中川一政

私が始めて中川一政の本物に出会ったのは、平成10年5月12日新津市中野邸美術館
で開催された「中川一政・新潟の足跡」である。
その展示会場で見た「でく」に、私は一瞬背筋が寒くなった。そのでくは真っ赤な
顔をした墨彩画であり「我はでくなり つかはれてをどるなり」とかかれてある。


          新聞記事の模写

その後中川一政のこのでくに再び会いたくなり、松任市にある中川一政記念館に出
掛けたが、見ることは出来なたった。絵手紙を始めて三年後の58才の頃である。
中川一政の言葉を「いのち弾ける」二玄社(1996年)から引用させていただく。
○手を入れない画はタッチが生きている。下手でも生き生きしている。手を入れた
 ものは形は整っても死んでいる。
○同じ言葉でも生きていれば聞く方もくたびれない。
○私の弟子は私一人だ。それは私に添うてついて来た。
○写実とは見たままを描くことではなく、思ったままを描くことだ。
○正確、不正確を超えたところに芸術がある。
○感動は物指でははかれない。芸術の世界に物指はいらない。
○書のわからぬ人は読みたがる。画のわからぬ人は何がかいてあるか見る。
○書というものは「字」が着物をきているものである。
○いばったって駄目だ。見る人が見れば見え透いてしまう。
 飾ったって駄目だ、嘘をついても駄目だ。無心にその人の力量だけの力を出して
 いけばよい。
 そういう素直な心が出るだけで書はたのしいのだ。
○上手でも下手でも字を生かす道は一つである。
 筆端に気力を集中するというただ一つのことである。

太陽12月号 No.163「書
を書くこと」/平凡社書入門/1976年11月12日発行より
中川一政30年前の投稿文を読んだ中川一政83才
「字を書きたいが下手だからという。上手下手を考えることはいらない。上手でも下手でも結局は同じことである」と最初に書いている。そして世の中には手筋の良い人と悪い人とあって、生まれつきのようであると言っている。
中川一政がしきりに言っていることは「うまいまずいはどうでもいい」ということである。ようは
筆端に気力を集中すること
である。武者小路さんの字を書いているのを見ていると懸腕直筆、筆端に精神を集中しているという。武者小路さんは能筆でないから油断が出来ないと思っていたのだろうともいっている。
一政が教えとして言っていることは・・・
○自分の書がうまいと思いだしたら其の時から墜落がはじまる。
○上手に書けて何になる。
○素直な気持ちになることがはじめ。
○他人のことは気にしない。
○自分の目で判断する。
○いい書をみて感心すること。
○良い字はいつも見なければいけない。見るだけで目で触ってみる。(目が進めば自ら手もついけくる)
○師匠に似れば似るほど自分から遠くなる。
中川一政の教えは、気を抜くことなく筆端に全精神を集中し、命がけで書くことにあり、自分を曝け出すことと感じた。
(2006年2月24日)

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