2005.6.10SP  牧口先生生誕記念協議会でのSGI会長のスピーチ〔上〕 ◆◆◆ 正義に生きる心は晴れやか 創価の父の勇気に続け! ―― 師の構想を誇り高く実現! ―― ◆◆◆ [教育]と[平和]の光を世界へ ―― 国家主義と命がけで戦った牧口先生 ―― 【SGI会長のスピーチ】  一、アメリカの広宣流布の尊き指導者の皆さま! 遠いところ、本当に、よう こそ、お越しくださった。  第2総東京の代表の皆さま、いつも、ご苦労さま! ありがとう!  きょう(6日)、私は、緑まばゆい村山総区、秋川総区、さらに新立川総区 の天地を車で通り、妻とともに、すべての同志の皆さまの健康と幸福と勝利を 祈って、題目を送らせていただいた。  第2総東京は、どの地域も大発展している。どの地域も大勝利である。特に、 婦人部の皆さま方の力は大きい。心から讃嘆申し上げたい(大拍手)。  一、きょう6月6日は、「創価教育の父」牧口常三郎先生の誕生日である。  牧口先生は、1871年(明治4年)のお生まれ。今年で生誕134年とな る。  創価の原点の一日を、先生の魂をとどめる東京牧口記念会館で、晴れ晴れと 迎えることができ、本当にうれしい。  ここ八王子は、わが婦人部の祈りに応(こた)えて、諸天も寿(ことほ)ぐ 清々(すがすが)しい快晴となつた。 ◆ 権力の魔性と真っ向から闘争  一、牧口先生の遺徳(いとく)を偲(しの)びつつ、少々、お話ししたい。  牧口先生は、国家権力と戦い、獄死された。<1943年(昭和18年)7 月6日、伊豆・下田で連行され、44年(昭和19年)11月18日、73歳 で獄死>  もちろん、先生には何の罪もなかった。「創価学会の思想は危ない」という、 理不尽な弾圧であった。  ご承知の通り、検挙の理由は「治安維持法違反」と「不敬罪」である。  牧口先生は、軍部におもねった宗門とは対照的に、正法正義を貫き、戦争推 進のイデオロギーである国家神道に断じて従わなかった。  当時の悪法のもとでは、それだけで処罰の理由となったのである。  老齢の大学者の先生を、一介の役人にすぎない特高刑事や検事が、いじめに いじめた。権力を笠に着て、居丈高に振る舞い、怒鳴った。  これが「権力の魔性」の恐ろしさである。  狂った日本であった。  愚かな日本であった。  権力が、牧口先生を殺したのである。何の罪もない、それどころか、世界的 大学者の先生に、日本は、「獄死」をもって報いたのである。  永遠の平和を築く戦いは、所詮、「権力の魔性」との戦いであることを、絶 対に忘れてはならない。それを忘れ、油断すれば、広宣流布の将来は危ないか らだ。 ◆ 獄中で"正法に反する国は滅ぶ"と  一、しかし牧口先生は、権力の横暴に、一歩も引かなかった。  それを証明する「訊問調書(じんもんちょうしょ)」が残っている。<旧内 務省の資料『特高月報』の昭和18年8月分に記載、『牧口常三郎全集第10 巻』第三文明社所収>  先生は刑事に堂々と答えられた。そして、当時の聖戦(せいせん)思想を真 っ向から否定された。  「(立正安国論には)この法(=法華経)が国内から滅亡するのを見捨て置 いたならば、やがて国には内乱・革命・飢饉・疫病等の災禍が起きて滅亡する に至るであろうと仰せられてあります」  「現在の日支事変(=日中戦争)や大東亜戦争等にしても、その原因はやは り謗法国であるところがら起きている」  「この大法に悖(もと)る事は、人類としても、はたまた国家としても許さ れない事で、反すればただちに法罰(ほうばち)を受ける」(現代表記に改め、 句読点を適宜、補った。『牧口常三郎全集』からの引用は以下同じ)  戦争で一番犠牲になり、苦しむのは、いつも民衆である。しかし、国は「神 州不滅」などと煽(あお)って、国民を戦争に駆り立てた。  それに、はっきりと異議を唱えたのである。  正法を迫害する国は、滅亡するのが道理であると喝破されたのである。  