風に吹かれて魏志倭人伝奴国
nakoku History MUSEUM 2016.10
福岡県春日市 奴国の丘歴史資料館:ジオラマ「奴国王墓」 1899年(明治32年)発見
《Ⅰ 春日市の概要 》
古代都市 奴国(なこく)。 将来都市像「住みよさ発見 市民都市かすが」。
春日市の人口112,727人、議員定数20人、平成28年度一般会計予算314億。行政面積、東西4キロメートル、南北5.34キロメートルのひし形に近い円形をしており、面積は14.15平方キロメートルで、福岡県内で一番面積の小さな市。福岡市の南側に隣接し、福岡市中心部まで10キロメートル圏内という地理的好条件に恵まれていいる。 コンパクトの街並みからは、国指定遺跡となっている「奴国の歴史と文化」を切り離すことはできない。
福岡県が推し進める「観光パスポート事業」や、全国の考古学フアンが多い中、北部北九州の「魏志倭人伝クニグニネットワーク」で全国から人(観光)が呼べるか興味深いものがある。
又、今後どんな仕掛けが必要となるか注視したい。
《Ⅱ 春日市の奴国の遺跡と、「街づくり」について!》
各条例からみる!
- 春日市環境基本条例
(平成11年7月1日条例第16号)
(目的)
第1条 この条例は、水と緑の恵みを受け、古代奴国の時代からの固有の歴史と文化を育むとともに、新たな施策にも先進的に取り組んできた「弥生の里」春日市において、先人から受け継いだ良好な環境を将来にわたって維持し、より豊かなものとしていくため、環境の保全及び創造に関する基本的事項を定めることにより、市の自然的社会的条件に応じた施策を総合的かつ計画的に推進し、もって環境への負荷の少ない健康で文化的な都市づくりを目指すことを目的とする。
- 春日市地区街づくり条例(平成16年3月31日規則第21号)
・目的:市民と行政との「協働によるまちづくり」を推進し、安全で快適な住みよい居住環境を有する市街地の形成に役立てるため、以下の事項について定めます。
・地区街づくり(地域における市民の発意と合意を基本とした住みよい街づくり)の推進
・地区計画など(地区計画に類似した制度の総称)の案の作成手続及び決定の申出
- 春日市地区街づくり構想等の合意の形成状況の検討に関する運用基準(春日市例規集)
- 春日市地区街づくりアドバイザー派遣要綱(春日市例規集)
- 春日市地区街づくり活動費助成要綱(春日市例規集)
《Ⅲ 春日市における「奴国の丘歴史資料館」の展示方法と市民共同について!》
隣接する、奴国の丘歴史公園と岡本コミニテイセンター
奴国王墓と推定される王墓は1899年(明治32年)に偶然発見された。出土した多くの副葬品の中には、直径が20センチメートル以上もある大型の「中国鏡が3面」も含まれていました。これは、草葉文鏡(そうようもんきょう)と呼ばれ、中国でもあまり出土しない貴重な鏡です。小さな鏡が1つ発見されるだけでも大変なことなのですが、この王墓からは大変貴重な鏡が3枚も出土しました。このことから、埋葬された人物が極めて突出した権力の持ち主だったといえるでしょう。現在この墓は奴国王墓と推定されています。
発見当時、文化行政が整っていなかった明治という時代の中で多くが紛失した。確認された数は、中国鏡が30面前後、銅剣・銅矛・銅戈(どうか)といった青銅の武器が8口以上、ガラス璧、ガラスまが玉、ガラス管玉などの副葬品があったと推定されています。王墓の年代は、出土した鏡を基に推定すると、紀元前1世紀の終わり(弥生時代中期ごろ)と考えられます。これは、紀元57年に後漢の光武帝から金印を賜った奴国王の数世代前の王に当たります。春日には、今から約2,000年前に、奴国という強大な国家が存在していたことになります。
奴国の丘歴史資料館HPより掲載
春日市奴国の丘歴史資料館 2016.10.14
参考資料
- 奴国の丘歴史資料館
- 奴国の丘歴史公園(奴国の森・遺跡の丘・王墓の上石・奴国の池・岡本コミニテイセンター)
- 須玖岡本遺跡(奴国の首都)~甕棺出土
- 須玖唐梨(すぐとうなし)遺跡~青銅製小型鏡(内行花文鏡)・銅鏡の鋳型が出土
- 石尺(こくしゃく)遺跡~竪穴住居跡、掘立柱建物跡(直径11㍍:56畳程)
- 駿河A遺跡~集落跡
- 式内社 草岡神社の公式サイト魏志倭人伝編
(HP管理者:菊民夫)
【3】「魏志倭人伝」に記された、奴国とは!
魏志倭人伝の中に邪馬台国に至る「クニ」の一つとして、「奴国」という記述があり、春日の歴史をひも解くとき、最も華々しい光彩を放っていた時期が弥生時代(約2,500年前~紀元3世紀)といえるでしょう。そして、春日市の急激な人口増加は、現代に初めて起こったというわけではなさそうで、弥生時代の人口の拡大も爆発的なものがあったようです。弥生時代の初め頃は小規模な集落が点在する程度だった遺跡の分布が、中頃になると一変し、春日丘陵北半部のほぼ全域に隙間なく集落や墓地が広がっていきました。古代中国の史書『後漢書』に記される「奴国(なこく)」の中心地とするにふさわしく、須玖岡本遺跡をはじめ、全国的に著名な弥生遺跡が市域にはひしめいています。このような状況は弥生時代の終わりまで続き、市内の各所からは当時の宝物である青銅器やガラス製品が多く発見されています。また、それらを生産するための鋳型などが集中的に出土しており、この時代の春日が、日本全土で最も先進的な技術・文化を誇っていたことを物語っています。 当時、二萬餘戸の人々が住んでいた。 春日市奴国の丘歴史資料館HPより抜粋
- 【魏志倭人伝 原文】
- 『又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸濱 山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水 無深淺皆沈没取之』
- 『東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰 泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸丗有 王皆統属女王國 郡使往來常所駐』
- 『東南至奴國百里 官曰兒馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸』 ●
- 『東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家』
- 『南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那 利可五萬餘戸』
- 『南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳醍 可七萬餘戸』
- 『自女王國以北 其戸数道里可得略載 其餘旁國遠絶不可得詳』
- 【魏志倭人伝 古語訳】
- 又一海を渡ること千余里、末盧國⑤↓(佐賀県東松浦半島)に至る。四千余戸有り。
山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。
好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
- 東南のかた陸行五百里にして、伊都國⑥↓(福岡県糸島郡前原町)に至る。
官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。
世王有るも皆女王國に統属す(邪馬台国)。
郡の使の往来して常に駐る所なり。
- 東南のかた奴國⑦↓(福岡市南方)に至ること百里。
官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。
- 東行して不彌國⑧↓に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離と日う。千余の家有り。
- 南のかた投馬國⑨↓(宮崎県妻町 比定)に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。
- 南、邪馬壱國(邪馬台國)⑩に至る。
女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り。
次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。
- 女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。
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