新開仮証文(古明神村)   嘉永元年(1848)


    (原文:翻刻テキスト)

       覚
     千弐百歩程 射水郡古明神村領
              字又兵衛開畑新開
           (ただし)当申年 五ケ年目子年(ねどし) 開詰
     右場所 新開承届候条 年季中(ねんきちゅう)
     毛附(けつけ)至出来候分 毎歳 断出
     圖免(つもりめん)を似 可納所(なしくださる)候 年季満候ハ、
     検地極高可申付 若 期年ニ
     相當 不開詰 年限相延置候者(そうらは)
     至毛附置候分共 見込場所不残
     可取揚依 (しかる)仮證文(かりしょうもん)相渡候条
     追而(おって) 本證文(ほんしょうもん)(あずかり)取替申也

      嘉永元年十月 安田新兵衛 (印)
                上月四郎左衛門 (印)
                鈴木清之丞 (印)
                崎田達之助
                河合清左衛門 (印)
                木村権三郎 (印)
                高畠栲大夫 (印)
                松平良之助
                平野安左衛門
                矢部唯之助 (印)

                       古明神村百姓
                       七右衛門
                       次郎八
                       善四郎


新開願い書:古文書分類番号3
古文書 法量 横95.0p 縦32.5p



【意 訳】竹脇敬一郎
 覚(1200坪の開墾の仮契約書)
千二百歩程(歩=1坪)、射水郡古明神村領字又兵衛畑新開。
 ただし本年申(さる)年より五箇年目にあたる子(ね)年まで開き終える。右場所の新開願いを届けたので年季中に 色付けを致し、出来たものについては毎年願い出て、見積もりをもって税を納めるように。年季が満ちたならば 検地をして高を申し付けるが、もし五年間の間に開墾できず、期間を延長するようなことがある場合は色付けし た分とともに見込み場所を残らず 取り上げる。
 よって仮証文を渡すが追って本証文を取り替えることとする。 嘉永元年10月(1848.10)  双方署名捺印

【解 説】
 村方から新開願いが出されると、改作奉行が審査し、条件が叶えば許可される。その歳出されたのがこの証文(覚)で、冒頭に記され ている開発地の面積が概算(1200坪)となっているのはそのためである。年限内に開発できれば、検地の上本証文交付、 できなければ取り上げるという条件であった。幕末になると、実際には本証文は交付されず、この仮証文がその機能を果たした。今、村 方に証文が残っているのはそのためである。
 新開では初年・二年度の収穫を全く作人の作徳とし、内検地極高を定めた上、三年、四年目は図免(つもりめん)(税)の半額を、五年目から図免全額を藩 に納めることとし、新開をなさんとする者は居村、他村問はず開拓する地があれば郡の新田裁許に出願し改作奉行の許可を受けることができた。



 文書の人物の役柄と在任期間
    加越能近世史研究必携覚(田川捷一編著)より
    射水市文化財審議委員 荒木菊男調べ

  • 安田新兵衛
     改作奉行(御郡方専務) (天保05.10.20〜天保06.02.08)印
     改作奉行(御郡方専務) (天保08.01.17〜         )
     改作奉行 (天保10.01.18〜嘉永05.04.28)

  • 上月四郎左衛門
     改作奉行 (天保10.01.18〜嘉永05.12.28)印

  • 鈴木清之丞
     改作奉行(改作方専務) (天保09.01.13〜 )印
     改作奉行(改作方専務) (天保10.01.18〜嘉永04.01.晦)

  • 崎田達之助
     改作奉行(御郡方専務) (天保07.12.16〜 )
     改作奉行(射水郡主附) ( 〜天保08.09.04)
     改作奉行(改作方専務) (天保08.09.04〜 )
     改作奉行 (天保10.01.18〜嘉永05.12.27)

  • 河合清左衛門
     改作奉行 (天保10.01.18〜嘉永05.12.14)印
     改作奉行 (嘉永07.09.10〜文久01.08.  )印

  • 木村権三郎
     改作奉行 (天保13.08.16〜嘉永07.09.10)印

  • 高畠猪大夫
     改作奉行 (弘化03.12.05〜嘉永05.04.28)印

  • 松平良之助
     *該当なし

  • 平野安左衛門
     改作奉行 (弘化05.01.29〜安政07.03.22)

