まずこの肖像画を見ていただきたい。
挑発的な眼差し、ほとんど丸出しのおっぱい
そして何よりも、人類最古の職業の象徴とされる「花の髪飾り」、普通に考えれば
これは娼婦の肖像である。
しかし、今日の学説ではこの肖像画は間違いなくこの当時のまた音楽史においても
最も優れたカンタータの作曲者の一人として知られるバルバラ・ストロッツィ
(1619−1677)の二十歳ごろの姿なのである。
偉大なカンタータの作曲家が副業で娼婦だったのだろうか。
わが国でも風俗嬢の漫画家、小説家、エッセイストはいるしHPを持っている人は
ざらのようである。(あんまり詳しくないので・・・・)
しかしカンタータの作曲は失礼だがその程度の教養で済む問題でない。
今書きながら聴いているのは、ストロッツィのArdo in tacito focoだが
キャサリン・ボットの歌もすばらしいが、なんとこまやかで美しい切々とした歌
なのだろう。こんなすばらしい曲の作曲家がどうして、というところだが
実はその説明はかなり難しいのである。
ストロッツィは1619年にヴェネツィアに生まれた。
母はイザベラ・グリエーガだが父は洗礼記録では「不明」なのである。
でも実ははっきりしていた、父はオペラ劇場の支配人ジュリオ・ストロッツィ
なのである。ジュリオは当時のヴェネツィアのオペラのそして文化活動の大立者
だった。イザベラはそのジュリオの使用人。つまりバルバラはジュリオの使用人との間の不義の子であった。したがってすぐ養子にしたのだが、実子とはしなかった。
良心的なようでもあるし、勝手なようでもある。
しかし、ジュリオはバルバラを大切に扱った、子供のころから徹底した教育を行い
何不自由なく育てた。バルバラの才能も当然早くからジュリオの認めるところであ
って最良の先生の下に理想的な教育を施したのである。
その面では良き父であったのである。
蝶よ花よと育てられる一方で、私生児的な負い目もあったのであるから
この抜群の才能、教養と容姿を兼ね備えた女性は大変気位の高い人であったのだろう。
ジュリオはヴェネツィアの文化の担い手でもあったから、その自宅で「調和のアカデミ
ー」という一種の文化サロンを開催していた。
そこには作曲家のほか詩人、哲学者、政治家、聖職者など各界の第一線で活躍する文化
人が集まった。その中にはモンテヴェルディもいたのである。
こうしたサロンは女性はまず入れなかったのであるが、父の尽力のおかげで早くから
バルバラは「調和のアカデミー」に参加し演奏活動も行った。
そればかりか、アカデミーの討論の議題の設定から、なんと議論する人の指名までして
いたのである。つまりこの最高の教養人の集うサロンの「女主人」だったのである。
バルバラの男勝りの知性と、圧倒的な才能は賞賛も呼んだが、世の常というか
陰湿な中傷を浴びせられることにもなったのである。
女性に対する嫉妬はたいてい性的な色合いを帯びるものである。
「実を結ばないのは単にその方法のせいか、それとも不毛−カストラート−のせいか」
等ともっぱら下半身ネタの攻撃がバルバラに加えられたのである。
それにもめげず82曲のアリアとカンタータ、14曲の宗教曲、マドリガーレ29曲
を作曲したバルバラの才能と根性はたいしたものである。
「想像される中傷の嵐から黄金の樫の木の下で身を守るためには、女性の作として
思い切って公表したこの最初の作品を最も高貴なる妃殿下に慎んで献呈しなければ
なりません」(作品一のトスカーナ大公妃への献呈)
「性に対する同情を受けないのと同様に、もはや女性の無力さにも拘束されないので
貴女に敬意を表するために、いまこそ私はつつましいこの譜面に乗って飛び立つのです
」(作品五のインスブルックのアンナ大公妃への献呈)
バルバラの一生は女性に対する陰湿な差別と、彼女の負けん気の戦いであった。
でも、後ろ盾となって彼女を支えてくれていたジュリオが死ぬと、バルバラの立場
は急激に厳しいものとなってゆく。ジュリオはその当時葬式代すらも出せないくら
い困窮していたことも事実だが、彼女が宮廷に服属する作曲家としてでなく、社会
的に独立した作曲家として創作活動しようとしたことも、彼女には逆風だった。
曲を出版してもやがてどこの宮廷も有力者も取り上げてはくれなくなったのである。
したがって作曲家としての活動は停滞していったが、最後の最後までバルバラは
「闘う女」でありつづけた。バルバラは作曲家としては活動を停止していてもその
一方でなんと貴族相手の「高利貸し」を営んでいたのである。
ヴェネツィア銀行に2400ドゥーカという結構な預金もあったそうだから、
天才イコール薄幸などという男の天才にありがちなひ弱さと違いなんと逞しいの
だろう。
それで、
彼女は「娼婦」だったのだろうか。
この当時の娼婦のうち「高級娼婦」はコルティジャーナとよばれ「宮廷女」を意味
した。最高の教養と高い音楽的技量を兼ね備え、教養人のお相手ができたのである。
で、当時は貴族は財産の拡散を防ぐため子息一人に結婚させ、後は未婚にしたの
である。この未婚の貴族の「おぼっちゃま」たちのために、高級娼婦が必要だった
のである。
バルバラは生涯未婚だったのだが、ヴェネツィアの貴族ヴィドマン家の子息「たち」
との間に四人の子供ができた。そのうちの三人は(ラウラ、ピエトロ、マッシモ)は
それぞれ父親が違うようである。
あの肖像画を見ながらやっぱり考えてしまうのである・・・・・・・
(小林 緑編著「女性作曲家列伝」平凡社選書を参考にさせていただきました。)
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さて、バルバラのカンタータはどれも魅惑的でなんとも深い情念に満たされている。
特にラメントといわれる歌のやるせなくて耽美的な魅力は筆舌に尽くしがたい。
エクスタシーという言葉がやっぱり出てきてしまうのだ。
でもその影には四度下降するバッソ・オスティナート等、手練手管・・・失礼、
周到な深い技法がものをいっているのである。
ボットが絶唱を繰り広げる。
A Portrait of Barbara Strozzi CATLTON 30366 00412
ほかに
アンサンブル・インカンタータの演奏
BARBARA STROZZI ARIE,CANTATE & LAMENTI CPO 999 533-2
本記事もMidnight Classicsからの転載です。詳しくはリンク集参照。