風に吹かれて国境の島 対馬
tusima History MUSEUM
2015.10.


《 対馬市の概要 》
Ⅰ 国境の島 対馬 2015.10.撮影  対馬市は、島内の6町(厳原町・美津島町・豊玉町・峰町・上県町・上対馬町)が平成16年に合併し、現在(H.27.4.)の人口32,765人、世帯数15,252、面積は射水市の7弱の709.01㎢。その国土の89%が、200m~300mの錐だった山がそびえる。場所によっては高さ100mの断崖絶壁もあり、リアス式海岸は絶好の漁場である。対馬中央部の浅芽湾の大小の入り江は壱岐対馬国定公園に指定される風向明媚な所で、国の天然記念物 「ツシマヤマネコ」 や野鳥の観察地として野生生物の保護・調査研究が行なわれている。


 1、古事記と三国志「魏志倭人伝」の世界

古代の神々の物語!神が宿る島!対馬!

 古事記に「国生みと神生み」の項で、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)がまず産んだ八つの国土。大八島国(オオヤシマクニ)~淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州である。こうして国ができたので、続いて神々を生んだ。海の神・河口の神・風の神・木の神・山の神・野の神たちである。
 3世紀末の対馬(和の国)、三国志の魏志倭人伝には「土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(キンロク)の径(ケイ)の如し。良田無く、海物を食して自活し舟に乗りて南北に市糴(シテキ)す。」と記述され、島の厳しい地形の影響を受けながらも、大陸との交易を図り、独自の歴史や文化と共に「ツシマヤマネコ」をはじめとする野生動植物をも現代に引き継いでいる。神の国、対馬の自然保護における『対馬市環境基本条例』の制定経過について聞いた。


対馬中央部の浅芽湾 海神神社(峰町/豊玉毘命) 和多津美神社(豊玉町/豊玉毘命・山幸彦)




 2、『 対馬博物館構想 』~対馬歴史海道博物館(仮称)

 平成30年迄に巖原町で、未来志向型の歴史文化観光拠点 「対馬博物館構想」の事業化を進めている。長崎方式と呼ばれる公共施設(博物館)の建設は、展示設計・設計事務所・施工業者の3社JV方式で入札されると聞いている。 事業概要は、歴史文化遺産の体験と、日韓交流・交易の歴史であり、対馬の古代大陸との遣隋使・遣唐使・「朝鮮通信使」の海道の歴史でもある。対馬と大陸(朝鮮:釜山)との距離50㎞、対馬と壱岐との距離75㎞。対馬は大陸により近い存在であり。古代において、縄文、弥生期から3世紀の卑弥呼の時代を経て、邪馬台国に発展。中央集権国家をめざす大和王権(古墳時代)、そして飛鳥・奈良時代の律令国家へ。中国の正史に出てくる魏志倭人伝、3世紀に、この対馬國において村立てがなされ交易が行なわれていた。
 国境の島、対馬防衛隊と国際交流事業について日韓交流の拠点 対馬博物館構想について聞く。

  1. 対馬歴史海道博物館(仮称) 1~3統合展示


豊玉町郷土館 豊玉町郷土館 豊玉町郷土館 豊玉町郷土館




 3、古事記から学、大和王権への道

 古事記 「海幸彦(兄のホデリの命)・山幸彦(弟のホオリの命)と海神の宮」 竜宮伝説の項

豊玉町の和多津美神社  弟のホオリは途方に暮れ海辺で嘆き悲しんでいると、シオツチノの神が通りかかり、小船で潮路のままに行くと「綿津見神の宮」に桂の木があり、その上に登っていると、海神の娘「豊玉毘命」が現われ一目惚れをする。娘は宮殿の海神(父:大綿津見神)に報告し、結納品を積み上げ、タイやヒラメの踊りも添え婚儀となった。豊玉毘命はオホリの子を身ごもるが、本来の姿に還って出産したいと言い、出産の私をごらんあそばしますなとと言ったが、オホリは出産の最中を見てしまった。八尋もあるワニにの姿に仰天した、豊玉毘命は見られた事の恥ず 希少在来馬/対州馬 かしさから綿津見神の宮にお帰りになった。生まれた御子の名を「天津日高(アマツヒダカ)」といい、その後、豊玉毘命の妹「玉依姫命」を妻としてむかえ、その子供四柱の一人が神武天皇(神倭伊波礼毘古命)となる・・・神話の世界、大和王権への道へ!

