まるこの映画感想文



恋愛寫眞 Collage of our Life マルコヴィッチの穴
ミュージック・オブ・ハート  ワンダー・ボーイズ  ボーイズ・ドント・クライ 



恋愛寫眞 Collage of our Life

ある日、カメラマン瀬川誠人(松田龍平)の元に、3年前に別れた恋人・里中静流(広末涼子)から手紙が届く。
それは、今はニューヨークに住み、趣味で写真を撮り続けているという彼女からの個展の案内状だった。
同封されていた何十枚もの静流の写真は、どれもが生き生きとニューヨークの景色を切り取っていた。
一方、プロカメラマンという肩書きを持ちながら、自分が納得出来る写真を撮ることが出来ない誠人は、
自分がいたたまれなくなり、その手紙を捨ててしまう。
しかしその日の夜、偶然に再会した昔の友人から、誠人は意外な言葉を聞いた。
「静流は1年前にニューヨークで殺された」
彼女に想いを残す誠人は、その言葉が信じられず、真相を確かめるため、
わずか1枚だけ手元に残った彼女が撮った風景写真を頼りに、ニューヨークへと向かう。

“死んだはずの彼女から手紙が届いた”というこの映画のキャッチフレーズを見て、
私が真っ先に思い浮かべたのは岩井俊二監督の傑作『Love Letter』だった。
『Love Letter』は10回以上観ているというくらい大好きな作品なので、
正直言って、このキャッチフレーズにはあまりいい気持ちはしなかった。
でも実際に観てみると、この『恋愛寫眞 Collage of our Life』は、『Love Letter』とは全く違う作品だった。

厳密に言うと、“死んだはずの彼女から手紙が届いた”のではない。
“死んだ”というのはあくまでも友人の中の噂であって、誠人はそれを信じていない。
誰でも自分の愛する人の死を突然他人の口から聞いたところで、簡単に受け入れることは出来ないだろう。
ましてや“殺される”などという事は、あまりにも日常からかけ離れていて、信じろと言われる方が無理だ。
しかし静流に関しては、それだけではない。
大学時代に“謎の女”と呼ばれていた静流の周りには、いつも妙な噂が流れていて、
それが事実とは違うことを誠人だけが知っていたからだ。
「静流が死ぬはずはない」と誠人はつぶやき、真実を確かめるためにニューヨークへと向かう。
しかし、突き詰めれば突き詰めるほど、誠人は静流の真意が分からなくなってしまう。

物語は常に誠人の視点で進行し、恋の始まりから、彼女の才能への嫉妬、3年間封じ込めた彼女への想い…と、
恋するが故の切なさや、恋する気持ちが人に与えてくれるパワーを丁寧に描いている。
また、この作品はミステリー仕立ての恋愛映画で、真実は最後まで引っ張られ、
静流の“謎の女”っぷりは、誠人やクラスメイトだけでなく、観ている私たちをも翻弄させる。
“謎の女”を演じる広末涼子は、今までに観た彼女の作品の中で最高に役にハマっていて、
里中静流というキャラクターの強い女性を見事に作り出していた。
誠人役の松田龍平の棒読み英語だけが鼻について仕方なかったが、
これも観ているうちに何故だか気にならなくなってしまうのが不思議だった。

観終わった時には、オチに納得がいかなくて「そんなのありかなー」と思ってしまったのだけど、
「私が彼女だったら、それはありかもしれない」と思ったとたん、泣けてきた。
『ケイゾク』『トリック』など、過去のものとは少々毛色の違う作品だが、
シリアスに徹することなく、所々に堤幸彦監督ならではの小ネタもちりばめられていて楽しいし、
劇中に使われている写真の数々も素晴らしく、芸術映画としてのクオリティも高い。
手元に置いて何度でも繰り返して観たい、久しぶりにそんな気持ちにさせられた作品だった。



マルコヴィッチの穴

優れた才能を持つ人形使いのクレイグ(ジョン・キューザック)だったが、
それを生かす場所を見つけられず、街頭芸人として生きていた。
しかし、それにも限界を感じ、妻のロッテ(キャメロン・ディアス)にも促されて
クレイグは定職に就く決心をする。
ファイル整理の求人広告を見たクレイグは、とあるオフィスビルの7と1/2階にある小さな会社、
レスター社を訪れ、そこに就職することとなった。
ある日、会社でファイル整理をしていたクレイグは、キャビネットの裏に小さな扉を見つける。
興味をもって開けてみると、何とそこには“どこか”に通じる大きな穴が空いていた。
慎重にその中に入ったクレイグは、
自分がいつの間にか俳優ジョン・マルコヴィッチになっていることに気付く。