軍国主義の時代である。しかも獄中である。  どれほどの信念であられたか。どれほどの壮絶な戦いであったか。  先生は、創価学会の永遠の誇りである。その直系が私たちなのである。 ◆ 身は国法に従えども心は従わず  一、牧口先生のことを語られる時、戸田先生は涙を流すのが常であった。「仇 は必ず討ってみせる」という怒りと決意が、燃え盛っておられた。  牧口先生と戸田先生は、警視庁の取調室で一緒になった。<逮捕から2ヵ月 後の昭和18年9月>  その時、牧口先生は、ご家族から差し入れられた愛用のカミソリを手に取り、 懐かしそうに見つめておられたという。  その時、刑事が大声で怒鳴った。「ここをどこと思う。刃物をいじるとはな にごとだ」  戸田先生は、のちに、こう語っておられる。  「先生は無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法に従えども、心は 国法に従わず。先生は創価学会の会長である。そのときの、わたくしのくやし さ」  そして、牧口先生が東京拘置所に移される時が、師弟の最後の別れとなった。  「『先生、お丈夫で』と申しあげるのが、わたくしのせいいっぱいでござい ました。あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限 の慈愛と勇気を感じました」  あまりにも崇高な師弟の歴史である。  一、信念に生きる立派な人間、偉大な思想をもった人間は、かえって弾圧さ れ、牢に入れられる。  なかでも当時、韓・朝鮮半島の人々の場合、その処遇は苛烈(かれつ)を極 めた。  戸田先生は、それを振り返り、「どうして日本は、こんなにひどいのか!」 と悔しがっておられた。その先生の血涙の叫びを、私は忘れることができない。 ◆ 「先生の哲学を世界に認めさせる」  一、牧口先生は獄死され、戸田先生は生きて獄を出られた。  戸田先生は厳然と語り残された。  「私は弟子として、この先生の残された大哲学を、世界に認めさせる」  「私の代にできなければ、きみらがやっていただきたい。たのみます」  私は、この戸田先生の意志を受け継いで、牧口先生の哲学と人生を宣揚して きた。  創価学園をつくり、日本にもアメリカにも創価大学をつくった。  師の構想を実現するのが、弟子の道である。  今、アメリカやブラジルをはじめ世界の各国で、牧口先生の教育哲学が注目 され、実践される時代に入った。  また世界のどこに行っても、創価教育から巣立った人材が活躍している。  牧口先生は勝ったのである。創価の師弟は勝ったのである。私は本当にうれ しい(大拍手)。 ◆《牧口先生》    言わねばならぬことをどしどし言え だれかが言わねば社会は変わら ぬ!         ◆ 「悪と戦う強さが社会を明朗に」  一、牧口先生が常に拝された御聖訓に、「観心本尊抄」の一節がある。  「天晴れぬれば地明かなり法華を識(し)る者は世法を得可(うべ)きか」 (御書254ページ)  先生は、この御文を通して指導された。  「太陽が昇った瞬間から、大地はパッと明るくなる。同じように、信心すれ ば、生活のすべてが改善できるのです。  大事なことは『天を晴らすこと』です。そういう信仰をしなくてはいけませ ん」  この牧口先生のご精神のままに、信心強き皆さまは、わが身、わが地域を妙 法の大功徳で照らし、人間革命と社会貢献の輝く実証を示してこられた。今や 「創価の太陽」は、日本と世界を赫々(かっかく)と照らし、希望の大光を送 っている。  一、牧口先生は言われた。  「言わねばならぬことをどしどし言うて折伏するのが、随自意(ずいじい) の法華経であらせられると思う。  ゆえに我々は、これで戦ってきたのが、今日の盛大をいたした所以(ゆえん) であり、今後も、それで戦わねばならぬと思う。  