2006.6.4SP =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-  わが忘れ得ぬ同志 第4回       篠原 誠さん             ── 創価大学の初代学生部長 =-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=- ◆◆◆ 「何のため」を生涯求め抜く  「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」  「労苦と使命の中にのみ人生の価値は生まれる」  創価大学のキャンパスに立つ、「印刷工と天使」「鍛冶屋と天使」の一対の ブロンズ像の台座に刻まれた言葉である。  この問いかけを堅持しつつ、労多きことを誇りとして、共に草創期を走り抜 いてくれた建学の同志のことを、私は絶対に忘れない。  その一人が、創大の初代学生部長を務めた篠原誠君であった。           ◇  篠原君は昭和六年生まれで、戦中戦後の東京の惨状を見つめて育った。  十代半ばに病気で一年療養。「人間、何のために生きるのか」と、若き彼は 煩悶(はんもん)し続けた。  ある日、物理学者の従兄が言った。   ── 西洋思想の最高峰はゲーテだが、東洋の仏教の方が上だ。中でも法華 経が最高峰らしいよ、と。  病の癒(い)えた彼は、東京大学に入学。肩まで髪を伸ばし、"易者"のよ うな風貌で思想遍歴しながら、学友と法華経研究会を立ち上げた。 ◆長髪をバッサリ  その篠原君が創価学会に巡りあい、初めて法華経の真髄に触れて、決然と入 会したのは、昭和二十七年の春四月のことである。  長い髪も切った彼が一粒種となり、東大の英才も相次ぎ学会員に。法華経研 究会は"妙法の学徒"の集いに生まれ変わった。  戸田先生は、この学生たちをこよなく愛され、実に二十六回も、法華経を講 義してくださったのである。  御義口伝には、「此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に 依るなり」(御書七八○ページ)と仰せだ。広宣流布には、"普(あまね)く 賢い"英知の力が不可欠である。  恩師は、その知性の俊才を、まさに手づくりで育てていかれたのだ。これが、 昭和三十二年六月三十日、わが学生部が結成される基盤となったのである。            ◇  昭和三十三年、彼は、一流新聞社に入り、名古屋で働き始めた。  父の病気で、家計を支えねばならないこともあり、哲学者への道は断念し、 就職したのである。  その中部で、一年半後、甚大なる被害を与えた「伊勢湾台風」に遭遇したの だ。この時、電話が復旧するや、真っ先に被災状況を知らせてくれた一人が篠 原君だった。  彼は男子部の中心者として必死に会館を護り、同志を護って奮闘してくれた。  当時、総務であった私も駆けつけ、罹災(りさい)した同志を懸命に励まし、 愛する中部の宿命転換を深く祈った。  翌春、本部職員となった篠原君は、私の会長就任の直前に、東京に戻った。  聖教新聞社で「大白蓮華」の編集部に入り、後には編集長も務めている。私 の「御義口伝講義」の連載や出版にも、精魂を注いでくれた。ゲラ刷りを御本 尊の前に供え、真剣に祈りを捧げていた姿が尊かった。 ◆気どりとは無縁  秀才ぶった気どりや威張りとは、無縁であった。  やがて学会の理事となった彼は、使命深き渋谷区を担当し、同志と心を合わ せて、盤石なブロック組織を築いていったのである。  打ち続く、激しい広布の法戦も、私の陣頭指揮のもと、戦い抜いてくれた。 彼は開けっ広げな性格で、叱られまいと身構えるような小才(こさい)がなか った。  「師匠の厳しい訓練を受け切ったからこそ、今の自分が出来上がった。本当 の門下生になることができた」と、愛すべき笑顔で語る彼であった。  創価学会の全国学生部長として、「法華折伏・破権門理(ほっけしゃくぶく・ はごんもんり)」の言論戦の先頭にも立った。  「いかなる大善をつくり、法華経を千万部も読み、書写し、一念三千の観念 観法の悟りを得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、それだけで成仏 はない」(同一四九四ページ、通解)  創価の師父・牧口常三郎先生の御書にも強く太く朱線(しゅせん)が引かれ ていたこの一節を、彼は心肝に染めていた。学生時代からの法華経探究の帰結 が、この御聖訓にあったからである。  彼が、今は周知(しゅうち)となった反逆者の本質をいち早く見抜き、「あ いつらは絶対におかしい。断じて言うことを聞くな!」と、厳しく後輩に戒め ていたことも、語り草となっている。  昭和四十三年の九月、私が日大講堂で「日中国交正常化提言」を発表した、 あの第十一回学生部総会の時、学生部長だったのも、篠原君である。 ◆◆◆ 学生第一の大道を歩め ◆学生は生命(せいめい)なり  昭和四十六年(一九七一年)は、初代・牧口先生の生誕百周年であった。  この年の四月二日。二代・戸田先生の祥月命日のその日に、新しき創価教育 の太陽が昇った。  両先生から夢を託された創価大学の誕生である。  篠原君は「創価大学設立準備財団」の一員として、奔走してくれた。  開学の年の一月、正式な認可が下りると、入学試験の準備にも拍車がかかっ た。篠原君はじめ職員全員が全国各地に飛んで、学生募集を訴えた。  「大学の善し悪しは、学生の如何によって決まる。だから、いい学生に来て いただけるように祈るんだ」と、篠原君は懸命であった。  全国の皆様の応援をいただき、当時も、そして今年も、多くの方々が受験し てくださった。  創立者として、せめてもの感謝を込めて、志願してくださった方々全員と、 そのご家族に、心からの祈りを捧げている。           ◇  大学組織の要職である「学生部長」の人事が検討された時、私は迷わず篠原 君を指名した。  「創価大学の学生部長を頼むよ」  「はい、わかりました」  潔い一瞬の呼吸だった。  社会は大学紛争の渦中である。学生と大学側が衝突し、学長や学生部長が糾 弾(きゅうだん)される事件も多々あった。  なぜ、この"怒れる学生たち"が生まれたのか。  私は直観していた。  「本来、大学は、学生を主体とすべきなのに、そうなっていないからだ」  一番大事なのは学生である。今は無名の学生であっても、将来、社会のため、 人類のために貢献する主役は彼らではないか。  教員も、職員も、学生のためにいる。  わが創価大学は「学生参加」を原則とし、永遠に「学生第一」でいくのだ。  ほかに有名大学があるにもかかわらず、創立者の私を慕い、あえて創大を選 んでくれた俊英たちである。  創大生は、わが生命なり ── 篠原君は、その私の心を汲んで、創立者と学 生を結ぶ大事なパイプ役となってくれた。  私は「幹部としてではなく、おじさんと慕われてほしい」と頼んだ。彼は単 身、大学近くのアパートに住み、二十四時間、学生のために働く覚悟であった。 ◆「君は人材だね」  まず、学生の顔と名前を一人ひとり覚え、きちんと「さん」づけで呼んでい った。  キャンパスを本当によく歩いた。食事も学生と一緒に取った。食べながら近 況を聞き、顔色から体調を見てとる。食べ盛りの学生たちに、コロッケなどの おかずを、さりげなく、分けてあげてもいた。  語り合ううち、「あなたは人材だねー」と励ますのが常だった。そして「こ んなに頑張っている学生がいます」と、私に報告してくれたものである。  かつて私は、彼に「学会の眼」という言葉を贈った。そして今や、「創価大 学の眼」となってくれた。           ◇  「我々が創立者を大学に呼ぼう」と、学生が創大祭等を主催し、私を招待し てくれた時には、その成功を陰で支えたのが、篠原学生部長であった。  とにかく草創期である。学生たちも、大学も、試行錯誤の連続であった。  第二回創大祭で、私が、「全員が創立者たれ!」と語ったのも、真の主体者 の自覚に立たなければ、理想的な学園共同体の建設はありえないからだ。  後年、行事が大規模になると、バスで来る参加者のための整理役員等も、学 生が自主的に行ってくれた。  八王子駅前に着任する学生もいる。大学での行事の様子は、何も伝わらない 場所だ。それでも誇り高く任務につくメンバーを気に掛け、激励に回ることを、 忘れない篠原君であった。  学生自治会やクラブ、寮の友らとも、忌憚(きたん)なく対話を重ねた。  創大生が下宿して、お世話になっている大家さんのところへも足を運び、「う ちの学生をよろしくお願いします」と、あいさつして回ってもいた。  私には、大切な保護者の皆様の連帯をつくりたいという構想があった。それ が今の「会友会」である。  その構想の実現も、篠原君らが中心になって推進してくれた。当時、創大の 職員であった、わが家の次男・城久(しろひさ)も、共に尽力させていただい たようだ。 ◆◆ "自分が大学にいるかぎり悪い奴は寄せつけない" ◆夢は叶ったの?  昭和六十二年、彼は一度、心筋梗塞で倒れた。一命は取り留めたが、大事を とって、学生部長を辞した。だが、体調が戻ってくると、すぐキャンパスに立 った。  心配する家族に、彼は笑いながら言った。  「僕は一見、何を考えているかわからない風貌だろ。悪い奴からは、得体が 知れないと思われる。  だから、僕が大学に立つだけで、悪い奴には"変なことはさせないぞ!"っ て威圧できるんだよ」  体がどうなろうと、自分一人でも、大学を護り抜くという気迫だった。  もちろん、大学は自由な精神の広場である。どんな人も受け入れる、開かれ た雰囲気が大事である。  