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破壊神話超外伝 死の堕天使

 

  

 街は喧騒に包まれている。人々の喜び、悲しみ、苦しみ、憎しみ、妬み、夢、希望、恋、野心、絶望、肉欲、全てを呑み込みそれは街の喧騒となる。人々の様々な感情を内包し、その街は微妙に変化しつつ大局的には変化しない。その街の名を東京という。無表情に人々が行き交う街の通りから、名も知れぬギター引きの叫びにも似た歌声が微かに聞こえてくる。

  東京て街は日替り定食だぜ
  どこかで見て
  どこかで食べた
  同じ味のする時間の繰り返し
  楽して生きようぜ
  自分で料理を作るなんざ面倒くせえ
  他人が作った料理にけちつけて
  楽しく楽して生きようぜ

 彼の歌声も、この街では単なる雑音の一つに過ぎない。

 

  

 東武線地袋駅北口から歩いて3分のところに、ミラノという喫茶店はあった。店員は無愛想、店の照明は薄暗く、店内はお世辞にも清潔とはいえない。この店の取り柄はたった一つ安い事だった。
 制服の少女は、券販売機に100円硬貨を二枚落とし込み、ランプが点ったアイスコーヒーのボタンを押した。薄っペらな券をカウンターに差し出すと、大学生のバイトと思われし店員が、冷蔵庫からパック入りのコーヒーを取り出し、てんこもりに氷が入ったグラスにコーヒーを注ぐと、無造作に制服の少女の前に差し出した。制服の少女は、それを白いトレーに乗せると、地下テーブルに続く階段を、細心の注意を払いながらゆっくりと降りて行った。
 地下は、調子の悪い空気清浄機のおかげで、客達が吐き出す煙草の煙がまるで霧のように部屋じゅうに浮遊していた。霧の中から、部屋の片隅に空席を見付けると、制服の少女は急いでそこに腰を下ろした。アイスコーヒーを一口飲むと、制服の少女は深い溜め息を一つ吐いた。少女の名前は、灯島詩織(ひしま・しおり)。年齢は17歳。私立蟠桃学園に通う女子高生だ。趣味は小説を書く事。良く言えば文学少女、まあいわゆる内向的な性格だ。そんな詩織は、この喫茶ミラノの地下室で、ただ何もせずボーっとしているのが好きだった。煙草の霧煙るこの地下室は、客達の喧騒で満ちている。ここに来る客は、高校生や大学生といった若者が殆どだ。金はないけど暇はある。暇はあるけどやる事ない。この地下室は、無駄なエネルギーで満ち溢れていた。そんな無駄なエネルギーの奔流の中に身を置くと、詩織は何故か妙に心落ち着くのだった。

 

  

 詩織がはめた腕時計の針は、既に午後9時を指していた。喫茶ミラノは午後9時で閉店だった。空になったグラスをトレーに乗せると、詩織はトボトボと階段を上っていった。
 西武池袋線の自動改札に定期を通し、詩織は飯能行き急行電車に慌てて飛び乗った。詩織を乗せ、黄色いフレームにシルバーラインの電車はぎこちなくホームから滑り出した。電車内は9時過ぎにもかかわらず、混雑を極めていた。扉近くにいる人間等は、まるでイモリのように扉にピックリと貼り付いている状態だった。詩織の周りにも、肉のバリケードが四方に築き上げられていた。OLの化粧の臭いや、サラリーマンのタバコや酒の臭いが、人々の体から発散される汗の臭いと混じり合い、吐き気を催すような悪臭が電車内にはたち込めていた。そしてここもまた、喧騒に満ちていた。乗客は仕事帰りのサラリーマンやOLが大半を占めていた。詩織はこの喧騒が大嫌いだった。詩織は喧騒を掻き消すために聞いていたウォークマンのヴォリュームを少し上げた。イヤフォンからは、遠い昔に解散したあるロックグループの歌が流れていた。

  色んな事をあきらめて
  言い訳ばっかりうまくなり
  責任逃れで笑ってりゃ
  自由はどんどん遠ざかる
  金がモノを言う世の中で
  爆弾抱えたジェット機が
  僕のこの胸を突き抜けて
  あぶない角度で飛んで行く
  満員電車の中
  くたびれた顔をして
  夕刊フジを読みながら
  老いぼれてくのはゴメンだ

 電車は石神井公園駅に到着した。扉が開くと同時に、詩織は飛び出すように電車を降りた。外の空気を思いっきり吸い込み、大きく深呼吸した後、詩織は出口の改札に向かった。

 

  

