新・人間革命(2234)北斗 二十九  「これからも、うんと長生きしてください」  山本伸一は、こう語りかけなげら、隣に座った佐治秀造の肩を叩き、背中をさすっ ていった。  佐治の目から、涙があふれて止まらなかった。  「最初に支部長として頑張ってきた方が、いつまでも元気であれば、みんなが希望 をもてます。  道を開いた人には、みんなの模範として生き抜く責任があるんです」  佐治は、涙を拭いながら、何度も、何度も、頷いていた。  「それでは、ここで歌の合唱をしましょう」  伸一は、稚内の同志の胸に、忘れ得ぬ思い出をとどめたかった。  彼は、幹部を次々と指名し、歌の指揮をとるように言った。  「みんな、いい声をしてるね。元気だな。仕事は何が多いの?」  「漁師です!」  場内の一隅から、青年の声が返って来た。  「そうか。私の家もノリを製造し、海で生計を立てていました。家は貧乏で、その うえ、体が弱かった。  しかし、仏法では『如蓮華在水』と説かれている。蓮華は泥沼から生じて、あの美 しい花を咲かせます。  同じように、どんなに厳しい状況にあっても、最高に価値ある人生を開いていける のが仏法です。私もそう確信して生きてきました。  今、どんなに苦しくても、決して負けてはいけない。幸福と栄光の人生へと、劇的 に転換できるのが信心です。  大空を黄金に染める太陽のように、強く生きるんだよ」  それから、みんなで、「夕焼け小焼け」などを合唱した。明るい、弾んだ歌声がこ だました。  どの顔にも、笑みの花が咲いていた。誰もが、嬉しそうであった。  「では、最後に私が『武田節』の指揮をとります」  伸一が扇を手にして立ち上がると、大歓声があがった。  甲斐の山々  日に映えて  われ出陣に憂いなし  …………   (作詞・米山愛紫)  それは、新しき旅立ちの合唱となった。 伸一は「稚内の出陣だ! 戦おう!」 と、心に叫びながら懸命に指揮をとった。 新・人間革命(2233)北斗 二十八  「私は、皆さんに訴えたい!」  山本伸一の凛とした声が響いた。  「稚内は、東京からも遠く離れている。札幌からも遠い。交通の便も悪い。人口も 決して多くはない。冬の寒さは言語に絶するほど厳しい。  確かに、この地で頑張ることは、大変であると思います。しかし、大変といえば、 どこでも大変なんです。  苦労せずに広宣流布ができるところなんて、一ヵ所もありません。  大変な理由を数えあげて、だから無理だ、だからダメだと言っていたのでは、いつ までたっても何も変わりません。  自分の一念が、環境に負けているからです。戦わずして、敗北を正当化しているか らです。  この最北端の稚内が、広宣流布の模範の地になれば、全国各地の同志が『私たちに もできないわけがない』と、勇気をもちます。みんなが自信をもちます。  北海道は日本列島の王冠のような形をしていますが、稚内は、その北海道の王冠で す。皆さんこそ、日本全国の広布の突破口を開く王者です。  やがて、二十一世紀を迎えた時には、『北海道の時代』『稚内の時代』が来ると、 私は、強く確信しています!」  大歓声と大拍手がわき起こった。  メンバーの眼は光り輝いていた。  「どうか、皆さんは、誉れある同志として、信心を全うし、有意義な悔いのない、 所願満足の人生を送っていただきたいのであります。  私は、東京から、皆様方の一層のご多幸とご繁栄、ご健康とご健闘をお祈り申し上 げ、題目を送り続けてまいります」  話を終えた伸一は、席に戻ったが、そこでも、マイクを手にした。  そして、参加者の年齢を尋ね、明九月十五日の「敬老の日」を記念して、高齢のメ ンバーに念珠を贈った。  それから伸一は、初代支部長を務めた佐治秀造を招いた。  「佐治さん、私の隣に座ってください。こんなに元気になられているとは思わな かった。勝ちましたね。おめでとう! 今日は、あなたが会長です。病を克服して臨 んだ、栄光の晴れ舞台ですもの……」 新・人間革命(2232)北斗 二十七  山本伸一は、言葉をついだ。  「今、関西といえば、常勝″の模範であると、全国の同志が思っています。  既に関西は東京をしのぎ、広宣流布の一大推進力となっているといっても過言では ない。  しかし、初めから、そうであったわけではありません」  関西は、かつては、東京と比べ、会員の世帯も至って少なく、組織も弱かった。  広宣流布の未来構想のうえから、関西の重要性を痛感した戸田城聖は、一九五六年 (昭和三十一年)の一月、伸一を関西に派遣したのだ。  当初、関西の同志の誰もが、何をやっても東京には敵わないという思いをいだいて いた。  伸一は、何よりも、一人ひとりの、その一念を転換することに全精魂を注いだ。  「関西に創価の不滅の錦州城を築こう!」  「日本一の、模範の大法戦を展開しよう!」  伸一という若き闘将の魂に触れ、関西の同志は心を一変させた。  自分たちこそ、広布の主役なのだ″  関西こそ、広布の主戦場なのだ″  そして、皆が獅子奮迅の闘士となった。  この年の五月には、大阪支部は一万一千百十一世帯という未聞の弘教を成し遂げ 「広布史上に不滅の金字塔を打ち立てたのである。  さらに、七月には、学会として初めて候補者を推薦した参議院議員選挙で、東京地 方区が惨敗するなか、大阪地方区は、伸一の指揮のもと、当選は不可能だとする大方 の予想を覆し、見事に勝利したのである。  以来、メンバーは、この関西こそが、広布の模範の「常勝の都」であるとの、強い 誇りをもつようになった。  また、自分たちこそが広宣流布の中核であり、創価学会の代表であるとの、不動の 自覚をもつようになった。  伸一は、確信を込めて語った。  「関西の大発展の要因は、同志の一念の転換にありました。一念が変われば、いっ さいが変わります。  そして、関西が、東京をしのいだことが、全国の同志の、新たな希望となったんで す」 新・人間革命(2231)北斗 二十六  広布の拡大の実証をもって、山本先生を迎えよう!″と、多くの弘教を実らせて きた稚内の同志には、勢いがあった。  しかし、稚内地域は、日本の最北端にあり、幹部の指導の手も、あまり入らぬとこ ろから、普段は、取り残されたような寂しさを感じながら、活動しているメンバーも 少なくなかった。  実は、山本伸一の指導の眼目は、その心の雲を破ることにあったといってよい。  彼は「千日尼御前御返事」の「佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び 候に……」(御書一三一六n)の御文を拝していった。  この御書は、阿仏房が妻である千日尼の使いとして、佐渡から身延の日蓮大聖人を 訪ねたことに対し、千日尼に与えられた御手紙である。  伸一は、「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり」(同)の御文から、 こう訴えた。  「佐渡という山海を遠く隔てた地にあっても、強い求道心の千日尼の一念は、大聖 人とともにあった。地理的な距離と、精神の距離とは、全く別です。  どんなに遠く離れた地にあっても、自分がいる限り、ここを絶対に広宣流布してみ せる、人びとを幸福にしてみせると決意し、堂々と戦いゆく人は、心は大聖人ととも にあります。  また、それが、学会精神であり、本部に直結した信心といえます。  反対に、東京に住んでいようが、あるいは、学会本部にいようが、革命精神を失 い、戦いを忘れるならば、精神は最も遠く離れています。  私も真剣です。広布に燃える椎内の皆さんとは、同じ心で、最も強く結ばれていま す。  さらに大聖人は、『我等は穢土に候へども心は霊山に住べし』(同)と仰せになっ ている。  私たちの住む婆婆世界は、穢土、つまり汚れた国土ではあるが、正法を待った人の 心は、霊鷲山すなわち常寂光土にあるとの大宣言です。  ここが、わが使命の舞台であると心を定め、広宣流布に邁進する時、どんな場所 も、どんな逆境も、かけがえのない宝処となっていきます。  その原理を確信できるかどうかで、すべては決まってしまう」 語句の解説 ◎阿仏房・千日尼  阿仏房(生年不詳)は日蓮大聖人御在世当時の信徒。念仏の強信者であったが、佐 渡流罪中の大聖人の御人格に触れ、念仏を捨てて、妻の千日尼(生没年不詳)ととも に大聖人に帰依した。夫妻とも強い求道心をもち、生涯、純真な信心を貫いた。阿仏 房は弘安二年(一二七九年)、高齢で他界したといわれる。 新・人間革命(2230)北斗 二十五  山本伸一は、皆を包み込むような穏やかな口調で語り始めた。  「車中、それはそれは美しい、荘厳な夕日を見ることができました。  私には、それが、皆さんの栄光と勝利の象徴であり、また、諸天の祝福であるよう に思えてなりませんでした。  今日は、みんなで、その夕日を眺めながら、懇談するような気持ちで、少々、お話 をさせていただきます」  そして、彼は、五項目の指針を示していったのである。  第一に「自信をもて、そして、退転するな」  第二に「みんな仲良く進んでいってほしい」  第三に「先輩、後輩のわけへだてなく、なんでも相談し合える同志であってほし い」  第四に「稚内が日本最初の広宣流布を成し遂げてもらいたい」  第五に「この稚内の地から、日本、そして世界の偉人を、陸続と輩出していただき たい」  彼が、「日本最初の広宣流布」を、稚内の同志に呼びかけたのは、北海道、とりわ け、サハリンを望む稚内は、ソ連(当時)に最も近く、東西冷戦下にあって、緊張を 強いられていた地域であったからである。  米軍はここにレーダー基地を置き、自衛隊も北海道には、北の守りとして力を注い できた。  仏法では、人間の一念の転換、生命の変革によって大宇宙をも動かし、いっさいの 環境を変えゆくことができると説いている。  戦争の脅威にさらされてきた人は、平和と幸福を手にする権利と使命がある。  それには、仏法という生命の大法をもって立ち上がる以外にない。  だからこそ伸一は、稚内に広宣流布の模範の大城を築き、平和の灯台を打ち立てて ほしかったのである。  さらに伸一が、この地から、「世界の偉人」を輩出するように念願したのは、厳し い自然環境など、逆境のなかでこそ、民衆の苦悩を知る真の偉人が育つからである。  また、その実現のためにも、稚内の同志には、自分たちこそが、時代、社会を建設 する主役であり、ヒーロー、ヒロインであるとの、「覇気」と「誇り」とをもっても らいたかった。 新・人間革命(2223)北斗 十八  山本伸一は、佐治秀造に言った。  「わかりました。お約束します。必ず、稚内にお伺いします。その代わり、佐治さ んも、それまでに元気になってください。約束ですよ」  以来、伸一は、佐治の一日も早い回復を祈り続けてきた。  佐治は医師から、全快まで二年はかかると言われていた。しかし、彼は伸一との約 束を果たそうと、必死に唱題した。  すると、病は見る見る快方に向かい、ほどなく退院したのだ。  その報告を聞いた伸一は、稚内行きの実現を決意し、日程をこじ開けるようにし て、訪問の計画を立てたのである。  当時、旭川から稚内に向かうには、音威子府(おといねっぷ)から、西の日本海側 を北上する宗谷本線と、東のオホーツク海側を通る天北線(一九八九年に廃止)の二 本の線があった。  伸一の乗った「天北」は、天北線経由の急行であった。  稚内では指導会が予定されていた。  これには、札幌や旭川からも代表の幹部が参加することになっていたので、列車の 一両を団体専用車両として借り切っていた。  車窓には、黄や赤に染まり始めた平原が、果てしなく広がっていた。  その錦の大地を、列車はゴトゴトと音をたてて進んでいった。  この一九六八年(昭和四十三年)は、北海道に開拓使が設けられてから、ちょうど 百年目にあたっていた。  伸一は、この広漠たる原野を開拓していった、先人たちの苦労に思いを馳せた。  ――寒さと飢餓と戦いながらの開墾作業。収穫への道は遠く、失敗、失敗、失敗の 連続であったにちがいない。  希望は失望に変わり、何度、絶望の淵をさまよったことか。  しかし、彼らは、負けなかった。そのたびごとに、自分を打ちのめした凍てる大地 に手をつき、足を踏んばって立ち上がった。  そして、渾身の力を振り絞り、開墾の鍬を振るい続けた。絶え間なく挑戦を重ね た。来る日も、来る日も……。  親から子へ、子から孫へ――以来百年、北海道は美しき黄金の大地となった。 新・人間革命(2222)北斗 十七  山本伸一の初訪問から九年の間に、旭川は、総支部、本部となり、この一九六八年 (昭和四十三年)の八月には、総合本部となったのである。  だが、その五カ月前、中山一郎と苦楽を共にしてきた野末徳一は、七十四歳で世を 去っていた。  中山は今、自分を見守る山本会長の視線を背中に感じながら、野末の分まで戦い抜 き、旭川に難攻不落の広布城を築き上げようとの誓いを込め、渾身の力で、学会歌の 指揮をとったのである。  山本伸一は、翌日の九月十四日の午前中、旭川会館を訪問したあと、昼過ぎの列車 で旭川を発ち、稚内に向かった。  彼の稚内訪問は、地元同志との約束であった。  稚内に支部が誕生したのは、一九六二年(昭和三十七年)の八月のことである。  稚内の初代支部長になった佐治秀造は、東京での支部長会や、夏季講習会などの折 に、伸一に会うと、常にこう言うのであった。  「先生、稚内へ来てください! お待ちしております」  伸一も、日本の最北端の街である稚内を、ぜひ訪問し、力の限り同志を励ました かった。  しかし、北海道には何度も足を運んだが、稚内に行く時間は、どうしても取れな かった。彼は心苦しかった。  前年の八月、伸一は、旭川で行われた記念撮影会に出席した折、稚内から参加し た、佐治と言葉を交わした。  佐治は、既に六十七歳になっていた。しかも、結核で入院中であった。  それでも、この記念撮影会には、なんとしても参加しようと、外泊許可をもらい、 痛む胸を押さえながら、旭川まで来たのである。  佐治の頬はこけ、体も一回りほど、小さくなっていた。  その彼が、気力を振り絞るようにして、訴えるのであった。  「先生、お願いがあります。ぜひ、稚内へおいでください。みんな、お待ちしてい ます」  佐治は、その一言を伸一に言いたくて、病を押して、ここまで来たのであった。  伸一の胸には、稚内を愛し、同志を思いやる佐治の深い心情が、痛いほど伝わって きた。 新・人間革命(2221)北斗 十六  一九五六年(昭和三十一年)には、旭川支部が結成され、四地区三十九班、二千三 百世帯の陣容となった。  この時の支部長は野末徳一であり、支部婦人部長には、中山一郎の妻の二三恵が就 いた。  中山一郎は、年長の野末を立てながら、力を合わせて支部の建設にあたった。  中山も、野末も、正宗寺院の堕落に気づき、真の信仰を求めて創価学会に入会した だけに、学会のために、どんな苦労も惜しまない決意を固めていた。  また、懸命に寺に尽くしても、それが、そのまま正法の流布にはつながらないこと を痛感してきた彼らは、学会員として広宣流布のため、同志のために働けることに、 無上の誇りと喜びを感じていた。  だからこそ中山は、苦労を覚悟で、わが家を、活動の拠点とし、会場として、全面 的に開放してきたのである。  山本伸一は、一九五九年(昭和三十四年)に旭川を初訪問し、中山の自宅に行った 折に、中山夫妻が目を輝かせ、学会のために尽力できる喜びを話す光景を、忘れるこ とができなかった。  その時、中山はこうも語っていた。  「この仏法に巡りあえることは、三千年に一度咲く優曇華にあうように大変なこと だと説かれていますが、仏法に巡りあっても、それだけでは不十分です。  私も御本尊を受持していましたが、信心は全くわかりませんでした。卑近な言い方 をすれば、高級車を手に入れながら、運転の仕方がわからず、放置していたようなも のです。  その私に、正しい信心を教えてくれたのが創価学会でした。  それによって、たくさんの功徳をいただくことができました。また、人間として生 まれた、自身の真の使命を自覚することもできました。  したがって、学会に巡りあえたことこそが、本当に尊く、すばらしいことだと実感 しています。  