楓小説『追憶の風』


T


…ポツリ

頬に落ちる小さな雫。
薄れ行く意識の中、それがあの人の涙だと言う事だけは、ハッキリと感じられた。

「泣いているの?」

目が霞み、もうあの人の顔を見る事も出来ない。それでも私は、消え行く意識を呼び起こし語りかける。

「…リズエルを…許してあげて…彼女は一族の掟に従っただけ…だから…リズエルを…」

一族を裏切り人と交わった私を、掟に従い殺そうとした姉、リズエル。
その一撃は、的確に私の急所を貫き、致命傷を与えた。
驚異的な回復力を持つエルクゥですら、最早癒しようのないほどの…

「…エディフェル…」

私の名を呼び抱きしめる彼。
でも、そんな彼の温もりも、今の私にはほとんど感じられなかった。

「…忘れるな。…例え生まれ変わっても、この俺の温もりを、この俺の抱擁を忘れるな。…きっと迎えに行く。…そして、きっとまたこうして抱きしめる。…例えお前が忘れても、俺は絶対に忘れない…」

必死に語りかける彼の言葉に小さく頷き、僅かに残った意識を必死に繋ぎ止め、かろうじて言葉を紡ぎ出す。

「…忘れない。…私も…あなたの事…決して…忘れない。…私…ずっと…待っているから。…あなたに…再び…こうして…抱きしめて貰える日を…ずっと…ずっと…夢見てるから…」

それが私の発した最後の言葉。
私の心は、ゆっくりと、でも確実に、死と言う名の暗闇の中に沈んでいった……。




U


顔に伝わる冷たさで、私は目を覚ました。
目の周りが幾分腫れている感じ。枕にも小さな染みが出来ている。
どうやら眠りながら泣いていたらしい。

「また…あの夢…」

私は小さく呟いた。
あの夢を見たのは。そしてその度に泣きながら目覚めたのは何度目だろう。
数ヶ月前、父と母が亡くなり、伯父である柏木賢治さんが家にやってきてから、もう数え切れない程、同じ夢を見た。

許されぬ愛の果てに死に別れ行く悲恋の夢。
隆山に伝えられている「雨月山の鬼の伝説」の裏に隠された、もう一つの伝説。
鬼の娘と一人の男の、悲恋の物語。

でも、私は知っている。それが絵空事などではなく、本当にあった話だと言う事を。

何故なら、私が、私を含めたこの柏木一族こそが、その鬼の血を引く呪われた一族なのだから…。
そして何より、かつてエディフェルと呼ばれ、命を落としたその娘が、私自身だと言う事に気付いてしまったから……。

人を狩る者として星々を渡り歩いた、エルクゥという一族。
でもエディフェルは、獲物であるはずの人間を愛してしまった。
愛する男が命を落としかけた時、自らの血を分け与える事で、その男の命を救ったのだ。

でもそれは、一族に対する裏切りでしかなかった。
一族の掟に従い、エディフェルを殺そうとする姉。
そして私は命を落とした。


一族の血の秘密。そして両親の死の真相を千鶴姉さんに聞かされた時、私の中で何かが弾け、まるでそれが昨日の事であるかのように、鮮明に蘇ってきた。

私がかつてエディフェルと呼ばれていた事。人を愛したが故に命を落とした事。そしてその時交わした約束。その時愛した人の生まれ変わった姿も。

そして、この後起こるであろう、辛い現実も……。

それから八年の歳月が流れ、叔父さんが父と同じように、鬼の血の悲しい宿命に苦しみ自ら命を絶った時、新たな悲劇伝説は幕を開けた。

私と、大好きなあの人を主人公にして……。




V


叔父さんの死から一月余り経った、九月の始め。
叔父さんの一人息子であり、私達姉妹の従兄である彼、柏木耕一さんが我が家にやって来た。

八年ぶりに見る耕一さんの顔。
昔の面影は残っているものの、やはり八年という時間は確実に大人の男性の顔へと成長させていた。
そしてその顔を見た瞬間、私はとても切なく、そして寂しくなった。

その顔が、あまりにも似ていたから。

死んだ叔父さんに。そして、昔愛したあの人に……。

耕一さんに想いを伝えたい。そしてその腕に抱かれたい。
でも、それは決して許される事ではなかった。
何故なら…私は既に、エルクゥとして目覚めてしまっていたから……。