しかし、彼は、誰であれ、さも権威ぶって、学生を見下すような傲慢は決し て許さなかった。大学の崩壊は"何のため"を見失った正邪の狂いから始まる。  ゆえに、よき伝統を重んじるとともに、建学の精神を蔑(ないがし)ろにす る風潮だけは絶対に放置してはならない。  先日、お迎えしたインドのタゴール国際大学の先生方も述懐しておられた。  「悪に対しては、一切の躊躇(ちゅうちょ)をしないで戦い抜くこと ── こ れが、創立者タゴールの教えでした」「悪が強くなっている時代だからこそ、 正義は強く立ち上がらねばなりません」  篠原君は、晩年も「去って去らず」の心で、後輩たちに草創の精神を語り伝 えていった。  「人間は頭の悪い奴ほど己惚(うぬぼ)れが強い」とは、かのトルストイが 自著に書き留めていた、イギリスの詩人ポープの警句である。  客観性を装い、賢(さか)しらな議論をしている人間を見ると、篠原君は、 「今のは、本筋を外れた論議だぞ!」と一喝することもあった。  ある時、一人娘で創大に学んだ玲子さんが聞いた。  「お父さんは、何になりたかったの?」  「世界一の哲学者だよ」  「それは叶ったの?」  破顔一笑、彼は語った。  「ああ、叶ったさ。  戸田先生も、後を継がれた池田先生も、世界一の大哲学者だ。その師匠にお 仕えすることができたんだもの。信心して、法華経に説かれる通りの死身弘法 の大師匠と一緒に戦えたんだ。全部、夢は叶ったよ」 ◆遙か千期生まで  「パァーン」  別れを借しむかのように長いクラクションが鳴り、一台の車が発進した。  二〇〇四年七月三十日。  夏空のもと、会葬の場となった創価大学の緑風(りょくふう)合宿所を出た 車は、坂を上って栄光門に入った。  車には、四日前、七十二歳で、霊山に旅立った篠原さんが眠っていた。  「お父さん、ほら、本部棟ですよ……」。助手席の道子夫人が語りかけた。  堂々たる本部棟。懐かしき第一グラウンド。文科系校舎や文学の池。そして、 記念講堂……。車は、彼が人生を捧げたキャンパスをゆっくりと走った。  正門に刻まれた、牧口先生の「創價大學」の文字が見送った。  死の前日も、人材育成に全力を注いでいた彼。  哲学とは、「何のために生きるか」を自分で決めることだ。「これだけは譲 れない」と信念を貫くことだ。  彼は、創大一筋、学生一筋に生きた。それが、創立者と共に生きることだと 決めていた。私は贈った。      三世まで        語り尽くさむ           君と僕        哲学 文学          続きを忘れず  「幾度(いくたび)の君との出会いの歴史は、私の胸の中で永遠に拡大され ていくでしょう。安らかに君よ、少し休み給え」との言葉を添えて。            ◇  本年、創大は創立三十五周年を迎えた。  今や「学生第一」という創大の伝統は、各界の注目を集めるに至った。  創大の教育実践は、文部科学省が進める「特色ある大学教育支援プログラム」 等にも選定されている。  「学生の満足度」調査でも、教育サービス、就職支援など多くの項目で、ト ップ級の評価を受けている。  "創大精神"を受け継ぐアメリカ創価大学も、晴れて二期生が卒業。尊き人 材の流れは完壁となった。  ローマクラブのホフライトネル名誉会長も ── 、「アメリカ創価大学では、 『学生中心』という誇るべき伝統が生まれている。先駆的な『大学革命』が実 践されているのではないでしょうか」と賞讃してくださった。  かつて篠原君は、私の将来構想を踏まえて、学生たちと語り合った。   ── わが創大は、これから何千年、何万年という遠大な歴史を刻む。だか らこそ、一期生も、百期生も、千期生も常に立ち返れる「創立の原点」を厳然 と受け継いでいくのだ、と。  遥かな未来を思えば、今が草創である。我らの創大は、いよいよ勝ち進むの だ。 **************************************************************** 篠原誠(しのはら・まこと)  昭和6年(1931年)9月、東京生まれ。昭和26年、東京大学に入学し、 翌年4月に入会。学生部の結成に尽力する。昭和32年、東大文学部哲学科を 卒業。同33年、現・中日新聞社入社。同35年、本部職員となり、聖教新聞 社へ。「大白蓮華」編集長、東洋哲学研究所代表理事等を務める。昭和42年 1月、創価学会の第4代学生部長に就任。昭和46年4月、創価大学の開学か ら理事兼学生部長として大学建設に携わる。同大学常任理事、顧問等を歴任。 副会長、現・第2総東京の初代本部長、師範会議議長等にも。平成16年逝去。 享年72歳。 ****************************************************************