「多良間島の豊年祭」レポート
6月9〜10日、国立劇場で上演された第90回民族芸能公演「多良間島の豊年祭」を見て来ました。わたしが見た9日の土曜日は、昼の部が舞踊中心のプログラムで、夜の部が「忠臣仲宗根豊見親組」という組踊でした。 以前多良間島に旅行した時から、「多良間の八月踊り」とも言われているこのお祭りにはとても興味がありました。竹富島の「種子取祭」、波照間島の「ムシャーマ」と並んで、この豊年祭もわたしが一度見てみたいなと思っているお祭りのひとつなのです。それが初めて東京で見られるというんだから、これはもう見に行くっきゃない……というわけで、土曜日の昼の部・夜の部両方のチケットを買い、ダブルヘッダー鑑賞態勢をととのえて会場に向かいました。 国立劇場に来てみると、あちこちで「あらー、あなたも来てたのぉ」なんて同窓会的風景がくりひろげられていました。首都圏在住の多良間島出身者、あるいは多良間島に親戚のいる人たちが全員集合しちゃったような勢いです。 ステージにはガジュマルの木や紅型風のハイビスカスの書き割りに囲まれ、紅白の布を巻いた棒でやぐらのようなものが組まれていました。そこに松竹梅鶴亀のおめでたい文様を染め抜いた紺色の幕が張られ、その上には「偕楽」と右から左に書かれた額が掲げられています。実際に島で上演されている場所は土原ウガム゜(「ム゜」というのは間違いではなく、多良間島独特の発音表記です)という拝所で、フクギやデイゴやガジュマルの古木が茂る森になっているのですが、その雰囲気をできるだけ再現しようとしているようです。 やがて、やぐらの上に「地謡座」のおじさんたちが三々五々あがってきました。わたしがよく見る琉球舞踊のステージでは、「地方」の人たちはたいてい黒紋付きに袴姿か、あるいは帽子のようなあの独特の冠をかぶった琉装姿なのですが、ここのおじさんたちは普通の背広姿です。 沖縄の離島で、ふだんはトレパンやランニング、作業着姿といったラフな服装のおじさんたちが、きちんとスーツを着ていたりすると、「あ、なんか行事があるのかな〜」とすぐわかります。スーツで三線弾くおじさんの姿というのも、島のお祭りならではの雰囲気をかもしだしています。 このほかにも、途中で舞台に大きな風車や旗を飾り付ける「裏方のおじさん」がアロハシャツ姿(沖縄だから「かりゆしウェア」というほうが正しいかな)だったりと、あえていつもの祭りのスタイルを変えないように持ってきました、という姿勢があちこちに見られました。 そして、三線の演奏がはじまりました。「ドシドソシシド」と「ドシドレファファド」のフレーズが繰り返されるシンプルなメロディーですが、これがお祭りの雰囲気をどんどん盛り上げていきます。やがて、ホラ貝の音とともに獅子が登場。それが終わると、今回の出演者がみんな揃って行列する「総引」です。 続いてさまざまな踊りがはじまりました。棒踊りのニーニーたちの中に、茶髪ロン毛のにいちゃんがいたり、「福禄寿」で長者役がせりふをど忘れして絶句するとあちこちから激励の声がかかったり、客席から「ヨシヒローッ!」なんて出演者に掛け声がかかったりと、多良間島の祭りの雰囲気がそのまま引っ越してきたようです。 唄三線の入る琉舞の合間には、白い着物を着たニーニー達の群舞があります。出てくるときは小走りになってぐるっと舞台を一周し、三線なしのおじさんによる唄のみを伴奏に、ときどき掛け声を入れながら踊ります。 踊りが終わるとみんないっせいに「ユイ!」と掛け声をかけ、再びタッタッタッと小走りに引っ込んで行きました。なんだか体育会系のノリでユーモラス。 そして踊りが全部終わると、最後にまた「総引」がありました。最初の「総引」と違って、三線もなんとなく「唐船どーい」によく似たメロディとリズム。おまけに出てくる人たちが、右に左によろけるような「千鳥足ステップ」。客席からは笑いと手拍子がわきおこりました。これは「祭りのお酒に酔っぱらってすっかりいい気持ち」をあらわすものだそうで、はじめの「総引」では神妙に三線を弾きながら歩いていたニーニーが、三線を肩にかついで楽しそうに右にオットットットッ、左にオットットットッ……とステップを踏んでいる姿は爆笑モノ。本当に楽しいステージでした。 さて、昼の部が終わって喫茶店で休憩してから、わたしはふたたび夜の部を見るため国立劇場に向かいました。夜の部は「忠臣仲宗根豊見親」という組踊。これは15世紀中頃、宮古島の首長であった仲宗根豊見親が、琉球王府の命を受けて与那国島のボス、鬼虎を討ち取った話を劇にしたものです。 わたしは先日同じ国立劇場で上演された「二童敵討」という組踊を見たのですが、劇のところどころによく似たパターンが出てきたり、同じせりふが出てきたりしたので、比較してみるとよけいに楽しめました。 