互いの意識を信号化し、伝え合う事が出来るエルクゥの力。
その力は、過去に一度目覚め、そして再び眠りについた耕一さんの中の鬼を目覚めさせる鍵となる可能性があった。

千鶴姉さんの話によれば、女の場合はその力に目覚めたとしても、その力を理性によってコントロール出来るらしい。
でも男の場合は、制御出来れば何の問題もないけれど、制御出来なかった場合、次第に理性を失い、本能のままに狩りを重ねる、文字通りの「殺人鬼」になってしまうと言う。

私一人の想いのために耕一さんの力が目覚めてしまったら……そして、耕一さんがその力を制御出来なかったとしたら……。


私が出した答。それは、自分の想いを抑えてでも、極力耕一さんと距離を置く事だった。
耕一さんが帰るまでの一週間。その間、私一人が我慢すれば全て上手くいくと思っていた。

でも運命の神は、そんな私の小さな願いすら、叶えてはくれなかった……。




W


耕一さんが家に来て三日目の朝。
朝食を済ませ、いつもの様に仏間で両親と叔父さんの遺影に手を合わせていた時、不意に仏間の襖が開いた。

「や、やあ」

少しぎこちない表情を浮かべながら、耕一さんは仏間に入って来た。
入れ違いに部屋を出ようとする私。
でも、すれ違おうとした瞬間、耕一さんの手が私の指を掴んだ。

「…あの」
「…痛いです」

耕一さんの言葉を遮るように私は言った。
思えば、それが再会してから初めて耕一さんにかけた言葉だった。

「あっ、ゴ、ゴメン!」

慌てて手を放す耕一さん。
これ以上彼の側にいるのが辛かった。好きだからこそ離れなければならない悲しみに堪えられず、部屋を出ようとした時、

「待って、楓ちゃん!」

耕一さんの手が、今度は私の腕を掴んだ。

「…なんですか?」

私は敢えて突き放すように呟く。

だが、耕一さんはそんな私に、

「もっと、話をしよう」

と言って、優しく微笑んだ。

「…………」

耕一さんの真意を測りかね、何も答えられずにいた私。
すると耕一さんは不意に、

「……楓ちゃん、俺のこと、嫌いかい?」

と悲しそうに呟いた。

「…………!」

その言葉に、胸が張り裂けそうな程に痛んだ。
本当は叫びたかった。
『あなたが大好きです』と。
でも、その後に待つ物を考えると、それは決して許される事ではない。
だから私に出来たのは、左右に小さく首を振る事だけだった。

「…それって、別に俺のこと、嫌ってるわけじゃないって取ってもいいのかな?」

確かめる様に尋ねる耕一さん。
今度は首を小さく縦に振る私。

それを見た耕一さんの顔が、少し明るくなった様な気がした。

「…楓ちゃん。…君は、あの頃から何も変わっちゃいないよな? ずっと、俺の知ってる楓ちゃんのままだよな?」

耕一さんは、まるで何かに縋るような声で私に尋ねる。
私を見つめる耕一さんの瞳。私がずっと好きだった、優しくて、温かくて、懐かしい瞳。
それ自体は決して変わってはいない。

でも、今朝千鶴姉さんから聞いた話では……耕一さんは……


「私は…。…私は何も変わってません。変わったとすれば、それは…あなたの方です」
「変わったって? 俺が?」

私の言葉の真意を測りかねてか、耕一さんは半笑い気味でオウム返しに答える。

そんな耕一さんの表情を見て、私は心を決めた。
それはおそらく、今の私に出来る、唯一の、そして最良の手段。
だから…私は……


「今日、学校から帰ったら、少し、お話ししたい事があるんです」


それが、悲恋物語第二幕開始の合図だった……。




X


その日の夜。
夕食を済ませ、ベッドで横になっていた私は、いつの間にか眠ってしまい、夢の中にいた。


これまでに何度も見た夢。
全ての始まりとも言える、エディフェルと次郎衛門の出会い。
言葉は通じなくとも、次第に心を寄せて行った二人。
鬼討伐の命を承けた次郎衛門と、鬼の娘エディフェルの悲しい再会。
鬼の力の前に命を落としかける次郎衛門。己の血を持って、それを必死に救おうとするエディフェル。
自分が鬼になった事に激高し、その怒りを陵辱という形でエディフェルに向ける次郎衛門。彼を愛するが故、その辱めをも受け入れるエディフェル。
幾度目かの行為の後、己の本心に気付き、ついには愛を持ってエディフェルをその腕に抱く次郎衛門。想いが通じた喜びに、涙するエディフェル。