つまり我々は、蓮華が泥中よりぬけ出でて清浄の身をたもつがごとく、小善・ 中善の謗法者の中に敵前上陸をなし、敢然と大悪を敵として戦っているような ものであれば、三障四魔が紛然として起こるのが当たり前であり、起こるがゆ えに行者と言われるのである」(前掲『牧口常三郎全集第10巻』)  広宣流布は、永遠に、仏と魔との闘争である。  先生の言われた通り、学会は、「勇気の言論」で勝ってきた。三障四魔との 戦いをやめないから勝ってきた。  牧口先生は、こうも語られた。  「(嫉妬や迫害を受けても)今後とも、さらに『不自借身命』の決心をもっ て、いよいよこれを力説するつもりである」  「だれかが言わねば、社会は遂に改まるの期(ご)はないことを思うからで ある」(『同第6巻』)  広布の指導者は、自らが勇敢に、言うべきことを言わねばならない。皆が言 うべきことを言えるよう、励ましていかねばならない。  また、自らが率先して行動しなければならない。そして、皆が行動できるよ う励ましていかねばならない。  要するに、自らが断固として戦う。その必死の姿を通して、皆の「戦う心」 に火をつけることである。  牧口先生は教えられた。  「大善人になるには、強くならねばならぬ。決然と悪に対峙(たいじ)する 山のごとき強さが、個人も社会も明朗にする」  強くなければ、本当の意味で、善人にはなれない。  学会は「正義の中の正義」である。ゆえに、強くならねばならない。強くあ ってこそ、朗らかに前進することができる。  「強さ」と「明朗さ」は一体なのである。 ◆ いかなる権力も仏には勝てない  一、思えば、宗祖・日蓮大聖人の御生涯は、権力による迫害との熾烈(しれ つ)な闘争の連続であられた。すべては、末法の一切衆生の幸福のためである。  現在、鎌倉の「竜の口」には.「SGI教学会館」がある。  ご存じの通り、この地は、日蓮大聖人が発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)な された「竜の口の法難」ゆかりの地である。  会館には、海外からも多くのSGーメンバーが訪れ、大聖人の御足跡を偲びつ つ、広宣流布への決意を新たにしている。  大聖人が法戦の本舞台とされた鎌倉は、当時の政治の中枢であった。いわば、 権力の魔性がうごめく真つただ中で、敢然と破邪顕正の戦いを起こされたので ある。  傲慢な権力者にも、仮面の聖職者にも、大聖人は容赦なく、"正法を尊ばな ければ国は滅びる"ことを主張し、正義を叫び抜いていかれた。  そして一方、女性の信徒や、若き青年門下には、限りない慈愛を注がれる大 聖人であられた。  正義の中の正義であられる大聖人に、権力は残酷に牙を剥いた。そのきっか けとなったのは、邪悪な聖職者らによる「讒言(ざんげん)」 ―― 嘘で固め た、でっち上げであった。  文永8年(1271年)9月12日 ―― 。  大聖人のおられた松葉ケ谷(まつばがやつ)の草庵に、幕府の実力者であっ た平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)が、数百人の武装兵士 を率いて押し寄せた。  大聖人が竜の口に向かい、頸(くび)の座にのぞんだのは、「子丑(ねうし) の時」(御書223ページ) ―― すなわち真夜中だった。「三世の諸仏の成 道(じょうどう)はねうし(子丑)のをわり・とら(寅)のきざみ(刻)の成 道なり」(同1558ページ)とある通り、「子丑の時」から「寅の刻」にか けては、不可思議な時間帯なのである。  兵士が大聖人を取り囲んだ。刀を手にした武士が、身構えた。途中から裸足 (はだし)でついてきた四条金吾が、「只今なり」(同91ページ)と言って、 泣いた。その金吾に大聖人は「これほどの悦びをば・わらへかし」(同914 ページ)と、悠然とたしなめられた。  そのときである。  月のごとく明るく輝く鞠(まり)のようなものが、南東から北西にかけて光 りわたった。  刀を持った武士は倒れ伏し、恐怖に駆られた兵士は「一町計(ばか)り」も 走って逃げた。  