父と母から聞いた戦争の話

 

父は、太平洋戦争開戦時、新潟工業学校(現 県立新潟工業高校)の二年生でした。開戦を知らせた真珠湾攻撃の放送は、自宅で登校前に聞いたそうです。その日も普通に授業があったそうです。
開戦後も、授業はだいたい普通に行われてきましたが、昭和19年4月からおかしくなってきて、ほとんど勤労奉仕で授業どころではなかったそうです。昭和20年3月に米沢工専(現 山形大学工学部)へ進学が決まった後も、戦争末期の混乱の中で自宅待機を命ぜられ、7月まで新潟鉄工山ノ下工場で引き続き勤労奉仕をしていました。。
8月に工専から、鶴岡に集まれと連絡がきて、(羽黒山のふもとで松根油をつくるための松の根堀の予定。)そこで、終戦を向かえました。

母は、太平洋戦争開戦時、宮浦高等小学校在学中で、終戦時は、翌年第一勧業銀行へ就職していました。戦争中も仕事は普通に行われていたそうです。

戦争が始まる前の雰囲気は、配給制が始まり、だんだん物事が窮屈になってきた。応召が多くなってきた。といった感じだそうです。特に不安を感じることはなかったそうです。それと気が付かないうちに、戦争が近寄っていたのです。

 

空襲

昭和20年の初夏だった思う。空襲に備えて、銀行の書類を本町に借りた蔵へ運ぶため、同僚の女子行員と一緒にリヤカーを引いていた。当時、二番堀と古町の交差点の橋上に交番があり、そこまで来たときに上空に飛行機が飛んでいるのが見えた。「友軍機かしら。」と、皆で手を振っていると、交番のお巡りさんに、「バカ!空襲警報がでているんだ。早く逃げろ。」と怒鳴られて、とたんに足がすくんで動けなくなってしまった。(母の話)

それまでも、たびたび夜間にB29から機雷の投下があった。落ちてくるパラシュートがかすかにみえることもあった。探照灯に捕らえられたB29が、被弾し、炎上、墜落するのを目撃した。火の玉になり、すごく明るかった。飛行機が燃えるとこんなに明るくなるものかと思った。
それまでは比較的のんきなもので、空襲警報のサイレンがなっても、爆音が聞こえると通りに人がぞろぞろとでてきて見物をしていた。高射砲の曳光弾は小さな花火のようにみえた。(父の話)

8月10日の昼頃、空襲警報がなり、ラジオで艦載機が飛来すると放送があった。それまでは、機銃掃射も焼夷弾の爆撃もなかったので、相変わらずのんびりとしていた。自宅の玄関から空を見上げていると、海の方から飛行機がポツポツと編隊を組んでやってくるのが見えた。あれだなと思ってみているうちに、編隊を解いてぐるぐると回り始めた。そのうちの一機が、頭上をかすめるようにつっこんできて、東入船町の方へ機銃掃射をした。(後で島本鉄工所が銃撃を受けたと聞いた。)翼に特徴のあるシコルスキーで、飛行眼鏡をしたパイロットの顔がはっきりと見えた。オレンジ色の曳光弾がきれいに見えた。
ひょいと向きをかえると、土煙と火柱の上がるのが見えた。風間小路の方だった。それを見て、肝をつぶし、あわてて防空壕に逃げ込んだ。頭の上で、爆音が行き交うのを聞きながら、空襲が終わるのを待っていた。空襲が終わった後、工業校へ行く用事があり、風間小路の現場を通ったら、民家が一件、ぐちゃぐちゃに壊れていた。火事になった形跡はなかった。(父の話)

同級生は、河渡の東洋合成というところへ動員されていた。隣の工場が攻撃目標だった。必死になって避難する途中、艦載機の落とす薬夾が屋根に当たる音が聞こえたという。(父の話)

8月13日、鶴岡へ行くために、新津駅へ向かう途中、爆音がしたのであわてて木陰に隠れた。飛行機は見なかった。(父の話)

8月13日か、14日だったと思う。疎開先の鳥屋野から銀行へ行くために、日本軽金属の前の渡し場で舟を待っていた。待合い小屋にいた人のラジオで警戒警報がでているのを知った。そのうちにサイレンが鳴り、同時に爆音がした。最初は待合い小屋でじっとしていたが、飛行機が通り過ぎるのをみて怖くなり、慌てて防空壕へ飛び込んだ。どんな飛行機だったかはよく覚えていない。(母の話)

 

