
      将軍に除した。高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。


『10、隋書』
隋代(581~618年)紀5巻、志30巻、列伝50巻からなる歴史書。首都大興城(西安)
  「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」
  • 「倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘
      國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。
      其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬
      二千里、在會稽之東、與儋耳相近。」
      倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居す
      る。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の
      人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。その国の境は東西に五カ月、
      南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に
      則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の
      東に在り、儋耳と相似するという。

  • 「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
      男女多く臂(うで・ひじ)に黥(げい)す。黥面文身して、水に没して魚を捕る
      とある。これは608年の隋使裴清(裴世清)の一行の見聞や観察を基礎にしたもの
      で、7世紀初頭の倭人社会についての貴重な資料である。

  • 「新羅 百濟皆以俀爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
      新羅・百濟は、みな俀を以て大国にして珍物多しとなし。並びにこれを敬い仰ぎ
      て、恒に使いを通わせ往来すとあり、百済、新羅が、日本(倭)を尊敬して仰い
      でいたとし、使いを通わせていた記述が存在する。また、倭人が鉄を使用してい
      たという記述がある。

  • 「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜
      兼沙門數十人來學佛法」
      大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天
      子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて
      仏法を学ぶ。』と。俀の王からの使者が来て、隋を訪問した目的を述べたことが
      記述されている。ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心に)仏法を起こしてい
      ると聞いた。そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶために来たのだ」と述べ
      ている。海西の菩薩天子とは、海の西の方の天子、すなわち、開皇11年(591年)
      菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を指している。


『11、旧唐書』
唐の成立(618年~907年)から滅亡まで300年間の歴史書
  • 「倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西
      五月行 南北三月行 世與中國 ~ 日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故
      以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」

      日本について『倭国』と『日本国』の条がある。
      「日本」の名称に関して次の記述がある。

    『舊唐書』 東夷伝 倭國日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。倭国は「自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み」名を改めたと読める。また、北宋時代に再編纂された『新唐書』においても同様の記述があるが、新唐書においては「日本という小国を倭があわし(合併し)その号(日本の名)を冒す(名のる)」とする記述がある


【草岡神社奉賛会】
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