 詩織は腕時計に目をやった。午後9時45分を時計の針は指していた。
「後15分時間潰さなくっちゃ。」
 今日は水曜日、家にはまだ家庭教師がいるはずだ。どうやって時間を潰そうか……マクドナルドに入ってバナナシェイクでも飲もうかな………。きらびやかなネオンの輝きに満ちた石神井公園の商店街の路上で、詩織は思案を巡らせボーっと突っ立っていると、背後から誰か声を掛けてきた。反射的に振り向いた詩織は、声の主を見て、一歩後退した。そこには一人の長身の青年が立っていた。腕まで捲り上げた白いジャケットに、黒いTシャツ、濃紺のジーンズに白いスニーカー、しかしそんな出で立ちは問題ではなかった。詩織は、その青年が背中に背負っている巨大な大剣に目を奪われた。この日本で、剣を平然と持ち歩ける人間は限られている。賞金嫁ぎと呼ばれる連中か………或いは犯罪者だ。
「あ、すいません。ちょっと道を聞きたいんだけど、大田区の羽田ってとこは、ここからどう行ったらいいのかな? いや、一人で東京来るの初めてだから道に迷っちゃって……。」
 この青年は一体何を言っているのか、大田区と言えば、この練馬区とは全く正反対の方向だ。
「池袋まで戻ってJR線に乗って下さい!」
 それだけ言い捨てると、詩織は青年の前から走り去った。うさんくさい奴と関わりを持つのはまっぴら御免だった。
「あっ、ちょっと!」
 青年の慌てた制止の声など、当然、詩織は無視して走り続けた。

 

  

 詩織は石神井公園の公園の中に走り込んだ。立ち止まり、息を切らせながら後を振り向いたが、くだんの青年の姿は見えなかった。大きく一つ深呼吸して、詩織は近くのべンチに腰を下ろした。初夏の生暖かい風が汗ばんだ詩織の頬を撫でた。しかし、詩織はその初夏の風の匂いを嗅いで顔をしかめた。その風には鉄が錆びたような臭いが含まれていた。そう、それは即ち血の臭いだった。
 詩織はべンチから立ち上がった。嫌な予感がした。何かとんでもないことに巻き込まれてしまうようなそんな嫌な予感だった。私は何も知らない、関わりたくない! このまま家まで走って帰ろう。そして親の叱咤を聞き流し、冷たい食事を無理矢理胃袋に流し込んで、暖かいシャワーを浴びて、急いでペットに潜り込んで寝てしまおう。そうすれば、きっと何時ものような平凡で退屈な朝がやって来る。詩織は走った。しかしすぐ、詩織は何かに足を取られ転倒した。
「きゃ!」
 お尻をしこたま地面に打ち付けた痛みよりも、手に粘つく液体の感触の方が詩織には気になった。詩織は恐る恐る自分の手元に目をやった。公園の薄暗い外灯に照らされ、血でどす黒く染まった詩織の両手が浮かび上がった。
「いやあああああああああああ!」
 詩織は思わず悲鳴を上げた。その刹那、茂みから黒い影が詩織の前に躍り出た。黒装束に黒い犬のような仮面を付けたその人影は、地面に尻もちをついたまま呆然と見上げる詩織を見下すように、詩織の前に立ちはだかった。
「不運な女だ。ここにいなければ、死ぬ事もなかったな。」
 人間の言葉を喋った。変質者? 詩織は持てる力を振り絞って立ち上がり、その人影とは反対の方向に逃走した。
「くっくっく、逃げても無駄だ。」
 黒装束の人影は地を蹴って高々と空中に跳躍した。一方、無我夢中で走る詩織は、僅か15メートル走ったところで、何かの障害に激突し再び転倒した。その障害は、くだんの大剣を背負った青年だった。
「いやあああああん!」
「あっ、ごめん、ごめん。度々すまないんだけど、JR線って何色の電車………!」
 青年は見た、自分の頭上から襲い来る黒装束の人影を。その人影の右手に、鉄の爪のような武器を確認した刹那、青年は宙に跳躍した。青年は、黒装束の男が繰り出す鉄の爪の一撃をかわすと、右拳を黒い犬のような仮面に放った。メキメキという不可解な音と共に、右拳が仮面深く減り込み、黒装束の男は犬の鳴き声に似た悲鳴を上げた。
「きゃおおおおおん!」
 破壊された仮面を両手で押えつつも、黒装束の男は軽やかに地面に着地した。青年は詩織をかばうように立ちふさがった。
「東京の暴漢の間ではコスプレがはやってんの?」
「ぐぎぎぎ……貴様等の顔は覚えた。このままでは済まさん!」
 黒装束の男は青年の前から走り去っていった。
「一人じゃかなわないから、今度は仲間連れて来るってか? ま、いいや。」
 青年は一つ溜め息を吐くと、詩織の方に振り返った。
「月並みなセリフで悪いけど、大丈夫?」
「わ………私は……私は何も知らないし、何も関係ありません!」
 詩織は青年の脇を通り過ぎ、一目散に走り去った。
「あっ! ちょっと、JR線って何色の電車なんだよ?…………あーあ、行っちゃった。困ったなぁー、んっ?」
 青年は、地面に広がっているどす黒い液体を人差し指で掬って臭いを嗅いだ。
「血か………茂みの向こうから流れて来てるな。どうやらさっきの奴はただの暴漢じゃないみたいだな。…………仕方ない、電話を使おう。東京に来て早々 醜態をさらす事になってしまうが、このままじゃ、永久に大田区に着けない気がする。」

 

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