| BACK | NEXT |
 

破壊神話超外伝 死の堕天使

 

  10

 その部屋には赤い海が広がっていた。低い天井では、寿命間近のちらつく蛍光灯が、僅かに左右に揺れている。畳張りの六畳一間の床には大学生の下宿を彷彿させる品々が、そこらじゅうに無造作に散らばっている。そしてそこには、この部屋の主と思われし茶髪の青年が、微動だにせず床に伏し、血の海に喉元から並々と血液を供給していた。それを見下ろす黒い人影。右手には、黒鉄色の鈍い輝きを放つ血に染まった鉤爪、そして陥没した醜い黒い犬の仮面。人影は、忌々しく陥没した黒い仮面を、血の海に投げ捨てた。仮面の下からは、血に飢えたボクサーを彷彿させる、精悍な顔付きの男の素顔が現れた。もし、この場に熱狂的なボクシングファンが存在したならば、彼の名前を知っているかもしれない。3年前彗星のようにボクシング界に現れ、彗星のようにボクシング界から消え去った天才ボクサー犬神健一の名を。かつて天才ボクサーと呼ばれた男は、血の海をものともせず、鏡のある洗面台の方に向かった。鏡に映った自分の顔を忌々しく睨み、地下(やみ)ボクシングで使用していた黒いタイツのコスチュームを、荒らしく破り捨てる。剥き出しになった自分の右手を見た犬神は、驚愕の表情を浮かべた。鉤爪は、犬神の右手と完全に同化していた。そして腕に当たる部分は、黒い剛毛で覆われている。
「くっ! 一体何がどうなってやがるんだ! いきなり地下ボクシング場で拉致されたと思ったら、こんな妙なもん付けやがって、連中は何者だ。」
 今まで必死に逃げてきて、ようやく思考する機会を得たのか、犬神は暫くその場で思考を巡らした。しかし、いくら考えても答えはでない。一つだけ分かっている事は、自分は正体不明の連中に追われているという事だ。
「畜生!」
 怒声と共に、鉤爪の拳を鏡に叩き付ける。ピシピシと鏡に映る犬神の顔に亀裂が走った。破損した鏡に背を向け、今度はタンスの方に向かう。が途中、右腕に激痛を覚えその場にうずくまる。右腕を覆う黒い剛毛の部分が徐々にではあるが増殖していくのが見て取れた。やっとの思いでタンスがある場所まで辿り着き、タンスの扉を乱暴に開く。近場にあった黒いTシャツに頭を通し、濃紺のジーンズを履く。そして、異様な右腕を隠すために、初夏にも関わらず、白いトレンチコートを羽織った。
「くっ、くっそう! 意識が朦朧としてきやがる。一体全体どうなってんのか、誰か説明しやがれ!」
「じゃ、私が説明してあげよっか。地下ボクシングの英雄さん。」
 うずくまる犬神の頭上で、ハスキーな女性の声がした。見上げると、そこには悪戯っぽい瞳でこちらを見下ろしている、制服姿の少女が立っていた。先程の公園で見かけた少女とは違う。茶髪のシャギーが、白い頬に卑猥にまとわりつき、全体的に退廃とした色気がある。学生らしからぬ雰囲気だ。一見すると上玉のコギャルのような感じだが、犬神を見下ろすその瞳には、底知れぬ知性の輝きがあった。そして右脇には、桃色のノート型パソコンらしいものを抱えている。表面にはプリクラで作成したと思われし自分の顔を写したシールが、無意味にペタペタ張り付けられている。
「き、貴様誰だ? さっき公園で殺した奴の仲間か?」
「そうよ。あたしは、[アラハバキ]第3部隊の将校(オフィサー)の柏渡沙織(かしわのわたり・さおり)だよ。彼ってばナニもでかいし、超使える奴だったのに、殺しちゃうなんて、もう超怒ってるんだかんね!」
「ちっ、俺の身体に一体何しやがった!」
 犬神は苦痛を堪え懸命に立ち上がろうと試みた。
「あん、駄目駄目。もう半分ほど実体化してるから、じっとしててね。」
「な、何だと!」
「だからあ、あんた生贅なのよ。その右手の鉤爪は触媒。あたしさぁ、黒い犬のペットが欲しいんだぁ。火吐くやつね。黒犬獣(ヘルハウンド)って知ってかな? あれ召喚すんのに強靭な男の身体が必要なのよ。ほら、あんたってばピッタリじやん。途中で逃げ出すから、わざわざあたしが出張って来たのよ。もう、餅は焼いても世話焼かせないでよ。」
 犬神からの返答はなかった。彼の身体は全身黒い毛で覆われ、もはや人の形を取ってはいなかった。何時しか犬神の回りの血の海は、奇妙な魔法陣を描いていた。
「本当、最近ってば便利よね。トークしながらでも悪魔召喚出来ちゃうからね。」
 沙織は、右脇に抱えている桃色のノート型パソコンを展開させて、中を覗き込んだ。既に起動しているようで、液晶ディスプレイ上では、奇っ怪な文字が下から上に向かって高速で駆け抜けている。悪魔召喚プログラム………。ある高校生によって制作された代物らしいが、この高校生の人物像などの詳細な事は一切知られていない。悪魔召喚プログラムの登場により、古来より伝わる、悪魔を召喚するために要する数カ月、時には数年間の準備期間が一切省略出来るようになった。必要なのは、このプログラムを使いこなすための知識と、魔道師としての才能だけだ。やがて、沙織の目の前で悶えていた黒毛の物体は、四つ足で立つ大型の漆黒の獣へと変貌した。黒犬獣と呼ばれる悪魔が召喚されたのだ!
「我が契約を契りし、死の堕天使サマエルの名をして、汝我に従属せん事を命ず。」
 黒犬獣は、燃えたぎる赤い瞳を沙織に向けた。硫黄臭を放つ残虐な口をゆっくりと開く。もし炎でも吐かれようなら、沙織にかわす術はない。
「承知シタ。」
 沙織はニッコリと微笑み、黒犬獣に近づき頭をなでなでした。
「ダガ、コノ世界ニ我ガ肉体ヲ維持サセル糧ハドウスル?」
「うーん、どしようかな………。」
 沙織は暫く考え込んだ。黒犬獣は、低く唸ったかと思うと、叶突如沙織に飛び掛かり、沙織を床に押し倒した。
「デハ、オ前卜交ワリ、コノ肉体ヲ維持スル事ニスル。」
「えっ、ちょっと待って! いいけどせめて人間の姿でしてよ!」
「フン! 注文ノ多イ娘ダ。」
 黒犬獣の姿が、みるみるうちに筋骨逞しい精悍な男へと変貌する。黒犬獣は、荒々しく沙織の制服を破り取り、形の良い沙織の乳房に食らい付いた。
「ああっ……獣姦なんて…………初めて。」

