ぎいちの戯言 その30:イロイロあるバイト
アルバイトとは、ご存知のように「働く」という意味のドイツ語ですが、日本では学生の労働をこのように呼びます。通常、ゲルピン(死語?) の時にやるものですが、私の場合その理由もないわけではありませんでしたが、いろいろな仕事を経験してみたいと考えてやっておりました。
さて、人生で一番初めのアルバイトは、高校時代に建築資材屋の息子である友人のところでした倉庫整理でした。炎天下の中でブロックやセメントをトラックに積んだり、下ろしたりで一日四千円でした。「形にして残そう。」という気持ちがあったため、頂いたお金で銀メッキのフルート(日管製)を買いました。私のお宝のひとつです。
大学に入ってからは、塾の教師、家庭教師などといった普通のアルバイトのほかに、コンサートの設営(警備員も兼ねる)、建設作業員、ペンキ屋、ケーブル引き、観光バスの添乗員、運送屋の運転手、食品の製造、マネキン(ワイン、家電)などです。マネキンは店頭販売員のことです。ダイエーの電機売り場で東芝の製品を売って日給五千円でしたが、このお金でパソコンを買いました。昭和五十三年でしたが、まだフロッピーが高くて、カセットテープでプログラムをロード(入力)していた頃です。
私が経験した中で一番時間単価の良かったのはペンキ屋さんでした。だいたい五分仕事して二十分休憩というぐあいで非常に楽でしたが、錆落としの粉塵や、シンナーが身体に嫌でも身体に入ってくるのがすごく身体に悪い感じがして、一週間でやめました。日給一万二千円でしたので、毎日ステーキ食っていましたが。
反対に一番安かったのは、観光バスの添乗員でした。日給二千七百円也で、草津温泉や兼六園など毎週土日は旅行でしたが、真面目にやっていると二日で五千四百円だけです。足の悪いおばあちゃんを背負って、白根山のお釜を見せてあげた時には、あとで会社のほうから感謝状はくるわ、「孫の結婚相手になってくんろ!」、とかありました。さて、仕事に慣れてくると、世の中には裏があることがだんだんわかってきましたが、そのへんは旅行業界の名誉のために秘密です。
危険度ナンバーワンは、ケーブル引きでした。同期の友人と「死ぬほど鮨食いたいね。」と話していたら、彼が探してきたもので、求人票には軽作業と書かれていたらしいのですが、現場に行くといきなりロープを渡され、労働傷害保険の書類に名前を書かされました。ロープの袋には「命綱」と書いてあり、「おいおい話が違う。」と思いましたがとにかく、一週間我慢して仕事をやりとげ三万数千円の給料袋を握り締め、バイト帰りの汚い格好のままで鮨屋に行き、カウンターに一万円札を置いて、「これで鮨を食わせてください。足らなくなったらストップと言って下さい。」と頭を下げてお願いしましたら、板さんの温情もあってか、ストップの声がずーっとかからず死ぬほど鮨を食うことができました。めでたし、めでたし。
運送屋の運転手は、北関東専門で水戸宇都宮間の八十キロを一時間ほどで行き来していました。4ナンバーの営業用ワゴン車が早い理由がわかりました。一日二百キロの距離を毎日走っていると、運転は上手くなりますし、エンジンも回るようになります。運転していて、どこに危険があるか、どこに警察が隠れているかなどが、わかるようになります。ちなみに私は二十年無事故無違反のゴールドカードです。捕まっていないだけという説もありますが。
一番長かったのバイトは、加島屋という鮭茶漬けで有名な会社のアルバイトでした。田中角栄や石原裕次郎がお中元やお歳暮に使ってくれたため、商品が飛ぶように売れ、いつも残業残業でした。ここで稼いだお金で、電話を入れたり、ステレオセットを買ったり、旅行したりしていました。そうそう、使い込んだ授業料の補填もこのバイトからでした。
いろいろな職業を経験できたのは、今にして思えば、良いことだったかもしれません。学生ということで、だいぶ優しく扱ってもらえました。職業には貴賎はありませんが、社会には裏表があります。本を読む勉強よりも、おもしろい経験をさせてもらった学生時代でした。