昭和43年5月  現在の浜浦橋西詰め付近

関屋分水の工事が始まったのは、昭和43年からでした。予定地内の家屋はそれまでに移転し、建物が取り壊された土地は、まるで大地震か大火事の後のようでした。私が小学校の通学路は、ちょうど分水の予定地を横切っていたので、その頃の様子ははっきりと憶えています。
工事が始まると一日中、杭打ちの音と振動が家の中まで鳴り響きました。掘削した土砂を運ぶために大型ダンプが列をなして走ります。ちょっと前まで遊び場だったところが見る間に掘りさげられていきました。

昭和43年5月  現在の可動堰〜浜浦橋付近の掘削工事。砂丘の向こうが海岸。

上の写真は、今の可動堰から浜浦橋にかけてのあたりでしょうか。この辺は工事の始まる前から大きな窪地になっていて、当時の電電公社のケーブルのドラムなどが放置してあり、子供達の格好の遊び場所でした。
写真右上が関分記念公園のあたりです。

昭和43年5月  上の写真と同様、現在の可動堰〜浜浦橋付近の掘削工事。

掘り出した土砂を運び出すダンプカーが行列をつくりました。上の写真は奥が海岸だと思われます。
当時、浦山町方面から関屋中学校や新潟工業高校へ通っていた生徒達は、通学の都度にこんな風景を見ていたはずです。

昭和43年5月  現在の浜浦橋付近の掘削工事。文京町方向を望む。

昭和43年5月  現在の可動堰付近の掘削工事。現在の関屋堀割町方面を望む。

上の写真左上の浦山町のあたりは、現在でも昔の面影をのこしています。
浜浦橋と可動堰の間の土地には、関屋分水ができる前は、ここに桃林舎(酪農&牛乳の販売)や有明幼稚園がありました。浜浦町線もここで行き止まりでした。

昭和43年5月  ほとんど移転取り壊しのすんだ後の予定地内。

上の写真は、海岸に近いあたりだと思われますが、はっきりわかりません。用地内の大部分の家の撤去がすみ、建物の基礎だけがひろがっていました。なにかの遺跡のようでした。
当時は松林や空き地が多かったから用地の買収もなんとかなったのでしょうが、新潟市の中心部の至近によくもこんな大工事ができたと思います。やはり偉業と言うべきでしょう。