 

  11

 翌日の早朝、大阿蘇亜界に存在する武道場で、対峠する二つの影があった。共に、白の胴着に袴姿。御影(みかげ)衆の長老双月と、未崎一美の妹の麗美だ。
「はっ! 蓮花蝶拳・流水!」
「御影柔術・浮舟!」
 優雅に流れるように繰り出される麗美の肘打ちを、身を浮かすようにして双月は受け止め、そのまま腕を取り、反対方向に麗美を投げ飛ばした。麗美は瞬時に体勢を立て直し、何事もなかったかのように着地する。静まり返った武道場に、麗美と双月の透き通る声が木霊する。麗実は、この日本に帰って来てから、双月との早朝稽古を欠かした事はない。
 組み手の熱も上がる頃、一美と茂木がひょっこり武道場に現れた。
「お、朝から熱が入ってるな、麗美。」
「あっ、お兄ちゃん! と…………。」
「こいつが昨日話した茂木だ。」
「ども、楠木筏木です。」
 茂木は麗美に深々と頭を下げた。
「麗美です。はじめまして。」
 麗美は兄の隣にいる金髪の青年に優しい眼差しを向けた。名前から、純日本人的な顔立ちを想像していた麗美だったが、目の前にいる青年は、金髪に碧眼、何処をどう見ても西洋人にしか見えない。背中に背負った巨大な大剣も、麗実には意外な武器であった。未崎一族に戻ってから、麗美は神州呪道百八家の術者達に接する機会も沢山あったが、その者たちが使う武器や道具は、殆ど純日本的なものであった。兄の護鬼である巴と静が使う武器も、長刀と小太刀、日本古来のものだ。だが、目の前の青年が背負っている武器は、グレートソードと呼ばれる西洋の武器。神州呪道百八家の歴史は、そう単純なものではないのかも知れない。
 ありきたりな挨拶が済むと、傍らで汗を拭っていた双月が割って入った。
「久しぶりじゃな、楠木んとこの小せがれ。東京見物にでも来たのか?」
「どうもご無沙汰しています。別に東京見物に来た訳じゃないですよ。おやじからの預かり物を届けに来ただけです。」
「麗美、お前に渡しておく物があるんだ。着替えて俺の屋敷に来てくれ。」
「えっ?………分かったよ、お兄ちゃん。」

