古明神村の村御印 寛文10年(1670)
(古文書表:翻刻テキスト)
射水郡古明神村
弟二十九号
百姓中
(古文書:翻刻テキスト)
越中射水郡古明神村物成之事
壱ケ村草高 外五拾四石明暦弐年引高
一、六拾七石 免三ツ六歩内弐ツ五歩三里明暦二年より上ル
右免付之通新京桝を以可納所、夫銀定納百石ニ付
百四拾目宛口米石ニ付壱斗壱升弐合宛可出也。
同村小物成之事
一、弐拾五匁 出来 網役
一、七拾目 野役
外弐拾六匁退転
本米五斗
一、弐斗 敷借利足 明暦弐年ニ令免除
右小物成之分者十村見図之上ニテ指引有之者
其通可出者也。
寛文十年 九月七日
古明神村
百姓中
村御印 法量:横58.0p 縦38.5p
【読み下し】
越中射水郡古明神村、物成之事(
壱ケ村草高( 外、五拾四石、明暦弐年引高
一、六拾七石 免(三ツ六歩、内弐ツ五歩三里、明暦二年より上ル
右、免付(之通、新京桝(を以可納所(、夫銀(、定納百石ニ付
百四拾目宛口米(、石(ニ付、壱斗壱升弐合(宛可出(也。
同村小物成(之事
一、弐拾五匁( 出来 網役
一、七拾目 野役
外弐拾六匁退転(
本米五斗
一、弐斗 敷借利足( 明暦弐年ニ令免除
右、小物成(之分者、十村見図(之上ニテ、指引( 有之(者
其通可出(者(也。
寛文十年 九月七日 御印(
古明神村
百姓中
【 意 訳 】
越中射水郡古明神村の年貢米の収入高。
藩の改作奉行が実施検分した明暦2年(1656)引高(災害等で耕作不能となった土地)54石を認め、古明神一村の領高を121石から67石と改める。
村の67石に対し年貢率(定税率)を36%と定め、毎年24.12石を納めよ。
夫銀(強制労働代銀)を年33.76銀とし、春3月、秋2月の2回に分けて上納する。代官への口米(手数料)は定納する時に2.7石を添えて納めよ。
小物成(田畑以外)の収穫物に対し、漁業者には銀25匁。田畑以外の野役(原野)には銀札70目、
外、米5斗(1石の半分:14匁)を納めよ。2斗の不作時の敷借(年貢米)の利息を免除する。
古明神村百姓中一村の連帯責任とする。
- ○草高 =67.00石
- △免36% =24.12石(計算式:67石×0.36%)〜定納
- △口米 = 2.70石(計算式:24.12石×0.112石)
- △夫銀 =銀33.76匁(計算式:24.12石/100石×140匁)
- △網役 =銀25匁
- △野役 =銀70匁(目)外、米5斗(14匁)
1石(米10斗:2俵:60s)を銀で換算すると28匁
○加賀藩時代、米1石は1年間一人消費する量 (365日×3合/人)
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村御印(
江戸時代に加賀藩で行われた年貢の取り決め書。標準的な収穫高と年貢の率などを書面に記し、藩主の印を押して交付した文書。御印が押されていることから「村御印」と呼ばれている。この読み方としては(むらぎょいん)が正しいとする学説もあるが、ここでは通称の方を取った。例えば、富山県高岡市で二代藩主利長の遺徳を偲ぶ「御印祭」は「ごいんまつり」と発音されている。
慶安3年(1650)に交付され、明暦2年(1655)に手上高、手上面を加え再交付し、再度、寛文十年(1670)に加賀藩領内の3411の村へ発布されたものが、最も多く現存している。草岡神社奉賛会が所蔵している村御印も寛文十年(1670)のものです。
* 検地後、村御印は4度交付、改定されている。改作法による租税(6公4民)の原点は明暦元年(1655)と考えられている。
- 慶応3年(1650)
- 承応2年(1654)
- 明暦2年(1656)
- 寛文10年(1670)
十村(制