ただ、昼の部に比べるとちょっと雰囲気が……たぶん、夜の部では観客の「沖縄県人のパーセンテージ」が下がったせいかなとも思うんですが…… 国立劇場という場所柄か、お客さんがかしこまって真剣に「鑑賞」してしまい、はじめのほうなんてもう「しーん」と静まり返ってしまって、役者が出入りしても拍手もおきません。演じる人たちはさぞかしやりにくかったろうと思います。 わたしも個人的に体験したことがありますが、たとえば沖縄民謡を歌う時なんかも、あまり「しーん」と集中して聴かれてしまうと、とっても唄いにくいものです。というより、「わたしたちが聴いててあげるから、ホラ、唄ってみなさい」という姿勢は、少なくとも沖縄民謡ライブの場合は、そりゃ違うんでないかい、という気がします。客は客、ではなくて、手拍子や掛け声や、時にはハヤシに積極的に参加することによって、みんなでその場を作り上げていく、というのが、「正しい沖縄芸能の鑑賞のしかた」だと思うし、それはこういった村芝居の演目の場合も同じだという気がするんですよね。 この「忠臣仲宗根豊見親組」という組踊だって、単なる「芸術作品」じゃないわけです。多良間島の人たちにとっては、もっと自分たちの生活に密着したものじゃないかと思うんです。だから、たとえば仲宗根豊見親をはじめとする男性の登場人物たちの、黒っぽい着物に紋付きの黒羽織、白い手袋、唐草模様の緑の布(風呂敷によく使われるあれです)と黄色の布を使った被りもの、といった、時代考証もなにもあったもんじゃない衣装だって、首里王府の宮廷芸能で上演される組踊と違って、離島という限られた空間で、手に入るあり合わせでなんとか雰囲気を出そうという島の人の創意工夫が見られて楽しいものです。 それに、仲宗根豊見親に従って鬼虎征伐に参加する村々の豊見親たちの中で、単独のせりふもない一番の端役でありながら、なぜかひとり目立つ青色の着物を着ている人物。プログラムにも特に説明はありませんでしたが、この人、実は当時の多良間島のリーダー。島の人たちにとっては「郷土の英雄」ともいうべき土原豊見親(んたばるとぅゆみや)です。島のふたつの集落のうちのひとつで、今回の公演のためにやってきた人たちの住んでいる仲筋集落の中心にある多良間神社は、この土原豊見親を神様として祭っていますし、島で祭りの舞台となる土原ウガム゜も、土原豊見親にゆかりのある場所(土原豊見親の両親を祭る祠があるそうです)なのです。 本来ならこういった豆知識も、村芝居独特のわさわさした雰囲気の中で、そのお芝居を初めて見るような、よそから来た人や若い人に、その年の出演者に対するコメントや、あらすじやせりふの解説(組踊は島の人にもわからない首里の言葉で演じられているわけだから)などをまじえつつ伝えられていくものなのでしょう。国立劇場の舞台には両脇に電光掲示板があって、演目の解説、せりふや唄の現代語訳が表示されてはいましたが、それでは伝えられないこともまた多いはず。 実際、観客の中には「正しい村芝居鑑賞作法」を実践して、隣の連れなどにいろいろ解説している人が2〜3人いたのですが、なにしろまわりが「しーん」としているので、その人たちの声ばかりがやけに目立ってしまい、「うるさいなあ」とヒンシュクをかってしまっているのがなんとも気の毒でした。 でもまあ、途中で登場人物のコミカルな演技におもわず笑いが起きたのがきっかけで、後半に向かって客席の雰囲気がほぐれ、どんどん盛り上がって、内心はらはらしながら見守っていたわたしもホッと一安心。 そして最後には昼の部と同じ、あの「千鳥足ステップ」による「総引」。昼の部におとらない爆笑と手拍子(舞台から客席に向かって手を振ってる出演者もいたな)のうちに、その日の演目は楽しく終了したのでありました。 やっぱり村芝居の演目って、適度にまわりがざわざわしてて(でもここぞという時にはみんなしーんと集中して、かたずをのんじゃったりするんですけど)、向こうのほうで芝居に興味のない子供が走り回って遊んでいたり、隣の人と泡盛を酌み交わしたり、どこからともなくそよ風が吹いてきたり……というゆったりした雰囲気の中じゃないと、充分に魅力を発揮することはできないのかもしれません。 プログラムに寄せられた作家大城立裕さんのエッセイでは、祭りを見物していたら、頭上のガジュマルの木の枝に腰掛けて芝居を見ていた子どもが居眠りしたかなんかで、大城さんの上に落っこちてきたというエピソードが紹介されていましたが、そういう雰囲気って、なんだかいいですよね(大城さんにとっては災難だったけど)。 今回のステージも、国立劇場じゃなくて、むしろ日比谷の野外音楽堂みたいなところのほうがよかったのではないかな〜、と思いました。 |