機雷

新潟港には、B29により、多数の機雷の投下があった、新潟でもおおくの船が触雷し、被害を受けた。新潟鉄工所の入船工場と対岸の山ノ下工場の間で鉄工丸という船が連絡船として往復していた。新潟鉄工所に勤労奉仕に動員されていたとき、何度も鉄工丸にのったことがあった。
昭和20年7月2日、鉄工丸の引く艀が触雷した。ちょうどその時は赤坂町の自宅にいたが、ズシーンと響く大きな音がした。驚いて外を見ると、窓から巨大な水柱が崩れ落ちるのを目撃した。工場の終了時間の直前の便だったため、乗っていた人は少なかったが、工場の人間や、勤労奉仕の生徒に死人がでた。死んだ人の中には、顔見知りの後輩もいた。(父の話)

 

疎開

艦載機の空襲があった昭和20年8月10日の深夜(12時頃)、「新潟沖に敵艦隊が来て艦砲射撃をするらしい。」という噂が立って、皆急遽避難をはじめた。避難するように、通を怒鳴ってまわる人がいた。新潟市の中心部の多くの人が大慌てで信濃川を渡ろうとしたため、万代橋や昭和橋はごった返した。持てるものをもって家族と一緒に万代橋までいき、そこでデマだとわかり引き返した。翌8月11日昼に、今度は本当に県から強制疎開の命令がでて、母方の実家の新津市七日町までリヤカーを引いていった。家族はそのまま七日町にとどまり、自分一人で新潟へ戻ってきた。(父の話)

8月10日の夕方は、一番堀までいって引き返してきた。翌日になったら本当に避難しろと県から命令があった。詳しいことはわからなかったが、とにかく逃げろということになった。リヤカーにお仏壇だけ積んで、母方実家の鳥屋野へ向かった。出発したのは昼をすぎてからで、たぶんリヤカーを探して遅くなったのだろうと思う。昭和大橋を渡って、越後線のガードの下で疲れて動けなくなり、自分一人だけ荷物の番で夜明かしをした。ほかにも人がいたので助かったが、怖かった。そのまま終戦まで、鳥屋野ですごした。(母の話)

 

終戦

鶴岡についてすぐのことだった。8月14日に、15日に重大放送があるという予告があった。当日の昼、軍関係や、動員された学生たちは、集会所になっていた近くの小学校に集まって聞いた。雑音がひどく、内容はよく聞き取れなかった。軍の松根油堀の部隊の隊長は、ソ連に対する戦線布告だと話をしていた。集会所では、すぐラジオのスイッチを切ってしまったのでよくわからなかったが、その後で放送内容の解説があったらしい。集会所から宿舎へ帰ってくる途中の民家のラジオで、初めて負けたとわかった。「これでやっと嫁さんがもらえる。」と誰かが言った。その夜は、明々と電気をつけて、どぶろくで大宴会をやった。あまり騒ぎすぎて、近所から不謹慎だと文句を言われた。その後は勝手に帰るわけにも行かず、芋掘りの手伝いをしながらしばらく鶴岡にいて、20日に学校から命令がでて帰宅した。(父の話)

終戦のラジオ放送は、鳥屋野で聞いた。何を言っているのかよく聞こえなかったが、終わりのほうは聞こえた。疎開後は、女子行員は自宅待機を命じられていたので、「また勤めに行かないといけない。」と思った。周りは、やれやれといった雰囲気で、これで夜電気がつけられると思った。(母の話)

新潟へ帰ってきたからしばらくは、何もすることがなかった。8月末に、出征していた父が復員する事になり、栃木県黒磯へ迎えに行った。切符の入手は困難だったが、行きは遠縁の鉄道員のつてで買うことができた。栃木からの帰りは、復員者は、切符と交換できる券を支給されていたが、自分の分はない。幸い、父と同じ部隊の一人が、トラックで帰ることになり、その分の券を譲ってもらうことができた。民間人とばれるとまずいので、新潟まで軍服を借りて着ていた。たまたま将校が前の席に座り、ばれるのではないかとドキドキした。父を迎えに行ったのは、荷物が多かったからで、かなりの量の米、塩、乾物だった。父は仙台の師団の輜重部隊に所属していた。今だからこそいえるが、本土決戦のため集積していた物資を部隊で配分したのではないかと思う。もちかえった荷物、特に塩は貴重品で、物々交換に非常に役に立った。(父の話)

9月になって、米沢工専から学校に来るように連絡があり、ようやく米沢に向かった。しかし、授業が正常に行われるようになったのは、さらに先のことだった。(父の話)

終戦後も、進駐軍がくるから女子は隠れているようになどと指示があり、正常に仕事に戻ったのは、9月末だった。(母の話)

 

 

子供のときは、歴史の教科書の1ページだった戦争。私が生まれる15年前の話です。15年という歳月。15年も前なのか、15年しかたっていないのか。
少なくとも私の世代にとっては、十分に手の届く時間でしょう。私たちは、新潟の歴史の一部として語り継ぐ責任をもっています。

(2000年8月7日の再掲載です。)

 

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