上賀茂神社 賀茂別雷(かもわけいかづち)神社社殿に祭る賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)


  上賀茂社は飛鳥後期の文武2年(698)に創建されたと続日本紀(しょくにほんき)に記されている。文武朝 にはすでに強大な神社となっていた。神祇令(じんぎりょう)(718)の最初に、天神地祇のうちの天神として、 伊勢についで「山城の鴨」が掲げられ伊勢につぐ崇拝を集めていた。現在の境内は16万坪におよび一の鳥居をくぐり二の鳥居までの間 に広大な土地が開ける。 祭神は越中国射水郡倉垣庄(神領)と縁の深い賀茂別雷神(かもわけいかづちじん) である。大山咋神(おおやまくいの)玉依姫命(たまよりひめ)とのあいだにでき た神で治水神・農業神として崇められ、神武天皇(初代)とは義兄弟にあたる。
 賀茂別雷神が、特にその神威を高めることになったのは、 第50代桓武天皇(即位:781-806)の平安遷都以後(794〜1185)のことで、新たに作られた平安京の守り神とされたことによる。賀茂社は、 元々京都全域の産土神であった。そのため平安遷都にあたって、そうした産土神に都の安全を保障してもらおうということで、鎮護神と して祀るようになったのである。

賀茂別雷神社権殿:写真は原色の日本美術提供
賀茂別雷神社権殿(仮殿)は舟肘木(ふなひじき)疎垂木(まばらたるき)
板壁には獅子と狛犬が描かれている(国宝)。


【菅原道真の怨霊】
 醍醐天皇の時代、皇室以外に菅原道真(学者)が政治の表舞台で権勢を振るったのは、長女を宇多天皇に嫁がせ、妹も宇多天皇の子・ 斉世親王に嫁がせていたことにほかならない。宇多天皇の新任がとても強かったことから、権力が中央に集中するのを恐れた醍醐天皇は 道真を太宰府に左遷させたた。・・・死後京の町では次々に異変が起きる。醍醐天皇の皇子が次々に病死。さらには朝議中の清涼殿が落 雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。これらが道真の祟りだと朝廷はおそれた。

【賀茂別雷神と厄除け】
 賀茂別雷神は皇都の守護神として崇敬され悪霊を防ぐ厄除け、開運の神として信仰されていた。賀茂別雷神の父が火之雷神 (ほのいかずちのかみ)であったこと等から雷神と怨霊(おんりょう)が結びつけられたと される。道真の罪を赦し、怨霊を沈めることで祭神とした。そして始めて人間が神になった道真。さらに100年異変が続いたと言う。その 度毎に菅原道真の祟りがささやかれたと言う。



賀茂社の祭神と天皇家の系譜
鵜葺草葺不合神
性別:♂
農業神
玉依姫命(妹)
性別:♀
水の神、聖母神

下賀茂神社祭神
大山咋神
性別:♂
山の神
初代・神武天皇(BC.660) 賀茂別雷神
性別:♂
治水神、農業神

上賀茂神社祭神
第50代・桓武天皇
794年 
平安京の鎮座真 
第56代・清和天皇
867年 
供御田寄進 
第59代・宇多天皇   
第60代・醍醐天皇   
第73代・堀河天皇
1090年 
供御田寄進 


  1. 第50代・桓武天皇(即位:AD. 781〜 806)山城国遷都(賀茂祭神鎮座)
  2. 第59代・宇多天皇(即位:AD. 887〜 897)菅原道真の娘嫁ぐ。中央集権。
  3. 第60代・醍醐天皇(即位:AD. 897〜 930) 宇多天皇の子。中央集権に反発。
  4. 賀茂別雷神・雷神と菅原道長の怨霊!

【草岡神社奉賛会】
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