大聖人は「どうして遠のくのか。近く打ちよれや。打ちよれや」と叫ばれた が、近づく者はいなかった。  「頸(くび)を斬るならば、夜が明ける前に、早く斬れ!」と促されたが、 応える者はなかった。  だれもが驚愕(きょうがく)し、動揺し、おじけづいていた。その中にあっ て、大聖人ただ御一人が、不動の大境界(きょうがい)を示されていたのであ る。  どれほど強大な権力も、どんなに卑劣な策略も、仏の境界を侵すことはでき ない。  諸天善神の加護は絶対である。法華経の行者を不幸に陥れることは、だれに もできないのである。  <「光り物」の正体は、「おひつじ・おうし座」流星群ではないかという説 がある。東京天文台長で、東大名誉教授であった故・広瀬秀雄博士の研究によ る>  西洋においては、キリスト教の祖であるイエスも権力の迫害と戦い、受難し た。  イエスもまた、人々の幸福を願い、平和を目指した人物であることは間違い ないであろう。  あくまで想像上の仮定の話であるが、もしも日蓮大聖人とイエスが話し合っ たならば、決して口論などにはならず、民衆に尽くす生き方に対して、尊敬の 念を抱いたのではないかと拝察する。  偉大な人はすぐに、より偉大なものがわかるものである。  戸田先生はよく、"釈尊や、キリスト、マホメットなどの宗教の創始者が一 堂に会して「会議」を開けば、話が早い"と言っておられた。  創始者には、後世の宗派性はない。宗祖の原点の精神に帰ることで、宗教は、 より普遍的で人間的な広がりを回復することができる。  私どもが平和な世界の実現を願って、各国で推進している「宗教間の対話」 「文明間の対話」のポイントも、ここにある。 ◆ 絶対無事故で! 安全最優先で!  一、1923年(大正12年)の6月6日、牧口先生は、ここ八王子市に足 跡をとどめておられる。  白金(しろがね)尋常小学校の校長であられた先生が、児童を引率して、高 尾山まで足を運ばれたのである。<当時は南多摩郡>  牧口先生は、遠足などの行事に際して、そのたびごとに、児童の「絶対無事 故」に心を砕かれていた。  何事であれ、「安全」は最優先の課題である。「人命」にかかわることには、 いささかたりとも油断があってはならない。  青年時代に、牧口先生のもと、白金尋常小学校で教員を務められたある人物 は、次のような思い出を綴っている。   ―― 大正14年(1925年)の春、遠足に出かけたところ、急に空に雲 がかかり、今にも雨が降りそうになった。  急いで帰り支度をさせ、皆を引率して学校に帰りついたとたん、大粒の雨が 降り出した。雨に濡れないで学校に戻ったのは、このクラスだけだった。  牧口先生は「子供たちを雨に濡らさなかったのは君の大手柄だ」と言って、 最大に賞讃してくれた ―― <窪田正隆さんの回想から>  牧口先生は、つねに子どもたちの健康と幸福を第一に考えていた。そのため の行動は、どんな小さなことでも、ほめ讃えた。反対に、子どもたちのことを 考えない振る舞いに対しては、じつに厳しかった。  私も、同じ心情である。私の創立した、世界の創価幼稚園、創価小学校、創 価学園、創価大学、創価女子短期大学、そして、アメリカ創価大学に学ぶ一人 ひとりのことを考えない日はない。  私の命よりも大切な宝の人材が、きょうも一日、一人ももれなく、無事故で、 健康で、はつらつと成長していけるよう、私も妻も、朝な夕な、真剣に祈り続 けている。 ◆◆ 新しい出会いを! 友情の花を爛漫と ◆ 先師に捧ぐ栄誉  一、本日、アメリカ・ミネラルエリア大学のバーンズ学長ご一行が、わが創 価大学を訪問してくださった。  同大学は、1922年、ミズーリ州に創立された、伝統ある州立のコミュニ ティー・カレッジである。  光栄にも、学長一行は、私の妻に対する人文学の「名誉教授」の称号を携(た ずさ)えて来学してくださった。  