破壊神話外伝 現実の戦場2

 

「恐ろしい敢でした………」
 メタトロンとの対決から帰って来たシーラの素直な感想であった。
 市本は黙ってディスプレイを見つめた姿勢を崩していない。
「お前と未崎が、ジョヴァンニとか言う奴とやり合ったのが昨夜。この命令が発動されたのが5分前。敵が政治的圧力をこの国にかけるには、時間が早過ぎる…」
 市本は、ディスプレイを見たままの姿勢で、誰に言うともなく呟いた。
「………つまり、そいつは半分で外部から政治的圧力の手配を行ないながら、半分でお前と未崎の攻撃から逃げて見せたと言う訳だ」
 市本は椅子から立ち上がって、トンファーのショルダーホルスターを棚から取り出して身に付けた。
「内閣調査室から緊急暗殺指令が発動された。一週間以内に未崎一美を暗殺しろとね。ワザワザ俺を指名して来るとは……、俺と未崎の関係にも気づいていると言う訳だな」
 市本は、戸口で振り返った。
 シーラとナラカ、レイナが緊張した面持ちで、彼の命令を待っている。
「俺はこれから6日ばかり行方不明になる。シーラとナラカは、未崎に訳を説明して、6日以内に、エノクとやらの残り半分を捜し出せ。師匠は俺の影に入って待機。俺は連絡があるまで、個人行動を取らせて貰う。7日目には、俺は未崎を殺す為に動く。必要とあれば、俺の命令権限を利用して、公爵共を使っても構わない」
 市本の言葉に、素早くレイナは、彼の影に同化した。
「………っと…」
 一旦は出て行きかけた市本だったが、思い出したように振り返って言った。
「ナラカ」
「はい」
 市本に呼ばれて、ナラカは振り向いた。
「テュートを呼び戻して事務所の番をさせろ」
「はい。…和也様はどちらへ?」
 市本は、彼を除くその場に居る全員が寒気を感じるような邪悪で傲慢な笑みを浮かべて言った。
「同じ所に居るとは思えないが、残り半分のエノクに逢って来る」
 市本の言葉に、シーラがハッとして彼の方を見たが、既に市本の姿はそこには居なかった。
 市本が消えた出入り口を見ながらシーラはナラカに言った。
「凄く機嫌が悪かったの………、気づいた?」
 シーラの問い掛けに、ナラカは黙って頷いた。

 

  MISSION.1

(機嫌が悪そうだな)
 影の中からレイナが市本に尋ねた。
「神に限りなく近い存在だとしても、たかが民族神程度の神に近い程度の相手に踊らされるのが厭なだけだ」
 市本は周囲に目を配りながら呟くように言った。
「しかし…、何だぁ?? この白いのの数は…。普通の人間には視えないと分かってるんで、少しノボせてんぢゃねーのか?」
 聖イグナチオ教会へ近づくにつれて、数が増えて来る天使の事である。
 昨日の襲撃が、予め予測された出来事であったのに対して、今回の市本の来訪は、予定外なのだ。況して、市本は影の中にレイナを潜ませているのである。
 教会の建物を前にして、市本は立ち止まった。普通の人間には、全く視えない筈の結界なのだが、市本にはハッキリと視えている。
「向こう側は聖別された世界になっているようだ。多少の魔力の制限は発生するだろうが、師匠には問題あるまい」
(それで、私を連れて来た訳だな)
 市本が同行する悪魔をレイナに決めたのは、彼女が魔術が不得意であり、体術専門だからである。尤も、彼女はシーラやナラカと違い、事務所を離れて行動する場合は、市本から五百メートル以内で行動せねば、実体化エネルギーの補給が出釆ない。それも、市本が彼女を同行者として選んだ理由である。
 市本は、何もない空間の一箇所を摘むような仕種をして、それを一気に下げる仕捷をした。口で「ぢーっ」と言う。
(趣味の悪い結界破りだな)
 レイナが市本の影の中で呟いた。
「ギャグの一つも飛ばさないと、今回は何処も面白い所はないからな」
(訳の解からんことを言う奴だ)
 まるで、パントマイムをしているかのように、市本は、空間を広げてそれをまたぎ越した。一度開いた空間を、チャックを閉めるように閉じるのも忘れない。
(芸の細かい奴………)
 レイナが呆れた口調で言う。
「放っとけ」
 市本は苦笑気味に言った。

 

