前田長種の下知状((古明神村()
慶長2年(1597年)
・・・村立は中世までさかのぼる・・・
(古文書:翻刻テキスト)
當村退轉之
引網可ニ執立-
旨尤候、御納
所之事、當
年袮りあいの
並ニ相定候、
然者かり船之
由申候条、本船
主役等於ニ相
調-者、別ノ役
方在間敷者也
慶長弐 對馬守
三月甘五日 名種(花押)
海老江明神
新左衛門尉
下知状(
とは 将軍の命を奉じて家臣が発給した文書の一。裁判の判決や、
所領の譲与・安堵(あんど)などに用いられた。
【 上記意訳 】 慶長2年(1597)に越中守山城主、前田長種が海老江明神(古明神)の新左衛門に宛てた地曳網再興の下知状である。海老江明神の地曳網の網税は練合村並に定められた。現在の船は借り船であるが、自分の持船となって本船主役等を納めれば、他の役(税)の負担は無いことを通達している。「野上家文書」は古明神村の明神浜(浦)で1597年以前から地曳網が盛んに行われていたことから、古明神の村立は中世にさかのぼると考えられる。「地曳網一統を所有していおれば、田地100石持ちにに相当する」といわれるほど高い生産性があった。慶長9年(1604)10月頃には、古明神村から枝村の新明神村が分村したと伝えられている。古明神村草岡神社に祭られている事代主神(恵比寿)はいつ頃から祭られていたのか・・・大漁祈願!
前田長種(。 織田家直参の前田利家(1539〜1599)の娘婿(利家とまつの最初の子供・幸が嫁ぐ)。尾張前田城主となるが、1584年小牧長久手の戦に破れ、その後加賀を訪ねて利家に仕える。七尾城将、越中守山、富山、加賀小松城代を務め、石高は2万石。越中守山時代に、利家の側室の子供でのちの加賀藩三代藩主となる利常を預かって養育係となる。利家は、死ぬ前年の1598年に越中を訪ねて、初めて利常とまみえたとされる。1631年、死去。
【草岡神社奉賛会】
Copyright© Kiku tamio Office 2007
|
|