もし、来世の最大の願いは何かといわれれば、大金持ちの家に生まれることでも、 王子になることでもありません。  ただ一つ、学会員となって、信心に励めるということです」 新・人間革命(2220)北斗 十五  僧侶の大多数は、口でいかに強信を装っても、広宣流布を実現しようという決意な ど、いささかもなかった。  保身と名聞名利こそが、彼らを貫く行動原理であったといってよい。  だから、檀家の機嫌を損ねないために、謗法さえも平気で見て見ぬふりをした。ま してや、難をも呼び起こす折伏など、決して行じようとはしなかった。  僧侶の仮面を被って大聖人の御精神を滅ぼす、この「魔沙門」すなわち魔僧と戦う ことこそが、大聖人御在世以来、広宣流布に生きる人の避けがたき宿命といえよう。  中山一郎は、しみじみと思うのであった。  学会がなければ、大聖人の御遺命である広宣流布は忘れ去られ、仏法の精神は死 滅してしまったにちがいない。  学会があってこそ、仏法は蘇ったのだ。学会員になれたことは、なんとすばらしい ことなんだ″  魔僧の蠢動が激しさを増した一九五四年(昭和二十九年)の夏、戸田城聖が出席し て旭川の班総会が開催されたが、その時、戸田は、班長になっていた中山に一首の和 歌を贈った。  君ありて   北の砦も     かたからん   妙法のはたも     永くはためく  この年の十一月、旭川地区が結成されると、中山は地区部長になり、野末徳一は地 区部長待遇となった。  彼らは、道北、道東の広大な天地を、喜々として弘教に駆け巡り、たくさんのメン バーを誕生させていった。  その同志たちに、数多くの功徳の体験が生まれた。それが、さらに弘教を加速させ た。  仏法を語るには、体験談に勝るものはないというのが、中山の実感であった。その 体験も、より新鮮なものほど、説得力があった。  彼は、同志が難病を克服したという報告を受けると、早速、その人を連れて、病で 苦しむ人のところに出かけていった。  吹雪の夜も、歓喜に燃える、さまざまな体験のもち主を、自分の外套を掛けてソリ に乗せ、自らソリを引っ張って折伏に行くのである。 新・人間革命(2219)北斗 十四  野末徳一が総代を務める愛別の法宣寺の住職は、最初、壇信徒が学会員になること を喜んでいる様子であった。  一九五三年(昭和二十八年)の十一月八日付の聖教新聞には、法宣寺の住職が野末 らの学会入会を祝福し、ともに記念のカメラに納まる写真が掲載されている。  皆が学会員となって折伏に励み、入信する人が増えれば、寺の供養も増えると期待 してのことであったのかもしれない。  しかし、やがて学会を批判し、組織の切り崩しを始めるのである。  学会員となって勤行を励行し、御書を学び、折伏も行ずるようになった人びとは、 我見に基づく住職の指導には、共感しなくなっていった。  また、御聖訓に照らして、大聖人の御精神に背くような発言や謗法行為があれば、 おかしいと指摘し、声をあげるようになった。  つまり、檀信徒が賢明になっていったことから、衣の権威″で覆い隠してきた、 謗法や怠惰、まやかしを見抜かれ、意のままに操ることができなくなってしまったの である。  彼らは、そんな学会員の存在が、疎(うと)ましくて仕方なかったようだ。  法宣寺の住職は、学会を快く思わぬ檀徒らと一緒に、学会員となった人たちに、学 会をやめるように働きかけていった。  このころ、法宣寺だけでなく、北海道各地の日蓮正宗寺院で、学会の組織を切り崩 す動きが起こっていたのである。  由々(ゆゆ)しき事態である。仏意仏勅の団体である創価学会を攪乱する、魔の所 業といってよい。  当然、学会としては、見過ごすわけにはいかなかった。  当時の理事長であった小西武雄から、宗門に、学会の組織の切り崩しを直ちにやめ るように、厳重に申し入れた。  結局、北海道にあって、学会の大前進を妨げたのは他宗派ではなかった。  御聖訓には、「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべ し師子身中の虫の師子を食(はむ)」(御書九五七n)と仰せである。  この御言葉の通り、仏弟子たる日蓮正宗の僧侶らが、魔の姿を現じて、広宣流布の 破壊に奔走したのである。 新・人間革命(2218)北斗 十三  法宣寺では、彼岸法要の席上、野末徳一が集まった信徒に向かって、創価学会への 入会を呼びかけた。  そして、最後に、こう訴えた。  「……ただ今、申し上げましたように、日蓮大聖人の教え通りに、まことの信心を 貫いていくには、創価学会員となって戸田先生の指導を受けていく以外にないと、私 は思うのであります。  しかし、創価学会に入るということは、広宣流布のために戦い抜くということで す。決して、安易な気持ちでは、学会員としての信仰は全うできません。  ゆえに、たとえ、親族であっても、信心のしっかりしない者、折伏意欲のない人 は、入会メンバーに加えるわけにはいかないことを、申し上げておきます」  野末の言葉を聞くと、会場はぎわめいた。  皆、そこまで決意を固めなければならないとは、思っていなかったからである。  互いに顔を見合わせ、ひそひそ話が始まった。  「どうするかねー。学会の信心は厳しいようだがの」「でも、野末さんがあそこま で言うのだから、学会はすばらしいにちがいない。活動は大変でも、功徳があると言 い切っている」  「一緒に、本気になって、学会の信心に取り組んでみてもいいのではないかね」  やがて、一人が立ち上がった。  「やりましょう。私は創価学会への入会を希望します!」  「私もやるぞ!」  二人、三人と、入会を希望する声があがった。  結局、法宣寺と宝竜寺を合わせて、三十四世帯二百人が入会の決意を固めた。  そして、野末が代表者となり、十月十五日付で会長の戸田城聖にあてて、創価学会 への「加入願書」を作成した。  戸田は、宗門の了解を得て、十一月三日、入会を許可し、「加入許可書」を送付し た。  このメンバーは、小岩支部の直属班となった。  入会したメンバーは、学会の指導に従い、勤行・唱題に励み、弘教に奔走した。  活動を開始した人たちは、日々、はつらつとしていった。 新・人間革命(2217)北斗 十二  野末徳一は、北海道に帰る車中、考え続けた。  創価学会こそが、大聖人の教え通りに実践している団体であることがわかった以 上、自分は檀家総代として、皆にそれを伝える責任と義務があるのではないか。  広宣流布のための実践がない、これまでの寺の信心では、せっかく正しい御本尊を 奉持していても、一生成仏など、できようはずがない。  すぐにでも、寺をあげて、創価学会に入れていただくべきではないか″  愛別に戻った野末は、深川の宝竜寺の信徒である中山一郎のところに、相談に訪れ たのである。  野末は、中山より十七歳年上であり、既に六十歳を目前にしていた。  中山は、野末の話を聞くと、頬を紅潮させて語った。  「野末さん。実は、私も創価学会の信心でなければだめだと、全く同じことを考え 続けていたんですよ」  驚いたのは、野末の方であった。  「えっ、あなたも、そう思っていたのか! 私だけじゃなかったんだ。それは心強 い!」  野末は喜びに声を震わせて言った。  二人は意気投合した。  創価学会に入って、信心を学んでいこうということになった。  野末は、檀家である法華講員の家を回り、何が正しい信心なのか、なぜ学会がすば らしいのかを訴えていった。  この一九五三年(昭和二十八年)の八月には、北海道にも学会の幹部が派遣され、 夏季地方指導が行われた。  彼らは、派遣隊のメンバーに協力し、ともに弘教を推進していった。  九月には、小岩支部の地区部長が旭川を訪れたが、この時、野末と中山は、自分た ちをはじめ、両寺院の檀家を学会員にしてほしいと願い出た。  その要請を聞くと、戸田城聖は言った。  「皆を学会員にしたいという野末氏たちの気持ちはわかるが、大事なことは、一人 ひとりが断固たる決意を固めているかどうかだ。  学会に入っても、やがて心が揺らいでしまうようでは、なんの意味もない。決意が 本物の人だけ入会を許可するようにしてはどうか」  彼は、どこまでも慎重であった。 新・人間革命(2216)北斗 十一  野末徳一は、参加者が活気に満ち、生き生きとしている姿に心を動かされた。  座談会は、功徳の体験にあふれ、皆に歓喜があり、確信があった。  寺での行事は、いつも暗く、重たい雰囲気に包まれていたが、全く正反対といって よかった。  これが同じ宗派なのだろうか。しかし、御本尊は同じである。いったい何が、こ れほど明暗を際立たせているのか″  そう考えながら、野末は、冷静に座談会を観察していた。  幹部は御書を拝して指導し、参加者の話にも、随所に御書の御文が引かれていた。  御書に照らして、信心はいかにあるべきかを語り合う光景も見られた。  学会では、御書を根本にし、皆が真剣に研鑽に励み、大聖人の仰せの通りに実践 しようとしているのか!″  寺では、住職が御書の研鑽を呼びかけるのを聞いたことは、ほとんどなかった。寺 の行事の折などに住職が、御書の一節を講義するぐらいのものであった。  野末は思った。  すごいことだ。こんな団体があったとは……″  だが、何よりも彼を驚嘆させたのは、学会員が広宣流布の使命に燃えて、人びとを 幸福にするのだと、勇んで弘教に励んでいることであった。  住職でさえもしなかった折伏を、信徒である学会員が、懸命に実践しているのだ。  彼は感動した。  また、この時、見せてもらった『大白蓮華』のなかに、会長の戸田城聖が書いた論 文の「創価学会の歴史と確信」が掲載されていた。  それを読み、戦時中、戸田も、初代会長の牧口常三郎も、謗法厳誡の遺誡を貫き、 天照大神の神札を拒絶するなどして、軍部政府の弾圧を受け、ともに投獄され、高齢 の牧口は獄死していることを知ったのだ。  そこには、一方の宗門は、弾圧を恐れて神札を祭り、学会にも神札を受けるように 迫っていたという、恐るべき事実も記されていた。  野末は愕然とした。そして、こう結論したのである。  大聖人の御精神を受け継いでいるのは創価学会なのだ。学会にしか、正しい信心 はない!″ 語句の解説 ◎謗法厳誡  謗法とは誹謗正法のことで、正法に背き、謗ること。また、正法を憎み、人に正法 を捨てさせること。 日蓮仏法では、この謗法行為を厳に戒めるよう、教えられてい る。 新・人間革命(2215)北斗 十  戸田城聖の「生命論」を熟読した中山一郎は、生命の究極の法であるこの仏法を、 布教しなければならないと思った。  彼は、初めて折伏に挑戦してみた。だが、満足に仏法の法理を説明することも、質 問に答えることもできなかった。  一九五一年(昭和二十六年)の十一月、学会から『折伏教典』が発刊されると、彼 は、早速、二十冊ほど購入し、友人にも配って歩いた。  また、「聖教新聞」を購読し、一人、仏法の研鑽に励んでいった。  中山が孤軍奮闘を続けていた五三年(同二十八年)の初夏、旭川に近い愛別の法宣 寺で檀家総代をしている野末徳一が、突然、彼を訪ねて来た。  中山は琵琶の名手であったことから、法宣寺の行事に招かれたことも何度かあり、 野末とも顔を合わせていた。  なんの用かと思っていると、野末は、興奮ぎみに創価学会のことを語り始めた。  ――野末は、この年の五月ごろ、大石寺に行った折、学会の登山会のメンバーと対 話する機会を得た。その学会員の話に興味をいだいた。  「広宣流布を成し遂げていくことこそが、大聖人の御精神であり、折伏の実践が、 最も大切である」というのだ。  寺では、「折伏」が重要であるなどという話は、聞かされたことがなかった。野末 は、もっと、学会の話を聞いてみたいと思った。  そして、帰途、東京で小岩支部の座談会に出席してみたのである。  勤行が始まった。なんと、全員が上手に読経するではないか。  勤行が終わった時、彼は、隣にいた婦人に小声で尋ねた。  「なんで、みんな、こんなに上手に勤行ができるのかね」  婦人は、不可解そうな顔で答えた。  「『なんで』って、当たり前でしょ。みんな毎日、朝晩の勤行をしているんだか ら、上手に決まっているじゃないの」  彼は、大きな衝撃を受けた。  地元の寺の信徒で、毎日、きちんと勤行をしている人など、ほとんどいなかったか らである。総代の野末自身、題目は唱えても、朝晩の勤行を、日々、励行しているわ けではなかった。 新・人間革命(2214)北斗 九  中山の妻の二三恵は、必死でやり繰りしながら家計を支え、旭川支部の初代婦人部 長として、夫とともに活躍してきた。  山本伸一は、旭川を初訪問した折、中山の家を訪ねた。  彼らの献身を耳にしていた伸一は、その労をねぎらい、家族を励ましたかったので ある。  中山の家は、六畳二間に小部屋が二つほどの、間取りであった。  ここに、昼となく、夜となく、何十人もの人が出入りしていることを思うと、子ど もたちが不憫でならなかった。  伸一は、申し訳なさに胸が痛んだ。  こうした見えざる苦労が、広宣流布を、学会を支えているのだ。  この家からも、いかに多くの人材が、育っていったことか。  わが家を活動の拠点に提供し、広宣流布に貢献してきた功徳は、無量であり、無辺 である。それは、大福運、大福徳となって、子々孫々までも照らしゆくにちがいない ″  伸一は、万感の思いで感謝を語った。  「いつも、本当にありがとうございます」  すると、中山一郎は言った。  「山本先生、私は創価学会に尽くせることが、嬉しくて嬉しくて仕方ないんです。  人生で創価学会と出あえたこと自体、最高の福運であり、功徳です。それが私に は、よーくわかります」  中山の言葉は、実感に裏づけられていた。  彼は、もともと法華講であり、旭川近郊の深川にある日蓮正宗寺院・宝竜寺の信徒 であった。  その中山が、初めて創価学会の存在を知ったのは、一九四九年(昭和二十四年)の 夏のことであった。  ある日、宗門の僧侶が、学会が発刊した『大白蓮華』の創刊号を持って来たのであ る。  中山は、そこに掲載されていた戸田城聖の「生命論」に、何気なく目を通してみ た。  ひきつけられる内容であった。  「生命とは何か」という問題について、これほど明快に説き明かした論文を見たの は、初めてであった。  彼は、読み進むうちに感激に震えていた。  これが仏法の説く、真実の生命なのか! この戸田城聖という人はすごい人だ! ″ 新・人間革命(2213)北斗 八  山本伸一は、力を込めて訴えた。  「広宣流布の聖業の意義を考えれば、私どもが御本尊を持ち、弘教に励めるという ことは、どれはど偉大なことであるか計り知れません。  どうか皆さんは、その信心のすばらしさを、社会にあって、生活のうえに、実証と して示しきっていただきたいのであります」  次いで彼は、各部への指針として、「壮年部は皆の要として若々しく」「婦人部は 一家の太陽として聡明に」「男子部は輝く未来を確信して力強く」「女子部は福運を 積むために強盛な信心を」と望み、話を結んだ。  「さあ、あとは楽しく歌でも歌いましょう」  伸一の提案で男女青年部や高等部が、次々と歌を披露し、会場は交歓の広場となっ た。  最後は学会歌の合唱となり、旭川総合本部の副総合本部長で、旭川の初代地区部長 を務めた中山一郎が指揮をとった。  総合本部長は藤田房太郎という、まだ三十代後半の、堂々たる体躯のエネルギッ シュなリーダーであった。  一方、副総合本部長の中山は、物静かで生真面目な、五十代後半の壮年であった。  「中山さん。いよいよこれからですよ。若いリーダーに任せ、自分は休もうなんて 思わないで、頑張ってくださいよ」  伸一が声をかけると、中山は、「はい!」と言って、メガネの奥の目を輝かせ、真 一文字に口を結んで、元気に歌の指揮をとり始めた。  中山の家は製紙会社の社宅であったが、長年、自宅を活動の拠点として提供してき た。  いつも多くの会員が出入りし、遠方から旭川にやって来る同志が、彼の家に宿泊す ることも珍しくなかった。  中山には五人の子どもがいた。子どもたちが、朝、目を覚ますと、見知らぬ人が自 分の布団に、一緒に寝ていることもたびたびあった。  暮らしは、裕福ではなかったが、訪れる青年たちには、いつも食事を振る舞い、生 活苦と戦っている同志には、そっと米などを持たせることもあった。  