  MISSION.2

 シーラとナラカの訪問を受け、シーラから事情の説明を受けた未崎は、カクンと口を開いて呟いた。
「冗談だろ………」
 この場合の彼の驚きは、市本に自分の暗殺が依頼された事ではなく、メタトロンが半身で彼等の相手をしていた事に対しての驚きである。
 未崎は、彼女達の為に、ウーロン茶をコップに注ぎながら、シーラに尋ねた。
「で、大将は、何処に行ったんだい?」
「おそらくは、聖イグナチオ教会。もう半分のエノクに逢いに行きました」
 シーラは未崎の手元を見ながら答えた。
 未崎の手元が止まり、細かく震え姶める。
「大将の悪い癖だ。楽しい事は一人締めってかよ……。俺だって、あの野郎に頭下げさせたいっつーのに………」
 未崎の呟きを聞いて、ナラカが言った。
「そんなに楽しい事でもないと思いますよ」
「なんで…?」
「凄く機嫌が悪そうでしたから」
「で…?」
「たぶん、私達の尻拭いのつもりなんじゃないですか?」
 未崎は、びしぃッ!! と、ナラカを指差して言った。
「君はあの大将の性質をまだ理解していない」
「そぉですか?」
 首をかしげるナラカの前で、未崎は両手の拳を握り締めて言った。
「あの人の基本性質は………」
『楽しければ全て良し!』
 未崎とシーラの声が見事にハモッた。
 未崎は、ハンガーに掛けてある上着を掴んで、シーラ達を見て言った。
「俺も行くぞ」
 ナラカが上目使いに未崎を見て言う。
「昨夜の今日で、エノクとやり合うだけの精神力、回復してるんですか?」
 ぴぴくぅッ。
 未崎の顔が引きつった。
 図星である。
 今の未崎に大技を連発するだけの精神力は残されていない。巴と静も今日はおとなしい。
 昨夜の闘いの疲れが残っているのだ。
「今日はゆっくり休んで、明日から残りのエノクを探す方に精神力を費やした方が、余程合理的ぢゃありませんか?」
 シーラの言動には、かなり感情が見え隠れしている事が多いのだが、ナラカは、状況を冷静に把握するタイプのようであった。
「出て行く事を止めるつもりはありませんが、今の状態で戦うと言う事は、和也様の足を引っ張る結果を導きかねません。私達がここに来たのは、和也様の行動の後方援護の為です。貴方の戦いに協力する為ではありません」
 ここまで言い込められる未崎と言うのも珍しい。ナラカの言う事全てが正しいだけに、未崎には反論の余地が全くないのだ。
「昨夜の戦いで疲労して、決定打となる魔法を使用出来ない貴方は、貴方の護鬼の援護があったとしても、今の私にさえも勝つ事は難しいでしょう」
 ナラカの言葉のナックルコンボに、未崎は、KO直前であった。
「ナラカ、貴女は昨夜の敵がどんなタイプなのかを知らないようだから、言って置くけど、アレは、和也さんの神経を逆撫でする話術が得意な相手なの。タダでさえ機嫌の悪い和也さんが、キレたら………貴女に責任が持てるかどうか、良く考えてみる事ね☆」
 シーラが未崎に助け舟を出した。
「………東京消滅の可能性がありますね。最悪の場合は、四大神を開放してしまうかも知れませんね……」
 シーラは頷いて話を続けた。
「レイナにそれが止められると思う?」
 シーラの言葉に、ナラカは少し考えて言った。
「…行くべきかも知れませんね。いくらレイナが和也様の師匠でも、所詮は主従関係。格が違い過ぎますからね……」
 未崎は思わず、手を叩いて喜んだ。
「シーラさん、エライッ!! そーなれば、刻は金なり! で急いだ方がイイだろ」
「お待ちなさい」
 玄関に向かいかけた未崎をシーラが制した。
「ナラカは、創造のエキスパートです。空間と空間を繋ぐ程度の作業なら、私より彼女の方が得意としています。彼女に任せて下さい」
 シーラに言われて未崎はナラカを見た。
「今の格言の使い方に間違いはありませんが、正確には、時は金なりが正しいと思われます」
 ナラカは平常ながらに言った。
「放っとけ」
 未崎は思わず呟いた。

 