妻は、アメリカをはじめ、世界の婦人部・女子部の皆さま方の代表として、 謹んで拝受させていただいた。  <授与式でバーンズ学長は、女性の人権を擁護し、世界の女性の模範となり、 牧口初代会長の教育理念を体現してきたと、池田香峯子夫人の功績を賞讃。同 大学は昨年2月、池田SGI会長に名誉教授の称号を授与している>  妻は幼き日、牧口先生の手を引いて、駅から、座談会が行われる自宅(現在 の大田区)まで案内した思い出を持っている。  特高刑事の監視のもとでも、師子王のごとく、平和と正義の信念を主張され ていた牧口先生の雄姿を、妻は生命に焼き付けている。  牧口先生の誕生日にお受けした、最高峰の教育の栄誉である。  この栄誉を、深い感謝をこめて、先師に捧げさせていただきたい。妻と私は、 そういう思いでいっぱいである。 ◆ 少年たちのため全身全霊で指揮  一、ところで、ミネラルエリア大学のバーンズ学長は、私どもと不思議な縁 で結ばれている。  今回の来日にあたり、学長は、その縁を改めて語ってくださった。  学長の父君は、かつてミズーリ州のボーイスカウトの責任者として、青少年 の育成に取り組んでおられた。  そして、1971年の8月、静岡・富士宮市の朝霧高原で開催されたボーイ スカウトの「世界ジャンボリー」に、多くの少年たちを率いて参加されたので ある。  当時は折り悪しく、台風19号が日本列島を襲い、東海地域は激しい暴風雨 に見舞われた。多くの野営テントが水浸しになり、キャンプ地は大変に危険な 状態となった。  この時、私は、高等部の夏季講習会のため、近くの大石寺で指導・激励に当 たっていた。  世界ジャンボリーからの緊急避難の要請を聞いた私は、ただちに受け入れを 決断し、6500人のボーイスカウトのメンバーを迎え入れた。  "少年たちは、遠い異国の地で、嵐に遭い、心細い思いをしているにちがい ない。皆に少しでも安心してもらい、休息をとれるように、できることはなん でもしよう" ―― 私は、ときに激しい風雨にさらされながら、全身全霊で陣 頭指揮を執った。  7000人の高等部の英才たちも、私と一緒に、世界の少年たちを真心から 歓迎し、忘れ得ぬ友情を結んだ。  世界ジャンボリーの役員の方々も、心から安堵し、喜んでくださった。  バーンズ学長は、きょうの式典で、しみじみと語っておられた。  「父が、日本での世界ジャンボリーで台風の被害に遭った話をしていたこと を、私は鮮明に覚えています。もしかすると、父は池田会長にお会いしていた かもしれません。世界は、なんと小さいのでしょうか!」  <小説『新・人間革命』第15巻「開拓」の章に、当時の模様が詳しく描か れている>  まことに残念なことに、学長の父君は、その後、交通事故で急逝(きゅうせ い)されてしまった。  バーンズ学長は、尊敬する父の遺志を受け継ぎ、青少年の育成と教育の発展 に尽くしてこられたのである。  私は、父上に追善回向の題目を送らせていただいた。  バーンズ学長は、アメリカ創価大学オレンジ郡キャンパスが、晴れの第1回 卒業式を迎えたことも、心から祝福してくださった。  さらに、「常識と、奉仕の精神を持ち合わせ、文化、芸術、平和、繁栄の真 の価値を理解する、貴重な地球市民を世に輩出できることは、短期大学や総合 大学で指導し、教える私たちにとって、大変、大きな励みであります」と語っ ておられた。 ◆ アメリカ創価大学に賞讃の拍手  一、アメリカ創価大学の第1回卒業式に際しては、世界の各界から多数の祝 福のメッセージが寄せられた。  アメリカ・デューイ協会のヒックマン会長も、心温まるメッセージを贈って くださった。  そのなかで、こう綴っておられる。  「偉大な教育者である牧口常三郎とジョン・デューイの両氏が、もしこの卒 業式に参列していたなら、二人は私とともに、アメリカ創価大学の教育的価値 に賞讃の拍手を惜しまなかっただろうと確信しています。