広宣流布のためのわが人生である――それが中山の決意であり、信念であった。 新・人間革命(2212)北斗 七  広宣流布の尊き使命に目覚めた同志は、貧しき友の家にも、社会的に立派な地位や 肩書をもつ人の豪邸にも、勇んで足を運び、喜々として仏法を語った。  「本当の人間の道は、真実の幸福の道は、この信仰にしかありません」  だが、「自分の頭のハエも追えないくせに、生意気なことを言うな!」と、怒鳴ら れもした。  「あんたの病気が治ってから来い!」と、追い返されたこともあった。  塩も撒かれた。水をかけられたこともあった。  しかし、皆、意気揚々としていた。「信心の話が聞けないなんて、なんとかわいそ うなんだ」というのが、心の底からの思いであった。  同志の胸には、勇気の火が赤々と燃えていた。必ず幸福になれるのだという、強 い、強い確信が芽生えていた。  皆、さまざまな苦悩をかかえていたが、その苦悩に押しつぶされてはいなかった。  地涌の菩薩として、仏の使いとして、弘教に励む、歓喜と誇りに満ちあふれてい た。 同志は、むしろ、自分の生活苦や病苦よりも、友の悩みに胸を痛めた。社会 の、日本の将来を憂い、世界の平和に思いをめぐらせた。  既に、その一念においては、自身の苦悩に煩わされることのない、大いなる境涯を 会得していたのである。  境涯の革命は現実生活の転換をもたらし、功徳の花々を咲かせ、幸福の果実を実ら せていった。  師とともに広布の誓願に生きる−−そこにこそ、絶対的幸福へと至る自身の人間革 命と宿命転換の直道がある。  この広宣流布の聖業に参加できることは、われら創価学会員に与えられた栄誉であ り、特権といえようか。 山本伸一も、その幸福の大道を開くために、第三代会長に 就任すると、会員三百万世帯の達成を目標として発表した。  それが成就されると、六百万世帯の達成を掲げ、次々と広布の大誓願を起こしてき た。  そして、この時も、正本堂が建立される一九七二年(昭和四十七年)をめざし、各 組織にあって、それぞれ弘教の大目標を掲げて、来る日も、来る日も、驀進を続けて いたのである。 新・人間革命(2211)北斗 六  日蓮大聖人は、仰せである。  「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御善一三六〇n)  「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり」(同一 一二一n)  大聖人の御心である広宣流布を使命とし、正法を弘めゆく人は、地涌の菩薩であ り、仏の使いであるとの宣言である。  その実践のなかで自身が御本仏に連なり、仏・菩薩の生命が湧現するのである。清 浄にして強き大生命力と無限の智慧とが脈動するのだ。  そこに自身の生命の変革があり、「人間革命」「境涯革命」の道が開かれるのであ る。 自分の生命が変わるならば、「色心不二」「依正不二」なるがゆえに、病苦 も、経済苦も、家庭の不和も克服していくことができる。  そして、さらには、宿命をも転換することができるのである。  創価学会は、大聖人の教えのままに、まっしぐらに広宣流布の道を突き進んでき た。  戸田城聖は、第二代会長に就任した日、自身の生涯の願業として、会員七十五万世 帯を達成することを宣言している。  彼が、この大目標を示したのは、すべての同志に、「絶対的幸福境涯」への道を開 きたかったからである。  師のこの誓願を、弟子として必ずや成就しようと、ともに立ち上がったのが山本伸 一であり、その彼に、青年が、数多の同志が続いたのだ。  草創期のメンバーは、入会し、勤行を習うと同時に、先輩について弘教に歩いた。  借金をかかえ、家族の誰かが病苦に悩み、家では諍いが絶えないような状態のなか での活動である。  弘教といっても、最初は、何を、どう話していけばよいのか、全くわからなかっ た。ただ、相づちを打つのが精いっぱいであった。それでも、活動に励むと、全身に 新しい力がみなぎり、希望が感じられた。新入会の同志は、その実感を、喜々として 語っていった。 さらに、先輩たちとともに動き、教学を学ぶなかで、信心への確信 を深め、また、仏法をいかに語ればよいのかを、身につけていったのである。 件名:[usa_club] 新・人間革命(2210)北斗 五 受信日時:13 Jun 23:53 ヘッダの詳細表示  山本伸一が、二度目に旭川を訪れたのは、五年後の一九六四年(昭和三十九年)九 月のことであった。  会長となって初めての訪問となる、この旭川指導では、旭川会館の開館式に出席し た。  さらに、三年後の六七年(同四十二年)八月には、旭川、空知の両本部の記念撮影 会に出席するため、三たび旭川を訪問した。  そして、今回、約一年ぶりに、四たび、旭川の大地を踏んだのである。  伸一が唱題会の会場になっていた大法寺に到着すると、大歓声と拍手がこだまし た。  「さあ、皆さんのご健康と、ご一家のご繁栄を祈念して、一緒に勤行しましょう」  伸一の導師で、勤行が始まった。  唱題が終わり、同行の幹部の話に続いて、伸一が語り始めた。  「私は、学会の同志の皆さんを幸せにしたい。また、皆さんの子どもさんに幸福 になってもらいたい″との一念で、今日まできました。  御本尊の前で、仏・菩薩の前でお誓いします。  これからも一生涯、最後の死の瞬間まで、私は皆さんの幸せを願い、何千万遍と、 題目を送り続けていきます」  その言葉に、メンバーは、同志への、深い深い伸一の思いを感じた。感動が皆の心 にあふれた。  彼は話を続けた。  「世間の繁栄は相対的なものであり、諸行無常です。  では、永遠の繁栄と幸福は、どうすれば得られるのか。  それは、わが生命の宮殿を開き、自身の境涯を高めていく以外にありません。それ には、広宣流布という大誓願に生き抜いていくことです」  日蓮仏法の最たる特徴は、世界の広宣流布を指標に掲げ、その実践を説いているこ とにある。  「広宣流布の宗教」ゆえに大聖人は、自行化他にわたる仏道修行、すなわち、唱題 とともに修行の柱として折伏・弘教を打ち立てているのだ。  では、なぜ大聖人は弘教を叫ばれたのか。一切衆生の救済のためであることはいう までもないが、衆生自身が大聖人と同じく広宣流布を誓願し、弘教に励みゆくなか に、一生成仏の大道があるからだ。 新・人間革命(2209)北斗 四  極寒のなか、旭川駅頭には、多くの学会員が列をなし、歓喜の笑顔で山本伸一を迎 えた。  御書講義の会場である大法寺に着くと、入り口でも大勢の青年部員が歓迎してくれ た。  伸一は、皆の体が心配でならなかった。  「寒いなか、本当にありがとう。さあ、風邪をひかないように、早く中に入ってく ださい」  すると、一人の青年が笑って答えた。  「山本先生、これぐらいの寒さは、全然、平気ですよ。今日は、暖かい方ですよ」  既に会場は、満員であり、外にも、二百人ほどの青年があふれていた。  講義が始まるころから雪が降り出した。だが、青年たちは、外で立ったまま、開け 放たれた窓に向かって耳を澄まし、講義を聴いた。  伸一は、「西山殿御返事」の一節を引き、朗々たる声で、語り始めた。  「夫れ雪至って白ければそむるにそめられず...・・・」(御書一四七四n)  彼は、旭川の同志に、どんな辛いことがあろうと、生涯、純白の雪のように清らか な信心を貫いてほしいと、全魂を込めて訴えた。 講義は、次第に熱を帯びていっ た。  その時である。  「ドサーッ」 会場の屋根の上に積もっていた雪が、突然、崩れ落ちたのだ。  雪は、窓外で御書を広げていた、何人かの男子部員の頭上を直撃した。  頭から雪をかぶり、まるで雪ダルマのようになった。  しかし、彼らは、全くたじろがなかった。御書の上の雪を払い、頭を拭うと、何事 もなかったかのように、真剣な表情で講義に聴き入っていた。  そこには、剣豪の修行″のごとき、峻厳さがあった。熱き求道の息吹があった。  講義終了後、その話を聞いて伸一は思った。  すごい求道心だ。これこそ、大成長の原動力だ。ここから、やがて多くの指導者 が出るにちがいない。  将来、必ず旭川が、北海道が、広布の一大推進力になるだろう″  この日、伸一は、会場を移して再び御書講義をし、さらに青年部の幹部の会合で も、力の限り指導にあたり、発心の種子を蒔き続けたのである。 新・人間革命(2208)北斗 三  九年前の、この旭川指導の時、山本伸一から訪問の計画を聞かされたある幹部は、 あきれたように言った。  「ほう、この寒い一月に旭川に行くのですか。もっと暖かい時に行かれたらいいの に」  有名大学出身の要領のいい幹部であった。  伸一は、厳しい口調で語った。  「厳寒の季節だからこそ、最も寒いところに行くんです。そうでなければ、そこで 戦う同志の苦労はわからない。  幹部が率先して、一番困難なところにぶつかっていくんです。 法華経は冬の信 心″ではないですか!」  信心は要領ではない。  最も厳しいところに身を置き、泣くような思いで戦い抜いてこそ、本当の成長があ り、初めて自身の宿命の転換も可能となる。  さらに、その姿に触発され、同志も立ち上がるのである。  北海道は、伸一が、師の戸田城聖に代わって、夕張炭鉱の労働組合による不当な弾 圧と戦い、会員を守り、信教の自由を守り抜いた、青春乱舞の大舞台である。  彼は、その師弟共戦の天地である北海道から、戸田亡きあとの、新しき創価学会の 建設の狼煙を上げようと、雪の原野を走り、旭川を訪れたのであった。  旭川は、歴代会長との縁深き天地である。  初代会長の牧口常三郎は、一九三二年(昭和七年)七月、郷土教育の講演を行うた めに旭川を訪問している。  戸田城聖もまた、五四年(同二十九年)八月、旭川班の総会に出席したのをはじ め、旭川地区の総会、指導会、大法寺の落慶入仏式と、二年余の間に、四回にわたっ て足を運んでいる。  戸田には、旭川を、北海道広布の要衝にしようという、強い思いがあったのであ る。  伸一は初訪問の折、小樽から列車に乗り、午後一時半に旭川駅に降り立った。  空には雲が垂れ込め、一面の銀世界であった。一日のなかで、最も暖かい時間帯で あるにもかかわらず、外気は、肌を刺すように冷たかった。  乗京で生まれ育った伸一には、寒い″というより、痛い″と感じられた。 新・人間革命(2207)北斗 二  「はい、ありがとうございます!」  山本伸一の言葉に、出迎えたメンバーは、頬を紅潮させて答えた。  しかし、東京から同行してきた幹部の顔が曇った。伸一が会合等に出席すれば、仕 事をする時間がなくなり、その分、睡眠時間を削ることになるからである。  実は、伸一は一週間ほど前から体調を崩し、発熱が続いていた。  そのなかで、九月の六日には、注射を打って、創価学園のグラウンド開きに出席 し、八日には学生部総会で、「日中国交正常化提言」など、一時間十七分にわたる講 演を行ったのである。  そして、前日の十二日にも、民音(民主音楽協会の略称)の招聘で来日した、「ア メリカン・バレエ・シアター」のディレクターらとの会談に臨んだ。  まさに、激務の日々が続いていたのである。  それをよく知っている同行の幹部たちにしてみれば、旭川では、伸一に少しでも休 養をとってほしかったのだ。  だが、彼は、「次に旭川に来るのは、いつになるかわからないもの、みんなを激励 したいんだ」と言って、勇んで会場に向かうのであった。  伸一は、常に「臨終只今にあり」と、自らに言い聞かせていた。  そして、人との出会いの場では、いつも「一期一会」の思いで、生命を振り絞るよ うにして励ましを送った。  その真剣で必死な生命の弦から放たれる、炎のごとき魂の矢が、友の肺腑を射貫 き、勇気を燃え上がらせるのである。  旭川の空は晴れ渡り、彼方に大雪山連峰の雄姿が、浮かんで見えた。  皆が集っていた大法寺には、伸一も忘れ得ぬ思い出があった。  戸田城聖が亡くなった翌年の一九五九年(昭和三十四年)一月、伸一は旭川を初訪 問し、この会場で全魂を傾け、御書の講義を行ったのである。  当時、彼は、ただ一人の総務として、事実上、学会の一切の責任を担っていた。  そして、この年を「黎明の年」とするように提案し、弟子が立ち上がり、新しき時 代を開く闘争の第一歩を、厳冬の北海道から開始しようと決めたのだ。 新・人間革命(2206)北斗 一  走れ!  雪に埋もれた、あの悲哀の谷間に、光を送るために。  苦悩に沈む、あの闇深き森に、明かりをともすために。  あの地にも、この地にも、私を待つ友がいる。  行け!  力尽きるとも、地の果てまで。  わが生命を燃やして、光の翼となって――。  一九六八年(昭和四十三年)九月十三日、山本伸一は、東京から、北海道の旭川へ 飛んだ。日本最北端の街、稚内へ向かうためであった。  当時は、稚内への定期便はまだなかった。  伸一は、羽田から空路、札幌を経由して旭川まで行き、この日は、近郊の旅館で一 泊し、翌日の列車で、稚内に行くことにしていた。  彼が、同行の十条潔、関久男らとともに、旭川の空港に降り立ったのは午後四時ご ろであった。  東京では、厳しい残暑の日が続いていたが、旭川は、早くも木々が色づき始め、秋 の気配に包まれていた。  この日、伸一は、雑誌などの依頼原稿の執筆があり、空港から宿舎の旅館に直行 し、仕事をしなければならなかった。  彼が旭川の空港に到着したころ、地元の同志たちは、学会が建立寄進した大法寺に 集まり、山本会長の北海道指導の成功を祈念して、唱題会を行っていた。  メンバーには、今回の山本会長の目的は稚内訪問であり、旭川での会合等の出席は ないと伝えられていた。  しかし、せめて、一目でもお会いしたい″というのが、皆の願望であった。  空港には北海道在住の総務である宮城正治と、旭川の男子部の中心者である後藤啓 輔ら少数の幹部が出迎えに行った。  彼らは、皆の気持ちを思うと、伸一に、「旭川の同志と、ぜひ会ってください」 と、頼み込みたかった。  だが、多忙な山本会長に迷惑をかけまいと、その言葉を飲み込んだ。  ところが、伸一の方から、こう言い出したのである。  「みんな、どこかに集まって、私が来るのを待っているんだろう。そこへ行こう。 激励に行かせてもらうよ」 新・人間革命(2205)金の橋 五十五  周総理が、訪中した山本伸一に会うと言い出した時、病院の医師団は、全員が反対 した。  「どうしても会見するとおっしゃるなら、命の保証はできません!」  「いや、私は、どんなことがあっても会わねばならない!」  困惑した医師団は、総理の妻のケ穎超(ドン・インチャオ)に、説得を頼んだ。  夫人は答えた。  「恩来同志が、そこまで言うのなら、会見を許可してあげてください」  伸一を乗せた車が着いたところは、周総理が入院中の三〇五病院であった。時刻は 既に午後十時(現地時間)近かった。  玄関には、人民服に病躯を包んだ総理が立っていた。その全身から発する壮絶な気 迫を、伸一は感じた。  待ちに待った対面であった。会見には、伸一の妻の峯子も同席した。  周総理七十六歳。伸一四十六歳――。  二人は、固い、固い、握手を交わした。その瞬間、伸一は、互いの魂と魂が通い合 い、熱く脈動し合うのを覚えた。  瞬きもせずに、彼を見つめる総理の目は、鋭くもあり、また、限りなく優しくも あった。  「二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとって最も大事な時期です」  「中日平和友好条約の早期締結を希望します」  総理の発する一言一言が、遺言のように、伸一の生命を射貫いた。  彼は、総理の言葉に、日中の友好の永遠の道を!″との魂の叫びを聞いた。平和 のバトンが託されたと思った。  「桜の咲くころに、再び日本へ」との伸一の申し出に、総理は、寂しそうに微笑 み、静かに首を振った。  「願望はありますが、実現は無理でしょう」  胸が痛んだ。  これが、世々代々(せせだいだい)にわたる、日中の民衆交流の新しき歴史を開 く、一期一会の出会いとなったのである。  伸一は、深く、深く、心に誓った。  私は、わが生涯をかけて、堅固にして永遠なる日中友好の金の橋を、断じて架け る!