  MISSION.3

「紹介状でもお持ちですか?」
 人間の姿をした天使が怪訝そうな面持ちで市本に尋ねた。
 普通の人間が、例え悪魔を連れていたとしても、ここへ来る事は不可能であるからだ。
「ジョヴァンニ=バッティスタに逢いたくて、市本和也がワザワザ足を運んでやったと伝えてくれないか」
 『市本和也』と言う単語に、ハッとしたように驚いた彼は、教会の中へと解け込んで行った。
(どうやら、まだ、この中に居るようだな)
「イイ度胸と言うべきだろうな。考えて見れば、未崎とシーラを歯牙にもかけない奴だ。それで正解とも言えるかも知れんな」
 暫くして、先程の天使が慌ただしく戻って来て言った。
「御案内致します」
 幾つかの階廊を回り、複雑な通路を案内されて通された部屋には、人畜無害を絵にしたような男と数十体の天使が待っていた。
「たかが一人の人間と一匹の悪魔を出迎えるのに、大層な歓迎だな…」
 周囲を軽く見渡しながら市本が呟く。
「いえいえ、我が主を脅すことの出来る人間を出迎えるには、これでも足りないくらいですよ」
 人畜無害が苦笑気味に言った。
「全て解かっているのなら、未崎から手を引いて欲しいモノだな」
 市本は正面の人畜無害に向かって言った。
「未崎が死ぬのが、今でなければならない理由など、特に無い筈だろう?」
 市本の言葉に、人畜無害は、静かに答えた。
「人の魂は、肉体と密接な関係にあります。肉体の最盛期に於ける魂の許容量は、最大であり、肉体の衰えと共に魂も萎んで行きます。未崎一美を私の計画の内で使用するには、今しかないのですよ」
「つまり――」
 市本は、言葉を切った。
「今の未崎の魂の許容量が、ヤハウェを超えていると解かった上での計画と言う訳か? 本人でさえ、完全に使いこなせていない能力を、お前なら使いこなせると言う訳だな?」
 市本の言葉にたじろぎもせずに、人畜無害は、穏やかに言った。
「キリスト教全盛期と違って、今は、信仰そのものが意味を失っています。我々がそれを正しい道へ導いてやらねばなりません」
 市本は、その台詞を聞いて、嘲笑的に笑った。
「本音で話せよ。信仰そのものが弱体化してしまって、今のヤハウェでは、ノアの大洪水を起こす神力すら残ってないと言う事を!! 未崎の力を利用した大浜水の後に、お前達が都合のイイように調教した人間達を住まわせて、自己満足に浸りたいってな!」
 人畜無害の顔が、一瞬、引きつった。
「イイ顔になって釆たじゃねーか。ジョヴァンニ=バッティスタさんよ」
 市本は、話を続けた。
「シーラから、未崎がキリストになると言う話を聞いた瞬間に読めたぜ。未崎の死後、三日目に肉体再生の儀式を行ない、洗脳――いや、洗礼だったな。洗礼を行なって偽りの記憶を未崎に持たせる事で、未崎をそのままイエス=キリストとして復活させるって計画がね。ところがどっこい、俺は今の世界が結構気に入ってるんだ。お前達の自己満足の為に壊させてたまるかって言いにココまで来てやったのさ!」
 ジョヴァンニの唇の両端が持ち上がって笑みの形を作った。
「つまり貴方は、お気に入りの世界を壊すような行動は取らないと言う訳ですね」
 呪文も何もなかった。
 次の瞬間、市本の周囲の空間の時間が停止させられていたのである。
「真紅の破壊神そのものを相手にするのならば、ともかくとして、たかが人間である貴方が相手なのでしたら、人間そのものを封印すれば済む事です。さて………」
 ジョヴァンニの言う「さて」は、レイナに向けられた言葉だった。レイナは、市本が封印された瞬間に、その影から出て釆ている。
 レイナは、構えるでもなく、ジョヴァンニを見て言った。
「バカか? お前は。それとも、知らなかったのか」
「何をですかな?」
 ジョヴァンニは、人畜無害な笑みをレイナに向けて尋ねた。

 

  MISSION.4

「現実世界で門の創造を呪文なしで行なうなんて、四天王ってのは底が知れないな…」
 未崎は、ナラカが作成した転移ゲートに入りながら、しみじみと呟いた。
「聖イグナチオ教会の周囲の結界ごとに内部へ転移する事は不可能ですが、結界の直前までは移動出来ます。時間軸の制御能力が払にあれば、容易い事となるのでしょうけど……」
「そんな事が出来る魔王まで居るとでも?」
 未崎はナラカを振り返って尋ねた。
「因果律を変えるような事は出来ませんが、任意の空間の時間を過去か未来に設定する程度ならば、三元老達でしたら簡単に出来る筈です。つまり、転移ゲートの出口の空間を一旦、結界の存在していない時間に繋いで、結界の内部で、現実世界に繋ぎ直すと言う訳ですね。けれど、残念ながら、私には結界の直前までが精一杯です」
「因果律はハストゥールの専門分野だからな」
「違いますよ」
 未崎の呟きをナラカが否定した。
「例えハストゥールでも、全ての世界の因果律を自由に出来る訳ではありません。彼が出来る事は、自分が支配する世界の未来を算出する事だけです。因果律そのものを何とか出来るのなら、ディモス様は高瀬さんのような人間が現れるまで待ったりはしませんでした」
「ちょっと待て。大将は、四大神の能力が使えると言うのか!?」
 未崎はナラカに尋ねた。
「使えないとは言ってなかったと思いますが」
 ナラカが戸惑ったように言った。
「使えるとも言ってないけどね」
 シーラが補足した。
「市本和也と言う人間の肉体が使用出来なくなった時に、四大神のどれかの神力が発動する場合があるわ。二百年前がクトゥグァだったから、次はクトゥルーと言う所かしら…」
「お気楽な会話やってないで早く行こうよ」
 未崎が逸るのも無理はない。
 魔道を志す者ならば、すでに封印された神とは言え、混沌の四大元素神を現実に見たいと言う欲求は誰にでもある。
 それがどのような結果を持たらす事になろうとも、未崎は、自分の欲求を抑える事は出来なかった。
 シーラは、子供のようにはしゃぐ未崎を見て、ナラカの方をを向くと両手を広げて肩を竦めて見せた。
「未崎さん、はしゃぐ気持ちは解かりますが、このゲートの向こうは、天使の気配が多数感じられます。気を引き締めて下さい」
 ナラカが忠告した。

