【神仏習合 本地仏・八幡神(神像3座)勧請】 飛鳥時代(680年) 薬師寺は、672年に起きた壬申の乱(皇位継承紛争)の戦いで生死をともにした天武天皇の皇后(後の持統天皇)の”病気平癒”を祈願し「薬師如来像」を安置するため創建された。都が平城京に移されこの地に遷り、伽藍整備は持統天皇(41代女帝)、文武天皇(42代)の代に引き継がれた。730年(奈良時代)に東塔が建てられている。 天武天皇(40代 即位前:大海人皇子)は出家した後に天皇になられたという珍しい経歴の持ち主であり、伊勢神宮の式年遷宮をお決めになっただけでなく、貴族の屋敷には仏像とお経を用意させるなど、神仏を敬うことを奨励されている。 金堂に祭られている薬師三尊は、応病与薬(おうびょうよやく)の法薬で、苦を抜き楽を与えて下さる有り難い抜苦与楽(ばっくよらく)の仏様です。この薬師寺を守護する八幡神は、南大門入り口の”休ケ岡八幡宮”に鎮座しています。 神社に詣で、身を清め、薬師三尊にお参りする神と仏を同一崇拝した、明治の神仏分離令以前の本地垂迹思想をみることができます。 神仏習合の歴史が始まります。 薬師寺休ケ岡八幡宮 現在、八幡神が鎮座している薬師寺 休ケ岡八幡宮社殿(上記写真)は、慶長8年(1603)の建物で、社殿は全体に西面し、本殿・脇殿とも小高い石積みの壇上に建っています。中世に始まった宮座が受け継がれている貴重な歴史文化遺産とされています。 本地垂迹思想 垂迹(出現) 仏が神になって現われる 遠く大分県宇佐八幡宮から薬師寺の守護神として、現在地に勧請し開創されたのは平安時代・寛平年間(889〜898)です。 寺の鎮守として八幡神社(鎮守社)を造る例は、東寺、東大寺、松尾大社、神護寺、にもあります。 八幡神は、今まで形のない日本の万の神々に対して、よりリアルな崇拝神として仏教と同じ”僧形”された八幡神像(下記写真)で表現されました。 ゆえに八幡大菩薩とも呼ばれます。素顔かたちは仏菩薩を色濃く残し、日本古来の神々の本身は仏教の仏にあるいう考え方です。 平安時代(9世紀末) 国宝:最古 京都 教王護国寺 僧形八幡神 坐像 平安時代(9世紀末) 国宝 大分宇佐八幡宮 僧形八幡神 坐像 平安時代後期(12世紀) 重文 大分杵築市 奈多宮 僧形八幡神 坐像 平安時代後期(12世紀) 重文 京都 松尾神社 男女神像 坐像 平安末〜鎌倉時代(10世紀) 重文 和歌山 熊野速玉大社 男女神 坐像 平安末〜鎌倉時代(10世紀) 重文 滋賀 小津神社 宇迦之御魂命像(左) 三重 稲生神社 男神像(右) 平安末〜鎌倉時代(10世紀) 重文 薬師寺休ケ岡八幡宮の板絵神像(垂迹画):鎌倉期 【 6面の障子に描かれた、22体の男女神像です 】
神に菩薩号をつけ経を読む! 神様それとも仏様! 邪馬台国東遷説にまつわり皇室の先祖として祭られている神、八幡神(宇佐八幡)は、実在性が濃厚な最古の大王(天皇)・第15代(在位270〜310年)応神天皇と神功皇后を付会し、”皇祖神”や”武 神”として各地の八幡宮に祭られています。応神天皇を誉田別尊(ほむたわけのみこと)とも称されています。 八幡神が史料に現れるのは奈良時代・天平9年(737)のことです。その直後、九州で藤原広嗣の反乱が起き、聖武天皇(45代 即位724〜749)が鎮圧を八幡神に祈ると、乱はまもなく治まりました。八幡神は、聖武天皇が発願した大仏の造像にも協力の意思を表わし、奈良に赴き大仏を礼拝します。 以後も八幡神は国や仏教と深い関係をもち、平安京の守護や寺院の鎮守として勧請されました。 Copyright© Kiku tamio Office 2010
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