ブライアン
交響曲 第1番 「ゴシック」

オンドレイ・レナルト指揮
CSR交響楽団・スロヴァキアフィルハーモニック


【ブライアン 交響曲 第1番 「ゴシック」】
 最近はコンサートでもマーラー、ブルックナーと長大な交響曲が好まれる傾向があ
る。それでは、ギネスブックに登録されている、世界最長(?)の交響曲とは何だろ
う。現在のところ、それはこのハヴァーガル・ブライアンの交響曲第一番「ゴシック」
なのである。(とライナーノートに書いてあるが、ギネスブックの最新版で確認した
わけではないので悪しからず)
まあそういうこととして、話を進めよう。
マルコポーロから出ているCDでは全曲およそ111分30秒である。
マーラーの三番も長いが、バーンスタインがウィーンフィルを指揮したもので約106
分でわずかに及ばない。
やはりクラシックファンとしては、なんとしてもギネスブックに載っている曲くらいは
押さえておきたい所である。
もっとも作曲者のブライアンも1972年になんと96歳で亡くなっているのだから、
本人も交響曲と同じくらい長大な人生を歩んだ人である。
今回は世界最長の交響曲にふさわしく、解題も長くなりそうである。
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ブライアンが生まれたのは1876年(スタンフォードシャー)でヴォーン・ウィリア
ムスやホルストとほぼ同年代ということになる。もっともイギリスの作曲家の多くが良
家の生まれで、ケンブリッジやロンドンの王立音楽大学出というケースなのに対し、ブ
ライアンはいわゆる労働者階級の家庭の出身である。
正規の教育はこの階級の子供の常だったらしいが12までしか受けていない。
その後材木会社に就職し、大工の見習いとして炭鉱で働いたのである。
何かこの当時のブルーカラーの典型のような人生のスタートだが、ここから階級社会の
イギリスで作曲家としてのキャリアを築いていったブライアンの努力と艱難辛苦は大変
なものだったようである。
16の歳から80年間彼は作曲家としての志を貫き通した。
そうしたブライアンにとって交響曲の作曲は自分の作曲家としてのキャリアのまさに
記念碑的存在だったのに違いないのである。この111分という大交響曲はそうした
ブライアンの熱い思いの総決算としての大きさになったのだろう。
交響曲第一番を作曲したとき彼はすでに50であったが、それからなんと32番まで
の交響曲を作曲したのもいかに長寿だったとはいえ、驚くべき創作力である。
これくらいのエネルギーがないと、十分な音楽教育も学歴もなしに、作曲家として後
世に名を残すことは難しいのかもしれない。
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しかし彼の創作した膨大な交響曲群の中で、現在にいたるまで
もっとも有名なのもこの畢生の大作第一交響曲「ゴシック」なのである。
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「ゴシック」とは何だろう。誰でも思い浮かべるのは、高い尖塔をいくつも立てた
大聖堂のイメージである。建築史的には「ゴシック様式」として知られるものである。
ゴシック様式は1150年から1550年の長きにわたるヨーロッパの建築様式である
が、同時にそれは壮大で輝かしく同時に一種の魔性を秘めた人間精神史でもある。
ゴシックの複雑かつ精緻で強大な爆発力を内蔵した建築は、一方において神聖な存在
に対する敬意と畏怖に満たされているが、多面において人間の理性と行為によりどれだ
け空間を埋め尽くし、自然を支配することができるかというバベルの塔的な欲望の所産
でもある。ブライアンがこの交響曲で意図したこともまたそこにあるのである。
神聖と人間理性の相克としてのゴシック様式で大交響曲を築き上げることが彼の壮大な
ビジョンであった。
その際彼が交響曲のいわば支柱として設定したのがゲーテの「ファウスト」と宗教典礼
音楽としての「テ・デウム」であった。
隠された知識と理性に対する飽くなき探求者(典型的なゴシック時代の人間像)
としてのファウストとテ・デウムを一つの交響曲の中で結合しようとしたのである。
もちろんテ・デウムは音楽としてのゴシック様式ともいうべきルネッサンス期の数学的
精緻さを持っていた対位法により作り上げられた宗教典礼音楽であり、また当然ゴシッ
ク様式の大聖堂で歌われていたであろう典礼曲としてのイメージも重ねられているので
ある。(もっとも古来からのこの曲の公的性格つまり戦勝記念としての意味もないとは
いえないが)
しかし、そうした作曲者の意図の背景にあったものも考える必要がある。
これが作曲されたのはちょうど第一次大戦の直後である。
当時の一般の芸術家の感情として、莫大な損害をもたらした「総力戦」がまさにヨーロ
ッパ近代精神の集大成として認識されたことに注意する必要がある。
ブライアンの「ゴシック」にしばしば登場する金管楽器の爆発が、一面において近代の
巨大さと凶暴さを象徴していることは明らかである。そうした近代への疑惑と宗教的回
帰による救済。
この壮大な叙事詩的交響曲はブライアンの時代に対するメッセージでもあるのである。
(よしんばそれが、相当疑わしい理想主義的解決であったとしても、その時代の多くの
芸術家の切実な希望でもあったのだ)
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これだけの曲であるから、その規模もシェーンベルクの最大規模の作品に匹敵する。
拡大された弦楽器群に、二つの大きなダブルコーラス(約200人)、17人の打楽器
32人の木管、2人のティンパニ、2人のハープ、オルガン、チェレスタ。
ホルン2トランペット2トロンボーン2テューバ2ティンパニ1の構成のバンダが4。
四人の声楽ソリスト。これで採算をとるのは難しいので演奏会で聞くことは不可能に近
い。でも生で聞いたらどれだけ凄いものだろう。
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さて、肝心の音楽であるが、サー・マイケル・ティペットのいわゆる「ハイブリッド様
式」の最も過激な例、として知られている。
中世の対位法の静謐さから、後期ロマン派風の甘味さ、現代音楽的凶暴さのごった煮と
もいうべきものである。一種の素人作曲家としてのブライアンが懸命に勉強し取り入れ
てきた、様々の作曲家へのオマージュでもある。
(もっともこのときブライアンはマーラーについては殆ど知らなかった。)
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全体は
1Allegro assai
2Lento espressivo e solenne
3Vivace
4Allegro moderato(Te deum Laudamus)
5Adagio molto solenne e religioso
(Judex)
6Moderato e molto sostenuto
 (Te ergo quaesumus)
の六楽章からなる。
それぞれの長さは凡そ
13:50,13:20,13:30,19:00,14:30,38:00
(CDのトラックの集計を暗算でやったのでちょっと合わないけど、大体の感じは
わかると思います)
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第一楽章はファウストの情景が描かれる。全体的にもっとも初期のシェーンベルクや
リヒャルト・シュトラウス、ブルックナーに近い雰囲気を持っているところである。
きわめてエネルギッシュで、グロテスクな迫力のある主題と、ナイーヴで抒情的な主題
が対比される。こうしたコントラスト、相克を軸として音楽を作り上げてゆくのは
ブライアンの特徴である。きわめて精緻なオーケストレーションにより、さながら
映画でも見ているように、美しく壮大な絵巻物が展開される。
最後は冒頭のエネルギッシュな雰囲気に戻り豪快な終結となる。
第二楽章はテューバの付点リズムに導かれる、重苦しい行進曲。人間の欲望に引きずり
回らされる人間の行進のようにも聞こえる。暗く激しく発展してゆく。
第一楽章冒頭のティンパニの強打も聞こえる。この壮大で悲惨な行進曲をありったけの
オーケストラのエネルギーで描いてゆく。昔見た「ベンハー」とかハリウッド超大作
映画の雰囲気。聴き応えあり。
第三楽章なんとなくシベリウスっぽい出だし。暗く不吉な律動が続く。
小太鼓の機械的なリズム。幻想的なフルート。憧れに満ちた主題はやがて凶暴な
オーケストラの渦に飲み込まれてゆく。(トラック11以降)
小太鼓の機械的リズムの復活。ここで描かれるのは端的に「戦争」であろう。
ショスタコーヴィチの最も暴力的な描写に匹敵する迫力。
そして全ての終結がある種の平穏さでもどってきたとき、初めて女声合唱の
Te deum laudamusが始まる。(第四楽章)テ・デウムにつきものの
金管のファンファーレの喜ばしさ。合唱がそれこそ大聖堂に何重にも掛け渡された
ファッサードのように絡み合って響き始める。輝かしく、天上的なコーラスは祈り
のような静謐さから、雄大な流れとなって第五楽章に続いてゆく。2CDへ
judex crederis esse venturs「審判者としていつかやってこられると信じます」
は四つの聖歌隊が四つのバンダを伴う複雑なポリフォニー
で、しばしば激しい不協和をともない、声部は二十以上に分かれる。
当初はアカペラなのでリゲティ風の響きにもなる。一番前衛的瞬間。その中をソプラノ
が天女の舞みたいに漂ってゆくと金管のファンファーレとなり脅かすように強圧的な
オーケストラと合唱のせめぎ合いとなる。五楽章はこの一行のみを扱う。
長大なクライマックス。
最終楽章。他の楽章が連続的なのに比し、完全な独立性を持つ。

