新・人間革命  羽ばたき 三十二 (2927)  正本堂建設委員会のメンバーは、「実質的な戒壇の建立」という大きな使命に闘志を燃 やしながら、着々と準備を進めていった。  正本堂の設計は、奉安殿、大講堂、大化城、大客殿を設計した建築家の横田君雄が担当 することになった。  彼は、大客殿の設計で日本建築学会賞を受賞した建築家で、近代的な寺院建築の先駆者 として、注目を浴びていた。  横田は、山本伸一と対話し、正本堂の建立に全精魂を傾ける伸一の決意を、痛いほど感 じた。横田も、その心に応え、正本堂は、断じて世界に誇る宗教建築にしなければならな いと誓った。  それだけに、彼の悩みは深かった。 妙法を表現できる建築物にしたい。雄大な富士とも調和し、しかも気高く、力強く、そ びえるものにしなければならない……″  思いは、様々に駆け巡った。横田は、何か参考になるものはないかと、動植物の動きを とらえた写真集や、鉱物の顕微鏡写真にも目を通した。  また、施主である伸一の意向を知ろうと、毎週月曜日には学会本部を訪ねた。労苦は、 偉大なる創造の母である。  伸一は、横田の思い通りに、自由に設計してほしかった。だから、横田のイメージを束 縛することがないよう、具体的なことは、ほとんど語らなかった。  ただ、報告と連携だけは密にしてほしいことを望んだ。  横田は、正本堂は、なんとしても、歴史に残る宗教建築にしたいと、祈りに祈り、思案 に思案を重ねた。呻吟の日々が続いた。  一九六五年(昭和四十年)八月、彼は、伸一と日達法主に同行し、アメリカとメキシコ を訪問した。現地で見るメンバーの歓喜あふれる姿に、日蓮仏法の世界性を肌で感じた。  横田は、メキシコを訪問したあとは、伸一たちと別れ、各国の有名な建築物を視察して 回った。  そして、帰国した彼は、浮かんでくるイメージをもとに、すさまじい勢いで下絵を描き 上げていった。  外観図だけでも早く発表し、皆を喜ばせたいというのが、伸一の希望であったからだ。 名字の言 2004.11.16 ▼「展示会をつくることは、詩をつくることと同じです」と語るのは、フランス文化財保 存局のラヴァル主席監督官。東京富士美術館(八王子市)の「ヴィクトル・ユゴーとロマ ン派展」を「名詩のようなダイナミックなリズムをもつ、素晴らしい展覧会」と太鼓判を 押す ▼展示は、大文豪の生涯を、ユゴー自身の言葉とそれを裏づける貴重な作品群でたどり、 彼の魅力を浮き彫りにする。ユゴー5代目の子孫、マリー・ユゴー女史は「展覧会を通し、 ユゴーの作品のみならず、民衆のために戦い、民衆のために立ち上がったユゴーの人間的 価値を発見してほしい」と期待する ▼「コミューン政治犯の恩赦法案」の自筆草稿(国宝)がある。政界へ進出した彼が虐殺 など過酷な弾圧に苦しむ民衆に同苦し、彼らの恩赦を要求する文案。「ユゴーの文字は単 なる文字ではありません。民衆救済の心の結晶です」とラヴァル主席監督官。展覧会が奏 でるリズムとは、ユゴーの深き人間愛ではないか ▼ユゴーが逝去3日前に記した言葉は「愛するとは行動すること」であった。どんな崇高 な理想を抱いても、行動がなければ結局、心に何もなかったことと同じになる。私たちも 「人間愛の心」を、行動を通して広げていきたい。 (川) 北斗七星 2004.11.16 ◆新5000円札の肖像画に選ばれた樋口一葉はある新聞のモニター調査によると、肖像 にふさわしくない人物の上位にランクされたという ◆なぜだろう。事業に失敗した父親に17歳で亡くなられて、婚約は破棄される、若くし て家族を養うために赤貧生活を強いられた――そんなお金に苦労し通しの人生だったから か ◆しかし母親と妹を養うため「お金のために書いた小説は、近代小説を切り開く傑作と評 価」(田中優子『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』集英社新書)されることに。しかもそれ らは24歳で亡くなるまでの奇跡の14カ月″(明治27年12月〜29年1月)とい う短期間に生み出された。「こんなに若くて、人生の深淵を覗くような作品を書いた」 (田辺聖子『一葉の恋』世界文化社)のだ ◆この明治中期の文学を代表する女性作家を知ろうと一葉記念館(東京・台東区竜泉)を 訪れる人が昨年夏から増えているという。一時ではあったがここで荒物や駄菓子の店を開 いていた時の見聞や体験が『たけくらべ』に結実した。来週23日の命日には「一葉祭」 が開催される ◆評判を聞き、小生も先日、同館を訪れてみた。さらには足を延ばし彼女が18〜21歳 を過ごした菊坂町(文京区本郷)にも。激動の時代を燃焼して生きた若き女性が「ニッポ ンの、新しい顔」となったことに思いを馳せながら。 (皮) ☆「わが友に贈る」☆ 「行き詰まったら 原点に帰れ!」とは 初代会長の至言。 信心で立ち上がれ! 祈りで壁を破れ!