″  師走の北京の深夜は、底冷えがしていた。  しかし、彼の胸には、闘魂が赤々と、音を立てて燃え盛っていた。   (この章終わり) 語句の解説 ◎ケ穎超 一九〇四〜九二年。中国の政治家。周恩来夫人。十五歳で「五・四運動」に参加して 以来、周恩来とともに革命運動に生涯を捧げた。女性運動の指導者として活躍し、 「人民の母」として敬愛される。池田SGI会長とは八回にわたり会見している。 新・人間革命(2204)金の橋 五十四  山本伸一は、心で叫んでいた。  松村先生! 私は、お約束通り、今、中国の大地を踏みました。  あなたの志を受け継ぎ、永遠不滅の堅固なる日中の金の橋を、断じて架けてまいり ます″  九竜を発つ時に降っていた雨は、既にあがっていた。  深せんの空を見上げると、薄雲の間から顔を覗かせた太陽が、微笑みかけているよ うに思えた。  伸一は、第一次となるこの訪中で、北京、西安(シーアン)、上海、抗州(ハン ジョウ)、広州(グアンジョウ)などを訪れた。  そして、教育・文化交流の新しい道を開くために、北京大学をはじめ、幼稚園、小 学校、中学校などを訪問する一方、中国仏教協会の責任者らと対話していった。  また、李先念(リー・シェンニェン)副総理、中日友好協会の廖承志会長らと会談 し、日中平和友好条約や社会主義と自由の問題、さらに、資源、国連、核兵器の問題 等について語り合った。  工場も視察した。民衆のなかへと、家庭も訪問した。託児所にも立ち寄った。青年 たちとも語り合った。  深夜の移動の車中も、中日友好協会の孫平化秘書長らと、寸暇を惜しんで対話を重 ねた。 伸一の中国での十七日間は、日中友好の沃野を開くための、全力を尽くして の、間断なき開墾作業であった。  周総理は、山本伸一との会見を強く希望していた。しかし、彼の滞在中に、癌の手 術のために入院したのである。  総理と伸一の歴史的な会見が実現したのは、第二次訪中となった、半年後の一九七 四年(昭和四十九年)十二月五日のことであった。  総理は病床にあり、病は重かった。それを聞かされていた伸一は、答礼宴の席上、 中日友好協会の廖承志会長から、「周総理が待っておられます」と言われた時、会見 を辞退した。  総理に負担をかけてはならないとの、思いからであった。  しかし、もはや変更できぬ状況のようである。  伸一は、廖会長の勧めにしたがい、「ひと目、お会いしたら失礼させてください」 と言って、会見会場に向かった。 語句の解説 ◎李先念 一九〇九〜九二年。中国の政治家。長征に参加し、抗日戦、解放戦で活躍。五四年か ら二十年以上にわたり、副総理、財政部長(財政相)を兼任。党副主席、国家主席を 歴任した。 こんばんは! 文字化けするかも知れません 「深せん」の「せん」という字は「つちへん=土」に「3本かわの川」 新・人間革命(2203)金の橋 五十三  田中角栄、周恩来の両国首相、そして、外相が厳粛に声明に署名し、首相同士が、 何度も固い握手を交わした。  ここに、中華人民共和国の成立から二十三年にして、遂に日中国交が樹立し、両国 の新時代の幕が開かれたのである。  山本伸一は、この調印式の模様をテレビのニュースで見ながら、深い感慨を覚え た。学生部総会でのあの提言から、はや四年の歳月が経過していた。  彼は、自分が丹精込めて植えた種子が、ようやく花開いたような喜びを感じてい た。  また、師の戸田城聖が幸福を願い続けたアジアの、不幸の芽が一つ摘み取られたこ とが、嬉しくてならなかった。  テレビは、一衣帯水の両国が、大きな祝福ムードに包まれている模様も伝えてい た。  伸一は思った。  今、日中国交の扉は開かれた。しかし、政府レベルの国交だけでは、真実の正常 化には至らない。大切なことは、友情の橋、信義の橋を架け、民衆の心と心が、固 く、強く結ばれることだ。  民衆は海だ。民衆交流の海原が開かれてこそ、あらゆる交流の船が行き交うことが できる。  次は、文化、教育の交流だ。人間交流だ。  そして、永遠に崩れぬ日中友好の金の橋を築くのだ!″ 彼のこの決意を知るもの は、誰もいなかった。  山本伸一が、中日友好協会の招きを受け、念願の中国訪問が実現するのは、一九七 四年(昭和四十九年)五月三十日のことである。  伸一を団長とする創価学会の代表団一行は、英国領であった香港の九竜(カオル ン)から、列車で香港最後の駅である羅湖(ローウー)まで来た。  ここから鉄道に沿って百メートルほど歩き、中国領内の深?(しんせん=シェン ジェン)に入るのである。  伸一は、香港と中国の境界の川に架かる鉄橋を渡って、深?駅の構内に至ると、四 年前、最後の訪中に旅立った松村謙三を思った。  八十七歳の老躯を車イスに委ね、迫り来る命の時間を、ひしひしと感じながら、国 交回復への闘志を燃やして、中国の旅を開始したのであろう。 新・人間革命(2202)金の橋 五十二  周総理は、公明党との最後の会談の折、これまで話し合ってきた事柄をまとめた、 日中共同声明の中国側の草案ともいうべき内容を読み上げていった。  公明党の訪中団は、必死にメモし、帰国後、それを田中首相、大平外相に伝えた。  そこには、日米安保条約の見直しなど、日本に苦渋の選択を迫るような問題は、 いっさいなかった。  首相も、外相も、安堵した。  日中の未来に、確かなる光が差した。  こうして、電撃的なスピードで、田中首相の訪中が可能となったのだ。  なぜ、この時、中国との交流の歴史も浅い公明党が、国交正常化のパイプ役となり えたのか――それは、一つの謎″とされてきた。  中日友好協会副会長の黄世明(ホアン・シーミン)、新華社の元東京特派員の李徳 安(リー・ダアン)は、ともに、山本伸一の「日中国交正常化提言」によるものと 語っている。  提言を高く評価した周総理は、その伸一が創立した党である公明党に、大きな信頼 を寄せたというのである。  伸一は、平和を願う一人の人間として、言うべきことを言い、行うべきことを行っ てきたにすぎないと考えていた。  また、自分は、歴史の底流をつくればよい。日中の国交正常化が実現できれば、自 分のしたことなど、誰も知らなくてよいと思ってきた。  ところが、周総理は、公明党に光をあて、提言を行った伸一への、厚情を示してく れたのだ。  伸一は、総理のその誠実さに、「飲水思源」(水を飲む時、源を思え)との、中国 の名句が思い起こされ、胸が熱くなるのを覚えた。  田中角栄首相をはじめとする政府の代表団一行が、中国の大地に立ったのは、一九 七二年(昭和四十七年)の九月二十五日のことであった。  そして、二十九日午前十時十八分(現地時間)。  北京の人民大会堂で、日中共同声明の調印式が行われた。  日中両国は、遂に、歴史的な瞬間を迎えたのである。  そのニュースに、日本中が沸き返った。 語句の解説 ◎黄世明など  黄世明は一九三四年、神戸で生まれ、帰国後、中国人民外交学会に勤務。要人の通 訳として活躍した。全国政治協商委員、中国人民対外友好協会副会長等を歴任。八六 年から中日友好協会副会長。  李徳安は一九三六年生まれ。北京大学卒業後、新華社に入社。東京特派員等として 活躍。『日本知識辞典』の編集に携わる。 新・人間革命(2201)金の橋 五十一  ほどなく、日本政府も中国への外交政策を転換することになる。  しかし、それは自らの信念によってではなく、状況の変化″に従ったにすぎな かった。  時代は、日中国交正常化へ、急速な勢いで進んでいった。  また、国連でも、中国の代表権を認める国が大半を占めていった。  この一九七一年(昭和四十六年)十月の国連総会では、中華人民共和国政府が中国 を代表する唯一の政府であることを認め、台湾の国民党政府にかわって、国連に招請 すべきだとするアルバニア案が、七十六対三十五の大差で可決された。  そして、翌七二年(同四十七年)の二月には、ニクソン米大統領が中国を訪問。米 中は、日本の頭越しに国交樹立へと踏み出したのである。  七月、田中角栄内閣が発足した。外相は大平正芳であった。  公明党は、この年の五月と七月、中国へ代表団を派遣した。  田中内閣発足直後の七月の訪中では、国交回復への政府とのパイプ役を務めた。公 明党の訪中団は周総理と、国交回復の具体的な問題点を、一つ一つ煮詰めていった。  日中国交の実現に際して、日本政府には、幾つかの憂慮があった。その最大の難問 が、日本が中国に与えた戦争被害の賠償問題であった。  一九三七年(同十二年)から終戦に至る八年間の、中国抗日戦争中での中国側死傷 者は三千五百万人、経済的損失は直接・間接を合わせて、総額六千億ドルともいわれ る(一九九五年、中国政府発表)。  日本がそれを支払うことになれば、日本経済は被綻をきたし、経済発展など、思い もよらなかったにちがいない。  しかし、周総理は、公明党との会談で、中国は対日賠償を放棄すると語ったのであ る。  かつて中国は、日清戦争に敗れ、日本に多額の賠償を払った。そのため、中国の 人民は重税を取り立てられ、塗炭の苦しみをなめた。  戦争は一部の軍国主義者の責任だ。日本の人民も軍国主義の犠牲者である。その苦 しみを、日本の人民に味わわせてはならない″  それが、周総理の考えであったのだ。 新・人間革命(2200)金の橋 五十  中国と公明党の共同声明が発表されると、日中国交への機運は、次第に高まって いった。  ここに示された条件なら、日本政府としても、了承できるはずだとの見方が、世論 となっていったのだ。  国交正常化の基本条件が明示された、この共同声明は、「復交五原則」と呼ばれ、 その後の政府間交渉の道標となったのである。  共同声明の発表から、二週間ほどした、七月半ば、人びとが予想だにしなかった ニュースが世界を駆け巡った。  アメリカのニクソン大統領が、突如、テレビ放送で、翌年五月までに訪中する計画 があることを発表したのである。  そして、すでに極秘裏のうちに、大統領補佐官のキッシンジャーが訪中し、周恩来 総理と会見していたことが明らかになった。  最も大きな衝撃を受けたのは、アメリカの反共政策に同調し、中国に対して非友好 的な態度をとり続けてきた、日本政府であったにちがいない。  アメリカは、冷戦構造のなかで中国を敵視してきたアジア政策の、大転換に踏み 切ったのだ。  日本の中国政策の変更も、もはや時間の問題となった。  山本伸一は、歴史の歯車は、いよいよ動き始めたと思った。  彼は、あの学生部総会で、まず日中の両国首脳が話し合い、基本的な平和への意思 を確認し、細かい問題の解決を図るべきだと提案したが、それを、米中首脳が先に行 おうとしているのである。  日本政府の優柔不断さが、伸一は残念でならなかった。ニクソン訪中計画のニュー スを、松村謙三は病床で知った。彼も同じ思いであったようだ。 雷雨が激しく窓を 叩く病棟で、彼は力を振り絞るようにして語った。  「世界平和のためにいいことだ。これからわが国としても、打つべき手はある。首 相が中国へ行くことだ!」  その松村は、八月二十一日、日中国交の橋を見ずして、八十八歳の生涯を閉じた。  伸一は、その知らせを涙で聞いた。  そして、故人の遺徳を讃え、世界平和への誓いを記した、長文の弔電を送った。 語句の解説 ◎ニクソン 一九一三〜九四年。アメリカの政治家(共和党)。アイゼンハワー政権の副大統領。 六八年の大統領選で民主党候補を破り、第三十七代大統領に就任。対ベトナム政策で は米軍撤退等の実績を上げた。ウォーターゲート事件により、七四年、二期目途中で 辞任した。 ◎キッシンジャー 一九二三年生まれ。アメリカの政治家、政治学者。ハーバード大学の教授を経て、ニ クソン、フォード両政権で大統領補佐官、国務長官を歴任。ベトナム和平協定の実 現、第四次中東戦争収拾などに貢献。七三年にノーベル平和賞を受賞した。 池田S GI会長との対談集『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』がある。 新・人間革命(2199)金の橋 四十九  周総理は断言した。  「公明党の主張する、この五つの点が実現すれば、日本政府と中華人民共和国政府と の国交を回復することができ、戦争状態を終わらせることができます。  さらに皆さんの期待している中日友好が進み、中日両国は平和五原則に則って平和 条約を結び、なお、それにとどまらず、相互不可侵条約を結ぶ可能性もあります」  訪中団のメンバーが重ねて尋ねた。  「日中国交回復のためには、双方が、すべての点において、意見が一致しなければ ならないとお考えですか」  「すべての点で一致することは不可能です。私たちは中国共産党で、皆さんは公明 党です。世界観も、立場も違います」  そして、こう明言したのである。  「すべての意見の一致が国交回復の条件ではありません」  周総理の言葉は、訪中団にとって、全く予想外であった。  前年秋の社会党訪中団との共同声明では、「米帝国主義と日本軍国主義の復活への 反対」や「日米安保条約の廃棄」などが盛り込まれ、国交回復の条件とされてきた。  また、訪中してからの公明党との交渉でも、中国側は、盛んにそれを主張していた のである。  日本政府としては、中国側が、反米や日米安保条約の廃棄を条件とする限り、国交 正常化には、とうてい動き出すことはできなかった。  ところが、周総理は、それを覆して、極めて柔軟な姿勢を見せ、日本政府が、公明 党の五つの主張を受け入れるならば、中国は国交正常化に踏み切ることを、明らかに したのである。  訪中団の顔が輝いた。  実は、この年の四月、中国はアメリカの卓球チームを招待し、両国の新たな関係が 築かれつつあった。そして、水面下にあって、歴史を画する、大きな動きが起こり始 めていたのである。  翌六月二十九日から、訪中団は中国側と、国交正常化の条件を示すことになる、共 同声明の作成に入り、三十日には、内容、表現ともに、ほぼ合意に達した。  公明党訪中代表団と中日友好協会代表団との、共同声明の調印は七月の二日に行わ れた。 語句の解説 ◎平和五原則 一九五四年、周恩来総理とインドのネルー首相との会談で確認された外交原則。@領 土・主権の尊重A相互不侵略B内政不干渉C平等互恵D平和共存の五つ。これを基礎 に、翌五五年のバンドン会議で「平和十原則」が採択された。 新・人間革命(2198)金の橋 四十八  会談が始まった。  周総理は、丁重な口調で言った。  「どうか、山本会長にくれぐれもよろしくお伝えください」  その言葉には、深い信頼の響きがあった。  メンバーは、真っ先に山本会長への伝言が伝えられたことに、驚きを隠せなかっ た。  総理は、山本会長の日中友好への命がけの取り組みを、知悉しているのだと実感し た。  公明党の訪中団の一人が、周総理に、国交を正常化し、日本と平和条約を結ぶ条件 とは何かを、率直に尋ねた。  周総理は語り始めた。  「公明党が成立してから、皆さんの主張に注目してきました。  皆さんは中日関係について、よい意見をもっており、私たちも、高く評価しており ます。  このたび、私たちが皆さん方をお招きしたのも、こういうことから出発していま す」  公明党は、結党に対して山本伸一から提案された日中国交正常化を、外交政策の柱 としたが、総理は、そこに着目してきたのである。  さらに総理は、「皆さんは、どうすれば中日国交の回復ができるか、正しい意見を お持ちです」と前置きして、公明党の主張を確認するように、列挙していった。  @一つの中国を認め、中華人民共和国が中国人民を代表する唯一の正統政府と認め ている。  A「二つの中国」「一つの中国、一つの台湾」に反対し、台湾は中華人民共和国の 一つの省であることを認め、台湾の帰属未定論という誤った見解に反対している。  B日台条約は不法であり、廃棄すべきであると主張している。  Cアメリカの軍事力が台湾と台湾海峡を占領したことを侵略と認め、すべての外国 軍隊は、これらの地域から撤退すべきであると主張している。  D中華人民共和国が国連のすべての組織において、安全保障理事会常任理事国とし ての合法的な地位を回復すべきであると主張している。  これらは、伸一の日中国交正常化提言に賛同した公明党が、その考えを基礎にし て、つくり上げてきた政策であった。  