2006.4.30SP わが忘れ得ぬ同志 第2回 =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- 白木義一郎さん・文さん夫妻       ── 大阪支部の初代支部長・婦人部長 =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- ◆◆◆ 大関西! わが不滅の法戦場  関西は、私の青春の故郷である。  関西は、私の不滅の法戦場である。  関西は、私の手づくりの人材城である。  関西は、私たちの永遠の勝利の源流である。  この関西で、広宣流布のため、一緒に戦ってくれた尊き方々を、どうして忘 れることができようか。  関西の同志は、久遠からの誓いの盟友である。そして、未来永劫にわたって、 共に戦い、朗らかに勝ちまくりゆく、常勝栄光の誇り高き師弟であるからだ。 ◆名投手の悩み  昭和二十六年(一九五一年)の師走。  大田区大森のアパート、青葉荘の狭い我が部屋に訪ねてきた長身の青年は、 プロ野球の名投手、白木義一郎さんであった。  彼には、大人物の風格が漂っていた。  プロ野球は、戦後日本の大きな平和の夢であった。終戦の翌年の昭和二十一 年四月には、早くもペナントレースが再開した。  戦前、慶応大学の野球部のエースだった白木青年が入団したのは、セネター ス(現・北海道日本ハムファイターズ)である。  背番号「18」をつけ、後楽園球場で臨んだ初登板を、いきなり完封で飾っ た。戦後初の三十勝投手も、彼である。  豪球と絶妙のコントロールを誇り、「防御率一位」「連続・無四球記録」な ど、次々に記録を打ち立てて、球史に残る大投手の一人と輝いていった。  義一郎さんは、すでに昭和十六年、牧口先生の直々(じきじき)の折伏を受 け、入会していた。紹介者は叔父の白木薫次(しげじ)さん(草創の副理事長)、 叔母の静子さん(蒲田支部の初代婦人部長)夫妻である。  しかし、人気に流されて、いつしか信心から離れてしまった。そのうち、肩 の酷使がたたって成績不振に陥り、妻子の病弱などの悩みも噴出した。  その時、叔母に連れられて、妻の文さんと、戸田先生のご指導を受け、再び 信心で立ち上がった。  発心して半年。勇んで学会活動に励むなか、球団から突如、大阪の球団への 移籍を通告されたのである。  私のところへ、相談にやってきた彼の顔は、困惑していた。 ◆「時が来た!」  この移籍の話を聞いた瞬間、私の脳裏には、西日本の広宣流布の展望が一気 に開け始めた。  「時が来た!機が熟した!」と直感した。  「義(ぎ)っちゃん、この大阪行きは、御仏意(ごぶっち)だよ!  大阪に一大拠点を築き、関西、いな西日本に広布の大潮流を起こし、七十五 万世帯の起爆剤になろう!  これを、敢然とやり切ねてこそ、戸田先生の弟子だ」  私は、二十三歳。  彼は、三十二歳。  小さなアパートの一室で、二人の青年が「師のために」と固く誓い合った。  この一瞬の呼吸から、今日に至る、関西の大回転が始まったのである。  昭和二十七年一月、戸田先生から、義一郎さんは「大阪支部長心得(こころ え)」に任命された。  月末、夜行列車で大阪へ旅立つ義一郎さんを、私は見送った。  「必ず立派な支部にして見せます!」と語る彼が、頼もしかった。  大阪に彼が着いたのは、二月一日であった。           ◇  七十五万世帯の慈折(じしゃく)広宣流布へ、進軍ラッパは鳴り響いた。  私は、蒲田の支部幹事として、歴史に輝く「二月闘争」の指揮を執った。  彼もまた、新天地・大阪で一人、折伏を開始した。  プロ野球が開幕後も、試合がない日を利用しては、弘教に走った。  彼が試合の時は、妻の文(ふみ)さんが座談会を推進した。文さんはメキシ コ生まれ。父は日本人会の会長であった。  同志社女専(どうししゃじょせん=現・同志社女子大学)の英文科に学んだ 文さんは、通訳も務めた美しい才媛である。  その年の暮れ、義一郎さんは、プロ球界を引退して、一会社員となった。給 料は十分の一に激減し、一家は長屋暮らしである。  あまりの境遇の変化に、「創価学会をやって、あのザマか」と冷笑されもし た。しかし、彼は「家など、寝られればいいんだ」と、平然としていた。  私は、戸田先生からも「大、なんとかならないか」と言われており、白木さ ん一家が住む阿倍野区(あべのく)の長屋に、幾たびも足を運んだ。  時には、うどんすきのようなごった煮の"白木鍋(しらきなべ)"を囲みな がら、大阪だけでなく、兵庫、京都、奈良、和歌山、滋賀、そして福井への「大 法興隆(だいほうこうりゅう)」の進展を描いた語らいが、今でも懐かしい思 い出だ。  剛毅(ごうき)でユーモアがある義一郎さんは、関西人に親しまれた。  彼もまた、限りなく深く関西の友を愛した。  