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昭和42年(1967年)の航空写真   写真所蔵 M.watanabe

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新潟市の平島から関屋浜へ流れる関屋分水路。信濃川の水を日本海へバイパスし、新潟を洪水から守る役目をはたしています。今では水路の両岸が整備され、周辺の人々の憩いの場所にもなっています。
また、関屋分水路ができたことによって、新潟市中心部は日本海、信濃川、そして関屋分水路にかこまれて"新潟島"と言われるようになりました。

関屋分水が完成したのは、昭和47年(1972年)です。新潟市中心部の至近距離のこの場所に、よくできたものだと思います。
写真は、関屋分水の工事の着工前のもので、予定地上の家屋の移転がそろそろ始まったころだったと思います。この写真は、小学校の記念行事に撮影されたもので、撮影の日にグラウンドにでて人文字をつくったことを覚えています。

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新潟で信濃川の分水路をつくる構想は、かなりむかしからあったようですが、現在の関屋分水の具体的な計画は、新潟港を信濃川の土砂から守るためにはじまりました。
昭和39年(1964年)に国から認可された計画は、当初は県の事業で行われる予定でしたが、新潟地震のために県の事業としてやっていく目処がたたなくなりました。
その後、新潟市の働きかけなどもあり、今度は国の直轄事業となりました。
私の実家は、当時の新潟市堀割町3丁目にあり、分水路の法線にかかるか、かからないかといったところにありました。計画が発表されてから、当然地元住民への説明や交渉があり、私の父も連日の会議や寄合にでかけていきました。着工までは、かなりの紆余曲折があったようです。分水路の幅も、もっと大きくする計画も合ったようです。住民側から住宅の少ない青山稲荷の脇を通るコースが提案されたりしました。
それでもなんとか、用地買収や補償の話がまとまり、昭和43年(1968年)5月に関屋分水路の起工式が行われ、昭和47年(1972年)5月の通水式までの、わずか4年あまりの突貫工事がはじまりました。
私が小学校に入学したのが、昭和41年の春でした。ほぼ小学校の全期間を、関屋分水路にかかわる変化の中で過ごしました。季節がかわるたびに、私の通学路の風景は大きくかわっていきました。
本格的に工事が始まったのは、小学校の中学年のころだったでしょうか。関屋分水の工事は、大規模で大変なものでした。大量の見たこともない重機がうなりをあげ、無数のダンプカーが行き交っていました。朝から夕方まで杭うちの音と振動が続きます。
当初、移転が住んで火事の焼け跡のようだった住宅地が掘り下げられ、巨大な貯水池のような水たまりになりました。国道8号線、116号線、有明線、浜浦町線などの主要道路は迂回路がつくられ、橋脚工事がはじまりました。
国道116号線の有明大橋で橋桁をかける工事では、下で錨を焼いて上へ放り投げると、上でやっとこのようなもので捕まえて錨打ちをする名人芸が見られたそうです。(兄はみたそうですが、残念ながら私は覚えていません。)
大量の赤トンボが発生していた水たまりは、冬になると時々氷が張りました。学校からは危険なので近寄ってはいけないといわれていましたが、しばしば水辺に行って足で氷を割って遊びました。遅刻しそうになった子供が、斜めに横切ったとか、氷が割れてびしょぬれになったといううわさを聞いたことがあります。
通水式の前の年だったとおもいますが、水たまりの水をポンプで汲み上げました。すると泥のなかから大量の鮒や鯉があらわれ、聞きつけた大勢の子供や近所の人たちで,数日間、盛大なつかみ取りがおこなわれました。もちろん、みんな勝手にやっているんですが、臭い泥に膝上までつかりながらも、一生懸命で楽しそうでした。バケツに何杯もとれ、後で始末に困りました。

夕日に輝く関屋分水  2000年9月

あれから、30年近い月日がたちました。関屋分水でもいろいろなことがありました。
橋から車が飛び込んだことがありました。
泳いで横断している人がいました。
子供が溺れました。
噴水ができました。
今ではすっかり新潟になじんだ関屋分水。その関屋分水ができる前のお話です。

2000年11月11日