【 T 甘粛省の聖域敦煌 】 Dun Huang
敦煌へは上海から空路3000km、西安から1650kmの位置にある。紀元前2世紀、漢武帝は二度に渡り聖域に派遣し通路を切り
開らかれた敦厚は、政治でも軍事でも西北の障壁として2000年に渡り経済(交易)、文化交流の拠点とし西安からローマに続くシルクロ
ードの歴史がある。シルクロードを通して中国に輸入されたのは香料・漢方薬の材料・畜産品・ガラス・真珠や宝石・象牙・良馬・毛皮と
毛織物・綿等がある。中国から絹織物・茶・磁器・漆器・金銀の工芸品や鉄器・製紙の印刷技術等で、特に大口交易は絹織物(シルク)で
あった。現在人口18万人、年間降雨量40oの乾燥地帯で、おもな産業は@農牧A炭坑B絹織物等である。
●沙洲と呼ばれた敦煌に鳴砂山東端の断崖に開削された『莫高窟』
中国の石窟寺院は敦煌市の莫高窟(735窟)・西千仏洞(22窟)、安西県の楡林窟(42窟)・東千仏洞(7窟)、粛北県の五個廟(6窟)の五つがある。
特に中国西部甘粛省の小さな町、砂漠の中のオアシスに南北1,630mにわたって492の石窟、2,000体以上の塑像、延べ45,000の壁画、石窟の前に付属する建築物木造窟檐5座がある。北区には僧侶の修行・住居・埋葬などの場として使われた423窟がある。現存されるもので紀元前430年頃に開削された「北涼時代」のものが最も古い。
前泰建元2年(366年)に楽尊の開削以来「莫高窟」は北涼・北魏・西魏・北周・隋・唐・五代・宋・西夏・元などの10王朝を経たが長い歴史の中で自然や人為的な破壊がなされてきた。
1900年代から多くの調査隊が入り数多くの敦煌の至宝が海外に流失したが、今もなお敦煌石窟は『砂漠の大画廊』として一千年にわたる人類の信仰を集めている。1944年に敦煌芸術研究所が設立され管理されている。1987年敦煌莫高窟は世界遺産に登録された。学芸員の説明により10窟を2時間かけて見る。
莫高窟(上)・毛織物ジュウタン(下) 2005.10.21
莫高窟九層楼、第96窟(北大像と呼ばれ高さ34.5mの大仏が座っている)
空を飛ぶ、夢は敦煌にあり
- 歴史的建造物
- 世界遺産、莫高窟(492の石窟)
- 鳴砂山と月牙泉
- 陽関(唐詩に読まれた関所)
- 玉門関(漢朝の西端にあった関所)
- 白馬塔(4世紀末、高僧・鳩摩羅什の白馬の塔。直径7m、高さ12m)
- 西千仏洞(北魏と唐の壁画が残る16の石窟)
- 敦煌古城遺跡(日中合作の映画敦煌の実物大セット)
- 敦煌博物館(莫高窟の第17窟で発見された経典を記した巻物・書画)
●鳴砂山と砂漠に浮かぶ月牙泉
敦煌の南約5kmに東西約40km、南北20kmにわたる広大な砂の峰(鳴砂山)が続く。5色の砂、赤・
黄・緑・白・黒の粒が細かく、砂山を滑り降りると地響きのような音をたてる。乾燥した大地、澄み切った
青空、太陽のおりなす光と陰のコントラスト、風のささやきに心を奪われる。ラクダに乗り隊商の姿を目に
浮かべる。トルフアンまでの道のりを何日かけて旅をしたのだろうか。ラクダの背に絹織物・茶・磁器・漆
器・金銀の工芸品を積み、目の前に天山山脈がせまる。南回路にはタクラマカン砂漠が延々と続く。
敦煌の2文字は「敦は大である。煌は聖域の門戸を広く開いたので、盛名を使用した。」と故事ある。
起点の長安(西安)から河西回廊を通って敦煌まで行くと南北の2本の道に分かれる。北道の「玉門間」を
出て車師前王庭を経て中央アジア、西アジアからロ−マ(羅馬)に入るル−ト。西側の「陽関」を出て南道
を沿って楼蘭を経てロ−マに入るル−ト(7,000km)の拠点として国際貿易・文化交流の都市として
シルク文化が花開いた。2,000年来の歴史の風雨にさらされながら未だに光り輝く敦煌、本当にあこが
れるな。
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