そして夢は別れの場面に続く。

実の姉によって裏切り者として殺されるエディフェル。それに涙する次郎衛門。


そこで私は目が覚めた。
枕元に置かれた時計を見ると、どうやら一時間ほど眠っていたらしい。
耕一さんとの約束を思い出し、まだ少し眠気の残る体で、彼の部屋へ向かう。

その時の私は知る由もなかった。

私とほぼ同じ時間に、耕一さんも眠りについていたと言う事を。そして、彼もまた、過去の出会いを夢に見ていたと言う事を……。

耕一さんの部屋に向かう途中。彼の部屋から出てきた初音に会った。

「あれ、楓お姉ちゃん、耕一お兄ちゃんに用事?」

私が小さく頷くと、耕一さんはつい先程まで寝ていたが、今は眠気覚ましにお風呂に入っている事を教えてくれた。
入浴が終わるのを待っていても良かったはずだった。
でも私の足は、自然と浴室に向かっていた…。

脱衣場の扉を開けると、脱衣かごの中に見慣れた耕一さんの衣服があった。
すりガラスの向こうには人影が浮かび、中からは小さな呟き声が聞こえてきた。

ゆっくりと浴室のドアに近付き

「耕一さん…」

と小さく呼び掛ける。

「…えっ? 誰? …千鶴さん?」

少し慌てた様な声。私が名乗ると、その慌て方はますます大きくなった。

「…今朝の約束…憶えてますか?」

私が小さな声で尋ねると、少しの間の後、

「話が…あるって言ってた事?」

と答えが返ってきた。

「お風呂から出たら、私の部屋へ来て欲しいんです」
「あ、ああ、いいよ。分かった…」

用件を済ませ、部屋へ戻ろうとする私。
だがそんな私を耕一さんは、

「楓ちゃん。俺、すぐに風呂出るから、俺が行くまでどこにも行かないで、待っててくれよ」

と、酷く慌てた声で呼び止めた。

彼が何を考えてそう言ったのかはわからない。
でも私は一言、

「…はい」

とだけ答えていた。




Y


それから五分ほど後…。耕一さんが私の部屋にやって来た。

部屋に入った耕一さんは、何も言わずしばらく私を見つめていたが、やがて

「…楓ちゃん、話って何?」

と、本題を切り出した。

「…………」
「言い辛い事なのか?」

私が言い淀んでいる事を察したのか、耕一さんは私を優しく促した。

あくまで私に優しく接する耕一さん。
だが私は、

「…明日、帰って下さい」

と、短く、そして冷たく言い放った。
耕一さんは一瞬言葉を失った。だが、必死に言葉を紡ぐ。

「…そりゃ、土曜には帰る予定だよ。今日が火曜だから、あと四日後には……」
「駄目なんです! ……それじゃ…駄目…なんです…」
「駄目って、何が駄目なんだ?」
「…時間がないんです……」

それっきり私は、口を噤む。

耕一さんは、私の話が全く理解出来ないと言う表情でしばし呆然としていたが、不意に両手で私の肩を掴んだ。

「俺を見て、楓ちゃん!」

有無を言わせぬ強い口調。
逆らうことが出来ず、耕一さんの目を見つめ返す。

「…俺と一緒にいるのが嫌なのか? …俺の事が嫌いだから、…だから早く帰れなんて言ってるのか?」

苦笑気味な笑いを浮かべ尋ねる耕一さん。
その表情に、言葉に、胸が激しく締めつけられる。
今にもこぼれ落ちそうになる涙を必死で堪え、大きく首を左右に振る。

「…じゃあ、好き?」

不意の言葉に、鼓動が激しくなる。
だが、次の言葉は、何よりも私の心を熱くする物だった。

「…ど、どうやら俺の方は、君の事、好きになってしまったらしい」

照れているのか、まるで他人事の様に言う耕一さん。
でも、そんな事は些細な事だった。
何よりも聞きたかった言葉。ずっと待ち望んでいた言葉。
それが、目の前にいる大好きな人から、与えられたのだ