二人は、"教育とは 生きるためのく準備>というより、むしろ、言葉の最も十全(じゅうぜん)な 意味における<生きること>それ自体なのだ"という点で一致していました」  「価値の創造に必要不可欠ともいえる、二人の偉大な教育者の考え方は、ア メリカ創価大学の使命と実践に明快に反映されているのです」  まことに、ありがたいご理解である。  一、アメリカ創価大学の大発展を展望して、私は今、さまざまな構想を練っ ている。  この大学から、将来、ノーベル賞に輝くような、世界的な学者や指導者が輩 出されることを、私は深く期待し、確信している。  アメリカSGIの皆さまには、日ごろからアメリカ創価大学が、さまざまにお 世話になっている。  この席をお借りし、改めて、心から御礼申し上げたい。  きょうは、本当によく来てくださいました。ありがとう!(大拍手)  元気な皆さんとお会いでき、私はうれしい。  いよいよ、アメリカSGIの本門の時代である。  ナガシマ理事長を中心に、仲良く、団結して、また健康・無事故で、生き生 きと、世界の模範となる前進をお願いしたい。    ジョンソン婦人部長をはじめ、婦人部の皆さまの活躍も、よくうかがってい る。  アメリカの各地に、私は思い出がある。各地に、思い出深い同志がいる。  明年で訪問10周年となるデンバーも、忘れられない地である。あのときは、 多くの方々にお世話になった。今も感謝は尽きない。  <SGI会長はコロラド州の州都デンバーを1996年6月に訪問。この折、デ ンバー大学から名誉教育学博士号が贈られた>  デンバーでは、地元のSGIメンバーがデンバー会館の近くにある「チェリー・ クリーク(桜川)」の川岸や、市立公園などに桜の植樹・寄贈を行ってきた。  "桜は育たない"とされる気候にもかかわらず、メンバーの献身的な努力に より、今や1000本もの桜が咲き薫り、市民に愛されているとうかがった。  素晴らしい地域貢献の実践である。デンバーをはじめ、アメリカ全土の同志 の皆さまに、くれぐれもよろしくお伝えいただきたい。 ◆《スイスの哲学者》    あやふやな態度は人生を無駄にする 前へ進め! 決定的な勝利を ◆ 思い切ってやってみよ!  一、ミネラルエリア大学のバーンズ学長のお父さまが日本を訪問された年は、 牧口先生の生誕100周年で、ちょうど創価大学が開学した年であった。  以来、34年の時を経て、牧口先生の生誕の日に、ご子息が創価大学に来学 してくださったのである。  一つ一つの出会い、一回一回の生命の交流は、時とともに、私たちの想像を 超えるほどの大きな広がりと実りをもたらすものだ。  皆さんも、日々、意義深い「出会い」を重ね、尊く偉大な歴史をつくってお られる。  新しい出会い、新しい交流 ―― そのために大切なのは、打って出る「勇気」 である。  スイスの思想家ヒルティは論じている。  「人生の重大な別れ目においては、つねにまず敢行することが大切である」 (草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために第1部』岩波文庫)  「敢行」とは、敢えて行うことである。思い切って、やってみることである。  またヒルティは、「勇敢に事にあたる者は、決定的な勝利をおさめることが できる。そしてこの勝利が、その後長い期間にわたって、その人の運命を決定 する」(同)と述べている。  さらに、「あやふやな態度で戦いにのぞむ者は、降伏するか、退却するかで あって、前に向って進むかわりに、人生のこの時期とその課題とを全部、初め からやり直さねばならない」(同)とも記している。  深くかみしめるべき言葉である。  どんなことであれ、「あやふやな態度」で、勝利がつかめるはずがない。そ れでは、ヒルティの言う通り、貴重な時間を浪費してしまうだけである。  臆病ではいけない。勇敢な者のみが、自分自身の勝利、人生の勝利をつかめ るのである。                   (〔下〕に続く)