周総理は、メンバーに視線を注ぎ、微笑を浮かべた。 新・人間革命(2197) 金の橋 四十七  中国では、初訪問の公明党との交渉に、中日友好協会副会長の王国権(ワン・グオ チュエン)らがあたった。  それは、廖承志、孫平化などの対日関係のエキスパートが、文化大革命の影響で一 線を退いていた時期にあって、最も強力な布陣といえた。  この一点からも、周恩来総理が、創価学会が母体となって誕生した公明党を、いか に重要視していたかがわかる。  六月十八日、歓迎宴が開かれたが、その際、公明党の訪中代表団は、戦時中の軍国 主義による侵略を心から謝罪した。  中日友好協会代表団との会談は、翌十九日から、北京のホテルで行われ、国交正常 化の条件をめぐって、率直に意見を交わし合った。  公明党側は、国交正常化のために主張してきた、「一つの中国」「台湾は中国の不 可分の領土」「日台条約は廃棄すべき」「中華人民共和国の国連加盟」などの見解を 語った。  中国側も、これらの主張には、賛同の意を示したが、アメリカのアジア政策に対す る認識をめぐっては、なかなか合意に至らなかった。  中国側は、アメリカのアジア政策は、「アメリカ帝国主義の侵略」であるととらえ ていた。  そして、日本政府が日米安保体制を維持していることは、これに加担するものであ り、「日本軍国主義の復活」であると主張した。  それに対して、公明党は、インドシナ三国などからの米軍の撤退は主張したが、基 本的には、アメリカとの友好関係を尊重していた。  したがって、公明党としては、同意することはできかねたのである。  何度も小委員会を開いて、討議を重ねたが、議論は平行線をたどった。  そのため、国交正常化の基本的な条件を示せる共同声明の発表の見通しは立たな かった。  訪中団の顔には、落胆の色が滲み、重苦しい雰囲気に包まれていた。  二十七日、彼らは荷物をまとめ、帰国の準備を始めた。  その時、周総理との会見が伝えられたのだ。  翌二十八日の午後十時(現地時間)、会見会場の人民大会堂に到着した一行を、周 総理らが温かく出迎えてくれた。 語句の解説 ◎王国権  一九一一年生まれ。中国の外交官。七〇年に中日友好協会副会長に就任し、日中友 好に尽力。対外友好協会会長等、要職を歴任。 新・人間革命(2196)金の橋 四十六  山本伸一の言葉に、松村謙三は頷(うなず)いた。  顔には安堵(あんど)の色が浮かんでいた。  「実にありがたい。  わかりました。公明党のことも、山本会長のことも、全部、周総理にお伝えしま す」  伸一は、深く、頭(こうべ)を垂れた。  「恐縮です。私は、今はまだ、訪中はできませんが、時機を見て、必ず中国にまい ります」  約一時間にわたる会談は終わった。  松村先生の志を、受け継がねばならない″と伸一は心に誓った。  彼は、別れ際、訪中の成功への思いを託して、松村に花束を捧げた。  この九日後、松村は、中国に旅立っていった。  羽田の空港では、タラップまで、車イスを使わねばならないほど、体の衰弱は激し かった。  日中の国交の流れを開くのだ。生きて日本の土を踏めずともよい″との覚悟を決 めての、壮絶な出発であった。  家族もまた、「仮に中国に行って倒れるようなことがあっても、おそらく本望で しょう」と考えて送り出したのである。  この訪中での松村の立場は、三度目の「覚書貿易」の交渉の後見役であった。  交渉は難航したが、四月十九日、協定の調印が行われ、彼は周総理と会見した。  その直後、彼の側近から東京に連絡が入った。  「松村先生は山本会長のことを、間違いなく周総理にお伝えしました。  総理は『山本会長に、どうかよろしくお伝えください。訪中を熱烈に歓迎します』 と、述べておられました」  公明党の訪中が実現したのは、その翌年の一九七一年(昭和四十六年)の六月のこ とである。  出発を前に、伸一を訪ねてきた党の幹部に、彼は言った。  「私の名前を出す必要は、一切ありません。あくまでも、誠心誠意、中国の指導者 の話を伺い、誠心誠意、友好を進めていくことです」  訪中団は、日中国交正常化の基本的な条件について合意を得ようと、勢い込んで出 発した。  松村は、この時、既に病床にあった。  二月に入院して以来、病床を去れずにいたのである。 新・人間革命(2196)金の橋 四十六  山本伸一の言葉に、松村謙三は頷(うなず)いた。  顔には安堵(あんど)の色が浮かんでいた。  「実にありがたい。  わかりました。公明党のことも、山本会長のことも、全部、周総理にお伝えしま す」  伸一は、深く、頭(こうべ)を垂れた。  「恐縮です。私は、今はまだ、訪中はできませんが、時機を見て、必ず中国にまい ります」  約一時間にわたる会談は終わった。  松村先生の志を、受け継がねばならない″と伸一は心に誓った。  彼は、別れ際、訪中の成功への思いを託して、松村に花束を捧げた。  この九日後、松村は、中国に旅立っていった。  羽田の空港では、タラップまで、車イスを使わねばならないほど、体の衰弱は激し かった。  日中の国交の流れを開くのだ。生きて日本の土を踏めずともよい″との覚悟を決 めての、壮絶な出発であった。  家族もまた、「仮に中国に行って倒れるようなことがあっても、おそらく本望で しょう」と考えて送り出したのである。  この訪中での松村の立場は、三度目の「覚書貿易」の交渉の後見役であった。  交渉は難航したが、四月十九日、協定の調印が行われ、彼は周総理と会見した。  その直後、彼の側近から東京に連絡が入った。  「松村先生は山本会長のことを、間違いなく周総理にお伝えしました。  総理は『山本会長に、どうかよろしくお伝えください。訪中を熱烈に歓迎します』 と、述べておられました」  公明党の訪中が実現したのは、その翌年の一九七一年(昭和四十六年)の六月のこ とである。  出発を前に、伸一を訪ねてきた党の幹部に、彼は言った。  「私の名前を出す必要は、一切ありません。あくまでも、誠心誠意、中国の指導者 の話を伺い、誠心誠意、友好を進めていくことです」  訪中団は、日中国交正常化の基本的な条件について合意を得ようと、勢い込んで出 発した。  松村は、この時、既に病床にあった。  二月に入院して以来、病床を去れずにいたのである。 新・人間革命(2195)金の橋 四十五  松村謙三は、日中友好を託すべき後継者を、懸命に探し求め、育もうとしていた。  今回の訪中にも、これはと思う人物を連れていこうと決めていた。  松村は、続けてこう語った。  「ぜひとも、あなたを周恩来総理に紹介したいのです」  松村と周恩来は、いわば日中の両岸にそびえ立つ大柱であった。これまでの日中友 好の歩みは、この柱と柱の間に、綱を渡す作業であったともいえよう。  今、その一方の柱が、残された命の時間を推し量り、後事を託すために不自由な老 ?(ろうく)を運び、周総理に紹介したいというのだ。  松村の思いが、痛いほど伸一の胸に染みた。自分への期待を、ひしひしと感じた。  しかし、彼は、どこまでも冷静に考え抜いた。  今、自分が訪中して、本当に有効な仕事ができるのか。また、ほかによい方法はな いのか――。  国交回復の推進は、基本的には政治の次元の問題である。表に立つのは政治家で なければ、有効に物事を進めることはできない。  また、今は文化大革命の嵐が吹き荒れ、中国の国内では、宗教の否定に躍起になっ ている。  そんな渦中に、宗教者の自分が訪中すれば、松村氏にも、招聘した中国の関係者に も、迷惑がかかるかもしれない......″  伸一は答えた。  「大変にありがたいお話です。恐縮いたしております。  しかし、私は政治家ではありません。その私が今、中国に行くというのはどうで しょうか。  私は宗教者であり、創価学会は仏教団体です。今の中国は社会主義体制です。  その国に、宗教者の次元で行くわけにはいかないと思います」  松村の顔が曇った。  伸一は言葉をついだ。  「もちろん、松村先生のお心はよく存じております。ご依頼も、よくわかりまし た。  しかし、国交を回復するには、政治の次元でなければできません。  したがって、宗教者の私が行くのではなく、私の創立した公明党に行ってもらうよ うに、お願いしようと思いますが、いかがでしょうか」 新・人間革命(2194)金の橋 四十四  松村謙三が、イスに腰かけると、山本伸一は、威儀を正して語った。  「先生のご功績に対して、かねがね尊敬申し上げておりました。  このたびは、また中国に渡って、日中関係の打開のために尽力されると伺いまし た。  アジアの平和、ひいては世界平和のために、どうか今後ともご活躍くださること を、切に念願しております」  「ご丁寧に、恐れ入ります。私は、あなたの提言で、百万の味方を得た思いでござ います」  松村は、この時、八十七歳であり、伸一より四十五歳も年上であった。  だが、伸一に対する松村の言葉遣いは、まことに丁重であった。  時計は正午を回った。  松村と伸一、そして、松村の子息、また、松村が信頼を寄せる自民党の代議士、さ らに、十条潔の五人が別室に移り、寿司をつまみながらの会談が始まった。  松村は、日中問題について、情熱を込めて語り始めた。  「中国は、偉大な国です。将来、必ず大発展するでしょう。  日本の未来と平和のために、日中の共存共栄は不可欠です」  彼は、自分の率直な思いを、次々に、伸一に訴えていった。  「日中の友好といっても、互いに本当のことを話し合うことが大切です。それが厚 い信頼につながっていきます」  松村の話は、簡潔であった。  だが、その言々句々に日中関係の改善を願う熱い心情があふれていた。いや、命を かけていることが実感された。  二人は意気投合した。信念と信念が強く共鳴し合い、旧知の間柄であるかのよう に、語らいは弾んだ。  しばらくすると、松村は、身を乗り出すようにして、ひときわ高い声で伸一に言っ た。  「あなたは中国へ行くべきだ。いや、あなたのような方に行ってもらいたい。 ぜ ひ、私と一緒に行きましょう」  その声には、切実な響きがあった。  国交正常化は、自分の存命中にできないかもしれない。だからこそ、今のうち に、未来のための盤石な手を打っておかなければならない″  そんな、切迫した心情を、伸一は感じ取った。 新・人間革命(2193)金の橋 四十三  松村謙三と山本伸一との会見は、なかなか実現しなかった。   松村も、伸一も、ともに体調を崩していたためである。   松村は、風邪をこじらせて、しばらく伊豆で静養していた。   その知らせを聞いた伸一は、懸命に祈った。   日中友好の日本の柱ともいうべき松村には、一日も早く元気になり、両国の未来の ために活躍してほしかった。  そして、松村が大好きであるという、蘭の花を届けてもらった。  一方、伸一も、一九六九年(昭和四十四年)の年末から、風邪をこじらせ、気管支 障害で苦しんでいたのである。  一時は、四〇度を超す熱があり、その後も微熱が続いていたのだ。ペンを持つこと さえも困難になり、小説『人間革命』も口述をしてテープに吹き込み、連載を続ける ような状態であった。  しかし、七〇年(同四十五年)三月十一日、ようやく会談は実現した。  早春のやわらかな日差しが、庭の芝生を優しく包んでいた。  伸一は、渋谷区内の創価学会分室で、松村謙三の来訪を待っていた。  そこには、この年の一月に新設された副会長になった十条潔や、総務の山道尚弥、 そして、伸一に松村を取り次いだ新聞記者もいた。  正午前、一台の黒い車が到着した。  ドアが開き、和服姿の、メガネをかけた老紳士が、車からゆっくりと姿を現した。 松村である。  中国の大地を駆け巡ってきたその足は、既におぼつかなかった。  耳も少し不自由のようであった。  しかし、古武士の風格が全身にあふれていた。  伸一は、さっと歩み寄ると、松村の腕を自分の肩に回すようにして、彼の体を支え た。 「若い私の方から出向くのが本来ですのに、わざわざお越しいただいて恐縮で す。誠に、ありがとうございます」  松村は、自分の体を支えている伸一の肩に視線を落としながら言った。  「いやいや、こんなに気を使ってくださって、ありがとうございます。  大丈夫です。一人で歩けますから」  伸一は恐縮する彼を支え、応接室に案内した。 新・人間革命(2192)金の橋 四十二  提言から一年半が過ぎた、一九七〇年(昭和四十五年)の三月のことであった。  山本伸一は、日中友好の先達である松村謙三と会見した。  ある新聞記者から、松村が会見を希望していることが伝えられたのだ。  学生部総会での提言を知り、ぜひ会って、日中関係について話し合いたいとのこと であった。  伸一は、松村の会見の要請を快諾した。  彼もまた、松村の日中友好にかける信念に、強く共感し、深く敬意を表していた。  そして、機会があれば、ぜひ会って話を聞きたいと考えていた人物であったから だ。  松村は、この前年に、八十六歳で半世紀にわたった議員生活に終止符を打 ち、代議士を引退していた。  引退を表明した挨拶状のなかで、彼はこう宣言した。  「私には生涯をかけた悲願がございます。私の健康を維持し、この生涯をかけた事 業に献身する為には私の活動分野をできる限りこれに限定、集中することもやむをえ ないことだと感ずるに至りました。  この大いなる願いと申しまするのは、『日中両国関係改善』これでございます」  高齢による、体力の衰えは激しかった。  そのなかで、命をかけて、人生の最後になるであろう訪中を決行し、もう一度、周 恩来総理と会おうと、決意を固めていたのである。  松村は、厳しい政治状況のなかで、日中総連絡役という立場で、両国の関係改善に 努力に努力を重ねてきた。  しかし、彼らが汗と労苦で切り開いた日中貿易のルートは、佐藤政権の中国敵視政 策と中国の文化大革命によって、今や風前の灯火となっていたのである。   燃える志を胸にいだきながらも、限りある命の時間を考えると、彼の胸は、張り裂 けんばかりであったにちがいない。  そのなかで、あの提言を知り、彼は奮い立ったのだ。  そして、日中国交に、全魂を注ぎ込むことを決意するとともに、伸一と会うことを 熱願してきたのである。伸一は、この出会いに運命的なものを感じていた。 新・人間革命(2191)金の橋 四十一  日中国交正常化の提言は、山本伸一が、アジアの平和を願う仏法者としての信念の うえから、命を賭しても新しい世論を形成し、新しい時流をつくろうとの決意で、発 表したものだ。  だから、いかなる中傷も、非難も、迫害も、弾圧も、すべて覚悟のうえであった。  伸一に恐れなど、全くなかった。  だが、妻の峯子や子どもたちのことが、気にかかった。  家族にも、何が起こってもおかしくない状況であったからだ。  私は死を覚悟しての行動である。だから何があってもよい。しかし、妻や子ども たちまで、危険にさらされるのは、かわいそうだ。せめて、家族には無事であっても らいたい......〃  伸一は、夜、帰宅し、妻や子どもたちの姿を見ると、今日も無事であったかと、 ほっと胸を撫で下ろす毎日であった。  ある時、家族を案じる彼に、峯子は微笑みながら言った。  「私たちのことなら、大丈夫です。あなたは、正しいことをされたんですもの、心 配なさらないでください。子どもたちにも、よく言い聞かせてあります。  私たちも、十分に注意はします。でも、何があっても驚きません。覚悟はできてい ますから」 穏やかな口調であったが、その言葉には、凛とした強さがあった。  伸一は、嬉しかった。勇気がわいてくるのを覚えた。  それは、彼にとって最大の励ましであった。  戦友−そんな言葉が伸一の頭をよぎった。  彼も微笑を浮かべ、頷きながら言った。  「ありがとう! 偉大な戦友に最敬礼だ」  山本伸一は、さらに翌一九六九年(昭和四十四年)六月、聖教新聞に連載中の小説 『人間革命』のなかで、日中国交正常化をもう一歩進め、「日中平和友好条約」の締 結を強く訴えた。 「−日本は、みずから地球上のあらゆる国々と平和友好条約を早 急に結ぶことである。 まず第一に、中華人民共和国と万難を排しても結ぶことであ る」 伸一の日中友好への叫びは、打ち寄せる波のように、二度、三度と、強く、激 しく、繰り返されたのである。 