もうどうなっても構わない。
それがどんな結果を生む事になるとしても、最早、自分の気持ちを抑える事は出来なかった。
だから……


「…私…小さい頃から…不思議な夢を見ます」
「不思議な夢?」
「…その夢の中には…いつもある男の人がいて、その人を見ると…私、何だか懐かしくて…胸が苦しくなるんです……。…その人が…耕一さんだってことは…ずっと以前から気付いていました」
「えっ?」
「…だから私、耕一さんの事、ずっと以前から…、す…、す…、す…好きでした…」
「…お、…俺の事が…好き?」

耕一さんの確かめる様な問いに、私は小さく頷いた。

そして、私はそのままゆっくりと瞳を閉じる。

「…楓ちゃん…」

耳元で囁く耕一さんの声が聞こえ、そして…二人の唇がゆっくりと重なった……。


全身をまさぐる耕一さんの手。その度に体が勝手にピクピクと反応する。愛する人に抱かれる喜びが、その快感を何倍にもしていた。
やがて耕一さんが私の中に入ってくる。初めての痛みよりも、耕一さんと結ばれた喜びで胸が一杯になった。
やがて耕一さんが達する瞬間、耕一さんは私をこう呼んだ。

「エディフェル」と……。




Z


「楓ちゃん…詳しく話してくれないか、鬼の…いや、エルクゥの事を」

あれからしばらく後。
耕一さんは真剣な面持ちで私にそう言った。
私は小さく頷き、話を始めた。
エルクゥと柏木一族の、呪われた血の宿命を……。


かつてこの地に、他の星からやって来たエルクゥという名の狩猟一族が住んでいた事。
そしてエルクゥの血は、次郎衛門と、エディフェルの妹、リネットによって現代に受け継がれている事。
その血を受け継いでいるのが、他ならぬこの柏木一族である事。
鬼の血を受け継いだ男に待つ、辛い宿命。
私達の父も、そして耕一さんの父である賢治叔父さんも、その宿命に勝てず、自ら命を絶った事。

「…私…耕一さんに全てを伝えたかった。…柏木家の事も、夢の事も、…全てを正直に伝えたかった。…でも、出来なかった。それがきっかけで、耕一さんの鬼が目覚めてしまうかもしれないから……。…近付く事も出来なかった。…私と耕一さんは、特に意識の関わりが深いから…側に近づくだけで、心が伝わってしまうかもしれない……。…もしも、あなたの鬼の力が目覚めてしまったら、もしも、あなたがそれを制御できなかったら。…私は恐くて、側に近づく事が出来なかった……」
「……そうだったのか。……それで、俺の事……」

私の言葉に、耕一さんは合点がいった様に呟く。
その言葉から、耕一さんが私に避けられ辛い想いをしていた事が、手に取るように分かった。

「……でも」

私は俯きがちだった顔を上げ、しっかりと耕一さんを見つめた。
そう、私には告げなければならない事があった。
ある意味、死刑宣告にも近い言葉……

「…あなたの中の鬼は、確実に目覚めつつあります」
「…目覚めつつある?」

耕一さんの言葉にしっかりと頷き、言葉を続ける。

「…ここに来て以降、何かが、耕一さんの意識に影響を与えているんだと思います…」
「何かって?」
「…それは判りません。…でも、誰かの強い意識が、耕一さんに影響を与えている、…そんな気がします」
「誰かって、…この家の誰か?」
「…そうかも知れませんし、…もっと別の誰かなのかも知れません…」

私は一瞬躊躇ったが、再び言葉を続けた。

「…耕一さんの鬼は、日増しに強くなっている。私にはそれが判ります。…そして、その事は千鶴姉さんも気付いています…」
「千鶴さんも…?」
「…はい。ですから一刻も早く、向こうの家へ帰って下さい。…もしも、…もしも耕一さんが、鬼を制御出来ないと判れば、…千鶴姉さんは、…千鶴姉さんはあなたを……」

