村鑑(むらかがみ)帳 文政元年(1818年)  斉藤家文書  


    (古文書:村鑑帳翻刻テキスト)
    一、百石      古明神村
       内五石    宝永二年手上高
         八石     享保十九年同断
         五石     天明六年同断
         六石    文化十四年同断
       免三ツ六歩
          内弐ツ五歩三厘 明暦二年手上高
    一、四石 程  畑高
    一、壱石    肝煎 扶持米
       五十二軒  家数
       壱  艘   猟船
       壱  統   春網
       壱  統   夏網
       弐  統   曳網
       四  統   手繰曳網
       五  艘   開作舟
       三社     草岡、賀茂、恵比須
    〆 外八石三斗六升四合
                 文化五年四月再検地引高




【読み下し】

    一、百石     古明神村
       内五石   宝永二年手上高(てあげだか)
         八石   享保十九年同断(どうだん)
         五石   天明六年同断
         六石   文化十四年同断
       免三ツ六歩
           内、弐ツ五歩三厘 明暦二年手上高

    一、四石 程  畑高

    一、壱石    肝煎(きもいり) 扶持米(ふちまい)
     五十二軒  家数
     壱  (そう)   猟船 ・・・村別漁船データ(文政元年)
     壱  (とう)   春網
     壱  統   夏網
     弐  統   曳網
     四  統   手繰曳網
     五  艘   開作舟
     三社     草岡、賀茂、恵比須
    〆 外八石三斗六升四合

            文化五年四月再検地引高



【 意 訳 】
 村鑑帳とは江戸時代の村勢要覧。

  • 古明神村の全収穫高は100石である。
     その内訳は、宝永2年(1705)に新田開発により5石収穫高
      が増えた。
     右に同じく、享保19(1734)に5石収穫高が増えた。
     右に同じく、天明6年(1786)に8石収穫高が増えた。
     右に同じく、文化14年(1817)に6石収穫高が増えた。
  • 税率は36%で定納米は36石である。過去、明暦2年(1656)の収穫高に対する税率は25.3%であった。
  • 畑の収穫高はおよそ4石である。
  • 1石を、肝煎(きもいり)(庄屋、名主)に、扶持米(ふちまい)(給与した俸禄、一人1日玄米5合を標準とし、 1年分を米または金で給与)を納めている。
  • 家の数は52軒、人口は280人。
  • その外、猟船1艘、春網1統、秋網統、曳網2統、手繰曳網4統、開作舟5艘を所持している。
  • 古明神村の産土社は草岡、賀茂、恵比須の3社である。
  • 外、文化5年4月(1808)再検地で8石3斗6升4合引高が認められる。




◇村鑑帳から、古明神村の神社に草岡社と並んで加茂、恵比須の2社も併置されていたことが知り得る。
  1. 草岡社(大己貴命(おおむなちのみこと)
  2. 加茂社(玉依姫(たまよりひめ)
  3. 恵比須社(事代主命(ことしろぬしのみこと)
 草岡社・賀茂社は明確に示す史料として2枚の棟札があるが、恵比須社を示すものとして慶応2年(1866)の棟札は存在するが、当時(1818前後)のものは確認できない。

1、正殿棟札|文化8年(1811) 正殿棟札|文化8年(1811) 2、棟札 | 江戸末期(不詳) 棟札 | 江戸末期(不詳) 3、相殿棟礼 | 慶応2年(1866)
江戸末期の3枚の棟札
    加賀藩越中射水郡古明神村の世帯数(新湊市史より)
  1. 江戸初期(1604) 14軒
  2. 安永07年(1788) 28軒
  3. 文政01年(1818) 52軒(人口280人) ◎
  4. 天保04年(1833) 59軒
  5. 明治02年(1869) 久遠山乗善寺、射水郡大白石から移る。


【草岡神社奉賛会】
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