 

  MISSION.5

 時間停止空間に封印された市本から、凄まじい程の邪悪な気配が発生した。
「始まったぞ」
 市本を見てレイナが言った。
 市本の右肩が暗緑色に染まり、数十本の触手がほとばしり出て、周囲の天使を絡め取った。
 触手の根元の両側に二対の目が開き、イカの頭にも似た頭部が市本の肯から出現する。
「本来、マグナ=ディモスには額に目など無い。額の目は、混沌の神の能力を持つ者の証明なのだ」
 触手は敵味方の区別が無いように、天使達だけでなくレイナをも襲う。しかし、レイナは、触手の動きを認識しているかのように、全てかわしていた。
「和也の意識は、時間停止空間で停止したままだ。このままでは、クトゥルーが復活してしまうぞ。おとなしく封印を解いたらどうだ」
 レイナは、天使の動向に大して関心を持たない。その証拠に、クトゥルーの触手をかわす為に能力を使うメタトロンを攻撃せずに、見ているだけである。
 天使を捕えた触手は、それ自体が脈動しながら、天使達をそのゼリー質の中へと練り込んでいる。
 クトゥルーの触手は、全く攻撃しないレイナよりも、むしろ攻撃的なメタトロンを襲い始めていた。
 そして、クトゥルーの頭部は殆ど完全に出現していた。

 聖イグナチオ教会の前に出現した途端、未崎は、メタトロンの結界に遮蔽されているにも関わらず、クトゥルーの出現によって発生した邦悪な気配を敏感に感じ取って、その場にうずくまってしまった。
「げえええぇぇぇえ………、気持ち悪い…。気分が悪くて、頭が重くて、下腹が痛い……」
「つまんないギャグ飛ばしてないで、行きますよ」
 ナラカが未崎に平然と言った。
 未崎は、シーラとナラカが意外と平気なのに疑問を感じたが、魔族であった事を思い出して、少し苦笑した。
――おそらく、巴と静も平気だろうな。
 未崎は激しい嘔吐感に襲われながらも、護鬼達を呼ぶ事に躊躇していた。
「結界の中では、すでに始まっているようですが、結界を破ると、もっと苦しくなりますよ。それでも、宜しいですか?」
 ナラカが未崎に尋ねた。
 未崎は髪をかき上げる仕種をしながら、喉に込み上がってくる酢っぱい物を呑み下して言った。
「やってくれぃ」
 そんな未崎の様子を見ながらシーラは、未崎が必要以上に無理をしているのが良く解かっていた。
「おとなしく巴さんと静さんを呼べばイイのに……」
「日頃世話になっている奴等の背中にお好み焼き作るくらいだったら、自力で歩いて行く方を俺は選択したいんだ」
「お好み焼き作りながら?」
「だかまひい!」
 未崎とシーラが漫才をしている間に、ナラカは、メタトロンの結界を破っていた。
 と、同時に、中に滞留していたクトゥルーの邪悪な気配が一気に流出して来た。
 未崎は、シーラやナラカに対してのカッコ着けの意識をかなぐり捨てた。否、かなぐり捨てねばならなかったのだ。
 メタトロンとの対決の後に取った食事と、今朝の食事が、意志を持って胃と腸の中でグリグリと蠢いているような感じだった。
「ちょ、ちょっと…、気を落ち着けて来る」
 未崎は二人にそう言って、近くの茂みに入った。
「今頃、大きなお好み焼き作ってるわよ」
 シーラはナラカに言った。
 茂みの中から未崎の疲れ果てたような声が聞こえた。
「だぁ〜かぁ〜まぁ〜ひぃ〜」
 どうやら聞こえたようだ。