「…あなたを…殺さなければなりません」

私の言葉は、戸口から聞こえた別の声に遮られた。
そこには、戸の透き間から、悲しげな瞳で中を覗く千鶴姉さんの姿があった。

「…千鶴さん、立ち聞きしていたの?」
「…ごめんなさい」

苦笑しながら尋ねる耕一さんに一言だけ答える千鶴姉さん。
その姿には、いつもの日溜まりのような温かさは感じられなかった。

「…俺を殺すって…どう言う事?」

耕一さんの問いに答えることなく、ただ深く俯くだけの千鶴姉さん。
そんな姉さんの姿に、私は胸騒ぎを感じた。

「楓……」

姉さんが呟くように私の名を呼ぶ。
胸騒ぎは益々大きくなっていく。

「…もう遅いの。…今更耕一さんを向こうに帰したところで、ここまで大きくなった鬼は、いずれ完全に覚醒してしまう。…後は時間の問題よ。…もう誰にも止める事は出来ないわ……。…逆に、都会に戻ってから耕一さんが目覚めたら、ここにいるより、被害が大きくなるわ……」
「ちょっと待ってよ、千鶴さん。俺、そんな、自分が鬼として目覚めつつあるなんて信じられないよ。…いつもと何の変わりもない俺なんだ」

耕一さんが慌てて口を挟む。
だが、千鶴姉さんはそんな耕一さんを悲しそうに見つめ、

「…不思議な夢を見ると…仰いましたね。自分の中から何かが這い出そうとする夢を見ると。まさしくそれが目覚めの兆候です。……そして何より……私達はそれを感じるのです。…あなたの中で、同じ鬼の力が目覚めつつあるのを……感じるのです……」

と告げた。


部屋中を沈黙が支配する。
が、それを破ったのは再び千鶴姉さんだった。
妙に改まった様な、思い詰めたような表情で耕一さんを見る。

「…耕一さん。…お願いがあります。……あなたが鬼の力を制御出来るかどうかを試させて下さい」
「…試すって…どうやって?」
「あなたの中の鬼を、私が目覚めさせてみます」
「姉さん!」

千鶴姉さんの言葉に私は耳を疑い思わず叫んだ。

「わかって楓! 今の耕一さんは、何時爆発するかも判らない、危険な爆弾の様な物なの。このままにして置くわけにはいかないのよ!」
「でも!」

「…わかった。…試してみてよ、千鶴さん」

それまで俯き沈黙していた耕一さんが、不意に顔を上げハッキリと言った。
その顔には、全てを悟った様な不思議な落ち着きがあった。

「遅かれ早かれ、どうせいつかはその日が来るんだ。…だったら、死刑の日を待つ囚人みたいな気分で居るより、スッキリさせた方が気が楽だ」
「で、でも…」

言葉を発しかけた私を制し、耕一さんはニッコリと笑い

「…大丈夫だって。昔の俺は、鬼の力を制御することが出来たらしい。…きっと、今も出来るはずだ」

と自信ありげに言う。

「…じゃあ、いいんですね?」

千鶴姉さんの問いに、力強く頷く耕一さん。
私には最早、耕一さんを信じ、見守る事しか出来なかった。


「…では、場所を変えましょう。…記憶の奥底に閉じこめられた鬼を呼び起こすには、耕一さんの思い出の場所が最も適しているでしょうから……」


千鶴姉さんの言葉に従い、私達はあの場所に向かう事になった。
かつて耕一さんが鬼の力に目覚め、そしてそれを記憶の彼方に封じ込めた運命の場所へ……。

こうしてついに、悲恋物語は最終幕を迎える……。




[


家を出て15分ほど歩いたところに、その場所はあった。

「ここは…水門?」
「…どうしてこの場所を選んだか、判りますか?」
「…いや」
「…耕一さん、憶えていませんか? かつて、この場所で、あなた自身の身に、何が起こったかを……」
「この場所で? …俺に、何かが起こったって?」

そう、あれは今から10年以上前の、暑い夏の日の午後の事。

「…俺、今までここには一度しか来た事がないよ。梓と楓ちゃん、それに初音ちゃんの四人で、魚釣りに来た…その一度しか」

千鶴姉さんを除く私達姉妹と耕一さんが、この水門で遊んでいたまさにその時、ある事件が起こった。
きっかけは些細な……でも、すごく重大な……

「…あの時、梓の奴が川で溺れたんだ。…あいつは靴をなくして、その事でいつまでも泣いていた……」
「…耕一さん。…その時、あなた自身にもある重大な事が起こったのです」

