yosinogari History MUSEUM 2016.10. 復元された「主祭殿」:吉野ヶ里の政を司る最重要施設(高さ16.5㍍) 魏志倭人伝の時代と重なる吉野ヶ里遺跡 観光資源としての吉野ヶ里遺跡を観る! 「佐賀県神埼市」と「神埼郡吉野ヶ里町」にまたがる丘陵地帯にあり、2000年(紀元3世紀頃)の歴史を紐解く。 弥生時代後期には40㌶を超す国内最大規模の「環濠集落」として発展。遺跡の整備と保存は、平成3年5月に特別史跡に指定され、翌年4月から「国営吉野ヶ里歴史公園」として整備保存がなされている。 現在、国営公園約52.8㌶、県立公園44.3㌶を合わせて97.1㌶の史跡公園として年間60万人の入館がある。 吉野ヶ里遺跡は弥生時代の巨大遺跡。南北1km以上、甲子園の10倍となる約40ヘクタールの土地から、周囲を二重の堀で囲まれた大環濠集落や王族の墳丘墓、約3千もの甕棺(かめかん、昔の棺)が見つかっている。また、高さ12mの物見やぐら跡があり、傷を受け首がない人骨や鉄の矢じりも出ており、文献に残る邪馬台国のように戦争していたことが分かる。 『魏志倭人伝』の邪馬台国に類似した大型遺構(主祭殿・物見櫓・東祭殿・祀堂・高床倉庫・竪穴建物~王の妻の家・煮炊屋)や遺物が次々と発見され復元されている。 神埼市の人口32,089、世帯数11,569、議員定数20人(H28.9.30)。大化の改新以降、神埼市の平野部では、人々に一定の土地を割り与える班田制が施行され、この遺構としての条里制の坪名が今も残り、奈良時代に大宰府政庁へと続いた「西海道」の官道跡も残っている歴史と文化の町である。 ○「北墳丘墓(きたふんきゅうぼ)」 北墳丘墓の規模は南北約40m、東西約27m以上で長方形に近い形で、すっぽり外観を鉄筋コンクリートの構造物で覆い、墳丘墓のままの姿形で保存し、内部は発掘時の本物の遺構と甕棺(かめかん)が見られるように、遺構面を保護するために、地面に触れる部分は30cm以上の盛土を行なったうえ、八角形の平面形状を持つお椀をひっくり返したような、基礎のない特殊な構造で遺構展示空間を確保しています。 内部の北墳丘墓は、黒色土を1.2mに盛った上に幾層にも様々な土を突き固めた版築(はんちく)技法で築かれています。内部の現存高2.5mですが元来4.5m以上の高さを持った墓であった可能性があると考えられています。 これまでの調査で、弥生時代中期前半から中頃にかけての14基の大型成人甕棺が墳丘内から発掘されています。このうち、8基の甕棺からは、把頭飾付き有柄(ゆうへい)細形銅剣や中細形銅剣を含む銅剣8本やガラス製管玉79個など、被葬者の身分を示すと考えられる貴重な副葬品が出土しています。また、埋葬されていたのは成人だけであったため、おそらく特定の身分、それも歴代の首長および祭事をつかさどる身分の人の墓ではないかと思われます。 本物の遺構を露出展示するために、ポリシロキサン系樹脂を遺構麺に撒布し、ヒビ、カビ、コケの発生を防いでいます。また遺構面の湿度を80%に保つために専用の空調も整備されています。 吉野ヶ里遺跡発掘調査HPより ○甕棺墓 甕棺墓(紀元前200年頃、弥生時代中期) 弥生時代の北部九州の墓制には支石墓、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓、甕棺墓などがある。中でも大型の甕を棺として利用する甕棺墓は、北部九州に特有の墓制であり、縄文時代晩期の壷棺葬にその起源を求めることが出来る。 甕棺墓は、弥生時代前期末に棺専用としての甕が作られ始めてからは、中期以降爆発的に増加し、100基以上密集して集団墓を形成する場合が多い。しかし弥生時代後期から衰退し、末期にはなくなった。 丹塗り土器も見つかっている。(魔除け・悪魔払い) ○丹の検証 魏志倭人伝(原文)から見る興味深い弥生人の生活習慣! 赤色「朱(しゅ)」や「丹(に)」について!
魏志倭人伝に見る比定又は伝承地(北九州) ●魏志倭人伝に見る比定又は伝承地(北九州)
●佐賀県、吉野ヶ里遺跡について。 弥生時代:魏志倭人伝との関係!
弥生後期には40㌶を超す環濠集落ができていた。 97.1㌶の吉野ヶ里遺跡(平成3年5月に特別史跡:「国営吉野ヶ里歴史公園」)
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