 

  MISSION.6

 市本の肩から出現しようとしているクトゥルーは、首までが現れていた。
 その状況に於て、ジョヴァンニには、市本の封印を解くか解かないかで、迷いがあった。
 それは、真紅の破壊神と彼との賭け引きのような物でもあったのだ。
 つまり、人間である市本和也を封印したとしても、神である真紅の破壊神は時間凍結の影響を受けない筈なのだ。その状態で、クトゥルーが、彼から分離しようとしているのだ。
 ジョヴァンニは、真紅の破壊神がクトゥルーを分離して見せる事によって、彼が未崎から手を引く要因を作り出そうとしているのだと思っていた。
 しかし、クトゥルーが本当に復活してしまえば、それは地球だけの問題では無くなってしまうのも事実であり、況して、彼の望む形である地球の全てを司る神となる野望も崩れてしまうのだ。
 それだけではない。
 クトゥルーが解き放たれてしまった場合に、真紅の破壊神そのものが、再封印の為に動いてしまった場合、地球そのものが破壊されてしまう事も有り得るのである。
 ジョヴァンニは、市本との会話が、本当に自分のレベルで進行していたかどうかさえも怪しく感じ始めていた。
 ジョヴァンニの言う世界とは、地球を指すのだが、市本が言った世界が、地球を含む全ての時空間であるとしたら………?
 ジョヴァンニは、政治的根回しによって、未崎と市本を対決させ、未崎を絶望の淵に死を認識させようとした。
 未崎を殺す事に不満を持つ市本の言魂を利用して、市本の周囲の時間を凍結する事によって、市本和也と言う最悪の存在を封印したつもりだった。
 ところが、神話の時代に封印され、過去の神とされていたクトゥルーの復活に立ち会う事になってしまった現在、レイナの挑発もあって、この事態が、真紅の破壊神のハッタリかどうかさえも分からなくなってしまったのである。
「解からない…。解からないのだ…。市本の意志と真紅の破壊神の意志が同じであるかどうかも、クトゥルーが復活しようとしている現在、何故、真紅の破壊神が動かないのかを。ハッタリなのか、それとも、真紅の破壊神は世界を平然と見捨てるつもりなのか………」
 そんなジョヴァンニを嘲笑するように、レイナは笑って言った。
「そんなに迷う暇があると言うのか? 完全に復活してしまえば、真紅の破壊神は、また星系を犠牲にしながら、封印せねばならないぞ。貴様は、地球滅亡だけではなく、銀河滅亡の悪名を一生背負いながら生きて行かねばならない。それは、貴様のプライドが許せまい…。どうする?…エホバの片割れよ……」
 ジョヴァンニは、奥歯をギリギリと鳴らした。
 クトゥルーの出現に気を取られていたジョヴァンニは、未崎達の接近だけでなく、封印されている筈の市本の額に目が開きつつある事を失念してしまっていた。

 

  MISSION.7

 吐く物を全て出してなお、吐き気がすると言う時はど苦しい事はない。
 今の未崎の状態がそれであった。
 優れた魔道師であるが故に、普通の人間より繊細で敏感な神経が、出現してはならない神の出現に、人間としての潜在意識の奥にある恐怖を、体調の不調と言う形で具現化してしまっているのだ。
「そうなっても、巴さんか静さんを呼ばないワケ?」
 シーラが呆れたように尋ねる。
「呼ばない………と言うよりも、呼べない。特に巴は以前、市本さんに完敗してる。今、呼べば、俺を守ると言う建て前の下に再戦しようとしてしまう。市本さんの手の内が完全に明らかになるまでは、俺達は市本さんと一戦交える訳には行かない」
「結構、始息な事を考えてますね」
 ナラカが未崎に言った。
「始息で結構!! 俺は絶対に勝てる奴とじゃなきゃ、戦うつもりはない。だから、メタトロンとやり合うつもりでココに来た訳じゃないんだからな」
 そう言いながら、未崎はヨロッとよろけた。
「肩くらい貸してくれたってイイぢゃん」
「そこまでしてやる義理なんかないもの。むしろ、私達が貴方の歩く速度に合わせていると言う事に対して、貴方が感謝するのが筋と言うモノじゃなくて?」
 シーラがサラリと言った。
「てめー等ァ、合理主義だけで動いてやがるなァァアッ!? 人情くらい持ち併せても………」
 そう言いかけた未崎の口に、右手の人差指を当てて、シーラが色っぽく言った。
「私達は、ア・ク・マ☆」
 未崎は頭を抱えてしまった。
「てめー等ァ…、あー言やぁ、こー言いやがって………。てめー等と漫才する為に俺はココまで来たんぢゃねーぞぉッ!!!」
 未崎はよろめく足で通路を踏みしめて、両手をギュッと握って言った
「俺はなあ、混沌の四大元素神の一柱が見れるってんでココまで気分が悪いのを推して来ているんだ! メタトロンが俺の暗殺なんかを日本政府に圧力かけて依頼なんかしなかったら、今頃俺は、この長い髪をかきあげて、窓に座って周囲の人々にこの美貌を見せながら、詩集なんかを開いて、時折、憂いのある瞳を周囲に飛ばしたりなんかして無断欠勤の最後の一日を過ごそうかと、思っていたりするんだよぉッ!!」
「未崎さん、そんな趣味があったの?」
 シーラが驚いたように尋ねた。
「あったんだよおッ」
「死体の匂いをかぎながら切り開くとゆー…」
「チェーンソーで斬った時の骨の感触がゴリッとしてて………って、そりゃ死臭だ!!」
 美原会長が苦労して作り上げた未崎一美とシーラのイメージが、完全に崩れたと言って、もりもとかずをを非難するような感想を会長宛てに送らないように。