「あるビルの7と1/2階にあるオフィスの壁には大きな穴が空いていた。
穴の中に入って行くと、そこは俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中だった。
それは15分間だけジョン・マルコヴィッチになれる穴だったのだ」
…と、私的にはもうこれだけでオッケーだったりします。
まるで、夢の中で自分が体験するような、奇想天外で根拠のない不可解な出来事。
なんてシュールで素敵なアイデアなんでしょう。
しかし、それだけで止まらず、そこからの話の膨らませ方がまた面白いのです。
他人が自分の頭の中に入っていると気付いたマルコヴィッチがとった行動、
他人に自分の意識を乗っ取られたマルコヴィッチの変貌ぶり、そしてその顛末などなど…。
何が面白いのかなんて考えていると、訳が分からなくなります。
だから深く考えずに、その芸術性と奇抜さを楽しむ作品なのです。
小奇麗なイメージが定着していたジョン・キューザックと、いつもキュートなキャメロン・ディアスが
そのイメージを払拭させるような役柄に扮しているところも衝撃的ですし、
マルコヴィッチの友人役として、本人役で登場しているチャーリー・シーンの
自分を捨てきった演技には思わず絶句です。
また、それ以外にも多数の俳優たちが“その人自身”で登場しているのも見所。
でもはっきり映っているショーン・ペン、ブラッド・ピット…までは分かりましたが、
その他はどこに出ていたのかさっぱり分からず。
クレジットにはウィノナ・ライダー、ダスティン・ホフマン、ミシェル・ファイファー、
ゲイリー・シニーズなどの名前もありました。

レベル4.5



ミュージック・オブ・ハート

1980年、ロベルタ(メリル・ストリープ)は、2人の息子を連れて実家に帰って来た。
海軍将校であった夫が、女を作って家を出てしまったのだ。
ロベルタのヴァイオリニストとしての夢と才能を知っていた旧友ブライアン(エイダン・クイン)は、
彼女に学校の先生の職を薦めるが、彼が紹介してくれたのは
アメリカの中でもきわめて物騒な地域イースト・ハーレムにある小学校だった。
校長のジャネット(アンジェラ・バセット)は、
子供たちにヴァイオリンを習わせることに難色を示すが、
ロベルタの熱意に押されて、彼女を臨時教員として雇い入れることにする。

私は教育委員会が「若者よ、この映画を観て立派な人間になりなさい!」と言ってくるような
押しつけがましい教育ビデオみたいな作品はあまり好みではありません。
でも、この映画は好きでした。
なぜなら、この映画は自分の意志を通すために教育委員会に真っ向から戦いを臨んだ、
ひとりの女教師の生き方を描いたお話だからです。
この映画には、“他人が決めた意味のないルールに縛られず、自分自身が決めたルールに従う”という
『サイダーハウス・ルール』のテーマに近いものを感じました。
ブルジョアの象徴の楽器であるヴァイオリンを、スラム街の貧しい子供たちに教えようとするロベルタ。
最初は誰もが「ここの子供たちに出来るはずがない」「無意味だ」と言います。
恐らく“これは実話です”と謳われていなければ、私たちだってそう思うことでしょう。
誰もがきっと、愚かな固定概念に囚われているのです。
でも、ロベルタは「子供なら誰でも出来るわ」と言います。
意地を見せつけているのではなく、当たり前のようにサラリと。
音楽を知る喜びは、どの子供たちにも平等に与えられるべきだという信念が彼女にはあるのです。
“人を教えること”を義務とか自分の利益のためだと思わず、
自分の持てる知識と技術を分け与えて、その人の可能性を引き出すことを喜びと感じられる人間の素晴らしさ。
そしてそういう教師との出会いが、その人の人生をも変えてしまうのです。

ラスト近くに、ロベルタの母親のセリフで
「チャールズ(ロベルタを捨てた夫)に感謝しなければね」というものがあります。
「なぜ?」と聞くロベルタに、
「(あなたがここまでこれたのは)全て彼が出て行ってくれたおかげだから」と母親は答えます。
私は、このセリフがとても好きでした。
これこそが、この作品の隠れたテーマだと思うのです。
自分の人生にとってのマイナス要因は、その人のそれからの生き方次第でプラス要因へと変わっていくもの。
その方法を、この映画でロベルタは教えてくれてくれているような気がします。

