●富岡製糸場

・2008年8月3日作成
訪れた日 2008年7月21日
 

「上州富岡駅」の待合室は広く。少々もてあまし気味であった。駅前は、他の上信電鉄沿線と比べれば生活感があるが活性化されているとは言いがたい。案内に従って歩いてゆくと大きな駐車場に出くわした。さらに奥に進むとレンガ造りの古い建物が現れる。1987年(昭和62年)に操業をやめた古い工場だが、「世界遺産暫定リスト」と書かれた幟が目立ち、観光客も多かった。これが、日本初の器械製糸工場である富岡製糸場である。

製糸工場にまつわる歴史といえば、「あゝ野麦峠」、「女工哀史」で書かれているように、日本が近代化を押し進めた明治から昭和初期にかけての過酷な労働の歴史でもある。農村から売られるように出てきた女工達が過酷な労働の末、結核、自殺、衰弱死という犠牲があったという。「野麦峠」は岐阜の農村から、長野県諏訪に出稼ぎに来た女工達が帰省の時に超えた峠の名前でもある。私は「あゝ野麦峠」しか読んだ事が無いが、働いて、お金を実家に仕送って家族を支えている話に感銘を受けた。確かに過酷ではあっただろうが、女衒に売られ遊郭などで働かされた人よりはマシだったのかもしれないとも感じた。

工場内はレンガ造りで歴史を感じる。繭倉庫、事務棟、首長館等の主要建築物が操業当初の頃のままの状態で保存されており、一部は室内も見る事が出来る。工場内には自動織機がズラリと並んでいて圧巻であった。ちなみに日産製との事である。時間が合えば説明員の解説も聞けるのだが、電車の時間に制約があったので、今回は解説版を見ながら廻るに留まった。解説が聞けたら、女工の歴史も聞けたかもしれない。

女工の悲しい歴史は、日本では昔の話である。しかし、隣の国である中国では今でも同じような歴史が展開されている。工場で働く女工は農村戸籍の娘であり、低賃金で働かされ、それでも仕送りはしている。それ以上稼ごうとすれば、夜の街で働くしかない。最近、中国出張が多いので、女工哀史のような話が昔の話では無い事を実感している。そんな暗い気持ちで工場を見ていたのだが、後で調べると、ここは週休1日の8時間労働制で、女工哀史のような暗い歴史とは無縁との事である。

上州富岡駅で電車を待つ。街を支えていた製糸産業が廃れてしまった今、この街は世界遺産登録に全てを賭けているような気がした。世界遺産に登録されて、観光客が増えれば、廃れる一方の上州電鉄も少しは活性化し、広い待合室も活用される日が来るかもしれない。

公園の入口のような工場跡
昔から使われている煙突
まるで古い学校の校舎のようだ
木造家屋が残っているのは奇跡に近い
自動織機がズラリ
上州富岡駅は大きな駅だが人は疎ら
入線してきたオリジナル車輌


http://www2s.biglobe.ne.jp/~kurume/my_hp.gif (6911 バイト)


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