 

  12

 麗美は着替えを済まして、兄の屋敷に向かった。兄の屋敷では既に一美と茂木が待っており、だだっ広い畳の座敷に麗美が正座すると、兄は麗美の前に二対のグローブのようなものを置いた。一見すると、ドライビンググローブに見えるが、拳に当たる部分には、不可思議な光彩を放つ(と言うしか表現の方法がない)、金属の円形のリベットが打ち込んである。そして手の甲に当たる部分には円盤型のプレートがあり、プレートには、六芭星の中心に日の丸が刻印されている。
「母さんの遺言でな。俺たち三兄妹は、形見として神滅刀という太刀を譲り受けた。遺言は、『等分して己の力となせ。』だ。神滅刀は、ヒヒイロガネという霊的な金属で出来ている。麗美、おまえは仙道師であり拳闘土だ。等分した麗美の分は、ここにいる茂木の親父さんに頼んで、グローブに加工してもらったんだ。ナックルの部分と、手の甲のプレートがそれにあたる。」
 楠木家は、裏香取家と並び魔力付与術(エンチャントマジック)を得意とし、広島にある厳島神社の海底地下にその拠点は存在する。
「ヒヒイロガネが持つ霊的な力は強く、本来物理的に影響を与える事が不可能な存在(エーテル体)にも、影響を及ぼす事が出来る。」
 麗美はグローブを手に取り、自らの手に装着してみた。違和感はない、しっくり来る感じだ。
「ありがとう。大切にするね。じゃあ名前は[麗美ちゃん超ナックル]に決定ね!」
「ちょ、超ですか? おやじは神滅掌とか呼んでましたけど…………。」
「まっ、名前はどうでもいい。だがこれだけは覚えておけ、そこに宿っているのは、未崎の血を引く者達の『思い』だ。無意味に多用するな。」
「うん。あっ! もうそろそろ学校行かなきゃ。」
 座敷の壁に掛けてある時計に目をやった麗美は、慌ててその場から立ち上がった。
「そうか、俺達も行くからな。」
 一美と茂木も、続いて立ち上がった。
「えっ? 何で?」
「昨晩の事件の事は話したろ。」
「それは聞いたけど、茂木さんはともかく、何でお兄ちゃんも来るの?」
「ふっ、可愛い妹が通う学園が、一体どんな所かこの目で視察しておく必要がある。」
 一美は長髪を掻き上げ照れ隠しをした。もちろん演技だ。
「えーっ。」
 麗美はあからさまに困惑した顔をした。もちろん本音だ。
「何だか嫌そうだな。」
「別にいいけど、お兄ちゃんが来ると学園の女の子達が…………。」
「女の子達が何だ?」
 麗美は諦めたように溜め息を吐いた。
「まあ、いいか。じゃあ、現地集合ね。あっ、それから茂木さん、背中の大剣は、色々問題起こるから持って来ないで欲しいんだけど。」
「もちろん分かってますよ。」
 茂木の答えに頷くと、麗美は自分の屋敷へと帰っていった。

 

| BACK | NEXT |