 

  MISSION.8

 神聖衝撃波で、クトゥルーの触手を破壊しているジョヴァンニの耳元に市本の声が聞こえた。
「今は一人のようだな」
 ジョヴァンニは、咄嗟に数メートルを飛びすさり、声の主を確認しようとした。
「遅い」
 人間の反射神経を超えた動きで飛ぶジョヴァンニに合わせて、男の手が彼の首を追った。
 メリッと言うような何かが引き千切られるような音と同時に、ジョヴァンニは首を押さえて、封印されている筈の市本を見た。
 相変わらず、市本は時間凍結空間の中で停止状態にあった。しかし、左腕が消失している事は彼の視点からは見えない。
 停止して動けない筈の市本の顔が、ぎぎいッと動いた。その額には目が開いていた。
「………!!?」
 声帯が千切り取られているので、声が出せない。尤も、声が出せる状態でも声が出なかったであろう。
 その一瞬、隙が出来た。
 クトゥルーの触手がジョヴァンニの手足に絡み付き、市本の左手が彼の首を掴んだ。
「地球を高みから見下ろす事を望むのは勝手だ。たかが、このような辺境の惑星一つの支配権が変わった所で、俺には痛くも痒くもない。だが、貴様は俺を巻き込み、俺の手駒を勝手に使用しようとした」
 市本は封印空間から、ゆっくりと出て来た。
 左腕が存在していない。
「俺の狙いは、シーラ達の協力で未崎が、貴様の残り半分を見つけ出す事よりも、貴様を現状よりも防御で手一杯の状態にして、貴様と残り半分とが合体した状態を作り出す事が目的だった」
 市本は、肩を左腕の消失点と合わせた。
 必死でもがくジョヴァンニであったが、動けるような状態ではない。
「未崎達の時と同じように逃げられるとは思うなよ。クトゥルーの触手は、費様の精神体を捕えている筈だ。貴様の敗因は、かつて全宇宙を恐怖に陥れた『水辺のクトゥルー』が惑星の一民族を司る程度の神を相手に、あの程度の攻撃しか行なわなかったと言う事を気づかなかったと言う事だ。クトゥルーの触手は、秒速70万キロメートルで動く。俺はワザと貴様の実力に合わせたスピードで動かした。貴様が相手をし易いようにな」
 市本の肩のクトゥルーの目が、にたッと笑った。
「貴様と未崎が何をやろうと、俺は関係がない。だから、俺を巻き込むな。何れ俺と未崎は戦う時もあるだろう。その時は手を出すな。それだけを言いに俺はここまで来ただけだ。貴様もここで消滅するのは本意ではあるまい」
 ジョヴァンニは恐怖の目で市本を見つめているだけである。
「了解したのならば、頷く程度はやって欲しい物だな。それとも、今ここで楽になるか?」
 ジョヴァンニは慌てて何度も頷いた。
「では………」
 市本はクトゥルーに触手を回収させた。
「肉体を残して消えろ」
 右肩のクトゥルーが不満そうに低く唸ったが、市本の冷たい一瞥で大人しくなった。現時点で、市本の方が神格が高いからである。
「………これが…、こんな奴等が自ら秩序を名乗ると言うのか………。師匠、俺が秩序の側に居る必要があるのだろうか。秩序の神に属する者達が、己れよりも神格の高い者に平然と戦いを挑むのだ。これが秩序の神の行なう事だと言うのか? これでは、属性に関わらず神格の違いに従順な混沌の神々の方が、遥かに付き合い易い」
 精神体の逃げたジョヴァンニの肉体を掴む市本は、レイナを見て悲しそうに言った。
「私には何も言えぬ。だが、和也が秩序の側に居る事で、我々は和也に仕えていられるのだ。我々は混沌の神に仕える事は出来ないのだからな」
「分かっているさ………」
 市本はジョヴァンニの肉体を頭の上へと差し上げて、左手に力を込めた。
 瞬間、首を握り潰された肉体は、血液の内庄に耐え切れないかのように、大量の血を巻き散らしながら、頭を射出して床に落ちた。
「今のは、市本和也の愚痴に過ぎない」
 市本は疲れたようにレイナに笑って見せた。

