風に吹かれて魏志倭人伝 末蘆国
maturokan History MUSEUM
2016.10.


 菊民夫2016.10.13
佐賀県立名護屋城博物館 1592年頃



 名護屋城跡:2016.10.13撮影 《Ⅰ 唐津市の概要 》
 古代都市 末盧国。 将来都市像「海と緑にかこまれたここちよい唐津」。
唐津市の人口125,6081人、行政面積487.48㎢、議員定数30。高齢化率29.1%、市職員数1,368人。予算規模一般会計、特別会計42,318,607千円当初予算69,212,063千円、議員報酬438,000円、政務活動費360,000円、事務局9人、玄海原子力発電所対策特別委員会を設置している。 福岡空港~唐津市まで高速で70分程度。

佐賀県立名護屋城博物館:2016.10.13  唐津市のまちづくりの6つの基本目標の一つの柱『歴史と文化が輝く観光のまちづくり』について、前日、「唐津市景観まちづくり条例」の重点地域でもある「鎮西町名護屋区域」見聞、「佐賀県立名護屋城博物館」で唐津市の近世の歴史と文化について学芸員から聞く。
 1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵時の名護屋城周辺に大名武家屋敷が配置され当時20万人の人口をかかえ繁栄していた。今回、我が市にも曳山があり唐津市の曳山に注視した。重点区域「城内地区・曳山通り景観まちづくり」を進めるにあたり住民説明会や景観まちづくり運営協議会等での助成制度も検討している。 片方で武家屋敷(城下町)、片方で商人の町として栄えた二面性が有り、朝鮮、中国との外交の拠点であり、朝鮮通信の歴史もあり立地としては申し分がない。 江戸期に商人で栄えた町並みは「曳山(唐津くんち:国指定重要無形文化財)」を引き継いだ心意気が現在まで引き継がれている。この地域を「曳山通り」とし、多くの課題を抱えているいるものも、昭和初期の建物の遺構をいかし、昭和の町並みの再生のための努力をしている。我が射水市は条例制定にも至っていない。又、伝統工芸の唐津焼も多くの窯元がある。
 唐津市景観まちづくり条例を見ますと(下記)

    一、これまでの景観の取組み
  • 平成16年度城内地区に高さ制限を導入
  • 平成16~20年度中町商店街のファサード整備
  • 平成26年度呉服町商店街「五福の縁結び通り」
  • ファサード・道路デザインの提言書作成など
唐津市役所:都市整備部 まちづくり課
    二、唐津市の施策
  1. 第2次唐津市総合計画
  2. 唐津市都市計画マスタープラン
  3. 唐津市の良好な景観の形成に関する基本方針
  4. 唐津市景観計画・唐津市景観まちづくり条例
  5. 城内まちづくり計画
     自然・歴史・文化を生かした景観等の整備
     市民協働による唐津らしい景観づくりの推進
    三、重点区域について
  • 呼子周辺エリア
  • 城内・周辺市街地・みなと城町エリア~名護屋城と町並み(曳山)
    [城内地区・曳山通り景観まちづくり 景観に関するルール(案) ]
  • いろは島周辺エリア
  • 松浦川沿岸エリア

唐津焼 名護屋城博物館:撮影2015.10.13 豊臣秀吉自画像 名護屋城博物館パンフ抜粋 朝鮮出兵時の両舟 名護屋城博物館:撮影2015.10.13
秀吉の朝鮮出兵の目的の一つであった焼き物(朝鮮の陶工たちによってもたらされた)
1592年4月には秀吉も着陣し、唐津にほど近い名護屋の城に留まり、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しんだ。




    参考資料 唐津市役所:撮影2015.10.14
  1. 唐津市:佐賀県立名護屋城博物館
  2. 唐津市:歴史博物館 末蘆館
  3. 唐津市:千々賀遺跡
  4. 神埼群:吉野ヶ里遺跡
  5. 佐賀市:佐賀県立博物館
  6. 式内社 草岡神社の公式サイト魏志倭人伝編
    (HP管理者:菊民夫)


【2】佐賀県唐津市 「歴史博物館 末蘆館」 の展示方法について。
    日本最古の稲作遺跡:菜畑遺跡(日本稲作発祥の地):常設展示
常設展示 末蘆館 2、那珂君休遺跡/稲作伝来第二幕・弥生中後期(平成28年度唐津の歴史文化規格)より抜粋
縄文晩期                   弥生中期・後期


【3】「魏志倭人伝」に記された、末蘆国とは!
 末蘆国、弥生中期・後期の那珂君休遺跡(水田跡・堤跡、ため池群)から「食料生産(稲)」と「クニ」を考える。
 末蘆国、弥生中期・後期の大型農具と水利施設による「稲作」遺跡郡から読み解く!
 末蘆国には当時、四千余戸の人々が住んでいた。食糧事情は!

 魏志倭人伝の中に邪馬台国に至る「クニ」の一つとして、「末蘆国」という記述があり、それより遡る2500~2600年前の縄文時代晩期に、大陸から伝わった稲作が日本で初めて行なわれた菜畑遺跡。稲穂をつみ取る石包丁・木のワク・エブリとともに小区(20~30㎡)の水田跡も発見されている。水稲、アワ・ソバ・ダイズ・ムギ等の五穀、メロン・ゴボウ、クリ・モモ等の果実も栽培していた。末蘆館に隣接して縄文の森を復元し、遺跡公園として市民、観光客に開放されている。日本最古の稲作遺跡:菜畑遺跡(日本稲作発祥の地)
   弥生後期には、伊都国を示す宇木汲田、桜馬場遺跡から銅剣・銅鏡が見つかっている。当時、四千余戸の人々が住んでいた。
   稲作伝来第二幕・弥生中後期(平成28年度唐津の歴史文化規格)より抜粋
よみがえる邪馬台国パンフレット
【原文】
『又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸濱 山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水 無深淺皆沈没取之』
『東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰 泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸丗有 王皆統属女王國 郡使往來常所駐』
『東南至奴國百里 官曰兒馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸』
『東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家』
『南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那 利可五萬餘戸』
『南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳醍 可七萬餘戸』
『自女王國以北 其戸数道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳』


三国史に見る倭国の群像にリンク

【古語訳】
又一海を渡ること千余里、末盧國⑤↓(佐賀県東松浦半島)に至る。四千余戸有り。
 山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。
 好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。

東南のかた陸行五百里にして、伊都國⑥↓(福岡県糸島郡前原町)に至る。
 官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。
 世王有るも皆女王國に統属す(邪馬台国)
 郡の使の往来して常に駐る所なり。

東南のかた奴國⑦↓(福岡市南方)に至ること百里。
 官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。

東行して不彌國⑧↓に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。

南のかた投馬國⑨↓(宮崎県妻町 比定)に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。

南、邪馬壱國(邪馬台國)⑩に至る。
 女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。
 次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。
 女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

地図情報:ネットより掲載 唐津市歴史博物館末蘆館にて:2016.10.14撮影末蘆館内の常設展示パネル

Ⅰ.
佐賀県唐津市
歴史博物館末蘆館
(末蘆国)


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