新・人間革命(2190)金の橋 四十  竹内好は、戦後、日中友好の運動に身を捧げてきた人物である。  しかし、その前に立ちはだかる国家権力の分厚い壁に阻まれ、呻吟(しんぎん) し、幾度となく辛酸をなめてきた。希望も失いつつあった。  山本伸一の提言は、そんな竹内の心を、強く揺さぶったようだ。  竹内は、伸一が戦争の危機を、ひしひしと感じているのがわかったと述べたあと、 次のように結んでいる。  「ここに先憂の士がいる。私は悲観論を変えたわけではないが、一縷の光りを認め たことは告白したい。  ご健闘を祈ります」  また、松村謙三が提言に対して、「百万の味方を得た」と語ったことも伸一の耳に 届いた。  提言を知った学術月刊誌『アジア』からも、すぐに、さらに提言を掘り下げた原稿 を発表してほしい旨の依頼が来た。  伸一は快諾し、早速、講演の日中提言に関する部分について、学術的に筆を加え、 「日中正常化への提言」と題する論文を書き上げた。  これは、同誌の十二月号に掲載されている。  彼は、日中の関係改善のために、徹底して戦い抜く決意を固めていたのである。  しかし、反響は、決して共感と賛同だけではなかった。  伸一が予測していたように、彼は、激しい非難と中傷にさらされなければならな かった。  学会本部などには、嫌がらせや脅迫の電話、手紙が相次いだ。  街宣車を繰り出しての、けたたましい攻撃″もあった。  宗教者が、なぜ赤いネクタイ″をするのかとの批判もあった。  また、学生部総会の三日後の十一日から開かれた日米安全保障協議の席でも、外務 省の高官が、伸一の提言を取り上げ、強い不満を表明した。  提言は、「中国に対して、ひどく誤った期待を高めさせる」もので、日本政府の外 交の障害になるというのだ。  アメリカの駐日大使、在日米軍司令官らとの協議の席での、露骨な非難である。  山本伸一も、創価学会も、日米両政府にとって「害悪な存在」であると、強く印象 づけたかったのであろう。 新・人間革命(2189)金の橋 三十九  アジアの未来を開く燦然たる希望の光″を放った、歴史的な第十一回学生部総会 は、午後一時半に終了した。  山本伸一の「日中国交正常化提言」は、朝日、読売、毎日をはじめ、翌九日付の新 聞各紙が一斉に取り上げた。  そのうち毎日新聞は、一面の報道のほかに四面に解説記事を掲載。そこでは、首脳 同士がまず語り合うことを提唱した、国交推進の方法に着目していた。  ――従来の政府の対応は、できる問題を事務的に処理して、それを積み上げていく という「積み上げ方式」であった。これに対して、大局的な立場から相互理解と信頼 によって演繹的(えんえきてき)に解決をはかるという伸一の提案は、「新しい着 想」であると評していた。  また、提言は、海外にも発信された。  中国にこのニュースを打電したのは、秋月英介らと会った、あの劉徳有記者であっ た。  劉は、後に中国文化部副部長(文化省の副大臣)などの重責を担っていくことにな る。  提言のニュースは、新華社発行の海外報道紙「参考消息」の九月十一日付に、第一 面の四分の一を使って大きく報じられた。  山本伸一の提言を知った周恩来総理は、その内容を高く評価した。  また、日本の民衆組織である創価学会のリーダーの伸一が、日中友好を熱願し、 堂々と主張を発表したことに、感嘆したようだ。  この提言は、さらに、日中友好に取り組んできた人たちに、大きな反響を巻き起こ した。  中国文学者の竹内 好(たけうち よしみ)は、総合月刊誌『潮』の十一月号に、提言 の感想を発表した。  彼は、そのなかで「既成の国交回復運動や友好運動のなかで傷ついた人たち」に向 かって、こう呼びかけている。  「講演を読むことをすすめたい。あなたがたの愚直さ、その愚直さのために傷つい た心、その心をなぐさめる拠りどころの一つがここにあることを指摘したい。  それは信仰の相違を超え、また政治的信条の相違を超えて、ひとしく共感できるも のである。  徳、孤ならず。仁人は稀であるが、天下に皆無ではない」 語句の解説 ◎竹内好 一九一〇〜七七年。中国文学者・評論家。長野県生まれ。東大卒。三四年、中国文学 研究会を結成。魯迅の研究・翻訳で名高い。戦後、日中間題の解決に尽力し、六三年 には、雑誌『中国』を創刊した。 新・人間革命(2188)金の橋 三十八  最後に山本伸一は、力を振り絞るようにして語っていった。  「ここで、学生部の、さらに偉大な発展と、諸君の成長のために、今後の指針を申 し上げておきたいのであります」  彼は、五項目の指針を発表した。  第一に「ひとたび妙法に生きた学徒は、未来に雄飛する革命児であることを疑って はならない」。  第二に「妙法を実践する学徒は、今、どれほどの困難にあろうとも、断じてひるん ではならない。恐れてはならない」。  第三に「人類数千年の文化遺産は、ことごとく諸君のために用意されている。した がって、知識に対しては貪欲でなければならない」。  第四に「新しき生命の世紀の動向は、すべて諸君の掌中にあることを知るべきであ る」。  第五に「喜々として妙法を信じ、行じ、学び、真摯な学徒として行動するならば、 輝く知性と、鉄の意志と、頑健な身体は、諸君の生涯のものとなろう」。  そして、「戦う学生部に、栄光の未来に進む諸君に栄冠あれ!」と励ましの言葉を 贈り、話を結んだ。  実に一時間十七分にわたる大講演であった。  激しい拍手が堂宇を揺るがした。  集った一万数千の学徒は、平和への新たな使命を自覚し、若き命を沸き立たせてい た。  この日、この時、アジアを覆う暗夜に、平和の松明が燃え上がったのである。  伸一の、この講演は、「日中国交正常化提言」として、日中友好の歴史に、燦然と その名を残すことになる。  講演を終えた伸一は、前年の十月に会談した、クーデンホーフ・カレルギー伯爵と の語らいを思い起こしていた。  その時、二人は、戦争放棄をうたう日本国憲法に掲げられた平和の理念と精神を、 全世界に広げることが日本の使命であるとの合意に達した。  戦争を放棄するためには、不信を信頼に、憎悪を友情に変え、戦争など起きない友 好関係を、すべての国々と築いていく以外にない。  イデオロギーの壁を超えた、日中国交正常化の提唱は、その合意の具体的な実践で もあった。 語句の解説 ◎クーデンホーフ・カレルギー 一八九四〜一九七二年。オーストリアの思想家。母親は日本人。ヨーロッパの統合を 一貫して主張し、ヨーロッパ経済共同体の成立に多大な影響を与えた。池田SGI会 長との対談集『文明・西と東』がある。 新・人間革命(2187)金の橋 三十七  さらに、山本伸一は、日中の友好関係樹立の意義について語った。  「世界の平和にとって最も不安定で、深刻な危機をはらんでいるのが、悲しくもア ジア地域であります。  そのアジアの不安の根本的な原因は、アジアの貧困であり、自由圏のアジアと共産 圏のアジアとの隔絶と、不信と、対立にあることも明瞭な事実であります。  日本が率先して中国との友好関係を樹立することは、アジアのなかにある東西の対 立を緩和し、やがては、必ずや、見事に解消するに至ることは間違いないと、私は訴 えたいのであります」  また、かつてない経済成長を遂げた日本の繁栄は、「低所得の国民大衆と、アジア 民衆の貧困の上に立った、砂上の楼閣にすぎない」と喝破し、国際社会における、今 後の日本の在り方を述べていった。  「国家、民族は、国際社会のなかで、自分たちの利益のみを追求するための集団で あってはならない。  広く国際的視野に立って、世界の平和と繁栄のため、人類の文化の発展、進歩のた めに、進んで貢献していってこそ、新しい世紀の価値ある国家、民族といえるのであ ります。  私は、今こそ日本は、この世界的な視野に立って、アジアの繁栄と世界の平和のた めに、その最も重要なカナメとして、中国との国交正常化、中国の国連参加、日中の 貿易促進に、全力を傾注していくべきであることを、重ねて訴えるものであります」  賛同の大拍手が、潮騒のようにドームに舞い、伸一を包んだ。  彼は、後継の学生部員に、自分の思いが通じたという、確かな手応えを感じた。  伸一は、静かに頷きながら、言葉をついだ。  「私の中国観に対しては、種々の議論があるでしょう。  あとは賢明な諸君の判断に一切まかせます。  ただ私の信念として、今後の世界を考えるにあたって、どうしても日本が、青年の 諸君が、経(へ)なければならない問題として、あえて申し述べたわけであります。  これを一つの参考としていただければ、望外な喜びであります」 新・人間革命(2186)金の橋 三十六  報道陣の顔には、驚きの表情が浮かんでいた。  山本伸一は、歯に衣を着せずに、言うべきことを、明確に言い切ろうと心に決めて いた。  彼は、なおも強い語調で、話を続けた。  「日本はこれまでのように、アメリカの重要事項指定方式に加担するのでなく、中 国の国連参加を積極的に推進すべきであります。  およそ、地球の全人口の四分の一を占める中国が、実質的に国連から排斥されてい るというこの現状は、誰びとが考えても、国連の重要な欠陥といわねばならない。  これを解決することこそ、真実の国連中心主義であり、世界平和への偉大な寄与で あると思いますが、皆さん、いかがでしょうか!」  豪雨のような大拍手が響いた。  伸一の講演は、既に五十分を経過した。  場内の温度は、かなり上昇していた。背広姿の伸一の額には、汗が噴き出してい た。いや、全身汗まみれであった。  だが、彼は、その汗を拭うことも忘れていた。  演台の上に置かれたコップの水を口にすると、今度は、日中貿易の問題について、 その歴史をたどりながら、詳細に論じていった。  「この日中貿易に対して、日本政府の態度はどうかといえば、財界の有志まかせ で、まったく消極的であるばかりでなく、対米追従主義から、種々の制限を加えてい るのであります」  彼は、その最たるものとして、日中間の貿易に際して、輸出入銀行などの政府資金 を使って、長期延べ払いをしないことを述べた吉田書簡″に言及していった。  「これは、吉田氏の私信であり、しかも、吉田元首相は、既に亡くなっているので すから、これに拘束される理由は何もない。  政府資金による長期延べ払いを認めないということは、事実上、貿易取引の首を絞 めるのと同じ効果をもちます。  佐藤首相は、その書簡を政府の方針として採用しておりますが、私は、何よりも、 まず政府は、この吉田書簡″の廃棄を宣言し、貿易三原則にしたがって、貿易を拡 大する方向に、努力を積み重ねていくべきであると訴えたいのであります」 新・人間革命(2185)金の橋 三十五  次いで、山本伸一は、中国の国連加盟問題について論じていった。  国連が、中華人民共和同政府と台湾の国民党政府の、どちらを中国の代表として認 めるかという問題である。  国連総会において、中国代表権の問題が、初めて取り上げられたのは、一九五〇年 (昭和二十五年)のことであった。  四九年(同二十四年)に中華人民共和国が成立すると、同国政府は、国連における 代表権を主張した。国際情勢も、当初はこれを承認する動きがみられたが、翌年の朝 鮮戦争(韓国戦争)が流れを変えた。  五一年(同二十六年)二月、国連は、新中国の政府を侵略者として非難する決議を 採択。代表権は引き続き、台湾の国民党政府がもつことになった。  以後、十年間、代表権問題は、アメリカが提出した「審議タナ上げ案」が多数を占 めた。  しかし、戦後、独立したアジア・アフリカ諸国などが、台湾の国民党政府に代わっ て、中華人民共和国政府を招請する案に賛成していき、やがて過半数を上回ることが 確実となったのである。  これに対して、アメリカは、中国の代表権問題を、「重要事項」に指定する決議案 を捏出して対抗した。  これは、安保理事会の非常任理事国の選出や、新加盟国の承認などのように、議決 には三分の二の多数を必要とする事項に指定することである。  この議案は、過半数の賛成によって、決定することができた。  そして、中国の代表権問題は「重要事項指定」とされ、三分の一を超える反対があ れば、中華人民共和国の招請を阻止することができるようになったのである。  日本政府は、この「重要事項指定」に、積極的に加担した。それが、中華人民共和 国の怒りを買ったことは、いうまでもない。  伸一は、この対応の誤りを厳しく指摘したのである。  「わが国の自民党政府は、これまで一貫して対米追従主義に終始してまいりまし た。  だが、日本も独立国である以上、独自の信念をもち、自主的な外交政策を進めてい くのは当然の権利であります」  政府の外交姿勢の転換を迫る発言である。 新・人間革命(2184)金の橋 三十四  当時、保守派の人びとの間では、中国は侵略的で危険な国であるとの見方が強かっ た。 そこで、山本伸一は、毛沢東主義は本質的には民族主義に近く、東洋的な伝統 を引き継いでいると分析するとともに、中国が「武力をもって侵略戦争を始めること は考えられない」と断言したのである。  このあと、彼は、日中の国交正常化、中国の国連加盟、経済・文化交流の推進につ いて、個別に論及していった。  国交正常化の問題については、一九五二年(昭和二十七年)に、日本と台湾の国民 党政府との間で結ばれた平和条約をもって、講和問題は解決済みであるとする日本政 府の立場は、大陸の七億の民衆を無視した観念論にすぎないと断じた。  この主張は、国交の正常化とは、国民同士が互いに理解し合い、交流し合って、相 互の利益を増進し、世界平和の推進に貢献できて、初めて意義をもつとの、彼の信念 に裏付けられていた。  また、両国の間には、日本が戦時中に中国に与えた損害に対する賠償問題等、国交 正常化を実現するうえで困難な問題が山積していた。  それだけに、交渉は難航が予想された。  ゆえに、伸一は次のように提案したのである。  「日中間の問題は、いずれも複雑で困難な問題であり、両国の相互理解と深い信 頼、また、何よりも、平和への共通の願望なくしては解決できない問題であります。  これまでの小手先の外交や、細かい問題を解決して、最後に国交回復にもっていく という、いわゆる西洋式の帰納法的ないき方では、いくら努力しても失敗するであり ましょう。  私は、むしろ、まず両国の首相、最高責任者が話し合って、基本的な平和への共通 の意思を確認し、大局観、基本線から固めていくべきであると思う。  そして、それから、細かい問題に及んでいく。  この演繹的(えんえきてき)な方法でいくことが、問題解決の直道であると、主張 しておきたいのであります」  そのうえで、佐藤政権が国交正常化に動く意思がないことを指摘し、復交の担い手 として、公明党に、強い期待を表明したのであった。 新・人間革命(2183)金の橋 三十三  山本伸一は、今回、あえて中国の問題を論ずる理由を述べていった。  それは、日本がアジアの一国として、アジアの民衆の幸福の実現を考えるのは、当 然の「道理」であり、「義務」であるからだ。  また、日本と中国の間の諸問題は、あの日中戦争の延長線上にあり、未来に生きる 両国の青年に、「かつての戦争の傷を重荷として残すようなことがあっては断じてな らない」との思いからであった。  彼は訴えた。  「諸君が、社会の中核となった時には、日本の青年も、中国の青年も、ともに手を 取り合って、明るい世界の建設に、笑みを交わしながら働いていけるようでなくては ならない。 この日本、中国を軸として、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、 守り合っていくようになった時こそ、今日のアジアを覆う戦争の残虐と貧困の暗雲が 吹き払われ、希望と幸せの陽光が燦々と降り注ぐ時代である――と、私は言いたいの であります」  さらに、伸一は、平和という観点からも、提言に踏み切った理由を明らかにした。  「私は、決して、共産主義の礼賛者ではありません。  ただ、国際社会の動向のうえから、アジアはもとより、世界の平和のためには、い かなる国とも仲良くしていかなくてはならないということを訴えたいのです。 核時 代の今日、人類を破滅から救うか否かは、この国境を超えた友情を確立できるか否か にかかっているといっても過言ではない。  