 

  MISSION.9

「昨夜はこんなにややこしい通路になってたか?…これぢゃ、まるでクソRPGの3Dダンジョンみたいだぞ」
 実は、この時点の未崎は、とてもではないが、歩くだけで精一杯の状態であった。
 それでも、軽□を叩くのは、自分が最悪の状態である事を理解しているシーラとナラカに心配をかけさせないと言う彼自身の気遣いからである。
 尤も、一言口にする都度に失われる体力は多大であったが、這って行くと言う行動そのものを未崎のプライドが許さなかったのも事実である。
「おそらくは、昨夜の襲撃がエノクに予測されていたものなのでしょうね。あの時は、エノクが通路の空間を縮めた為にあの部屋までが短く感じられたのだと思うわ」
 シーラが昨夜の状況を思い出しながら言った。
「それにしても、私達の侵入は既に探知されている筈なのに…、どうして、天使達は攻撃して来ないのでしょう?」
 ナラカが呟くように言った。
「そう言われてみれば……」
 ナラカの言葉に、シーラも同意する。
「…ひょっとして、ココに居る天使の全てがクトゥルーの迎撃に向かったんじゃないかしら。連中が幾らバカだって言っても、そこまでバカだとは思えないし……」
「………」
「未崎さん…?」
 未崎が静かになったので、シーラが声を掛けた。
「………凄いぢゃん…」
「どうしたの?」
「……あの一度見たら、当分悪夢にうなされそうな悪趣味な形状と言い…、あの市本さんに勝るとも劣らない邪悪な迫力と言い…」
 未崎の呟きに、シーラとナラカは、未崎の視線を追った。
 そこには、血まみれの市本と、その右肩に頭部を出現させているクトゥルーがあった。
「正に…、邪神オプ邪神!!」
 力んだ未崎は、肛門が少し開くのを感じた。
 腹の中が既にカラッポだったのが幸いだったのではあるが………。
「和也様!」
「和也さん!?」
 同時に駆け寄るシーラとナラカ。
「血が…、やられたのですか? レイナ」
 ナラカが血まみれの市本を見て、レイナに尋ねた。
「メタトロンの血だ。和也がエホバの片割れ程度にやられはしないさ」
 実は、前々ページまで時間凍結空間に封印されていたのだが、あえてレイナはそこには触れなかった。
 市本の足元に転がるジョヴァンニの首を見て、シーラが市本に尋ねる。
「倒したのですか?」
 市本は、ゆっくりと視線をシーラに向けて肩を竦めて見せた。
「逃げられた」
 市本はワザとそう言った。
「そうですか…。クトゥルーを発動させても倒せなかったのですね」
「いや、実は、さっきまで封印されていたんだ。言魂を利用されて、時間凍結を食らってしまってね………」
 市本の肩から触手を伸ばして、クトゥルーは、ジョヴァンニの死体を食っていた。
 その様子を興味津々に見つめる未崎。
「こいつの発動が引き金になって半神形態になれた」
 市本は右肩のクトゥルーを見て言った。
「!!?…さては…、私達を囮に使いましたね!?」
 シーラが市本に言った。
「私達が未崎さんと動くのをエノクが予想すると踏んで、レイナと二人だけで襲撃して、ワザと封印されてクトゥルーの発動を誘って、分かれていたエノクを一つにさせる作戦だったんですね!!?」
 大当りである。
 市本は、クトゥルーの触手が絡み付く右手を上げて、親指を立てて見せた。
「御名答!!…と、言いたい所だが、俺は誠心誠意を尽くして、未崎の暗殺命令を取り下げて貰うように頼みに行っただけさ」
 しかし市本は、ひねくれ者だった。
「そうだよな、し・しょ・う?」
「え…??……あ…、そ、その通りだ」
 市本に振られて、レイナは慌てて同意した。
 市本はクトゥルーの食事が終わるのを待って、四人を振り返って言った。
「さて、帰ろうか。メタトロンは当分動けない。未崎に手を出しても、俺を巻き込むような事は絶対に行なわないだろう…」

