絵手紙と拓

「拓」という文字には「切り開く」という意味の他に「押す」という意味もあ
る。すなわち手で物を押しつけるという意味がある。さらに石刷り、刷りとる
こと。(広辞苑より)
我々の祖先は土に、石にものをかいていた。かいたものは素朴でかき手の俗に
言う垢はそこには見られない。何故だろう、土や石はそのかき手の垢を吸収し
てしまうからだと考えられます。
小池邦夫氏は「拓」を絵手紙に取り入れた。取り入れた理由は「書道でトレー
ニングした線の味が生きてくるのではないか」というものである。
さらに小池氏は「拓は絵手紙にとって化粧道具にすぎない」ともいっている。
私も「拓」を絵手紙に取り入れた。材料は粘土ではなく「石膏」である。石膏
は短時間に固まり作業性がいい。
掘り込んだ石膏に石膏を流し込み、凸版を取り出して画仙紙を当て刷り上げる。
静かに時には勢いよく刷ることで「線」が蘇ってくる。そこで見られる線は垢
もなく、微妙な味わいのあるものになって見られる。
最も私が感銘したのは、その線に無駄が省かれていることの事実である。その
無駄とは、作為的でない部分の省略であるような気分である。
拓で見られる線は、石膏に掘り込んだ線が凸版になった時、その線の面は平坦
では無く素材のもつ素質が見られるのである。
人は省略するときに作為が入り込み過ぎ、その線は計算された技術が剥き出し
になって表れる。
絵手紙の「絵」は添え物といわれるが、私はそうは思わない。それは絵を描い
てから往々に文字を書くからである。絵手紙の文字が後からついて来る理由が
そこにある。
俳画と絵手紙の大きな違いは「絵と文字の価値観にある」と考える。俳画の場
合の絵は俳句の雰囲気作りである。絵手紙の絵は言葉と文字との三角関係にあ
るといえる。
絵手紙の絵は「そこにあるものを描く」から描ける。言葉のイメージよりも絵
の持つイメージが容易に膨らむことからも伺える。
絵手紙の難しさは絵よりも言葉である。その言葉は拓の線に寄って補われる。

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