絵手紙の理論

手紙はその昔、平安時代の人々は「消息」といっていたようである。相手の安
否を問い用事を達して、心の中の心配事を消し息(や)む」と。即ち手紙という
ものは相手に対する思いやり、そして自分の心の癒しにほかならない。人間の
心に深く触れる存在として扱っていたと。なにかの本で読んだ事がある。
絵手紙という言葉は、小池邦夫氏が「絵手紙入門」1988年発行の中で始めて使
ったようで、絵手紙の歴史はまだ数十年である。その中で理論めいた理屈は早
い話であろうか。
しかしながら「絵手紙」という枠の中で、人それぞれに相手をみつけて絵手紙
交流をしている。交流相手は絵手紙仲間であり、親しい友人であり家族であっ
たりしている。そこには相手に伝えたいという人間本来の「消息を思う優しい
心」に他ならない。
それが事実ならばなんらかの定義とか理論とかが「絵手紙」にあってもいいよ
うな気がしてくる。
残念なことに「絵手紙」が日本絵手紙協会の商標として登録されたことは、既
にそこには定義とか理論が存在せず、明らかに「絵手紙」がビジネスと化した
ことになるのではないかと危惧される。
この心配が私個人の思い違いであればいいのだが・・・
絵手紙の理論を語るには、東洋画の技法を知らなくてはならないだろう。
その東洋画の技法としては
○没骨法(もっこつ)
○勾勒法(こうろく)
の二大技法がある。
没骨法は東洋画、特に花鳥画における描法の一。輪郭線を描かないで直接に水
墨または彩色で対象を描き表す技法。すでに唐代中期から見られるが、五代・
宋初に花鳥画家徐煕(じょき)・徐崇嗣父子により提唱された。
一方勾勒法は輪郭を細い線描でくくって、その中を彩色すること。
(広辞苑より)
この二大技法は俳画の世界で取り入れられている。そこにはやり直しがきかな
いという厳しさが、生命感の溌剌とした表現を可能にしているとしている。
そこに到達するには、対象物その物の本質を見極め、しっかりとした写生が必
要ということになる。
勾勒法で彩色しないで、墨線のみで描くことを「白描」という。私は最近この
手法を使って楽しんでいる。
東洋画の二大技法を表現するには「筆」が欠かせない。その筆の使い方には、
○潤筆法
○渇筆法
があり対象物によって使い分け、更にいっそう表現を豊かに深いものになる。
絵手紙はまだまだ定義とか理論とかを必要としていない。その訳は書画の世界、
俳画の世界などで使われている技法を知らずしらず取り入れているからに他な
らない。それらの技法は長い年月の中で完成されたものであり、厳しい修行と
絶え間ない精進が見え隠れする。
更に絵手紙の最も特異的なこととして「言葉」を文字として扱っていることも
事実である。これら絵・言葉・文字が三位一体となった時に、絵手紙の可能性
がさらに豊かになり, 長い年月を得て絵手紙が一つの文化として庶民に定着す
ることであろう。
さらに引用するとすれば、17文字でこの宇宙を表現する俳句の世界での決まり
ごとは「五七五」に季語を入れることにある。その季語は俳句にとって重要な
意味合いがあるわけで、その17文字の暗号を解く「鍵」として季語があるとさ
れている。
絵手紙にも何か絵手紙を解く「鍵」があるような気がしてならない。それは絵・
言葉・文字が三位一体となることが「鍵」なのかも知れない。
その「鍵」を極めることは、至難のことであろう。何故なら画家であり詩人であ
り時には書家でなくてはならないからである。これはどスケールの大きな三位一
体は果たして存在するのであろうか。

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