昭和34年  堀割3丁目(現在の関屋堀割町)裏の海岸

昭和30年代になると、新潟市の海岸の浸食や地盤沈下が大きな問題になってきました。それでも関屋から小針にかけての浜は護岸工事もされておらず、昔ながらの海辺の風景をとどめていました。
夏の夕方などには、砂浜にうち寄せる波の音が涼感をかもしだし、日中の暑気疲れをいやしてくれました。テトラポットやコンクリートの護岸にぶちあたる音とはずいぶんちがいます。
浜辺には、沿岸漁業の漁師小屋があり、網が干してあったり木製の小船がおいてあったりしました。

左の写真は、地引き網を巻き取るのに使う装置?です。女の子が登っている部分に棒をつっこんで回します。
わたしが小学校にあがった頃(昭和40年)は、すでに地引き網漁はレクレーションでしか行われなかったようですが、このころはどうだったのでしょうか。

 

昭和34年  堀割3丁目(現在の関屋堀割町)裏の砂丘地

新潟市の西海岸には砂丘が長くのび、日本海からふく風とあいまって、昔から防風防砂は重要な問題でした。住宅地が西に広がり、海に近づくにつれて防風林、防砂林とするための松の植林もさかんに行われました。
砂地を竹のすのこで区切り、その中に松の苗を植えていきます。ところどころには浜グミも植えてあり、秋になると赤い実をつけました。

上の写真はまだ植林されたばかりの様子です。この松は現在の海岸道路の両側に広がるものです。約40年もたっているのに数メートルにしか成長していないのが、砂と風の厳しさを物語っています。
遠くに帝石のガス井戸が見えます。「ガス井戸」で紹介した最初の写真に写っているものです。

昭和34年  堀割3丁目(現在の関屋堀割町)裏の砂丘地

子供のころ、どこまでも続いていくようにみえる道を、父につれられて散歩した記憶はいまでも忘れられません。私の原風景の一つです。
この道は海岸道路に分断されてしまいましたが、いまでも真砂町までたどることができます。道の両脇にはニセアカシアが茂り見通しがきかないところもありますが、格好の散歩コースです。

昭和48年 関屋堀割町裏の海岸 右奥が関屋分水の河口

関屋分水が完成後、日本海の荒波にそなえてテトラポットとコンクリートで守りを堅めた海岸。その後も浸食が進み、関屋分水河口の砂浜はほとんど姿を消してしまいました。