峰町の海神神社  居心地の良いまま3年の月日が過ぎたある日、ふと故郷を思い出したオホリは父の海神に、兄の鍼(ハリ)に関することを語った。海神は婿殿の話を聞きとめ、タイの喉に刺さった鍼(ハリ)をオホリに返した。海神は、オホリを生国に送り届けるため、一尋ワニに命じた。オホリは海神の教えに従い、兄のホデリは弟が富むほど口惜しくもねたましく、なんども襲いかかったがついに降参し頭を垂れてあやまった。「これより先、夜昼を問わず、おん身の守護の役目を勤めて、お仕え奉る」、それ故、兄のホリデの子孫の「隼人」は、今の世にいたるまで、宮門の守護にあたっている。又、時のは宮裏にて、舞楽を演ずる。その舞は、塩盈珠(シオミツタマ)によって溺れたときの、さまざまな仕種を伝えた。これが「隼人舞」である。(古事記の現代解釈)


豊玉姫
海神(大綿津見神)の娘「豊玉毘命」を祀る
    古事記・魏志倭人伝~草岡神社公式サイトより(菊民夫)
  1. 古事記(原文)にみる大国主命
  2. 古事記に見る纒向と大和王権
  3. 三国志にみる倭国の群像
  4. 神社の神々
  5. 対馬市延喜式内社29社 (参考資料)

ツシマヤマネコ(70~100頭/生存確認)
国指定天然記念物・国内希少野生動植物種:ツシマヤマネコ
「環境省対馬野生生物保護センター:10万年前のベンガルヤマネコの亜種の保護活動」




 4、国境の島 友好と平和の朝鮮通信使に学ぶ国際交流

 <朝鮮通信使とは> 室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。朝鮮通信使のそもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。
 15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されている。しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断された。その後、江戸時代に再開された。広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。
 「朝鮮通信使」という表現は研究者によって造作された学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。(ウイキペデイフリー百科より抜粋)

  1. 朝鮮通信使の歴史
    • 足利義満 室町期朝鮮通信使履歴(3回)
    • 豊臣秀吉 朝鮮通信使履歴(2回)
    • 江戸期朝鮮通信使履歴(12回)
  1. 遣隋使・遣唐使の派遣
    • 遣隋使の派遣(607~614年)
    • 遣唐使の派遣(630年第より5回)
      「このような歴史を見て来ると、大和朝廷は、自らの過去を否定した国書を作ったことが想像出来る。古事記(712年)や日本書紀(720年)には、今、日本を支配しているのは朝鮮半島からの移住者ではなく、高天が原から天下りした神々の子孫であると断言し、朝廷(天武天皇)の強力な支配体制の確立により、朝廷の意図した意識改革(聖徳太子の”篤く三宝を敬え”式の仏教興隆政策を改め、仏に代えて神の概念を樹立し、天照大神を天上界の最高の神に祭りあげ、日本を統一する天皇の権利は天照大神から授かったものとして、歴代の天皇はその神の血統に連なるのもである)を進め、創作は神話に昇華したようだ。」と歴史学者が語る。

ホテルから歩いて10分、厳原港国際ターミナルへ 文化8年(1811):朝鮮通信使幕府接遇の地 対馬歴史民族資料館 前の広場(巖原町国分)
対馬はハングル文字であふれている。釜山(韓国人)から年間20万人余りの観光客が

対馬市の国際交流(国際航路利用者)


福岡空港~対馬空港へ:14時50分発 柳屋ホテル前の川端通り(厳原町の風情) 役所で紹介された厳原町・えぶりい倶楽部(あなごの刺身が名産)
対馬市 厳原町の風景(内川とよく似た風情):人口の割に飲食店60軒あまりと多い


対馬の文化財
対馬の文化財


対馬市からの資料提供 2015.10.14
  • 当市からの調査事項の回答(議会事務局)
  • 行政視察依頼書
  • 対馬市のしごと(平成27年度予算)
  • 広報つしま(9月号)
  • 対馬の国際交流(対馬市 総合政策部 観光交流商工課)
  • 仮称 対馬歴史海道博物館(対馬市教育委員会)
  • 対馬市黒瀬観音堂(対馬市美津町の指定文化財)
  • 峰町の文化財(対馬市教育委員会)
  • ツシマヤマネコと共生する地域社会づくり(環境省九州環境事務所)
  • 対馬市環境基本計画
  • 対馬市環境基本条例
  • そうだ対馬へ行こう(対馬観光ガイドブック)
  • その他、現地調査


Ⅰ.
日本 対馬市
Ⅱ.
大韓民国 釜山


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