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nakoku History MUSEUM 2016.10
福岡県春日市 奴国の丘歴史資料館:ジオラマ「奴国王墓」 1899年(明治32年)発見
《Ⅰ 春日市の概要 》古代都市 奴国(なこく)。 将来都市像「住みよさ発見 市民都市かすが」。 春日市の人口112,727人、議員定数20人、平成28年度一般会計予算314億。行政面積、東西4キロメートル、南北5.34キロメートルのひし形に近い円形をしており、面積は14.15平方キロメートルで、福岡県内で一番面積の小さな市。福岡市の南側に隣接し、福岡市中心部まで10キロメートル圏内という地理的好条件に恵まれていいる。 コンパクトの街並みからは、国指定遺跡となっている「奴国の歴史と文化」を切り離すことはできない。 福岡県が推し進める「観光パスポート事業」や、全国の考古学フアンが多い中、北部北九州の「魏志倭人伝クニグニネットワーク」で全国から人(観光)が呼べるか興味深いものがある。 又、今後どんな仕掛けが必要となるか注視したい。 《Ⅱ 春日市の奴国の遺跡と、「街づくり」について!》 各条例からみる!
《Ⅲ 春日市における「奴国の丘歴史資料館」の展示方法と市民共同について!》 隣接する、奴国の丘歴史公園と岡本コミニテイセンター
奴国王墓と推定される王墓は1899年(明治32年)に偶然発見された。出土した多くの副葬品の中には、直径が20センチメートル以上もある大型の「中国鏡が3面」も含まれていました。これは、草葉文鏡(そうようもんきょう)と呼ばれ、中国でもあまり出土しない貴重な鏡です。小さな鏡が1つ発見されるだけでも大変なことなのですが、この王墓からは大変貴重な鏡が3枚も出土しました。このことから、埋葬された人物が極めて突出した権力の持ち主だったといえるでしょう。現在この墓は奴国王墓と推定されています。
発見当時、文化行政が整っていなかった明治という時代の中で多くが紛失した。確認された数は、中国鏡が30面前後、銅剣・銅矛・銅戈(どうか)といった青銅の武器が8口以上、ガラス璧、ガラスまが玉、ガラス管玉などの副葬品があったと推定されています。王墓の年代は、出土した鏡を基に推定すると、紀元前1世紀の終わり(弥生時代中期ごろ)と考えられます。これは、紀元57年に後漢の光武帝から金印を賜った奴国王の数世代前の王に当たります。春日には、今から約2,000年前に、奴国という強大な国家が存在していたことになります。 奴国の丘歴史資料館HPより掲載
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![]() 春日市奴国の丘歴史資料館 2016.10.14
【3】「魏志倭人伝」に記された、奴国とは! 魏志倭人伝の中に邪馬台国に至る「クニ」の一つとして、「奴国」という記述があり、春日の歴史をひも解くとき、最も華々しい光彩を放っていた時期が弥生時代(約2,500年前~紀元3世紀)といえるでしょう。そして、春日市の急激な人口増加は、現代に初めて起こったというわけではなさそうで、弥生時代の人口の拡大も爆発的なものがあったようです。弥生時代の初め頃は小規模な集落が点在する程度だった遺跡の分布が、中頃になると一変し、春日丘陵北半部のほぼ全域に隙間なく集落や墓地が広がっていきました。古代中国の史書『後漢書』に記される「奴国(なこく)」の中心地とするにふさわしく、須玖岡本遺跡をはじめ、全国的に著名な弥生遺跡が市域にはひしめいています。このような状況は弥生時代の終わりまで続き、市内の各所からは当時の宝物である青銅器やガラス製品が多く発見されています。また、それらを生産するための鋳型などが集中的に出土しており、この時代の春日が、日本全土で最も先進的な技術・文化を誇っていたことを物語っています。 当時、二萬餘戸の人々が住んでいた。 春日市奴国の丘歴史資料館HPより抜粋
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