十村制のために特権を付与された農民を十村と称する。十村は郡奉行あるいは改作奉行の下位、肝煎や庄屋の上位に位置する。初めは10カ村ほどを束ねる役割を担っていたため「十村」と称したが、後には数十カ村を束ねる十村も現れた。十村は、上位から、組無御扶持人十村、組持御扶持人十村、平十村に区分され、さらに各区分が三分される計九段階の序列があった。十村には役料として支配下の15歳から60歳の男子から年に米二升が徴収され充てられた。世襲ではないものの、基本的には村を束ねる豪農が任命されるため、事実上世襲に近い状態であった。一人の十村が管轄する範囲を「組」と呼び当初は十村の名前を冠して呼んでいたが後に地名を冠するようになった。
越中射水郡・大白石組 十村
- 大白石村 三郎右衛門 (正保02〜元禄03)1644〜1690
寄合い
村民の総意を決定する場である。毎年正月に寄合いを行い、それ以外は折りにふれ集まった。寄合いでは、村御印を床の間に飾り、お神酒などを供え、一礼してから話し合いを始めた。それは、藩からの伝達を徹底させる機会でもあり、また、村毎のきまりえを決める場でもあり、御印の前で決めるということに絶対的な権威を求めた。そのきまりは、村用人足賃の定めや、入会地の用益など、共同体としてのきまりを内容とするものであった。村の経理も、こうした機会に決定され、百姓達の負担額がここで決められた。
改作法
改作法の施行を徹底させるため農政に専念する改作奉行を設けた。利常は、税収を上げるためにはまず農民の暮らしを安定させる必要があると考え、施行されたのが改作法であった。 改作法では、農民の借金の帳消し 農具や種籾を購入するための銀(改作入用銀)の貸し付け 当座の食料(作食米)の貸し付け 労働人口の再分配 が定められ、農業生産力を高める試みがなされた。これらを施行するに当たり十村制が十分に活用されている。
●改作奉行:加賀藩では寛文元年から設置された。
- 園田左七 (寛文元〜延宝05)
- 河北弥左衛門 (寛文元〜延宝04)
- 佐藤助左衛門 (寛文元〜貞亨02)
- 中村助左衛門 (寛文05.03.〜元禄09)
- 毛利亦大夫 (寛文05〜宝永06)
●砺波射水御郡奉行
- 津田右京 (万治03〜延宝08)
- 加藤治兵衛 (寛文元〜貞亨04)
- 河北弥左衛門 (寛文〜)
- 松原八郎左衛門 (寛文〜)
- 郡 勘三郎正成 (承応03.〜天和元.10)
- 大島甚兵衛 (寛文10〜天和02.09.05)
定免制
それまで税率は作柄により変動していたが、利常はこれを改め税率を固定した。これを「定免制」と称する。これにより余剰生産分は農民の手に残るようになった。しかし、定免制の計算の基本になっている数値は元々改革後に達成されるであろう高い収穫量を前提に計算されたものであった。明暦2年に作成された「百石入用図」によれば、標準収穫量100石の土地の場合、農民の食料、肥料、農具代、種籾としての保留分といった必要経費が71.8石必要とされている。100石に対する税は40石であり合計で11.8石の不足となるのだが、農業改革により標準を12.5石上回る収穫が達成されており、無事に年貢を徴収できたばかりか農民の手元に余剰分が残ったと記されている
前田利常(加賀藩第2代藩主:1594〜1658)
加賀藩祖前田利家の四男、母は側室の寿福院。幼名は猿千代、犬千代。初名は利光。寛永16年(1639年)に子の前田光高に家督を譲り47歳で隠居する。治水や農政事業(十村制、改作法)などを行い、次男の前田利次に富山藩を、3男の前田利治に大聖寺藩を与える。正保4年(1645年)には光高が死去し、前田綱紀が藩主に就任すると、自ら小松に20万石を養老領として藩政を補佐する。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
【古文書分類番号001 草岡神社奉賛会所蔵】
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