関西の座談会は、必ず新来者が参加し、活気にあふれていた。  玄関に掲げられた「創価学会座談会々場」という提灯は、明るく朗らかに社 会を照らしていった。  昭和三十年の春三月、白木さん夫妻が支部長・婦人部長を務める大阪支部は、 月間折伏で千七百五十七世帯を成し遂げ、遂に、全国トップに堂々と躍り出た のだ。 ◆マウンドでの指揮  戸田先生は、壮大な未来を構想して、翌年に行われる参議院選挙の大阪地方 区の指揮を、私に託された。候補者に選ばれたのは義一郎さんである。  彼は、すぐ我が家に飛んできた。昭和三十年秋、雨の夜であった。  「自信はありません。……でも、いつかは勝ちます」  無理もない。当時の約三万の会員で、二十万以上の票が求められていたのだ。  憔悴(しょうすい)しきった彼に、私は言った。  「義っちゃん、いつかではダメなんだよ。この大事な攻防戦を、戸田先生は 私に託されたのです。  私は断じて勝つ! 勝ってこそ弟子であるからだ! 義っちゃんは、私が言う 通りに戦ってくれればいい」  私は、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書一一九二 ページ)の一節を身に体し、深く祈り抜き、祈り切った。  「絶対に、負けられぬ。負ければ、関西の同志が、あまりにも可哀想だ!」           ◇  私も白木夫妻も、大阪狭しと走りに走った。  徹底的に、友に会い、友を励ましながら、"悪鬼魔神(あっきまじん)をも 味方にしてみせる!"と、師子奮迅の戦いに突入した。  「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定(い ちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」 (同一四六三ページ)とは、蓮祖の御断言であられる。  昭和三十一年の四月八日、土砂降りの雨をものともせず、大阪・堺二支部連 合総会が決行された。  義一郎さんは難波(なんば)の大阪球場のマウンドに駆け上がり、力一杯、 学会歌の指揮を執った。  戸田先生も私も、愛する関西の同志も、ずぶぬれになりながら、声の限りに 歌った。ここから、怒濤(どとう)の関西の大驀進(だいばくしん)が始まっ た。  御聖訓通りに競い起こった三障四魔も三類の強敵も乗り越え、五月には、一 つの支部で「一万一千百十一世帯」という前代未聞の大折伏が成就した。  そして誰も予想していなかった、七月の大阪地方区の大勝利の劇が飾られた のだ。朝日新聞に大々的に躍った「"まさか"が実現」の見出しは、当時の社 会の驚愕(きょうがく)を如実に表していた。  師匠に勝利の報告をする以上の誉れはない。  戸田先生は、「ありがとう!ありがとう!」と、私の肩を抱いて喜ばれた。  その師弟の姿を、妻も、白木夫妻も、眼に涙を光らせながら、見守っていた。            ◇ ◆◆◆ 常勝こそ永遠の師弟の大誓願 ◆◆ 生涯、大衆の中で戦う  翌年の昭和三十二年七月三日 ── 。私は、全く無実の公職選挙法違反の容 疑で不当逮捕された。大阪事件である。  私が刑事と共に取調室に入る直前まで見送ってくれたのは、義一郎さんであ った。文さんも、投獄中の私に何度も差し入れをしては、戸田先生と家族の様 子を伝えてくれた。  二週間後、拘置所の鉄扉が開いた時も、夫妻の顔があった。目が合うと、彼 は「関西でこんなことになって、本当に申し訳ありません」と涙して頭を下げ、 権力の魔性(ましょう)への怒りに身を震わせていた。  戦いは、裁判に移った。  関西の有志は、一切の経過を洗い直し、法律を学びながら、真剣に対策を協 議してくれた。  戸田先生ご逝去の後、新会長を待望する声に、私が最初、固辞したのは、被 告人という立場であったからでもある。もとより事実無根の冤罪(えんざい) だが、万一、有罪となれば、多くの同志を悲しませる。  この私の心中を知り、必死に勝利を祈り続けてくれたのが、白木夫妻であっ た。  苦闘の四年半が過ぎた、昭和三十七年の一月二十五日。第八十四回公判の法 廷に、田中勇雄(いさお)裁判長の声が響いた。  「池田大作は無罪!」  傍聴席に、義一郎さんをはじめ、関西の不二の同志の深い安堵(あんど)と 喜色(きしょく)が輝いていた。旧関西本部に戻り、その日、義一郎さんと二 人で語らった。  「義っちゃんが大阪に来たのも、この大阪事件の法難も、すべて御仏意だっ た。  全部、勝った!」 ◆忘恩の輩(やから)に激怒  白木夫妻は、私と共に、海外の同志の激励にも奔走してくれた。  「世界のカンサイ」の先駆者であったことは、知る人ぞ知るである。  また、義一郎さんは、政治集会等で、「創価学会は、なぜ政治に熱心なのか」 と質問されると、毅然(きぜん)として明快に答えた。  「だから、学会はすごいんです。  "自分さえ悟り、自分さえ救われればいい"というのでは、エゴではないか。  真の仏法者は違う。周りの人が幸せにならずして、自らの安穏はない。これ が立正安国の教えなのです」  そして、義一郎さんは、公明党の議員として厳然と「大衆とともに語り、大 衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」との結党精神を貫き通していった。  口癖の如く、「池田先生と多くの学会員の皆様の血の滲(にじ)む支援によ って、今日の僕がある。ぜいたくなんか、できるわけがない」と語っていた。 それだけに、金や名声や欲望に狂った恩知らずの政治屋には、怒り心頭であっ た。  さらに白木夫妻が烈火の如く激怒したのは、あの日顕一派が、学会に破門通 告を送りつけてきた時だ。  「忘恩と叛逆(はんぎゃく)とは悪魔の特性である」 ── この思想家・内 村鑑三の叫びを、彼は自らの叫びとしていた。            ◇  「関西広布の母」として慕われた文さんが亡くなられたのは、一九九九年の 十一月であった。  「少し胸が痛む」と言うので、娘の以知子(いちこ)さん(関西副婦人部長) が付き添って病院へ行った。待合室のイスで検査を待っている時、ふっと愛娘 によりかかるようにして今生の幕を閉じたのである。  享年七十六歳であった。  「むちゃくちゃ美しく、輝いていた。ホンマ一番の、素晴らしい成仏のお姿 やった」と、草創を一緒に戦った栗原明子(くりはらあきこ)さんや林智栄子 (はやしちえこ)さん(ともに関西婦人部総主事)、松内早智子(まつうちさ ちこ)さん(関西副婦人部長)が讃嘆されている。  私と妻は一首を贈った。     関西の      草創 築きし        母なれば      三世の旅路に         諸仏は護らむ  ある時、関西創価学園を訪問した義一郎さんに、学園生が「師弟の精神」に ついて、尋ねたことがある。すると、美しい緑と花に包まれた校内を指さしな がら、こう語った。  「草や木で大切なのは、どこだと思う? 根っこだろ。人間にとっての根っこ が、師弟なんだよ!  師匠とは、弟子に『必ず勝てる力』を贈ってくださる。だから、弟子はすべ ての戦いで勝つことだ。勝ってこそ根っこが強くなる。  君は今、勉強で勝て!」  二〇〇四年一月、体調を崩され、療養する彼を西口総関西長、藤原関西長ら が心配した。容体を診た平位(ひらい)関西総合ドクター部長が、「白木さん は大関西を築かれた大事な方ですから、お体を大切に」と伝えた途端、義一郎 さんは言った。  「君までが、わかってないのか。大関西を築いてくださったのは、池田先生 だ!」  この叫びが、わが友の最後の遺言となった。  翌朝、自宅の蒲団で眠りながら、静かに霊山(りょうぜん)へ旅立たれたの である。享年は八十四歳であった。  亡くなった一月二十五日は、私が関西の同志と共に「無罪判決」を勝ち取り、 義一郎さんたちと大勝利宣言をした日であった。            ◇  ああ、誉れ高き、我らの常勝大関西!  「常勝」こそ、永遠の師弟の大誓願なのである。  この荘厳にして深き使命の誓いは、「負けたらあかん」を合言葉にする、尊 くして偉大なる関西の母たちによって、晴れ晴れと果たされてきた。  さらに、わが永遠に常勝関西の雄々しく、逞(たくま)しき、健気な青年部 たちよ!  この絶対に信頼できる、若き誇り高き池田門下生が、師弟の大誓願を断固と 受け継いでくれている。  ゆえに、私も白木夫妻も、偉大な草創の関西同志も、みな幸福である。みな 満足である。みな、勝利なのである。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 内村鑑三の言葉は『内村鑑三著作集第6巻』(岩波書店)。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 白木義一郎(しらき・ぎいちろう) 大正8年(1919年)9月、東京生まれ。入会は昭和16年9月。慶応大学 高等部を卒業後、軍隊へ。戦後はプロ野球のセネタース(後に東急フライヤー ズ等に名称変更)に入団。昭和27年、阪急ブレーブスへの移籍に伴い、大阪 へ。初代の大阪支部長、関西総支部長等を歴任。昭和31年から5期30年間、 参議院議員。引退後は学会の参議会副議長を務め、個人指導に全力を挙げた。 平成16年逝去。享年84歳。 白木文(しらき・ふみ) 初代の大阪支部婦人部長。大正12年(1923年)9月、両親の仕事の関係 でメキシコに生まれた。現・同志社女子大学を卒業後、単身、現在のインドネ シアに渡り、通訳等を経験。入会は昭和26年6月。関西婦人部総合長等を歴 任し、大関西婦人部の礎を築いた。関西婦人部「あけぼの合唱団」の初代団長 も。平成11年逝去。享年76歳。