レベル4.5



ワンダー・ボーイズ

大学教授で作家のグラディ(マイケル・ダグラス)は、前作で賞を取って以来、
“ワンダー・ボーイ”として文壇で脚光を浴びた存在であった。
しかし現在では、7年前に新作として書き始めた小説がいまだ結末へと向かわず、作家生命の危機にも瀕していた。
そんなスランプ状態から抜け出せないグラディに、友人の編集者テリー(ロバート・ダウニー・Jr)と
作家としての才能に恵まれた教え子のジェームズ(トビー・マグワイア)が絡み、
彼は人生最悪の週末を過ごす羽目になってしまうのだった。

“ワンダー・ボーイ”とは、人生の早いうちに大きな成功を手にした人のこと。
小説家や音楽家、実業家など、自分の夢で大成功をおさめたはいいが、
その地位を守り続けていくのは、きっと大変なことなのでしょうね。
特に才能を売り物にしている人たちは、一度売れたら次はもっと売れるものを生み出して行かなければならないのですし、
それをしなければ、あっという間に“過去の人”になってしまうのですから。
この作品は、長編デビュー作で一躍文壇の寵児となったマイケル・シェイボンが、
その後7年間のブランクを経てようやく発表し、ベストセラーとなった小説『ワンダー・ボーイズ』の映画化だそうです。

この作品の毒の効いたストーリーの面白さは分かりました。
俳優たちもピッタリと役にハマっていたと思います。
さすが、あの傑作『L.A.コンフィデンシャル』を撮ったカーティス・ハンソン監督だけあって、
観ているだけで“上手さ”も感じられました。
ひとことで言えば「よく出来た作品」。
でも、なぜかすっきりと「あー、面白かった」という感じが残らないのです。
それはやはり、アメリカ人と私たち日本人の文化の違いなのでしょうか。
この作品では、主人公たちは当たり前のようにマリファナや、クスリや、身を守るためのピストルを使い、
そして、それらがブラックな笑いを誘うために重要な小道具になっています。
でも、日本人にとってはやっぱりそれは“特別なもの”であり、時には嫌悪感すら引き起こすもの。
故にそれらを平気で使う主人公たちに共感するのが難しくなってしまっているのです。
アメリカ人と評論家へのウケは良さそうですが、普通の日本人には受け入れられ難い作品だと思います。

レベル3



ボーイズ・ドント・クライ

20歳になるティーナ・ブランドン(ヒラリー・スワンク)は、
女性の肉体を持ちながら男性の心を持つという“性同一性障害者”だった。
ひょんなことで見知らぬ町フォールス・シティに辿りついたブランドンは、
ラナ(クロエ・セヴィニー)という娘に出会い、恋に落ちる。
すっかり男性としてその町に住みついたブランドンだったが、
ある日、女性の肉体を持っていることがバレてしまい…

1993年に実際に起こった事件の映画化です。
救いようのない事件の映画化に、救いを求めること自体が間違いなのかもしれません。
でも、この映画が言わんとしていることは一体、何なのでしょう。
“性同一性障害”という病気が存在することも分かりましたし、
それが引き金となり、実際にとても悲惨な事件が起こっていたということも分かりました。
でも、この作品はその事実を伝えるだけに止まり、
肝心の「だから何なのか」「だからどうするべきのか」という部分が伝わってきません。
平たく言えば、この映画では観客に“性同一性障害”を理解させることが出来ていないということです。
例えば、自分が交際している男性が実は女だったとしたら、私はやっぱり嫌だろうし、
自分の家族(例えば妹とか)をブランドンに寝取られたら、許せないと思うでしょう。
それは、映画を観終わってもブランドンに共感出来る要素が何もないからです。
ブランドンと同性である私が共感出来ないものを、男性の方々に理解してもらうことはもっと難しいと思いますし、
このテの映画は、それを理解させてなんぼのものだと思うのですが…。
主演のヒラリー・スワンクは、この役でアカデミー賞主演女優賞を取ったことも納得出来る演技。
しかし、結局彼女を、いかに男性っぽく見せるかだけに終始した作品だったように感じました。

レベル3

で、タイトルの『ボーイズ・ドント・クライ』って、一体どういう意味?






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