絵手紙の一歩

先ず描くことから始まる。それは「伝える」というよりも「描きたい」という気持ちから始ま
る。何かを表現するために、人はそれぞれ身体の全てを使って表現する。その伝える手段とし
て「絵手紙」がここにある。
私の場合は、大きく描かれたトマトの葉書を見た時に「何でこんなに新鮮なのか、自分でも表
現してみたい」と感じた時が「絵手紙の一歩」です。それ以来絵手紙を描き続け、時にはスト
レスの発散のために始めた絵手紙が、ストレスとして溜まる始末です。
絵手紙は「言葉と絵」からなっているが、時には言葉が文字になり書になる。絵手紙の深さは
持ち前の絵心と詩人にある。ある時には画家気取りに、ある時は詩人になって放浪の旅に出掛
ける。
私のモットーは「生活の中に絵心を」です。全国の絵手紙友の会の会員と交流した時代もあり
ました。そこで感じたのは「顔の無い絵手紙」でした。絵手紙が交流の手段として存在し、文
通仲間の延長線上にあるのかと錯覚したものです。
顔の無い絵手紙のやり取りも、数年後には顔が見えてきた。その姿は内面的なものであり、決
して実物では無い訳である。そもそも顔の無い絵手紙が横行している事実はある訳で、良いと
か悪いとかを区別することは出来ない。
潜在的な意味合いを持つ行動が、絵手紙によって具体的な行動になる。その行動は「描きたい
→描く→描いた→ポストイン」というプロセスによって成される。その行動が絵手紙の一歩で
ある。
よく絵手紙は「特定な人に気持を込めて」と言われていますが、その特定な人とは誰でしょう。
時折り絵手紙を何枚か描いてから「あの人にこの人に出したいな」と思う時があります。何故
でしょう、私は描きたいから描きたい時に描く、そうしてその雰囲気が「あの人この人」にな
っています。特定な人を決めてから描くのか、描いてから特定な人を決めるのか・・・どちら
でも良いのではと思っています。要は絵手紙の表に宛名を書いた人が、書き手に取って特定な
人になると考えています。
絵手紙を描くことが「絵手紙の一歩」であり、描く事で絵手紙の世界が誕生する。季節折々の
花果物などに言葉を添えて描く、そこには新鮮な絵と言葉の空気が漂う。その空気を誰かに伝
えたいと思う気持が私は好きです。


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