水の中に落ちた、梓姉さんの靴。
それを捜すために川に飛び込んだ耕一さんは……

「…梓が川で溺れた後、…あなたは、…死にかけたんです」
「死にかけた…って、この俺が?」

あの時川に飛び込んだ耕一さんは、水底に沈んでいた古いワイヤーロープに足を捕られ、溺れかけた。

「……そして……死の淵を垣間見た瞬間、あなたは、その幼い歳にも拘わらず、自分の中に眠る鬼を目覚めさせてしまう。…あなたは自らの手でワイヤーロープを引きちぎり、辛くも窮地を脱すると、水面に出て、そして……」

不意に起こった風が、姉さんの髪をなびかせる。
まるで、その瞬間の表情を、耕一さんに見せまいとするかの様に…

「…殺戮の衝動に駆られ、この子達三人を殺そうとした……」

長い沈黙。
あまりに衝撃な千鶴姉さんの告白に、言葉を失っている耕一さん。
悲しげに耕一さんを見つめる、千鶴姉さん。
そんな二人をただ見ている事しか出来ない私。

「……よく……理解…出来ない……」

やがて、耕一さんがゆっくりと口を開いた。
だがその声は、耕一さんの動揺を現すかの様に震えていた。

「……俺には……そんな記憶なんて……」
「…記憶がないのは……あなたが記憶ごと鬼の力を心の奥底に封印してしまったから……。水門で自分が溺れた事も、鬼の力に目覚めた事も、楓達にその刃を向けた事も……。まだ力が弱かったにせよ、その時一度、あなたは鬼を制御する事が出来たのです。…だから、今回も…きっと…私は信じています…」

その直後、姉さんの目つきが変わった。
いつもの優しい瞳ではなく、獲物を狙う獣の様な鋭い目。
それは姉さんが自らの鬼を解放した徴だった。

「感じて、耕一さん。…心の奥底に眠る、自分の本当の力を……」

そんな千鶴姉さんの声に応える様に、耕一さんの身体に変化が訪れた。
身体中の筋肉という筋肉が大きく膨れ上がり、それに合わせて体格も大きくなっていく。
口には大きな牙が生え、そして爪もまた、刃物のように鋭く伸びていった。
その姿は、おとぎ話に出てくる鬼そのもの……。

「こ、これが…耕一さんの鬼……まさか…これほどに大きな力を……」

千鶴姉さんが呟く。
その声には、わずかな焦りがあった。


鬼化が終わった後、しばらく動かなかった耕一さんだったが、やがてその目をゆっくりと千鶴姉さんに向けた。
それを見た姉さんが叫ぶ

「駄目! 制御しきれてないわ!」

「……!」

信じたくなかった。耕一さんが鬼の力に負けてしまったら……即ちそれは……

「耕一さんっ!」

耕一さんに縋り付き、必死に呼び掛ける。

「鬼に負けないでっ! 負けちゃ駄目っ!」

だが、そんな言葉を意に介する様子もなく、耕一さんの腕が振り下ろされる。

「危ない、楓!」

…ぶおんっ!

咄嗟に私を押し倒した姉さんの頭上を、耕一さんの太い腕が掠める。

「無駄よ、楓! あれはもう、耕一さんじゃないわ! 殺戮の欲望に取り憑かれた鬼なのよ!」

千鶴姉さんが叫ぶ。

「…で、でも…」
「今だって、何の躊躇いもなくあなたを殺そうとした。もう、耕一さんの意識は残ってないわ!」
「ち、違うわ! あれは耕一さんなの! お願い、耕一さんを殺さないで!」
「楓! お父様や叔父様の事を忘れたの!? 鬼の力に翻弄されて、苦しみながら死んでいった二人の姿を忘れたの!?」
「だけど!」
「耕一さんはもう、殺戮を求めるだけの獣に成り果ててしまった。今、何とかしないと、何の関係もない沢山の人達を殺すわ! そうなる前に、せめて私が…せめて私が…この手で耕一さんを……」

鬼の力に振り回される耕一さんを殺そうとする千鶴姉さんと、耕一さんを救おうとする私。
二人の主張は平行線を辿っていた。
そこに再び、耕一さんの一撃が襲う。

…ぶおおおんっ!

