「あひる銀行が危ないんだって」的なバス車内での他愛のない会話が、実際に取り付け騒ぎに発展したのは昔あった話。 公共の場での不用意な発言がおおごとになる可能性は、多くの人がわかっているでしょう。 しかしながら、Internetの世界が公共の場であることは、多くの人が忘れてしまうようです。 同様にネットニュースも公共の場であることに、変わりはありません。 ネットニュース上でいいかげんな気持ちで書いた記事が、大きな話になっていくことがあります。 「たかだかネットニュース上なのに」。 はたして、その通りなのでしょうか。
例えば、隣の人とのひそひそ話、電話ででの噂話、これらはあくまで個人的な範囲でのコミュニケーションと言えます。 このような範囲ならば、いいかげんな話をして嘘を言ったとしても、社会的に問題となる可能性は低いでしょう。 その相手と仲が悪くなるだけです。 ところが駅の掲示板ぐらいだとどうでしょうか。 話題に真実味があれば、話が広まっていく可能性は往々にしてあるでしょう。 これがテレビ番組だったりすれば、大問題となることは容易に想像できます。
ではネットニュースはどの程度の位置づけになるのでしょうか。 Internetのコミュニケーション全体に言えることですが、生身の人間を前にしていないため、その影響の希薄さ、無機質さを感じてしまいます。 しかしながらInternetは自分のすぐ外側が全世界です。 ネットニュースも国内のみならず、全世界に配信されています。 つまりネットニュースは駅の掲示板程度ともいえつつ、一歩先は全世界ともいえるわけです。
このような社会で、一度いいかげんな発言をすれば、その影響はとどまるところを知りません。 下手をすれば、全世界から非難が集中し、その対応に一苦労ということにもなりかねません。 「そんなつもりでなかったのに」という言葉が、すでに後悔となってしまうこともあるかも知れません。 このようなことにならないためにも、自分の投稿する記事の内容には、ある程度の確実性が必要となります。 そして内容が明らかに誤っていた場合、それを指摘された場合には、それを認め、訂正したり、また自分の意見がある場合には反論したりする必要があります。
このように根拠を持ち、必要な際に非を認めるような、一連の行動原理をさして、「記事に責任を持つ」と呼びます。 何をもって「責任」とするかは、人それぞれ違うところですが、fj.*においておおざっぱにいえば、「適当な事を書いて逃げるようなことをしない」というところでしょう。 このような適当な記事を「便所の落書き」と呼ぶ人もいます。
ところで、今は投稿する側の責任について考えてみました。 読む側には存在しないのでしょうか。 上で書いたことが、そのまま読む側にも当てはまります。 つまり自分が見ている記事は、「誰かが何の責任を取る気がなく書いたもの」である可能性があるということです。 誰かが悪意を持って嘘を書いているかも知れません。 読む側としてはその記事が「便所の落書き」である可能性を、常に考えていなければならないということです。これは「読む側の責任」とも言えます。 書かれているものをそのまま鵜呑みにする前に、一瞬考えてみる必要があるということです。
90年代中頃、Internet社会の急成長に追いつけない一部の人々が、ネットの中を virtualな世界と勘違いして暴走していたこともありました。 その人々の中には、しっかりと現実社会の法により裁かれた人もいます。 21世紀に入り、最近ではInternet社会の実社会度も認識が広まり、気楽な気持ちで暴走する人は減ってきましたが、それでも少なからず存在するようです。 暴走する側にも、それに引っかかる側にもならないために、双方の「責任」について意識する必要があると言えます。