1990年3月1日

カップラーメンを食べ、廃村、そして廃港の北港に向けて出発する。まずは近くの商店で、昼食のジュースとパンを買う。この商店は島に3軒しかない店の一つであった。店内はもう冷房が入っていた。

母島で人が住んでいるのは沖村だけだ。しかも300人。「みゆき」の前には、小学校、中学校が一緒になった小中学校があっる。あと役場があってそれでオシマイ。観光地だというのに、食べるところも、お土産屋も何もない。それが母島の良い所かもしれない。俗化されていない点では父島以上だ。

北港のある北村は、45年以上昔に無人の廃墟と化したはず。それなのに沖村から、9kmくらいの舗装道路が整備されている。一体誰がこの道を走るのだろうか?。私達以外の人々でこの道を通る人はいなかった。

他にする事が無いので、道路を整備したのだろうか?。ここは東京都だから予算はたっぷりあるのだろう。税金の無駄遣いだと強く感じた。道路は整備されているが周りはジャングル。そして、タコの木だとか、パパイヤの木だとかが沢山生えている。父島以上に南国情緒を感じる。この景色を見ただけでは、ここが日本だとは信じられない。

北港のある北村。戦前は、沖村と並び、66世帯が住む島の中心地だった。しかし、戦争の強制疎開で無人になった。小笠原復帰以降、沖村には人々が帰ってきたが、ここには廃村となった。と、いう訳で港は現在、使われていない。

目指す北港は目の前にあった。開けた湾に桟橋の残骸があって、かつてここが港だった事がよく判った。無人の湾に、小さな波がトップ、トップと打ち寄せるだけで、あたりは静けさに包まれていた。現在、北港は絶好の釣り場らしい。泳いだりするには向かない。それでも、歩いてきて暑かったので、桟橋の残骸から海に飛び込んだ。潜ってみても大したこともなかったが、亡霊に足を引っ張られそうな雰囲気を感じたのですぐに陸にあがった。

北村が廃村になったのも、北港が廃止されたのも、全て戦争の為だ。母島のような離島に住んでいた人を、本土に疎開させ、そして戦後23年もたって、
「小笠原に帰ってもいいよ。」
と言われたって、本土に生活の基盤を作ってしまった人達が、今更、どうして小笠原に帰れるのだろうか。北村は廃村になって、それを痛切に感じるが、父島にしても、戦前の繁栄は取り返せないらしい。
「仕事が無いから、やたらに工事して仕事を作っているんだよ。」
先程、車に乗せてくれた人が言っていた言葉が、現在の小笠原の問題点を全て語っているような気がする。
何もない北港だが、ここも工事中で、港跡の前にベンチなどを作っていた。一体だれが利用するのだろうか?

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