「きゃああああっ!」

そのあまりの衝撃に、私の体はいとも簡単に吹き飛ばされた。

「楓っ! もう十分でしょ!? 次こそは殺されるわ!」

耕一さんを牽制しながら、姉さんが叫ぶ。
それでも私には、耕一さんを見殺しにするなんて出来なかった。

「幸い、まだ十分にコントロール出来ていないみたいだわ。…今なら、私でもあるいは……」

そう呟く姉さんの周囲の空気の流れが変わった。
その目が薄く細められた。
獲物にとどめの一撃を加えようとする、肉食獣の目。
それは、慈悲の欠片もない、氷の様に冷たい目

「…耕一さん、あなたを…殺します」

姉さんの目から、一滴の涙がこぼれ落ちる。
まるで、別れの手向けの様に。

「…今夜の事が、夢である事を信じたい…」


頭の中が真っ白になって何も考えられなかった。
『耕一さんが殺される…』
ただそれだけがわかっていて、そして…

ダッ!

私は無意識のうちに走り出していた。
例えどんな姿であったとしても、例えそれが人の心を失った鬼であったとしても、私にとっては耕一さんでしかなかった。
ずっと好きだった耕一さん。私を好きだと言ってくれた耕一さん。そんな耕一さんを失いたくなかった。

懐に飛び込む姉さんの右腕が振り上げられる。
それを迎え撃つべく、身を低く構える耕一さん。
そして私は、その耕一さんを庇う様に、その前に立ち塞がった。

「……!」

それは瞬き一つの僅かな時間。
私の姿を目にした姉さんの目が、大きく見開かれた。
でも、既に振り上げられていた右腕は止める事が出来ず……振り下ろされ……そして……


姉さんの爪が、私の体を切り裂いた………


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 楓ぇ! かえでぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

慌てて駆け寄り、私を抱き上げる千鶴姉さん。
その腕の中で、薄れ行く意識を必死に繋ぎ止め必死に呼び掛ける。

「…ね…ねえさん…」
「かえでっ!? かえでっ!」
「…お…お願い…こ…耕一…さんを……助けて……あげて……」
「…かえで…あなた…まだ…そんな……」

その時不意に、誰かが歩み寄る感じがした。
この気配は…耕一さん……?

「…楓ちゃん…俺、鬼の力を克服できたよ。…鬼を制御する事が出来たんだ…。…君の…君のお陰で、…俺は鬼を制御する事が出来たんだ…。……これからだったんだ。…これからようやく、昔の約束を果たせるはずだったんだ。…なのに、…なのにこんな事って…こんな事って…。……もしかして俺達って、こう言う運命なのかな……」

…ポツリ。

頬に冷たい雫が落ちる。
そう言えばあの時も、あなたはこうして私の為に涙してくれた。

あの時交わした約束……せっかく迎えに来てくれたのに……私……もう……


やがて私の意識は、暗闇の中に沈んでいった……




\


気が付くと私は、暗闇の中に一人立っていた。
見渡す限り一面の闇。
気を付けなければ、自分の姿さえ見失ってしまいそうだった。

「…楓…」

不意に私を呼ぶ声が聞こえた。
声のした方を見ると、先程まで暗闇の一部でしかなかった場所に、白い光の塊が浮かんでいた。

「…楓…」

光が再び私の名を呼ぶ。
やがて光は次第にその姿を変え始めた。徐々にではあるが、それは人の姿に近付いていく。
そしてその時私は理解した。それが誰であるのかを……。

「エディフェル…」

かつて許されぬ愛故に命を落とした、もう一人の私。

「あなたがいると言う事は…私、死んだの?」

私が尋ねると、完全に人の姿となったエディフェルは、小さく首を振った。

「いいえ、あなたは死んではいないわ。もっとも、リズエル…いえ、千鶴が攻撃を逸らせるのが、あと一瞬でも遅れていたら、あなたの命はなかったでしょうけれど……」
「姉さんが……。…! そうだ! 耕一さんは?」
「大丈夫。彼はエルクゥの血に勝ったわ。あなたのお陰でね」
「それじゃあ……」
「ええ…これであなた達を縛る物は何もなくなったわ。さあ、帰りなさい。あなたの愛する人の所へ。そして、私達の分まで幸せになってね……」
「エディフェル…」