  • 矢部唯之助
     改作奉行 (天保09.12.19〜嘉永01.11.29)印
*該当なしの松平良之助は、坂田良之助では?
 坂田良之助:改作奉行 (天保 9.12.19〜嘉永01.11.29)

改作法(かいさくほう)とは、慶安4年 - 明暦2年(1651年-1656年)に加賀藩5代藩主前田綱紀の後見をしていた前田利常(第3代藩主)が実施した農政改革。貧農の救済と年貢納入の徹底を定めた。利常は改作法の施行を徹底させるため農政に専念する改作奉行を設けた。  (ウィキペディアより)


古明神村・村の三役とその役割について
肝煎(きもいり)
組合頭(くみあいがしら)
長百姓(おとなひゃくしょう)(百姓惣代)




村年貢 納入の義務がある最小単位。藩からの種々の命令などは、改作奉行か郡奉行を経て十村に届き、十村からそれぞれの村に届いた。

寄合い 村民の総意を決定する場である。毎年正月に寄合いを行い、それ以外は折りにふれ集まった。寄合いでは、村御印を床の間に飾り、お神酒な どを供え、一礼してから話し合いを始めた。それは、藩からの伝達を徹底させる機会でもあり、 明治6年の旧高台帳(第14大区小1区の):草岡神社奉賛会所蔵 また、村毎のきまりえを決める場でもあり、御印の前で決めるということに絶対的な権威を求めた。そのきまりは、村用人足賃の定めや、入会地の用益など、共同体としてのきまりを内容とするものであった。村の経理も、こうした機会に決定され、百姓達の負担額がここで決められた。

村方二日読 延宝6(1678)年、前田綱紀は、農民の生活心得を書いた「村方二日読(むらかたふつかよみ)」を出した。これは、毎年2度、村肝煎が村民たちに読み聞かせ、これによって農民の生活を取締まり、決まった年貢を確実に出納させるためのものでした。これにより、家の間取りや、衣装、食べ物(「雑穀類を食べ、米をみだりに食べてはならない」等)、娯楽に関して、ことごとく規制した。一般農民は、奥行き二間、ひさし一間の平屋より大きい建物を建ててはならず、食べ物についても、正月と冠婚葬祭だけが、米を自由に食べてよい日になっていた。お寺参りでさえ、制限されていた。

元禄13年(1700)の米相場、加賀藩では米俵1俵(5斗詰)の値段、小判2両(銀8貫=8000文)1石10斗

小判1両 銀1分(50〜60匁) 1文銭(4000文=4貫)
三貨制度

草岡神社奉賛会所蔵
明治8年地引絵図|惣歩数3万48石2歩



加賀藩102万石の組織と役職名

御家老役
    嘉永元年(1848)時の御家老役名
  1. 今枝内記易良   (任期 1840〜1863)
  2. 前田万之助知故 (任期 1836〜1859)

神社奉行
    嘉永元年(1848)時の神社奉行名
  1. 松平監物康永 (任期 1845〜1849)

工事場奉行
    嘉永元年(1848)時の工事奉行名
  1. 永原求馬孝敬 (任期 1848〜1844)
  2. 大音帯刀厚義 (任期 1846〜1851)
  3. 奥野主馬助氏 (任期 1842〜1848)
  4. 伊藤主馬正延 (任期 1841〜1849)

御算用場(おさにょうば)奉行 加賀藩の会計を統括する役所を御算用場(御算用聞)といい、そこの長を御算用場奉行という。加賀藩独特の役職であり、藩の収納・会計 関係の主要役所がその中に附設されています。この御算用場奉行の下に御算用場横目という、いわゆる会計監査役にあたる者と、実務を 取り仕切る御算用者小頭がおり、実務をする者が御算用者である。米主体の江戸時代にあっては、農村を取り仕切る役所の頂点は、ここ であったわけである。
    嘉永元年(1848)時の御算用場奉行名
  1. 遠藤数馬高環   (任期 1837〜1853)
  2. 坂田往来康敬   (任期 1842〜1850)
  3. 原五郎左衛門善 (任期 1844〜1852)
  4. 水原清五郎保延 (任期 1847〜1854)

郡奉行 一般的には守護代の支配を受けて郡単位で支配した代官を郡代・郡奉行と呼んでいたが、守護代そのものを郡代・郡奉行と呼ぶ場合もある。

 ●嘉永元年(1848)時の砺波射水御郡奉行名
  1. 井口孝左衛門   (任期 1843〜1853)
  2. 石黒次郎左衛門 (任期 1848〜1853)
 ●嘉永元年(1848)時の高岡町奉行名
  1. 由比忠左衛門   (任期 1837〜1850)
  2. 小堀金五右衛門 (任期 1842〜1853)
 ●射水郡における主な百姓一揆