 

  MISSION.10

 クトゥルーを体内に戻す時、未崎が物惜しそうな顔をして言った。
「もう戻すんですかァ?」
「肛門が開きっ放しの奴が何寝惚けた事言ってんだよ」
「何で判った!?」
「今ので尿道も少し開いただろう?」
 未崎は市本の耳元を引っ張った。
「息、吹きかけるなよ」
「だーッ!! そんな下品な事、美人達の前で言わなくてもイイぢゃないっスか!」
「今のお前では、長時間クトゥルーと接触し続けるのがヤパイと心配してやっているつもりなんだが…」
「今の俺じゃなかったらイイ訳ですか?」
「そうだな。三年間、人を捨てるような修業を積めば、メタトロンと互角ってトコだな。今のままじゃあ、お前が認識している自分の力が、俺が認識しているお前の魂の容量に負けているから、四大神のどれかを鑑賞すると、体調が不調になるだろうな。実際、今、かなりヤパイだろう? 好奇心とプライドだけで、今を我慢していると俺は診てるがね」
「俺には仕事があるんですよ。そんな暇ありますかい!」
「あるだろう。幻夢境の冒険が。ジーナスの冒険では、僅か6時間で半年分の修業をこなしている。36時間もあれば、メタトロンを楽勝で超えられると思うがね」
「今の俺の強さって、どのくらいなんです?」
「お前さんの限界がレベル99とすれば、現状でレベル20と言うところかな。メタトロンで、レベル60ってトコだ」
「半分でもレベル30か……」
 未崎の呟きに、市本が未崎の頭をこづいた。
「どアホゥ! 仮にもヤハウェと一部同化しているんだぞ。半分でも60は60だ。ただ、神と同化した以上、それ以上のレベルアップが無いと言うだけの事だ」
 クトゥルーが完全に戻ったのを確認した市本は、自分の右肩を左手でパンと叩いて、未崎に言った。
「メタトロンの強さは、ヤハウェの能力を使えると言うそれだけじゃない」
「何です?」
「相手の言葉に宿る霊力………すなわち、言魂を利用して術を仕掛けて来る。呪文なしで時間凍結をくらった時は、流石にヤパイと思ったよ。しかし、タネが解かればそんなに難儀な相手でもないと思う」
「あーたは時間凍結の中でも動ける手駒を体内に隠しているから平然とそれが口に出せるんでしょーがッ!!」
「やっばり、体調不調で脳味噌が動いてないな。もう限界だろう。事務所でメシでも食わせてやるよ」
 市本はナラカを振り返った。
「先に出てゲートを作っていてくれ」
「はい」
「シーラは事務所に戻って、食事の用意をしてくれ。師匠は俺の影に入って事務所まで俺達を護衛。以上だ。俺も今日は疲れた」
 そう、市本は最後の「疲れた」と言う言葉を本当に疲れたように言った。

 

  MISSION.11

 その後、数日が経ってから、思い出されたように未崎一美の暗殺指令が取り消された。
 市本はその上、内閣調査室から暗殺の依頼料金をふんだくった。
 理由としては、『完全に殺す用意をさせられた土壇場での依頼取り消しに不満がある』と、言う事だった。

「大将はさあ…、シーラさんから、俺達とメタトロンとのコンタクトを聞いた時点から、メタトロンの行動と、国内の諜報機関の動きを読んでいたんぢゃないかなあ………」
 クトゥルーより受けた精神的ダメージによる肉体機能の低下は、事件の決着が着いた後も未崎を苦しめていた。
 見舞いに来たシーラから、その後の事件の経過を話して貰った未崎は、ベッドの中でそう言った。
「まさか…」
 と、言いながらも、シーラには思い当たる所が幾つかあった。

  1. 依頼発生直後が異様に不機嫌だった事。
  2. クトゥルーを発動させ、自ら半神形態となりながらもエノクに『逃げられた』事。
  3. もし、本当にその場の勢いだけで、直談判に行ったのなら、その後の内調から依頼料金は取れる筈がなかった事。
「ま、どっちにしても、メタトロンは当分動けないだろうし、市本さんがまだしばらくは俺の敵にはならない事は解かったし、結果良ければ全て良しってコトなんだけどね。で、大将は今日は仕事かい?」
 思った程には未崎が気にしていない事に気づいたシーラは、優しく微笑んで言った。
「それは内緒です」

 

破壊神話外伝 『現実の戦場2』  完結 

 


 ◆美原和友紀の余計なお世話

 このあたりから、美原の破壊神話作品と全く話が整合しなくなりますが……「基本設定だけが共通の違う話」ですので、混乱しないで御覧下さい。