私が頷くと、エディフェルの姿はゆっくりと消えていった。

「ありがとう、楓。私達の果たせなかった願いを叶えてくれて……」

と言う感謝の言葉を残して……。




]


「……楓?」

私が目を覚ますと、そこには涙に濡れた千鶴姉さんの顔があった。
姉さんはしばし呆然としていたが、やがてその顔が喜びのそれに変わる。

「楓…良かった…気が付いたのね!」
「…姉さん…」
「良かった…本当に良かった……」

私を抱きしめ、姉さんはしばらくの間泣き続けていた…。

エディフェルの言った通り、姉さんの攻撃は紙一重の差で急所を外れていた。
その傷も、エルクゥの持つ回復力によって、既に消えつつある。


「…楓。耕一さんの所に行ってあげなさい。あなたの無事を、誰よりも望んでいるはずだから……」
「…はい」

頷き私は歩き出した。大好きなあの人の元へ……


「耕一さん…」

小さく呼び掛ける。
が、耕一さんは小さく首を振り

「やめてくれよ、幻聴なんて……。これ以上、感傷に浸らせないでくれよ……」

と呟いた。

どうやら私を殺してしまったと思い込み、その罪悪感に苦しめられていたらしい。

「耕一さん…」

耕一さんの肩を軽く叩きながら、もう一度呼び掛ける。

「か、楓ちゃ…」

慌てて振り返り、私の姿を見て、言葉を失う耕一さん。
私はもう一度あの人の名前を呼んだ。

「耕一さん…」
「…楓ちゃん…生きて…?」
「…はい。…あの時、千鶴姉さんが咄嗟に手を逸らしてくれたお陰です…。…少し傷は残りましたが、私達なら…それもすぐに消えますから…」
「……」
「…耕一さん?」
「本当に楓ちゃんなんだな?」
「…えっ?」
「夢でも幻でもない、楓ちゃんなんだな?」
「は、はい」
「間違いなく、俺の楓ちゃんなんだな!」
「きゃっ」

耕一さんが私を力一杯抱きしめる。
少し苦しかったけど、その苦しさが嬉しかった。
永き時を経て再会した二人。
悲しい宿命によって引き裂かれた想いは、今、再び一つになった。

「…楓ちゃん。…もう俺達を縛る物は何もない。一族の掟も、呪われた血の宿命も、もう、俺達には関係ないんだ。…これからは、ずっとこうして近くにいられる。…やっと、あの時の誓いが果たせるよ。…楓ちゃん、もう、これからは寂しい想いはさせないからな。…きっと幸せにしてみせるからな」
「…この温もりも、…この力強い腕も、…耕一さん、私…ずっと忘れませんでした。あなたが言った言葉、きっと迎えに来るって言葉、私、忘れませんでした。…だから、いつか、こうして抱きしめて貰える日をずっと…夢みて待ってたんです」
「楓ちゃん…」

互いの顔が近付き、そして唇が重なり合う。
穏やかな朝の陽射しの中、二人は口づけを交わし続けた……


それは、雨月山の悲恋物語が終わり、新たな愛の物語が幕を開けた事を告げる合図だった……




あとがき


久しぶりの作品です。しかも、SSではなく、長編です(って言うほど長くもないですけど)。

実はこれ、当初予定した「楓本」の載せるはずだった作品なんです。
サークルの運営方針を変更したためにお蔵入りになった「楓本」ですが、この作品だけは完成していたし、このまま埋めてしまうのも勿体ないと思って、今回の発表となりました。
しかも、当初発売予定だったイベントの開催日に合わせて……(^^;)

作品自体は、良くあるパターンのアナザーサイドストーリーで、耕一の目で描かれていた本編を、楓サイドからトレースした物です。
本編内で耕一が様々な行動をしている中、楓が何を考え、どの様な行動をしていたかを、私なりに考えて書いてみました。

ちなみに、この作品は「私の本気だよ(by・水瀬名雪@Kanon)」って感じです。
もし良かったら、感想でも送ってやって下さい。

それでは、また次の作品で……

’01.4.29 君影麻耶・拝

BGM「Sister Princessイメージアルバム・my sweet twelve angels」



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