中国の問題をあえて論ずるのも、この一点に私の発想があったためであることを、 知っていただきたいのであります。  この問題の解決なくして、真に戦後は終わったとはいえません」  「友情」という言葉によく表れているように、伸一は、単に国家の対応を論じたの ではなく、民衆次元から、中国、そして、世界との関わりを考えていた。  国交も、その本義は人間の交流にあり、民衆の交流にある。友情と信頼の絆で、人 間同士が結ばれることだ。国家といっても、それを動かすのは人間であるからだ。 新・人間革命(2182)金の橋 三十二  大国が小国を支配し、蹂躙する、こんな弱肉強食の権力主義を、いったい、人類は いつまで放置しておくのか。  また、社会主義といっても、自由主義といっても、本来、人間の幸福のためにある はずのものである。  ところが、そうした制度やイデオロギーが優先され、何ものにもかえがたい、尊極 無上の人間の生命が脅かされる。  山本伸一は、この本末転倒の現実を転換し、真実の人間性の世界を開くには、どう しても生命の尊厳を裏づける「確固たる哲学」を根底とした大運動が不可欠であるこ とを力説していった。  「日蓮大聖人の大生命哲学をもった私どもの実践と闘争こそ、既存の権力主義の牙 城を完膚なきまでに打破し、過去数千年にわたる悪夢の連続の歴史に終止符を打つ、 真実の生命の世紀への本流であることを、強く、強く、自覚していこうではありませ んか!」  大拍手が轟いた。  どの顔も決意に光っていた。  伸一は、一段と力のこもった声で語り始めた。  「ここで私は、日中問題について触れておきたい。この時期に、日中問題を論ずる のは時宜を得ていないという人も多くいるかもしれない。  しかし、われわれの地球民族主義、世界民族主義の理念のうえからも、中国問題 は、どうしても触れなければならない第一の根本問題なのであります。  私は、あくまでも日本人の一人として、また、未来の平和を担う一青年として、諸 君とともに、この問題を考えておきたいのであります」  いよいよ、この日の最大のテーマである中国問題に入った。  彼は、問題解決への方途として、次の三点を訴えた。  第一に、中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。  第二に、国連における正当な地位を回復すること。  第三に、経済的・文化的な交流を推進すること――であった。  この総会には、日本国内はもとより、海外からも、新聞、テレビなど、多数の報道 関係者が詰めかけていたが、彼が中国問題に触れた時から、報道陣が色めき立った。 新・人間革命(2176)金の橋 二十六  山本伸一は、東奔西走を重ね、一日一日を一ヵ月に相当する、価値ある日々にした いと戦った。  彼が出席して、最初の大学会となった東大会の結成式が行われたのは、四月九日の 夜のことであった。  伸一は、自ら丹精を込めて、人材を育てようと、心に決めていた。  東大会には、現役学生とOBを合わせて、五十人ほどのメンバーが選抜されてい た。  結成式は、伸一を中心に食事をし、懇談的に、意見の交換をしながら進められた。  その冒頭、彼は、大学会の意義について語っていった。  「これまで、学会には水滸会、華陽会、潮会などの人材グループがあったが、それ は学会の組織を基盤とし、名称も学会独自のものであった。  しかし、『東大会』という大学会の名称には、社会性がある。  そうした名前を冠したグループは、学会のなかで初めてです。  それは、何を意味するのか――。  世間の一切法は、突き詰めていけば、皆、仏法になり、仏法は即世間の法になる。 その仏法即社会を表した人材グループが大学会です。  ゆえに皆さんは、広宣流布の指導者として生き抜くとともに、『世雄』となって社 会で大活躍し、人びとの幸福のために、生き抜いていっていただきたい。  実は、そこに大学会の使命がある。また、それが私の願望です」  メンバーからは、人種問題の解決の方途や、福祉経済の在り方など、多岐にわたる 質問が次々と飛び出した。  伸一は、社会の諸問題を自身のテーマとし、真剣に新しき道を模索する、メンバー の真摯で一途な姿が嬉しかった。  続いて、四月の二十六日には慶大会が、五月二十二日には、お茶の水女子大学、東 京女子大学、日本女子大学、実践女子大学などからなる女子大会が誕生した。  さらに、七月には、東京で一橋大学に、関西で京都大学、同志社大学、大阪大学、 神戸大学に、大学会が結成された。  そして、八月の学生部夏季講習会の折にも、九州大学、東北大学などの大学会の結 成式が行われている。 新・人間革命(2181)金の橋 三十一  次いで山本伸一の講演は、先月起こった、ワルシャワ条約機構軍が東欧のチェコス ロバキアに侵攻した事件に移った。  この年の一月、チェコスロバキアでは、ソ連の圧力を排除して首脳交代が行われ、 アレクサンデル・ドプチェクが、四十六歳で党第一書記に就任した。  彼は「人間の顔をした社会主義」を掲げ、検閲の廃止による言論の自由や、結社、 集会、政治的信念の自由、さらに、国外旅行、国外滞在の自由の権利を認めるなど、 次々と自由化を推進していった。  首都プラハをはじめ、チェコスロバキアに訪れた自由は、「プラハの春」と呼ばれ た。  だが、ソ連は、この自由化、民主化の波が広がることに、強い危機感をいだいた。  そして、八月二十日、ワルシャワ条約機構軍(ソ連、ポーランド、ハンガリー、ブ ルガリア、東ドイツが出動)が、遂にチェコスロバキアへの侵攻を開始したのであ る。  翌二十一日には、首都プラハを占領。チェコスロバキアは、十二年前のハンガリー と同じ運命をたどっていった。  戦車によって自由の若芽は押しつぶされ、束の間の「プラハの春」は、冬へと逆戻 りしてしまったのだ。  プラハは、四年前(一九六四年)の十月に、伸一が訪問した街である。  あの美しい古都の街並みで、自由を渇仰する人びとの夢が、武力によって踏みにじ られたことを思うと、彼は、強い怒りを覚えた。  その不幸を繰り返させぬために、彼は死力を尽くして、叫びをあげていったのであ る。  伸一は、この武力介入は、アジアにおけるアメリカのベトナム戦争と同じく、小国 に対する大国の力の抑圧であり、ナチス・ドイツの武力侵略と同じ系列に立つものと 断じていった。  「ソ連は、社会主義を看板に人間性を抑圧し、アメリカは、自由主義の旗を掲げ て、生命の尊厳を蹂躙している。  いかなる大義名分を掲げようと、武力に訴え、暴力によって、一国の自主、独立、 人間性の尊厳を踏みにじること自体が、それは悪魔の所業であり、断固、排斥される べきであると、私は強く訴えたい!」  その舌鋒は鋭かった。 語句の解説 ◎ワルシャワ 条約機構 一九五五年、ソ連、東欧の社会主義国八カ国が、西側のNATO(北大西洋条約機 構)に対抗して結成した相互安全保障機構。六八年のチェコスロバキア侵攻の後、ア ルバニアが脱退。さらに東欧の民主化により、九一年に解体した。 新・人間革命(2180)金の橋 三十  学生たちは、戦後の民主主義教育を受け、教授も、学生も、人間的には対等である と教えられて育った。  大学もまた、本来、その理念のもとに、戦後のスタートを切ったはずである。  しかし、知性の府である大学の実態は、民主主義とは、まことにほど遠いものと、 学生たちの目には映っていた。  進歩的な学説を唱えたり、思想的良心″と仰がれている教授たちが、大学という 象牙の塔″のなかでは、権威、権力を振り回し、特権意識に浸る姿に失望してきた のである。 医学部から始まった東大紛争も、階級的な上下関係のうえに成り立つ、 非民主的な旧態依然とした医学界、そして、大学の在り方に対する改革″の狼煙 (のろし)であったといってよい。  また、学費値上げ反対や総長選挙をめぐってのストにしても、学生不在の大学の運 営に対する抗議の表明でもあった。  山本伸一は、そうした学生の運動に対して、ただ上から圧力をかけて弾圧しようと する大学側の誤りを、正しておきたかったのである。  彼は、大学によって紛争の契機は異なるが、共通の重大問題として、教授の精神の 老齢化により、情熱が欠如し、それが、学生との距離感をつくり出していることを指 摘し、こう訴えた。  「根本的には学生と教授の隔絶感、すなわち世代の断絶に本当の原因があると私は 言いたい。  ということは、この問題に真剣に取り組み、教授と学生との間のミゾを埋めない限 り、決して現今の学生運動、いわゆる大学の危機を解決することはできないと思うの であります」  教育の本義は、触発にこそある。大学教育といっても、最大の教育環境は、教師自 身である。  教授に、向上の情熱がなければ、学問のうえでも時代に取り残され、人間としても 精彩を欠き、知的触発も、魂の触発ももたらしえない。  それでいて、大学教授という権威をカサに、学生を見下し、抑え付けようとすれ ば、反発は必至であろう。  伸一は、教師自身の改革にこそ、大学紛争の解決があることを、示しておきたかっ たのである。 新・人間革命(2180)金の橋 三十  学生たちは、戦後の民主主義教育を受け、教授も、学生も、人間的には対等である と教えられて育った。  大学もまた、本来、その理念のもとに、戦後のスタートを切ったはずである。  しかし、知性の府である大学の実態は、民主主義とは、まことにほど遠いものと、 学生たちの目には映っていた。  進歩的な学説を唱えたり、思想的良心″と仰がれている教授たちが、大学という 象牙の塔″のなかでは、権威、権力を振り回し、特権意識に浸る姿に失望してきた のである。 医学部から始まった東大紛争も、階級的な上下関係のうえに成り立つ、 非民主的な旧態依然とした医学界、そして、大学の在り方に対する改革″の狼煙 (のろし)であったといってよい。  また、学費値上げ反対や総長選挙をめぐってのストにしても、学生不在の大学の運 営に対する抗議の表明でもあった。  山本伸一は、そうした学生の運動に対して、ただ上から圧力をかけて弾圧しようと する大学側の誤りを、正しておきたかったのである。  彼は、大学によって紛争の契機は異なるが、共通の重大問題として、教授の精神の 老齢化により、情熱が欠如し、それが、学生との距離感をつくり出していることを指 摘し、こう訴えた。  「根本的には学生と教授の隔絶感、すなわち世代の断絶に本当の原因があると私は 言いたい。  ということは、この問題に真剣に取り組み、教授と学生との間のミゾを埋めない限 り、決して現今の学生運動、いわゆる大学の危機を解決することはできないと思うの であります」  教育の本義は、触発にこそある。大学教育といっても、最大の教育環境は、教師自 身である。  教授に、向上の情熱がなければ、学問のうえでも時代に取り残され、人間としても 精彩を欠き、知的触発も、魂の触発ももたらしえない。  それでいて、大学教授という権威をカサに、学生を見下し、抑え付けようとすれ ば、反発は必至であろう。  伸一は、教師自身の改革にこそ、大学紛争の解決があることを、示しておきたかっ たのである。 新・人間革命(2179)金の橋 二十九  火を吐くかのような、烈々たる気迫にあふれた山本伸一の声が、参加者の胸に轟い た。 「私は、世界から悲惨″の二字をなくすまで、諸君と共に、全生命、全生涯 をかけて、この恩師の精神を訴え続け、横暴と増上慢の権力者たちと、断固として戦 い抜いていく決意であります」  そこには、これから発表する提言への、伸一の並々ならぬ覚悟が示されていた。  皆、大拍手を送りながら、固唾(かたず)を飲んで、伸一の言葉を待った。  彼は、まず、全国に広がった大学紛争に言及していった。  この年、中央大学、東京大学、早稲田大学、日本大学などで、学生たちが次々にス トライキに突入びた。  それは、さらに全国に拡大し、七月初めの警察庁の報告によれば、既に紛争中の大 学は五十四大学に達していた。  学生たちがストライキを起こした原因も、経過も、大学によってさまざまであっ た。   東大のように、医学部の登録医制度の導入に端を発した紛争もあれば、日大のよう に、大学の経理の使途不明金問題に対する追及から、紛争に発展したケースもある。  また、学費値上げ、総長選挙、キャンパスの移転、学生会館の建設等々が、紛争の 引き金となっていた。  大学側の対応もさまざまであったが、概して権威的、威圧的であり、学生の意見が 聞き入れられることは、ほとんどなかったといってよい。  校舎などを占拠した学生たちを排除するために、機動隊を導入する大学もあった。  こうした大学側の強硬策は、ますます学生の怒りに油を注ぎ、運動は全学に広がっ ていったのである。  各大学で学生たちは、全学共闘会議(全共闘)を結成し、結束を固めていった。  この全共闘運動は、それまでの政治党派主導の学生運動とは異なり、セクトに所属 しない、「ノンセクト」の学生たちが組織した、広範な運動となったのである。  この運動に通底していたのは、大学の在り方を根本的に問いただし、大学の「民主 化」を主張していることであった。 新・人間革命(2178)金の橋 二十八  この「鳴呼黎明は近づけり」の歌は、七月に山本伸一が関西を訪問し、大阪大学 会、神戸大学会の合同結成式を行った折に、大阪大学のメンバーが披露した歌であ る。  阪大の学生に歌い継がれ、学生部員たちも大好きな歌であった。  堂々たる調べと救世の情熱にあふれた歌詞が、学会精神と重なるように感じられる のであった。  メンバーたちは、われらの大学会の結成式の連絡を受けると、「ぜひ、この機会 に、ぼくたちの広宣流布への気概を、あの歌に託して合唱していこう」との心が燃え 上がっていった。  伸一は、メンバーの熱唱を耳にした時、衝撃にも似た感動を覚えた。  この歌に脈打つ気概は、新しき時代の幕を開かんとする、創価の心意気そのもので あると思えたからである。  そして、学会として、皆で歌っていくように提案したのだ。  学生部総会での大合唱は、一万数千の若人の心を一つにした。  「生命の世紀」の黎明を開かんとする熱気が満ちるなか、式次第は、幹部のあいさ つへと移っていった。  青年部長の青田進、総務の十条潔らの指導が終わると、いよいよ山本伸一の講演で ある。  「会長講演! 山本先生!」  さっそうと立ち上がる若き会長の伸一を、参加者は眼を輝かせ、身を乗り出して、 盛んな拍手で迎えた。  彼は、全国各地から集った参加者の労をねぎらい、深々と頭を下げ、演台に向かっ た。  この日、伸一が用意していたのは、四百字詰め原稿用紙にして五十数枚分の講演原 稿であった。  凛とした声が響いた。  「本日、九月八日は、昭和三十二年、横浜の三ツ沢の競技場で、恩師戸田前会長 が、原水爆に対する声明を発表した、忘れもしない歴史的な記念の日であります。  私は、英知と情熱あふるる妙法の自由と平和の戦士たる諸君と共に、この恩師の遺 訓を、再び胸に刻んで前進したい!」  伸一は、冒頭、戸田城聖の「原水爆禁止宣言」を確認し、この声明こそ「創価学会 員の永遠の根本精神であり、世界人類への不滅の指針」であると訴えた。 新・人間革命(2177)金の橋 二十七  山本伸一は、すべての大学会の結成式に、喜び勇んで出席し、青年たちと意義ある 語らいのひと時を過ごした。  彼は、一人ひとりのメンバーを、わが生命に刻み付けようと、必死であった。  就職や結婚など、皆の人生の進路の相談にものった。それぞれの家庭の状況にも、 丹念に耳を傾けた。  彼は、共に同志として、皆の生涯を見守っていく、強き決意であった。  大学別講義、そして、この大学会は、学生部員たちに、広宣流布の全責任を担って 立つ、後継の深い使命を自覚させるものとなっていったことはいうまでもない。  折から、日本列島中のキャンパスには、大学紛争の嵐が広がっていた。  そのなかで、学生部員は、仏法の中道主義という視座から、紛争解決の方途を探り つつ、勇んで思想闘争の炎を燃え上がらせていった。  そして、見事な拡大の実力を示して、学生部総会を迎えようと、心弾ませながら、 来る日も来る日も、真剣に、有意義な仏法の対話の花を咲かせていったのである。  