元和6年(1620) 高岡 誅求 騒動
正徳2年(1712) 射水郡 凶作減免 強訴
正徳5年(1715) 放生津 魚吟味人不正 越訴
天明元年(1781) 高岡町 米価高騰 打ちこし
天明7年(1787) 射水郡 米価高騰
(58.8〜167.9↑)
不穏
安政5年(1858) 放生津 米価高騰
(117.2〜146.5↑)
打ちこし

 ●江戸時代の公定相場(強制力なし)〜大阪米市場

慶長14年(1609) 小判1両 銀50匁(4000文)
銀1匁=80文銭
25文/米1升
元禄13年(1700) 小判1両 銀60匁(4000文)
銀1匁=66文銭
80文/米1升
天保14年(1843) 小判1両 銀72匁(6040文)
銀1匁=84文銭
150文/米1升
注)元禄13年(1700)の米相場、加賀藩では米俵1俵(5斗詰)の値段、小判2両(銀8貫=8000文)



改作奉行 生産面の支配を担当。
    嘉永元年(1848)時の改作奉行名
  1. 安田新兵衛    (任期 1839〜1852) 新開審査 (印)
  2. 上月四郎左衛門 (任期 1839〜1852) 新開審査 (印)
  3. 鈴木清之丞    (任期 1839〜1851) 新開審査 (印)
  4. 崎田達之助    (任期 1839〜1852) 新開審査
  5. 河合清左衛門   (任期 1839〜1852) 新開審査 (印)
  6. 木村権三郎    (任期 1842〜1854) 新開審査
  7. 高畠猪大夫    (任期 1846〜1852) 新開審査 (印)
  8. 坂田良之助    (任期 1838〜1848)
  9. 平野安左衛門   (任期 1842〜1850) 新開審査 (印)
  10. 矢部唯之助    (任期 1848〜1860) 新開審査 (印)
  11. 奥村甚三郎    (任期 1848〜1854)


長百姓・百姓・頭振百姓・水呑百姓
下百姓・入百姓・頭振入百姓・町人百姓・悴百姓・徒百姓・走百姓

十 村  農政機構として慶長9(1609)年、侍代官を廃止し、十村を代官に任じました。そして一部の者に扶持を与え、鑓・馬の使用 あるいは苗字・帯刀の使用を許した。つまり十村とは、十ほどの(十とは限らない)村を管理監督する大庄屋兼代官のことである。  これにより、算用場−郡奉行−十村−村肝煎に一元系列化し、農村支配を強化した。


十村組  越中射水郡の十村組
下倉垣組(34カ村)、上倉垣組(31カ村)、大袋組(5カ村)、下東條組(36カ村)、上東條組(47カ村)、二上組(37カ村)、西條組(36カ村)、 南條組(34カ村)、上庄組(33カ村)、八代組(34カ村)

[下倉垣組]旧大白石組、文政4年倉垣組、天保10年下倉垣組と改名。
作道、石丸、久々湊、野村津幡江、殿村津幡江、東津幡江、堀上新、久々江、久々江新、高場新、片口、堀岡新、 堀岡又新、堀江新、古明神、明神新、新明神、中野新、浜開新、海老江、八嶋新、野寺新、穴場新、柳瀬、二十六町、下、三十三ケ、 針山新、針山新出、針山後新、中新、利波新、打出本江。
    嘉永元年(1848)時の越中射水郡・下倉垣組十村名
  1. 斉藤庄五郎 (任期 1837〜1856)
天保10年(1839)|射水郡一町五厘分間絵図
古明神村は下倉垣組に属す


五ヵ村組合 隣り合う五カ村をもって、五ヵ村組合をつくらせ、相互援助や相互監視をさせた。これは、五人組の考えを、村同志にまで拡大したもの である。


五人組 村には向こう3軒両隣を一組にする5人組があった。5人組が力を合わせて年貢を納めなければならず、一軒でも納められないと、残り の4軒で助けなければならない仕組みであった。また、5人組のうち、1軒でも逃散(ちょうさん)すると他の4軒が罰せられるという、 相互監視の体制でもあった。


【古文書分類番号003 草岡神社奉賛会所蔵】
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