ヘタでいいのか

「ヘタでいいのか」それは理屈抜きに「上手(ジョウズ)」がいいに決まっている。
と思いたいが小池邦夫氏が唱えるところの「ヘタでいいヘタがいい」の言葉に誘わ
れて「絵手紙」を始めた多くの方々がいる。この事実は紛れも無く人を動かした訳
けである。それ故に「ヘタでいい・・・」は説得力がある。
しかしながらその「ヘタでいい・・・」の言葉は、絵手紙を描き始めて1,2年経っ
ても「ヘタ」の言葉を使い、自分自身を正当防衛化しているように感じてならない。
そもそも絵手紙は特定な人にポストインし、心を伝えることにある訳で、遠慮はい
らないのかもしれない。その遠慮が罷り通る世の中になっては、絵手紙人生の中で
非常に残念なことである。
「ヘタでいいヘタがいい」の言葉は、小池流絵手紙入門のコールサインであり、入
門した後は自己責任においてその言葉を昇華させなくてはならない。
一生懸命に描いたものは「ヘタ」が昇華し、そこには癒しが残るはずである。でも
一生懸命に描いた積もりでも、何か物足りなさが残るこがある。その物足りなさは
なにか?それは感性であり訓練されていない技術にあるように思う。
筆の使い方一つにしてみても、穂先が割れていたり筆毛に空気が入っていたりして
いても平気でいることである。線に命を与える為には真剣勝負である。トレーニン
グを積み日々精進しなくてはならない。まして人様に差し出す書状であればなおさ
らであろう。
絵手紙は押し売りしてはならないし、迷惑を掛けてはなおさらよくない。自己満足
の為に相手を巻き添えにしては決していけない。絵手紙だけが罷り通る世の中にし
てはいけない。
母親が遠く離れている息子に送る絵手紙が、私は本当の「絵手紙」と思っている。
そこにあるものは強い愛でも情けでもない、ひたすら昇華しきった季節の便りであ
ろう。
絵手紙をもてあそんではならない、まして訓練されていない絵手紙を展示する行為
は慎まなくてはいけないと個人的に感じている。絵を描かなかった人がある日「絵
手紙」を描いた、描いた人にとっては新鮮なものに見えることでしょう。しかしそ
の新鮮さはその人の個人的なもので、比較対象はゼロとの比較である。
絵手紙のもつ特質は、ご婦人に多くの絵手紙愛好家がいることである。殿方にとっ
ては親しみにくい存在である。その理由は極めて簡単である、それは同時に二つの
仕事が出来て(例えば掃除をしながら電話をすること)しまうご婦人だからである。
そして殿方が絵手紙に親しめない大きな理由は「洗い物」が殿方には不得手である
からと、さらに何気なく花を活けることが照れくさいからだと私は実感している。
何事もヘタであってはならない「好きこそ物の上手なり」であり、貴方にとって絵
手紙は「あるべきよう」である。

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