一九六八年(昭和四十三年)九月八日――−。 新しき歴史への船出となる第十一 回学生部総会が、午前十一時から、東京・両国の日大講堂で盛大に開催された。  会場の正面には、黒い筆字で大書された、「英知」の文字が掲げられていた。  日大講堂の大鉄傘(だいてっさん)にこだまする怒涛のような拍手と歓声に、若い 生命の力が満ちあふれていた。  総会は研究発表「大学の使命」に始まり、「人間回復への胎動」や「二十一世紀へ の思潮」と題する代表の主張などが発表されていった。 やがて、この日のために学 生部有志が作詞作曲した、愛唱歌「生命の世紀」が披露されたあと、旧制大阪高等学 校全寮歌「鳴呼黎明は近づけり」の合唱が行われた。 一、鳴呼(ああ)黎明は近づけり   鳴呼 黎明は近づけり   起てよ我が友       自由の子   帝陵山下(ていりょうさんか)の熱血児   侃諤(かんがく)の弁(べん)地(ち)をはらい   哲人の声 消えんとす 新・人間革命(2175)金の橋 二十五  学生部として、一九六八年(昭和四十三年)の春の活動について検討していたこ ろ、山本伸一は、青年部の最高幹部と、懇談する機会があった。  その時、学生部の首脳が、大学別講義が軌道に乗り、学内活動が活発化しているこ とを報告した。  伸一は、大きく頷きながら、語り始めた。  「同じ大学に学ぶ学生部員同士が、大学別講義をはじめ、学内での活動を通して、 友情を深め、信心を切磋琢磨していくことは、大変に重要なことだと思う。  しかし、卒業してしまえば、みんな離ればなれになって、会うこともほとんどなく なってしまうだろう。  そこで、もう一歩、思索を進めて、生涯にわたって友情を育み、広宣流布の使命を 確認し合えるような方法を、考えてみてはどうだろうか」  「はあ......」  学生部の首脳は困惑した。そんなことは、考えもしなかったからだ。  「私は既に考えているよ。たとえば、OBも含めて、大学ごとに人材グループを結 成する。これを、大学会と呼んでもいいだろう。  何年かしたら、二期、三期と結成していってもいいかもしれない。  そして、大学会として連携をとり合い、たまにはみんなで集まって、励まし合って いくんだよ。  大学を卒業して実社会に出れば、さまざまな障害や軋轢(あつれき)があるもの だ。その時に、青春時代の清らかな誓いを忘れずに前進していくためには、激励し 合っていける友人が大事になる。  また、大学会ができれば、卒業していった先輩と、現役学生との絆も、強くなる じゃないか」  山本会長の話を聞きながら、学生部の首脳は感嘆した。すばらしい布石であると 思った。  「みんなが賛成なら、早速、大学会を結成していこうじゃないか」「お願いいたし ます」「ただし、一気に結成するのではなく、大学別講義を着実に拡充していったよ うに、少しずつ広げていこうよ」  そして伸一は、そこに、何人かの東大出身者がいたことから、まず、東大から着手 し、名称を「東大会」にしてはどうかと提案した。 新・人間革命(2174)金の橋 二十四  山本伸一は、言葉をついだ。  「青年たちが、とりわけ学生部員が、真剣に教学に取り組まず、行事などの運営の 真似事みたいなことだけ覚えて、リーダーになっていったら、怖いことです。  また、たとえ、教学を学んだとしても、知識として覚えただけで実践がともなわ ず、自分を偉そうに見せるための教学であれば、畜生の教学″です。仏法の大精神 を死滅させる行為です。  そんな幹部が出てきたら、学会は食い破られてしまう。  したがって、最高幹部である皆さんが、全魂を傾けて講義し、魂の触発を与え、真 の教学と大聖人の御精神を、学生部の諸君に伝え抜いていただきたい。  知勇兼備の闘将を、手作りで育て上げていってほしいのです。後継の育成は、最高 幹部である皆さんの責任です。  ゆえに、不勉強で浅薄な講義をしたり、いい加減な気持ちで臨むようなことがあっ ては絶対にならない。それでは、むしろ迷惑です。  大学別講義は、未来の広宣流布のための、大事な、大事な布石です。  忙しいからといって、幹部が当面のことだけしか考えなければ、やがて広宣流布 も、学会も、行き詰まってしまう。  だからこそ、よろしく頼みます」  伸一に言われ、最高幹部たちは、後継の人材育成を決意し、勇んで大学別講義に取 り組んでいったのである。  各大学とも、受講生は厳選され、当初は大きな大学でも、数十人ほどであった。  メンバーには、自分たちは、大学を代表して受講しているのだという誇りがあっ た。  研鎖御書は、「御義口伝」や、「開目抄」「観心本尊抄」などの重書である。  講義の前には予習会も行われ、皆、真剣に勉強に励んだ。  予習会や講義の前には、大学の図書館などで、仏教辞典等を引きながら、一心不乱 に御書に取り組む学生部員の姿が見受けられた。  この大学別講義は、当時の学生部の教学力を培い、信仰の骨格をつくり上げるうえ で、極めて大きな力となっていったのである。 新・人間革命(2173)金の橋 二十三  学生部は、このころ、大学ごとの活動に焦点があてられ、新たな学内運動の流れが つくられ始めた。  学生部の首脳幹部たちは、キャンパスを舞台に、学生部員が仏法思想への共感の輪 を広げていくうえで、各大学ごとに、徹底して御書を研鑚していく場が必要であると 感じていたのだ。  それは、山本会長の「御義口伝」講義を受けたメンバーが、仏法への強い確信をも ち、目覚ましい成長を遂げていたからであった。  そこで、さらに多くの学生部員が、仏法の精髄に触れる機会をつくりたいと、大学 別講義の開催を企画したのである。  そして、前年の一九六七年(昭和四十二年)五月に、東京大学で「親心本尊抄」、 早稲田大学で「開目抄」、慶応大学で「撰時抄」の講義が真剣に開始された。  次いで七月には、北海道大学、京都大学など、全国七大学の大学別講義の開催が発 表された。  さらに、年が明けた、この年の一月には、全国百八大学に、三月には、百五十四大 学に拡大していったのである。  講師には、主に、その大学の出身者である、副理事長などの幹部がつくことになっ ていた。  大学別講義を実施するにあたっての、最大のポイントは、最高幹部に講師を引き受 けてもらうことであった。  山本伸一は、学生部の首脳から大学別講義の構想を聞くと、最高幹部の会議の折 に、こう訴えたのである。  「皆さんは、日々の活動に多忙を極めているかもしれないが、学生部から講義の要 請があったならば、最優先して担当していただきたい。  私もこれまで、『御義口伝』や『百六箇抄』の講義など、全力を尽くして学生部の 講義を担当してきました。次代のリーダーを育成するには、思想、哲学を生命の奥深 く打ち込むことが、最も大事だからです。  戸田先生は青年に対して、御書を心肝に染めよと、厳しく言われた。  若い時代に教学を徹底して学び、仏法の哲理を自己の規範としておかなければ、本 当の意味で広宣流布を担うことはできないからです。  なぜなら、広宣流布は思想戦だからです」 語句の解説 ◎御義口伝など  御義口伝は、日蓮大聖人が身延入山後、法華経の要文を講義され、日興上人が筆録 された重書。弘安元年(一二七八年)に完成。 親心本尊抄は、文永十年(一二七三 年)、大聖人が、佐渡・一谷で御述作になり、富木常忍に与えられた。法本尊開顕の 書。開目抄は、文永九年(一二七二年)、佐渡・塚原で御述作。門下一同に与えられ た。人本尊開顕の書。撰時抄は建治元年(一二七五年)、身延で認められ、仏法流布 における「時」の重要性が示されている。百六箇抄は、弘安三年(一二八〇年)、大 聖人から日興上人に授けられた相伝書。 新・人間革命(2171)金の橋 二十一  文革″の大混乱が続く一九六七年(昭和四十二年)の八月十七日、対立の溝を深 めていたソ連の大使館に、中国人のデモ隊が乱入するという事件が起こる。  さらに、五日後の二十二日には、英代理大使事務所が、イギリスの香港政策に抗議 する紅衛兵らのデモ隊に包囲された。  相次いで起こった、これらの出来事が、中国に対する国際世論の批判の声を、ます ます高めていったのである。  また、九月には、中国政府は、日中記者交換で駐在が認められていた新聞社のう ち、三社の記者に対して、反中国宣伝を行い中日友好関係を破壊したとして、常駐資 格を取り消した。  これによって、日本のマスコミも、中国に対して、一段と強い警戒心をもつように なった。  日本国内には、日中友好を口にするなど、もってのほかであるという雰囲気が漂っ てしまった。  この年末、日中間の貴重な政治交渉のパイプでもあった「LT貿易」は、期限切れ となった。  協定延長の貿易交渉は、年が明けた二月になって行われたが、こうした事態のなか だけに、交渉が難航を極めたのも当然であった。  また、内政・外交を掌握している周総理にも、文革″の嵐が襲いかかり、強硬な 外交姿勢をとらざるをえない状況がつくられてしまった。  それでも、双方の粘り強い協議によって、期限を「LT貿易」の五年から一年に短 縮した、日中覚書貿易の協定が調印される。  窮地に陥った日中関係のなかで、民間契約の友好貿易とともに、半官半民″の性 格をもつ、この覚書貿易が、細々とした交流の糸″として残されたのである。  日中の関係打開への見通しは、依然として立たなかった。  両国の友好への歩みは次々と挫折し、国交正常化をめざして運動を続けていた人び との心には、絶望と敗北感が、深い闇となって広がっていたのであった。  こんな事態が続き、中国がいつまでも世界の孤児のような状態に置かれていたの では、七億の民衆がかわいそうだ″  山本伸一は、今こそ、日中国交正常化への提言を、断じて発表しなければならない と、一段と決意を固めたのである。 新・人間革命(2170)金の橋 二十  中国の国内も、揺れに揺れていた。  あの「プロレタリア文化大革命」が猛威を振るっていたからである。  文革″は、革命精神を永続化する意図で、文芸や歴史学の批判から始まり、修正 主義、資本主義へと傾斜していく傾向を改めようとするものであった。一九六六年 (昭和四十一年)、急進的な学生、生徒によって「紅衛兵」が組織されると、その動 きは、一挙に過激化していった。  紅衛兵は「旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣」の「四旧」の打破を掲げ、激しい 文革″の嵐を巻き起こした。 紅衛兵といっても、年少者は十三歳ぐらいの少年少 女であった。  その文革″の第一歩は、「反動的」「ブルジョア的」な旧地名などの変更から始 まった。  繁華街の王府井(わんふうじん)大街(だいがい)は「革命大路」に書き換えら れ、「共産主義大道」や、アメリカ帝国主義を滅ぼす意味の「滅帝路」などの通りが 誕生した。  商店の古い屋号の看板も叩き壊された。高級料理店や骨董品店、古書店などは、特 に批判の対象となったのである。  「最後通告」と書かれたビラを破り、街を闊歩する紅衛兵の姿は、人びとを震撼さ せた。 破壊は孔子廟、寺院、教会にも及んでいった。  さらにまた、革命前からの知識人や著名な学者、芸術家、旧地主、香港・台湾の出 身者などが、次々と攻撃にさらされたのである。  家を荒らされ、「階級の敵」「ブルジョアの畜生」などと罵倒された。そして、自 己批判を迫られ、三角帽子を被せられて、街中を引きずり回されるのである。  中学校でも、知識の重要性を叫んできた校長や教師の多くが、生徒たちの標的と なった。  いわゆる文革″は、権力闘争の道具にされ、痛ましい流血の惨事も起こしてし まった。  周恩来総理も、紅衛兵に取り巻かれ、執務室に閉じこめられるという事態もあっ た。  こうしたなかで、新しい権力機構として、「革命委員会」が全国の省や市にいたる までつくられていったのである。  六九年(同四十四年)には文革推進派の勝利が宣言されるが、文革″の嵐は、ま だ、終息することはなかった。 語句の解説 ◎修正主義  マルクス主義の革命的内容を修正し、議会を通じての社会主義の実現をめざす、穏 健的主張に付けられた呼称。後に、異端的理論・運動を批判する用語として定着し た。中ソ論争の時には、中国は、フルシチョフのスターリン批判後のソ連を「現代修 正主義」と非難した。 新・人間革命(2169)金の橋 十九  山本伸一は、後々のために、青年たちに、外交の在り方を語っておきたかった。  「それから、中国などのように、日本に支配され、辛酸をなめてきた国の人と接す る場合には、その歴史を、正しく認識しなければならない。  アジアには、日本軍によって肉親が虐殺されたり、家を焼かれたり、略奪されたり した悲惨な歴史をもつ国が多い。  それは、その国の人びとにとっては、永遠に忘れることのできない、憤怒と悲哀の 屈辱として、魂に刻印されている。  ところが、日本人は、その事実をあいまいにしようとする。また、若い世代も、そ の歴史を知ろうともしない。  それでいて日本人は、経済力を鼻にかけ、アジア諸国の人びとに、倣慢で横柄な態 度で接する。  こんなことでは、本当の信頼も、友情も、育つわけがない。  誰がそんな国と、そんな人間と、永遠におつきあいしたいなんて思いますか。  まずは、歴史を正しく認識し、アジアの人びとが受けた、痛み、苦しみを知ること です。その思いを、人びとの心を、理解することです。  そうすれば、日本人として反省の念も起こるでしょう。当然のこととして、謝罪の 言葉も出るでしょう。  それが大事なんです。相手が、こちらの人間としての良心、誠実さを知ってこそ、 信頼が生まれていくからです。  国と国との外交といっても、すべては人間同士の信頼から始まる。  だから、私たちは、日本の国が、どういう政策をとろうが、中国の人たちとの、人 間性と人間性の触れ合いを常に大切にし、人間としての誠意ある外交でいくんだ」  佐藤政権は、その後も中国を敵視する政策を強化していった。  一九六七年(昭和四十二年)十一月、訪米した佐藤首相はジョンソン米大統領との 共同声明で、次のように発表した。  「中国共産党が核兵器の開発を進めている事実に注目し、アジア諸国が中国共産党 からの脅威に影響されないような状況をつくることが重要であることに合意した」  中国は、佐藤政権の姿勢を厳しく非難した。 新・人間革命(2168)金の橋 十八  会談は、緊張した雰囲気で始まった。  双方ともに、誤解を恐れてか、慎重であり、言葉も少なかった。 だが、学会の青 年たちは、この機会に中国のことを学ぼうとの思いで、単刀直入に疑問点を尋ねて いった。  中国の社会の現状や青年の様子などを聞くうちに、互いに打ち解け、時には、活発 に議論する場面もあった。  この日の会談は、懇談的なものであったが、学会の青年部の代表と中国の代表が初 めて会い、相互理解のために意見を交換した意義は、極めて大きかった。  本部に戻った秋月英介たちから、報告を聞いた山本伸一は言った。  「やはり最初は硬い雰囲気だったんだね。  初対面の時は、互いに緊張するだけに、その硬さを解きほぐしていくことが大事な んだ。  それは笑顔だよ。  そして、最初に何を言うかだ。  包み込むような温かさがあり、相手をほっとさせるようなユーモアや、ウイットに 富んだ言葉をかけることだよ。  おそらく、君たちは、苦虫を噛みつぶしたような顔で、頬を引きつらせて、あいさ つをしたんだろうな」  皆、苦笑した。  「それから、人と会う時には、相手がどういう経歴をもち、どういう家族構成かな ども、知っておく努力をしなければならない。  それは礼儀でもあるし、渉外の基本といってよいだろう。  たとえば、君たちだって、自己紹介した時に、『あなたのことは、よく存じており ます。こういう実績もおもちですね』と言って、自分の業績を先方が語ってくれた ら、どう感じるかい。  この人は、自分のことをここまで知ってくれているのか″と感心もするだろう し、心もとけ合うだろう。  それが、胸襟を開いた対話をするための第一歩となるんだ。  だから私も、誰かとお会いする時には、常にそうするように、懸命に努力してい る。  お会いする方の著書があれば、できる限り目を通すようにしているし、その方につ いて書かれた本なども読んで、頭に入れているんだよ」