「主よ、私たちを憐れんでください」
「主よ、私たちがあなたを御頼りしたとおり、私たちの上にあなたの御憐れみを
おいてください」「主よ、私たちはあなたを御たよりしました、それで私たちは
永遠に空しく終わることはないでしょう」

salvum fac populumの厳粛さも美しいが、合唱が光の奔流のように縺れ合い絡み
合いながら上へ上へと壮大に発展してゆく様子は積乱雲を下から見上げるような
迫力がある。また女声合唱が多くその透明な響きも聴きものである。
どんな時でも響きの澄明さが失われないのは、ブライアンの腕の冴えだろう。
クラリネットのいくぶん不気味な行進曲の後、
バリトンが粛々と上記の歌詞を歌い上げ女声合唱がゆったりとそれを受け止める
と、最終部分となる。(17トラック)
凶暴なティンパにが再び帰ってくる。(18トラック)合唱がそれを押さえ込む
ように介入した後、きわめて荘重なファンファーレとともに長く引き伸ばされた
ヴァイオリンに導かれチェロが美しく歌い、それが静まると合唱が低く最後の一節
を万感の思いを込めるように繰り返しこの壮大な曲を閉じる。
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と、いうのがこの世界一長い交響曲のあらましである。
百読は一聴にしかず、なので是非聞いてほしい曲である。
MARCO POLO 8.223280−281

追伸
この記事はメールマガジン「Midnight Classics」の記事を転載したものである。
Midnight Classicsについてはリンク集参照